コンテンツにスキップ

「バスク地方」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
(5人の利用者による、間の7版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Redirect|バスク地方|スペインの自治州|バスク自治州}}
{{Redirect|バスク地方|スペインの自治州|バスク自治州}}
{{改名提案|バスク地方|date=2014年11月}}
{{右|

[[ファイル:Basque Country location map.png|thumb|歴史的なバスク国の位置]]
{{Infobox 国
[[ファイル:Flag of the Basque Country.svg|thumb|150px|[[バスク国の旗|バスク国の旗「イクリニャ」]]]]
|公式国名 = Euskal Herria
[[ファイル:Lauburu.svg|thumb|150px|バスク国のシンボル[[ラウブル]]]]
|日本語国名 = バスク国<small>または</small>バスク地方
|国旗画像 = Flag of the Basque Country.svg
|alt_flag = [[イクリニャ]]
|国章画像 = Lauburu.svg
|alt_coat = バスク地方のシンボルである[[ラウブル]]<!--国章画像のalt text-->
|シンボルの種類 = <!--国章ではなくシンボルです。 -->
|標語 =
|国歌 =
|王室歌 =
|その他のシンボルの種類 =
|その他のシンボル =
|位置画像 = Basque Country location map.png
|alt_map =
|位置画像キャプション = ヨーロッパにおけるバスク地方の位置(赤)
|位置画像2 = <!--追加の位置画像-->
|alt_map2 = <!--追加位置画像のalt text-->
|位置画像キャプション2 = <!--追加位置画像の下に表示されるキャプション-->
|首都 =
|latd= | latm= | latNS =
|longd= |longm= |longEW =
|最大都市 = [[ビルバオ]]
|民族 =
|面積値 = 20947
|人口値 = 約308万人
|人口推計年 = 2005-2011
|人口密度 = 149
}}
}}
歴史的な領域としての'''バスク国'''([[バスク語]]:{{lang|eu|Euskal Herria}})は、[[バスク人]]とバスク語の歴史的な故国を指す概念である。[[ピレネー山脈]]の両麓に位置して[[ビスケー湾]]に面し、[[フランス]]と[[スペイン]]の両国にまたがっている。
歴史的な領域としての'''バスク国'''([[バスク語]]:{{lang|eu|Euskal Herria}})は、[[バスク人]]と[[バスク語]]の歴史的な故国を指す概念である。'''バスク地方'''とも呼ばれる。[[ピレネー山脈]]の両麓に位置して[[ビスケー湾]]に面し、[[フランス]]と[[スペイン]]の両国にまたがっている。


スペイン側に'''[[バスク自治州]]'''があるが、歴史的な「バスク国」(広義の「バスク地方」)には、[[スペイン]]の[[ナバラ州|ナバーラ州]]の一部および[[フランス]]の[[ピレネー=アトランティッ]]の一部([[フランス領バスク]])が含まれる。統一されたバスク国」概念は近代バスク民族運動の中で展開され現在も「バスク国」全体独立を目指す運動がある。
スペイン側に[[バスク自治州]]の3県と[[ナバラ州|ナバーラ州]]の計4領域があり、フランス側には[[ランス領バスク]]の3領域がある。[[バスク・ナショナリズム]]運動の中で「サスピアク・バット」(7つは1つというスローガン掲げら、7領域からなバスク地方の地理的範囲が示された<ref name=hagio2428>萩尾ほか(2012)、pp.24-28</ref>。バスク地方全体旗として[[イクリニャ]](バスク国旗)が、バスク地方シンボルとして[[ラウブル]](バスク十字)がある<ref name=hagio274275>萩尾ほか(2012)、pp.274-275</ref>


== 地域区分 ==
== 地域区分 ==
[[ファイル:Euskal Herriko herrialdeen mapa.svg|thumb|left|バスク国の構成]]
[[File:Euskal Herriko herrialdeen mapa.svg|thumb|right|300px|バスク国の構成]]

バスク(広義)は伝統的に7つの地域からなっており、{{lang|eu|Zazpiak Bat}}(サスピアク・バット、7つが集まって1つとなる)は、バスク人のスローガンである。
歴史的なバスク地方は、南バスクまたは[[スペイン・バスク]]と呼ばれる[[スペイン]]領土の4地域、北バスクまたは[[フランス領バスク]]と呼ばれる[[フランス]]領土の3地域の計7領域からなる<ref name=watanabe2223>渡部(2004)、pp.22-23</ref>。バスク地方全体の面積は20,947 km<sup>2</sup>であり、2005年から2011年の調査に基づいた人口は約308万人、人口密度は約149人/km<sup>2</sup>であり<ref name=hagio25>萩尾ほか(2012)、p.25</ref>、スペイン全体やフランス全体の人口密度と同程度である。[[バスク自治州]]に約210万人(約70%)、[[ナバラ州|ナバーラ州]]に約60万人(約20%)、フランス領バスクに約30万人(約10%)が住む。人口の偏りは激しく人口の1/3が[[ビルバオ都市圏]]に居住しており、[[ビスカヤ県]]の人口密度は約500人/km<sup>2</sup>に達するが、[[バス=ナヴァール]]や[[スール (フランス)|スール]]の人口密度は約20人/km<sup>2</sup>でしかない。


{{lang|eu|Hegoalde}}(南部)と呼ばれる4つの地域({{lang|eu|Laurak Bat}})はスペイン内にあり、{{lang|eu|Iparralde}}(北部)と呼ばれる3つの地域はフランス内にある。およそ2万平方キロメートルの広さがある。
<br clear="all" />
=== 南バスク ===
=== 南バスク ===
南バスク([[スペイン・バスク]])4地域はバスク語ではエウスカディと表記され、いずれもスペインの[[スペインの県|県]]に位置づけられている<ref name=watanabe2223/>。このうち西部の3地域([[アラバ県]]、[[ビスカヤ県]]、[[ギプスコア県]]の3県)は、1979年から面積7,234km<sup>2</sup>の[[バスク自治州]]を構成し<ref name=IGN>{{cite web |accessdate=14 September 2009 |url=http://www.ign.es/ign/home/ane/tabla_datos/datosPoblacion/poblacion_03.jsp |title=Instituto Geográfico Nacional |publisher=スペイン国立統計局 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20091017040153/http://www.ign.es/ign/home/ane/tabla_datos/datosPoblacion/poblacion_03.jsp |archivedate=17 October 2009 |deadurl=no}}</ref>、「バスク3県」とも呼ばれるバスク地方の中核的な地域である。東部の1地域(ナバーラ県)は1982年から単独で面積10,391 km<sup>2</sup>の[[ナバラ州|ナバーラ州]]を構成しており<ref name=IGN />、面積はバスク自治州3県の合計より大きい。南バスク全体の面積は17,955 km<sup>2</sup>であり<ref group="注" name=basquekm2>バスク統計院のデータであり、他の統計機関によるデータとは異なる場合がある。</ref>、2010年と2011年の調査に基づく人口は2,810,331人である<ref name=hagio25/>。アラバ県内にある[[カスティーリャ・イ・レオン州]]の飛び地{{仮リンク|トレビニョ|en|Treviño}}とビスカヤ県内にある[[カンタブリア州]]の飛び地{{仮リンク|バリェ・デ・ビリャベルデ|en|Valle de Villaverde}}はバスク自治州には含まれないが、バスク地方の範囲には含まれる場合がある<ref>{{cite book|title=Le Pays Basque|location=Pau|year=1979|publisher=SNERD}}, p. 25.</ref>。
南バスク(スペインバスク)4地域は、いずれもスペインの[[スペインの県|県]]に位置づけられている。このうち西部の3地域(アラバ、ビスカイア、ギプスコアの3県)は、1979年以来[[バスク自治州]]({{lang|eu|Euskadi}})を構成している。「バスク3県」とも呼ばれる、バスク(広義)の中核的な地域である。


{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
*[[アラバ県|アラバ]]
|-
:中心都市は[[ビトリア=ガステイス|ガステイス]](スペイン語:ビトリア)
! colspan=5| 地域 !! colspan= 3| 中心都市
*[[ビスカヤ県|ビスカイア]](スペイン語:ビスカヤ)
|-
:中心都市は[[ビルバオ|ビルボ]](スペイン語:ビルバオ)
! 日本語名<ref group="注" name=kanyo>ここでは日本における慣用表記を考慮した名称を記載している。バス=ナヴァールは低ナバーラや低ナヴァールと表記されることも多く、ビトリア=ガステイスはビトリア単独で表記されることも多い。</ref> !! 面積(km<sup>2</sup>)<ref group="注" name=basquekm2/> !! 人口(人)<ref group="注" name=basque7>バスク統計院によるバスク自治州の人口は2010年時点、ナバーラ統計院によるナバーラ州の人口は2011年時点、フランス国勢調査によるフランス領バスクの人口は2005年時点であり、出典は萩尾ほか(2012)、p.25。カスティーリャ/フランス語名・バスク語名の出典は碇(2005)、p.252。</ref> !! バスク語名 !! カスティーリャ語名 !! 日本語名 !! バスク語名 !! カスティーリャ語名
*[[ギプスコア県|ギプスコア]]
|-
:中心都市は[[サン・セバスティアン|ドノスティア]](スペイン語:サン・セバスティアン)
| '''[[アラバ県|アラバ]]''' || 3,316 || 317,016 || Araba || Álava || '''[[ビトリア=ガステイス]]''' || Gasteiz || Vitoria
|-
| '''[[ビスカヤ県|ビスカヤ]]''' || 2,236 || 1,151,708 || Bizkaia || Vizcaya || '''[[ビルバオ]]''' || Bilbo || Bilbao
|-
| '''[[ギプスコア県|ギプスコア]]''' || 1,980 || 700,314 || Gipuzkoa || Guipúzcoa || '''[[サン・セバスティアン]]''' || Donostia || San Sebastián
|-
| '''[[ナバラ州|ナバーラ]]''' || 10,421 || 641,293 || Nafarroa || Navarra || '''[[パンプローナ]]''' || Iruña || Panplona
|}


=== 北バスク ===
東部の1地域は、1県(ナファロア県)で1982年より[[ナバラ州]]を構成している。面積はバスク州3県を合わせたより大きい。
北バスク([[フランス領バスク]])3地域はバスク語では Iparraldea(イパラルデア)と表記され、フランスの[[ピレネー=アトランティック県]]の一部である<ref name=watanabe2223/>。1990年代後半から2013年までは暫定的にバスク地方という行政区分がなされたが、現在は北バスクを単独で管轄する行政区分は存在しない<ref name=hagio156160/>。北バスクの面積は2,992km<sup>2</sup>であり、2005年の国勢調査による人口は272,103人である<ref name=hagio25/>。


{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
*[[ナバラ州|ナファロア]](スペイン語:ナバラ)
|-
:中心都市は[[パンプローナ|イルーニャ]](スペイン語:パンプローナ)
! colspan=5| 地域 !! colspan= 3| 中心都市
|-
! 日本語名<ref group="注" name=kanyo/> !! 面積(km<sup>2</sup>)<ref group="注" name=basquekm2/> !! 人口(人)<ref group="注" name=basque7/> !! バスク語名 !! フランス語名 !! 日本語名 !! バスク語名 !! フランス語名
|-
| '''[[ラブール]]''' || 855 || 227,754 || Lapurdi || Labourd || '''[[バイヨンヌ]]''' || Baiona || Bayonne
|-
| '''[[バス=ナヴァール]]''' || 1,322 || 28,835 || Nafarroa Beherea || Basse-Navarre || '''[[サン=ジャン=ピエ=ド=ポル]]''' || Donibane Garazi || St. Jean Pied de Port
|-
| '''[[スール (フランス)|スール]]''' || 814 || 15,514 || Zuberoa || Soule || '''[[モレオン=リシャール|モレオン]]''' || Maule || Mauleon
|}


=== 自治体 ===
これら二つの自治州(バスク、ナバラ)はそれぞれ独自の財政制度をもっている。
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
! # !! 自治体 !! 地域名 !! 人口<ref group="注" name=ine>スペイン・バスクの自治体は2013年のスペイン国立統計局(INE)の調査による。</ref> !! !! # !! 自治体 !! 地域名 !! 人口<ref group="注" name=ine/>
|-
| 1 || [[ビルバオ]] || 南バスク・[[ビスカヤ県]] || 349,356人 || rowspan=8| || 9 || [[サントゥルツィ]] || 南バスク・[[ビスカヤ県]] || 47,129人
|-
| 2 || [[ビトリア=ガステイス]] || 南バスク・[[アラバ県]] || 241,386人 || 10 || [[バイヨンヌ]] || [[フランス領バスク|北バスク]]・[[ラブール]] || 44,300人
|-
| 3 || [[パンプローナ]] || 南バスク・[[ナバーラ州]] || 196,955人 || 11 || [[バサウリ]] || 南バスク・[[ビスカヤ県]] || 41,971人
|-
| 4 || [[サン・セバスティアン]] || 南バスク・[[ギプスコア県]] || 186,500人 || 12 || [[エレンテリア]] || 南バスク・[[ギプスコア県]] || 39,324人
|-
| 5 || [[バラカルド]] || 南バスク・[[ビスカヤ県]] || 100,502人 || 13 || [[トゥデラ]] || 南バスク・[[ナバーラ州]] || 35,429人
|-
| 6 || [[ゲチョ]] || 南バスク・[[ビスカヤ県]] || 79,839人 || 14 || [[レイオア]] || 南バスク・[[ビスカヤ県]] || 30,454人
|-
| 7 || [[イルン]] || 南バスク・[[ギプスコア県]] || 61,113人 || 15 || [[ビアリッツ]] || [[フランス領バスク|北バスク]]・[[ラブール]] || 30,055人
|-
| 8 || [[ポルトゥガレテ]] || 南バスク・[[ビスカヤ県]] || 47,756人 || 16 || || ||
|}


<gallery>
=== 北バスク ===
Vista de Bilbao (1).jpg|[[ビルバオ]](ビスカヤ県)
北バスク([[フランス領バスク]])3地域は、フランスの[[ピレネー=アトランティック県]]の一部である。行政団体としての位置づけはされていない。
Bulevar de Salburua, Vitoria-Gastiez.jpg|[[ビトリア=ガステイス]](アラバ県)
Carrera (5930476078).jpg|[[パンプローナ]](ナバーラ州)
750px-San Sebastian aerial Añorga.jpg|[[サン・セバスティアン]](ギプスコア県)
Grand Bayonne.JPG|[[バイヨンヌ]](ラブール)
</gallery>


== 地理 ==
*低地ナファロア(バスク語:べへ・ナファロア、フランス語:[[バス=ナヴァール]])
[[File:E3d txikia.png|thumb|right|200px|バスク地方の地形]]
:中心都市はドニバネ・ガラシ(フランス語:[[サン=ジャン=ピエ=ド=ポル]])

*ラプルディ(フランス語:[[ラブール]])
地形的に大まかな境界を見ると、北端が[[ビスケー湾]]、北東端が[[アドゥール川]]、東端がアニ峰、南端が[[エブロ川]]、西端が[[ネルビオン川]]である<ref name=allieres1114>アリエール(1992)、pp.11-14</ref>。
:中心都市はバイオナ(フランス語:[[バイヨンヌ]])

*スベロア(フランス語:スール)
=== 山地 ===
:中心都市はマウレ(フランス語:[[モレオン=リシャール]])
バスク地方北東部を[[ピレネー山脈]]が占め、2,504mのアニ峰、2,044mのアルラ峰、2017mのオリ峰など、スペインとフランスの国境をなす稜線には標高2,000mを超す山々が連なっている<ref name=allieres1415>アリエール(1992)、pp.14-15</ref>。ピレネー山脈は[[バスク山脈]]([[カンタブリア山脈]]東部)に接続しており、バスク山脈はナバーラ州とギプスコア県、ギプスコア県とアラバ県、アラバ県とビスカヤ県の境界を東西に伸びている<ref name=allieres1415/>。バスク山脈の主要な山には、アンディア山地、ウルバサ山地、1,427mのアララール山地、1,551mの{{仮リンク|アイスコリ山|en|Aizkorri}}、1,361mのアンボト岩山、1,537mのゴルベア山などがある<ref name=allieres1415/>。フランス側は山地の標高が低く、923mのアルツァメンディ山、678mのウルスヤ山などがある<ref name=allieres1415/>。

=== 水文 ===
フランス領バスクでは[[アドゥール川]]と{{仮リンク|ニヴェル川|en|Nivelle (river)}}の2河川が[[ビスケー湾]]の[[コスタ・バスカ]](バスク海岸)に流れ込んでいる<ref name=allieres1415/>。[[スール (フランス)|スール]]の中央部を南北に流れる{{仮リンク|セゾン川|en|Saison (river)}}はソーヴテール=ド=ベアム([[:fr:Sauveterre-de-Béarn|フランス語版]])付近でオロロン川と合流し、{{仮リンク|ペルオラード|en|Peyrehorade}}付近でアドゥール川に合流すると東西に向きを変える。[[バス=ナヴァール]]は北部と南部で水系が分かれており、サン=パレ<small>([[:fr:Saint-Palais (Pyrénées-Atlantiques)|フランス語版]])</small>など北部を流れるビドゥーズ川はギシュ付近でアドゥール川と合流するが、[[サン=ジャン=ピエ=ド=ポル]]など南部を流れる[[ニーヴ川]]は北ではなく北西に流れて[[ラブール]]中央部を通り、ビスケー湾まで数キロに近づいてから、[[バイヨンヌ]]の旧市街付近でアドゥール川と合流する。いくつもの支流を集めたアドゥール川は河口部にバイヨンヌ=アングレット=ビアリッツ都市圏共同体を持つ。ラブール西部を流れるニヴェル川はアドゥール川より規模が小さいが、河口の[[サン=ジャン=ド=リュズ]]に目の細かい砂浜海岸を形成している<ref>{{cite web |url=http://www.saintjeandeluz.co.uk/en/page/beaches |title=Beaches |publisher=サン=ジャン=ド=リュズ |date= |accessdate=2014-11-11}}</ref>。

ナバーラ州内に水源を持つ[[ビダソア川]]は下流部の数キロでスペイン=フランスの自然的国境となり、河口部には[[イルン]]や[[オンダリビア]](いずれもスペイン)と[[アンダイエ]](フランス)などが国境を跨いだ[[チングディ湾]]都市圏を形成する。スペイン・バスクにはアドゥール川に匹敵する河川はないが、河口に[[サン・セバスティアン]]を形成する[[ウルメア川]]、[[オリア川]]、デバ川、自然保護区のウルダイバイ河口(ゲルニカ川)、河口に[[ビルバオ]]を形成する[[ネルビオン川]]などがビスケー湾に注いでいる<ref name=allieres1415/>。ピレネー山脈やバスク山脈はおおまかに大西洋と[[地中海]]の分水嶺となっており、ナバーラ州やアラバ県を流れる河川の多くはやがて[[エブロ川]]となって地中海に注ぐ。この分水嶺はバスク語の言語境界線とも似通っており、山脈以南ではバスク語話者の比率が低い。ナバーラ州東部には[[アラゴン川]]、中央部には[[パンプローナ]]を流れるアルガ川、西部には[[エステーリャ]]を流れるエガ川があり、アラバ県には[[ビトリア=ガステイス]]を流れる{{仮リンク|サドーラ川|en|Zadorra River}}がある。ナバーラ州とアラバ県にありながら河川が大西洋に注ぐ地域は、両地域の北端部などに限られる。

コスタ・バスカは[[リアス式海岸]]が連続しており、高い崖や奥まった入江を持つ天然の良港を抱える<ref name=hagio2428>萩尾ほか(2012)、pp.49-53「海バスク」</ref>。コスタ・バスカに砂浜海岸は少なく<ref name=allieres1415/>、[[アンダイエ]]、[[サン=ジャン=ド=リュズ]]、[[サン・セバスティアン]]などに限られている。ビスケー湾沿岸の[[ビアリッツ]]やサン・セバスティアンは、それぞれ19世紀以後にフランス王侯貴族やスペイン王侯貴族の保養地となった。

=== 気候・植生 ===
バスク地方の湾岸部は[[西岸海洋性気候]](CfB)であり、内陸部は[[大陸性気候]]に属している<ref name=michi2>大泉陽一(2007)、p.2</ref>。[[イベリア半島]]内でもっとも降水量が多い地域だが<ref name=michi3>大泉陽一(2007)、p.3</ref>、南部は石灰質土壌のために保水力が弱い<ref name=allieres1415/>。東部の[[ピレネー山脈]]の稜線部では降雪量が多く<ref name=allieres1415/>、平地でも降雪や厳寒がみられるが<ref name=michi3/>、標高150m以下ではほとんど降雪はない<ref name=allieres1415/>。山間部は[[トドマツ]]、[[ブナ]]、[[モミ]]が主体の[[亜高山帯針葉樹林|亜高山帯]]であり、南部は[[ヨーロッパアカマツ]]、[[ツゲ]]、[[セイヨウヒイラギ]]が顕著であり、北部は[[ヨーロッパナラ]]、[[トネリコ属|セイヨウトネリコ]]などの大西洋岸種や、[[ギョリュウ]]、[[イチゴノキ]]など半島北東部種が支配的である<ref name=allieres1415/>。

<gallery>
France-Biarritz-Grande lage et Casino-2005-08-05.jpg|[[ビアリッツ]]の砂浜海岸
Aketxa eta gaztelugatxe.jpg|[[コスタ・バスカ]]の[[リアス式海岸]]
Pic d-anie oct2008.JPG|バスク地方最高峰のアニ峰(ピレネー山脈)
Alluitz paso del diablo.JPG|石灰質のアイスコリ山(バスク山脈)
Sainte-Engrâce vue générale.jpg|フランス領バスクの農村部
</gallery>


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 先史時代 ===
=== 先史時代 ===
[[ファイル:Franco-Cantabrian region.gif|thumb|right|200px|フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布]]
{{右|

[[ファイル:Franco-Cantabrian region.gif|thumb|フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布]]
バスク地方で前期[[旧石器時代]]の痕跡は見られず、バスク地方に人類が居住し始めたのは約15万年前の中期旧石器時代であるとされる<ref name=michi3/>。[[ネアンデルタール人]]は温暖な時代には河川に近い屋外の段丘面に住み、寒冷な時代になると奥行きのある洞窟に住んで寒さから身を守っていた<ref name=michi3/>。イステュリッツ洞窟、オーシュリュック遺跡(以上がフランス領バスク)などで硬石製の道具が発掘されており、イステュリッツ洞窟では[[ムスティエ文化]]期(300,000年前 - 30,000年前)の[[ネアンデルタール人]]の下顎が発掘されている<ref name=allieres2124>アリエール(1992)、pp.21-24</ref>。後期旧石器時代、[[オーリニャック文化]]期(32,000年前 - 26,000年前)の遺跡としてはサール遺跡(ラブール)、イステュリッツ洞窟、[[サンティマミニェ洞窟]](ビスカヤ県)などがあり、{{仮リンク|ソリュートレ文化|en|Solutrean}}期(21,000年前 - 17,000年前)の遺跡としてはオーシュリュック遺跡、ボリンコバ遺跡(ビスカヤ県)、エルミティア遺跡(ギプスコア県)、イステュリッツ洞窟、サンティマミニェ洞窟などが、{{仮リンク|マドレーヌ文化|en|Magdalenian}}期(18,000年前 - 11,000年前)の遺跡としてはサンティマミニェ洞窟、ボリンコバ遺跡、イステュリッツ洞窟、エルミティア遺跡、アイツビタルテ遺跡、ウルティアガ遺跡(ギプスコア県)、ルメンチャ遺跡(ビスカヤ県)などの遺跡がある<ref name=allieres2124/>。イステュリッツ洞窟、アルケルディ遺跡(ナバーラ州)、アルチェリ洞窟、サンティマミニェ洞窟などの[[洞窟絵画]]はフランコ・カンタブリア美術に属し、他地域の[[アルタミラ洞窟]](スペイン・カンタブリア州)や[[ラスコー洞窟]](フランス・ドルドーニュ県)と同時代である。ベンタ・ラペラ洞窟の洞窟壁画には抽象的な記号とともに[[バイソン]]や[[クマ]]などの動物が描かれ、サンティマミニェの壁画には雌鹿やバイソンなど大型の野生生物が描かれた<ref name="michi27">大泉陽一(2007)、pp.2-7</ref>。イステュリッツ洞窟やサンティマミニェ洞窟などでは彫刻作品も発掘されている<ref name=allieres2124/>。2008年、サンティマミニェ洞窟は[[世界遺産]]である「アルタミラ洞窟とスペイン北部の旧石器洞窟美術」に追加登録された<ref>{{cite web |url=http://www.rutasconhistoria.es/loc/cuevas-de-santimamine |title=Cueva de Santimamiñe |publisher=Rutas Con Historia |date= |accessdate=2014-11-11}}</ref>。
}}

現在のバスクの領域には、後期[[旧石器時代]]から人間が住み続けてきた。[[アルタミラ洞窟]](スペイン・カンタブリア州)や[[ラスコー洞窟]](フランス・ドルドーニュ県)同様、[[フランコ・カンタブリア美術]]に属する洞窟絵画の遺跡が、バスク地方から見つかっている。
; 先史時代の主な遺跡
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
|-
! 名称 !! 地域名 !! 時代
|-
| [[サンティマミニェ洞窟]] || [[ビスカヤ県]] || 中期[[旧石器時代]]から[[青銅器時代]]まですべて。[[洞窟壁画]]を有する。
|-
| ボリンコバ遺跡<small>([[:eu:Bolinkoba|Bolinkoba]])</small> || [[ビスカヤ県]] || 後期旧石器時代(グラヴェット、ソリュートレ)
|-
| エルミティア遺跡<small>([[:eu:Ermitia|Ermitia]])</small> || [[ギプスコア県]] || 後期旧石器時代(ソリュートレ、マドレーヌ)
|-
| アイツビタルテ遺跡<small>([[:eu:Aizpitarteko leizeak|Aitzbitarte]])</small> || [[ギプスコア県]] ||後期旧石器時代(オーリニャック、グラヴェット、ソリュートレ、マドレーヌ)
|-
| パライレアイツ遺跡<small>([[:es:Cueva de Paraileaitz|Paraileaitz]])</small> || [[ギプスコア県]] ||後期旧石器時代(ソリュートレ、マドレーヌ)。洞窟壁画を有する。
|-
| イステュリッツ洞窟<small>([[:eu:Izturitze eta Otsozelaiako leizeak|Isturitz]])</small> || [[バス=ナヴァール]] || 中期旧石器時代、後期旧石器時代。洞窟壁画を有する。
|-
| アルチェリ洞窟<small>([[:en:Cave of Altxerri|Altxerri]])</small> || [[ギプスコア県]] || 後期旧石器時代(マドレーヌ)。洞窟壁画を有する。
|}

[[中石器時代]]の{{仮リンク|アジール文化|en|Azilian}}期(10,500年前 - 9,000年前)には、上述の旧石器時代からの遺跡の大半やレセチキ遺跡、ベロベリア遺跡などで人間の頭蓋骨などが出土している<ref name=allieres2124/>。[[新石器時代]](紀元前3,500年 – 紀元前2,000年)の痕跡はサンティマミニェ洞窟、ルメンチャ遺跡、エルミティア遺跡、ウルティアガ遺跡、ベロベリア遺跡などにあり、貝塚などが出土している<ref name=allieres2124/>。人類は洞窟ではなく平野に住居を建てはじめ、狩猟に加えて果実の収穫や野生動物の家畜化などを行いはじめた<ref name=michi6>大泉陽一(2007)、p.6</ref>。[[青銅器時代]](紀元前1,200年 – 紀元前600年)に先駆けて[[ドルメン]]などの[[巨石記念物]]が登場し、東方と南方からやってきた民族によって埋葬の儀式とともに普及したとされる<ref name=allieres2124/>。これらの巨石記念物は、山地や牧畜地帯に建立された古典的な羨道墳、アルタホナ遺跡(ナバーラ州)に見られる巨大な通廊墳、ロンカル遺跡に見られるカタルーニャ風の通廊墳の3つの潮流に分類される<ref name=allieres2124/>。巨石記念物や高地に埋まっている建造物はバスク全土で400以上も記録されており、銅製や青銅製の遺物が出土している<ref name=bard1116>バード(1995)、pp.11-16</ref>。[[鉄器時代]](紀元前600年以降)には[[ケルト人]]と推定される民族がバスク地方を横断し、製鉄、動物による車の牽引、優れた農耕法、新たな作物、牛馬の飼育などの技術をもたらした<ref name=allieres2124/>。銅器時代までは断続的な居住地跡しか発見されていないが、鉄器時代には定住的になり、川べりの小高い丘を中心にした永住地跡が発見されている<ref name=bard1617>バード(1995)、pp.16-17</ref>。


=== 古代 ===
=== 古代 ===
[[ファイル:Aquitani_tribes_map-fr.svg|thumb|right|200px|古代のバスク系部族]]
{{右|
[[ファイル:Aquitani_tribes_map-fr.svg|thumb|古代のバスク系部族]]
}}
[[ローマ帝国]]期、[[バスク人]]の遠祖はいくつかの部族に分かれていたが、ひとつの民族的な集団として広い領域に分布していた。少なくとも、[[アキテーヌ地域圏|アキテーヌ]]と険しい中央[[ピレネー山脈]]から[[アンドラ]]までの地域を含んでいた。


紀元前3世紀には[[カルタゴ]]人がピレネー山脈の麓に達したが、征服や植民を行うことはなくバスク人との関係は良好であり、多くのバスク人がカルタゴ人の傭兵となった<ref name=bard1920>バード(1995)、pp.19-20</ref>。この頃のバスク人たちは長老会議や戦士団を持ち、女性は農業を、男性は狩猟や略奪を行った。何らかの言語を話していたが、その言語を文字にすることはなかった<ref name=bard2023>バード(1995)、pp.20-23</ref>。紀元前133年の{{仮リンク|ヌマンティア|en|Numantia}}の攻囲戦でローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年には[[ポンペイウス]]が自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現[[パンプローナ]])を建設し<ref name=allieres4143>アリエール(1992)、pp.41-43</ref>、[[ピレネー山脈]]に向かう際の強力な防衛地点として使用した<ref name=bard2528>バード(1995)、pp.25-28</ref>。ポンパエロには神殿、公共浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり、バスク地方南部では[[オリーブ]]や[[小麦]]やブドウなどローマ的な農作物が生産されるようになった<ref name=bard2528/><ref name=michi9/>。土地がやせている北部では鉱山や避難港などがローマ人に利用された<ref name=michi9/>。この頃のバスク人はいくつかの部族にわかれて広い領域に分布しており、[[カエサル]]はポンペイウスの軍隊を解散させて近ヒスパニア<ref group="注">[[エブロ川]]以北の[[イベリア半島]]の呼称であり、[[アウグストゥス]]以後は[[ヒスパニア・タッラコネンシス]]属州と呼ばれた。</ref>全域の統治を確立した<ref name=allieres4143/>。紀元前1世紀にはバスク地方にもローマ人が到着したが<ref name=bard2023/>、[[アウグストゥス]]は[[バスク人]]が住む[[ピレネー山脈]]の山岳民や[[アキテーヌ地域圏|アクイタニア]]を平定させることができず<ref name=allieres4143/>、これらの地域は[[ローマ法]]、[[ラテン語]]、[[キリスト教]]などのローマの影響をほとんど受けなかった<ref name=bard2528/>。ローマ人とバスク人は協力関係にあったとされ、イタリアの[[ブレシア]]には「すべてのバスク民族はローマと友好関係を保ち、直ちに兵士としてローマ軍に加わった」と刻まれた1世紀の石碑が残っている<ref name=michi9>大泉陽一(2007)、p.9</ref>。ローマ人はバスク人をヴァスコニア(Vasconia)と呼んでおり、バスク人は自らのことをエウスカルドゥナク(バスク語を話す人々)と呼んでいた<ref name=michi9/>。ヴァスコニアは現在のバスクという統一的な名称の創始であり、また[[ガスコーニュ]]という地名の語源にもなっている。3世紀末にはバスク地方南部の都市にキリスト教が伝播されたが、ローマ時代にはキリスト教は浸透せず、太陽・月・天など[[ケルト]]文化の影響を受けた[[自然崇拝]]が主流だった<ref name=michi10>大泉陽一(2007)、p.10</ref>。
ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。[[パンプローナ]]は有名なローマの将軍[[ポンペイウス]]によって築かれ、[[セルトリウス]]に対抗するための遠征の司令部として使われた。


=== ガスコーニュ公国 ===
=== 中世 ===
==== 中世前期 ====
[[ファイル:Duchy of Vasconia.gif|thumb|150px|ガスコーニュ公国の領域]]
5世紀には[[西ゴート族]]がバスク地方に侵入し、バスク地方にいた種族は連合して異民族に抵抗した<ref name=bard2831>バード(1995)、pp.28-31</ref>。714年には[[ウマイヤ朝]]のイスラーム勢力がバスク地方に侵入し、718年にはパンプローナが征服されたが、732年には[[フランク王国]]の宮宰[[カール・マルテル]]が[[トゥール・ポワティエ間の戦い]]でイスラーム勢力を撃退し、イスラーム勢力は[[イベリア半島]]南部に戻った<ref name=bard3134>バード(1995)、pp.31-34</ref>。11世紀までは断続的にバスク人とイスラーム勢力との間で諍いが起こったが、おおむね平和に共存した<ref name=bard3134/>。7世紀以降にはフランク族の[[メロヴィング朝]]の家臣によるヴァスコニア公爵領が存在し、西ゴート族、イスラーム勢力、フランク王国に対してピレネー山脈の両側のバスク人は連合した<ref name=bard3436>バード(1995)、pp.34-36</ref>。778年の{{仮リンク|ロンセスバーリェスの戦い|en|Battle of Roncevaux Pass}}では[[カール大帝]]軍に勝利したが、この戦いは叙事詩『[[ローランの歌]]』のモデルとなった<ref name=watanabe31>渡部(1984)、p.31</ref><ref name=teiko23>大泉光一(1993)、p.23</ref>。ヴァスコニアは西ヨーロッパの人々によって野蛮性が強調され<ref name=watanabe32>渡部(1984)、p.32</ref>、「破壊者」「浮浪者」「略奪者」などと呼ばれた<ref name=michi16>大泉陽一(2007)、p.16</ref>。バスク人は基本的に山岳地帯の散村で生活していたことから、広い領域との関わりを持たず、バスク人全体を統一する権力者は長らく登場しなかった<ref name=watanabe33>渡部(1984)、p.33</ref>。
3世紀には、[[封建制]]が進行する中で、山脈の両側のバスク地域は[[バガウダエ]]{{enlink|Bagaudae}}にからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、[[ガスコーニュ公国]]{{enlink|Duke of Gascony}}の設立につながった。この公国は[[フランク王国]]の属国、あるいは[[アキテーヌ公国]]{{enlink|Duke of Aquitaine}}との連合国であった。


==== 北バスク ====
ガスコーニュ公国は、[[ムスリム]]の侵入者やアキテーヌのウード公{{enlink|Odo of Aquitaine}}、フランクの[[カール・マルテル]]の間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。
封建時代初期の北バスクは3つの独立した組織体で構成されていた<ref name=allieres5052>アリエール(1992)、pp.50-52</ref>。東部(現スール)はガスコーニュ公爵とビゴール伯爵の支配下にスール子爵領があったが、1078年にベアルン子爵の支配下にはいった<ref name=allieres5052/>。中央部(現バス=ナヴァール)は11世紀初頭になってアルベルー、オスタバレ、オッセス、シーズ、ミクス、バイゴリの封地が確立したが、13世紀にはナバーラ王国の一地域としてウルトラ・プエルトス代官区を構成した<ref name=allieres5052/>。西部(現ラブール)は11世紀初頭にナバーラ王国のサンチョ3世に質権が渡されていたが、1033年にはガスコーニュ公爵の庇護化に入った<ref name=allieres5052/>。この3地域のいずれも自由地として自治権を有しており、農奴制の範囲外だった<ref name=allieres5052/>。1155年にはイギリスの[[プランタジネット朝]]の[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]がアキテーヌ公爵を兼ねるようになったが、ラブールとスールの諸権利が譲渡されたことをバスク地方の貴族は好まずに敵対し、12世紀末に[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]](獅子心王)が[[バイヨンヌ]]を攻囲して占領する結果となった<ref name=allieres5052/>。1204年にはカスティーリャ王アルフォンソ8世がラブールとスールに進攻してバイヨンヌを焼き払った。14世紀初頭にはスールでフランス人の子爵がイギリスに反旗を翻したが、子爵に占領された領土はナバーラ王経由でイギリスに返還された<ref name=allieres5052/>。


=== ーラ王国 ===
==== スク ====
[[ファイル:Kingdom_of_Pamplona_(c.1000).gif|thumb|150px|1000年頃のナバーラ王国とその一族ヒメノ家)の所領(橙色)]]
[[File:Península ibérica 1030.svg|thumb|right|200px|1030年頃のイベリア半島。ナバーラ王国(濃橙)の最大版図]]
{{main|ナバラ王国}}
南バスクではパンプローナ王国(のちの[[ナバラ王国|ナバーラ王国]])が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネー両麓においてバスク国の唯一の政治的な実体となった。北バスクではバイオナとラプルディの沿岸部はイングランドの手に落ち、スベロアは自治を保った。


824年、イニゴ・アリスタらが[[フランク王国]]の[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルイ1世]](敬虔王)に勝利したことでパンプローナ王朝(後の[[ナバラ王国|ナバーラ王国]])が誕生し、その息子のガルシア・イニゲスは[[アストゥリアス王国]]との戦いの後に和平を結んだ<ref name=bard4245>バード(1995)、pp.42-45</ref>。イニゴ家の起源については定かでないが、ピレネー山脈北部から出てナバーラのサラサール谷に定住していた可能性がある<ref name=bard4245/>。イニゴ・アリスタ朝は3代続き、905年にはヒメノ家のサンチョ・ガルセス1世がパンプローナ王となって[[ヒメノ朝]]が開始された<ref name=bard4546>バード(1995)、pp.45-46</ref>。922年には[[アラゴン王国|アラゴン伯領]]を保護領とし、924年には[[後ウマイヤ朝]]の[[アブド・アッラフマーン3世]]によってパンプローナが略奪・焼き討ちに遭うが、937年には[[レオン王国|アストゥリアス・レオン王国]]と同盟を結び、939年には{{仮リンク|シマンカスの戦い|en|Battle of Simancas}}に勝利してイスラーム勢力を撃退した<ref name=allieres4546>アリエール(1992)、pp.45-46</ref>。フランク王国の[[カール大帝]]によって自然崇拝が禁じられていたが、パンプローナに[[修道院]]や[[司教区]]が設置されるようになったのは9世紀になってからであり、11世紀になってようやくビスカヤやギプスコアにも修道院が急増した<ref name=michi11>大泉陽一(2007)、p.11</ref>。
ナバーラ王国は[[ヒメノ朝]]の[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世]]([[985年]] - [[1035年]])のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク(狭義)の大部分、[[ラ・リオハ州|ラ・リオハ]]、カスティーリャの北東部に加えて、当時は地方の小国であった[[カスティーリャ王国]]と[[アラゴン王国]]も傘下に収め、「大王」と呼ばれた。


1004年に即位した[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世]](大王)はバスクの諸地域を次々と従えた<ref name=allieres4650>アリエール(1992)、pp.46-50</ref>。[[ラブール]]と[[バス=ナヴァール]]の質権を受け取り、婚姻によって[[ビスカヤ県|ビスカヤ]]と[[アラバ県|アラバ]]を併合し、[[スール (フランス)|スール]]も間接的にナバーラ王国に従属していた<ref name=allieres4650/>。サンチョ3世の死後、正嫡の長男が王国を相続すると言う当時のイベリア半島の慣習<ref name=bard9294>バード(1995)、pp.92-94</ref>に反して、ナバーラ王国はサンチョ3世の遺言どおりにアラゴン、ナバーラ、カスティーリャ、{{仮リンク|ソブラルベ|en|Sobrarbe}}と{{仮リンク|リバゴルサ|en|Ribagorza}}に分割されて4人の息子たちに与えられたが、兄弟は敵対して領地争いが起こった<ref name=bard6468>バード(1995)、pp.64-68</ref>。ナバーラ王国は1076年には[[アラゴン王国]]の一地方となったが、ガルシア・ラミレス(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた<ref name=bard6468/>。1212年にはサンチョ7世(不屈王)がキリスト教連合軍の一員として[[ラス・ナバス・デ・トロサの戦い]]に参加し、[[レコンキスタ]]における重要な役割を果たしたが<ref name=watanabe36>渡部(1984)、p.36</ref><ref name=teiko25>大泉光一(1993)、p.25</ref>、1234年に死去したサンチョ7世には正当後継者がいなかったため、[[ブロワ家|シャンパーニュ家]]の[[テオバルド1世 (ナバラ王)|テオバルド1世]]がナバーラ王となり、フランス王朝が始まった<ref name=bard9799>バード(1995)、pp.97-99</ref>。11世紀以後にはナバーラ王国内部を[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|サンティアゴの巡礼路]]が通るようになり、いくつかの都市が巡礼路沿いに建設された<ref name=hagio7175>萩尾ほか(2012)、pp.71-75</ref>。巡礼路はバスク地方のキリスト教化に貢献し、15世紀末にはバイオナ司教区、オロロン司教区、ダックス司教区、イルニャ司教区、ガステイス司教区の5司教区がバスク地方を所轄していた<ref name=hagio7175/>。
サンチョ3世が死ぬと、その王国は4人の息子に分割された。パンプローナ(ナバーラ)、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベ{{enlink|Sobrarbe}}とリバゴルサ{{enlink|Ribagorza}}である。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。やがてナバーラは衰退をはじめ、その所領はアラゴンとカスティーリャとの角逐の場となった。ナバーラの所領であったアラバは12世紀に、ビスカヤ・ギプスコアは1200年前後にカスティーリャ王国に帰属したが、トレビニョを除いて3県には[[フエロ]]{{enlink|Fuero}}と呼ばれる自治権が認められた。


バスクの他地方を見ると、9世紀には[[アラバ]]と[[ビスカヤ]]の名称が、11世紀には[[ギプスコア]]の名称が初めて文献に登場した。アラバはナバーラ王国内の領主領や伯爵領として9世紀中頃から独立を保ったが<ref name=bard4648>バード(1995)、pp.46-48</ref>、1076年にアラゴン=ナバーラ連合王国に吸収され、1200年には[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]によってカスティーリャ王国に併合された<ref name=allieres4650/><ref name=seki340343/>。ギプスコアはいったんカスティーリャ王国の支配下にはいったが1076年に分離独立し、1180年には[[サン・セバスティアン]]がナバーラ王国のサンチョ6世から[[フエロ]]を得ていたものの、1200年に再びカスティーリャ王国のアルフォンソ8世によって併合された<ref name=allieres4650/><ref name=seki340343>関ほか(2008)、pp.340-343</ref>。[[ビトリア=ガステイス]]やサン・セバスティアンだけでなく、1330年代前半にはアラバとギプスコアのほぼ全領域がカスティーリャ王国に飲み込まれている<ref name=hagio7175/>。ビスカヤは11世紀半ばからナバーラ王国のビスカヤ領主による封建体制が続き、1379年にカスティーリャ王国に併合された<ref name=seki340343/>。カスティーリャ王国は{{仮リンク|トレビニョ|en|Treviño}}を除いたアラバ、ビスカヤ、ギプスコアに[[フエロ]](特権)を認め、バスク3地方は政治的独立、国税免除、兵役免除などの権利を得た<ref name=seki340343/>。カスティーリャ王はビスカヤ領主に就任すると[[ゲルニカ]]に出向き、[[ゲルニカの木|ゲルニカのオークの木]]の前でフエロの遵守を宣誓する義務を負っていた<ref name=hagio7175/>。1483年にカスティーリャ女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]がゲルニカの木の下で宣誓を行ってから、1839年まではこの宣誓なしにはビスカヤ領主として認められなかった<ref name=bomeki7>アギーレ(1989)、p.7</ref>。1181年にサン・セバスティアンが建設されたのを発端として、[[オンダリビア]]、[[ゲタリア]]、[[サラウツ]]、[[ベルメオ]]などの港湾都市が誕生し、1300年には14世紀後半以後にバスク地方の中核都市となる[[ビルバオ]]が建設された<ref name=hagio7175/>。
=== フランス・スペインの領土へ ===
[[1512年]]、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の軍隊はナバーラ王国に侵攻、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ領を占領し、1515年に併合を宣言した。かくて南バスクはカスティーリャ=アラゴン連合王国([[スペイン王国]])の領土となる。いっぽう、ピレネー以北の[[バス=ナヴァール]](低地ナヴァール)はナバーラ(ナヴァール)王の手に残り、独立を保ちつづけた。


=== 近世 ===
[[1589年]]、ナバーラ(ナヴァール)王エンリケ3世は[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]としてフランス王に即位し、[[ブルボン朝]]の始祖となった。ナヴァール王国はフランス王国と連合するようになり、実質的にその傘下となった。[[1620年]]、ナヴァール王国はフランス王国に編入されて州となった。
[[File:Oñate - Universidad 12.jpg|thumb|right|200px|オニャティ大学があった建物]]
{{see also|フエロ}}


1512年にはカスティーリャ王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド5世]]の軍隊がナバーラ王国に侵攻し、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ王国領を占領して併合した<ref name=hagio7175/>。ナバーラ王国は[[カスティーリャ王国]]の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバーラ王国に残された<ref name=watanabe36/>。ピレネー以北の[[バス=ナヴァール]]はナバーラ王国から分離し、[[フランス王国]]と連合するなどして1620年まで政治的独立を保ち<ref name=hagio7175/>、1620年にフランス王国に編入されて州となった。少なくとも16世紀初頭には、バスク人が北米大陸の[[ニューファンドランド島]]沿岸まで航海して[[捕鯨]]や[[遠洋漁業]]を行っていたことが判明している<ref name=hagio2428/>。バスク人はスペイン帝国の植民活動で重用され、航海中に死去した[[フェルディナンド・マゼラン]]の後を継いで史上初めて世界一周を達成した[[フアン・セバスティアン・エルカーノ]]はバスク人であったし<ref group="注">総責任者の座をマゼランから継いだエルカーノを含め、世界一周を達成して生還した18人中4人がバスク人だった。萩尾ほか(2012)、p.76</ref>、メキシコの[[サカテカス銀山]]やボリビアの[[ポトシ銀山]]を主に開発したのもバスク人だった<ref name=hagio7680>萩尾ほか(2012)、pp.76-80</ref>。多くのバスク人聖職者が新世界で布教活動を行っており、[[イエズス会]]の創始者である[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]と[[フランシスコ・ザビエル]]もやはりバスク人だった<ref name=hagio7680/>。1545年にはボルドーで司祭のベルナット・エチェパレがバスク語現存最古の出版物である『バスク初文集』を刊行し<ref name=hagio7680/><ref name=shimomiya34>下宮(1979)、p.34</ref>、同年にはバスク地方初の大学として{{仮リンク|オニャティ大学|en|University of Oñati}}が創設された<ref name=hagio7680/>。1545年以後の[[トリエント公会議]]は土着の言語での布教を推奨しており、1571年には[[ラ・ロシェル]]でヨハネス・レイサラガが[[新約聖書]]のバスク語訳を刊行した<ref name=hagio7680/><ref name=shimomiya36>下宮(1979)、p.36</ref>。バスク地方には王立造船所があり、この造船所で建造された船がカスティーリャ王に献上された<ref name=watanabe37>渡部(1984)、p.37</ref>。ビルバオはカスティーリャ王国の羊毛の積み出し港であり、16世紀前半にはビルバオに海事領事所が設置された<ref name=watanabe37/>。
フランス領となった北バスクでは、ナバーラとその他の県は特殊な形式の自治を保ち続けた。[[フランス革命]]が起こり、[[フランス共和国]]への中央集権化が進められると、北バスクの諸県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。


17世紀にはカスティーリャ王国の衰退が顕著になったが、特にビルバオでは造船業や海運業が繁栄し、ビスカヤとギプスコアではヨーロッパに輸出する武器製造業が発展した<ref name=watanabe38>渡部(1984)、p.38</ref>。1659年に結ばれたフランス・スペイン戦争の終戦条約である[[ピレネー条約]]では、スペインとフランスとの国境がほぼ確定し、バスク地方は北バスクと南バスクに完全に分断された<ref name=hagio7680/>。18世紀初頭の[[スペイン継承戦争]]後にはスペイン各地でフエロが撤廃されたが、ブルボン家に味方したバスク地方ではフエロの存続が認められ、特にアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3領域は一体性を喚起する枠組みが与えられた<ref name=hagio7680/>。1728年には王立カラカス・ギプスコア会社が設立され、金・銀・タバコ・皮革・カカオなどを取引する新大陸貿易で大きな利益を得た<ref name=watanabe38/>。18世紀後半のバスク地方では農業と牧畜業の均衡が崩れ、伝統的な製鉄業は[[産業革命]]を経たイギリスに後れを取って競争力を失ったが<ref name=hagio7680/>、それまでに経済活動で蓄積していた資本が経済復興に役立った<ref name=watanabe38/>。1765年には科学・技術・芸術を通じて経済振興を目指すバスク地方友の会が創設され、「イルラク・バット」(3つは1つ)をスローガンに3領域の一体性を主張した<ref name=hagio7680/>。
[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]によるスペイン侵攻の間、南バスクの諸県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。


=== 近代バスク民族運動の勃興 ===
=== 近代 ===
==== フランス領バスク ====
[[ファイル:1850espanya.jpg|thumb|スペイン王国の[[法域]]を示す地図(1850年)。バスクでは、スペイン主要部と異なる法体系によって統治が行われていた]]
[[File:BiarritzHotelduPalais1.JPG|thumb|right|200px|高級保養地となったビアリッツ]]
{{see also|バスク国民党}}
19世紀、スペインでは[[国民国家]]形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに[[自由主義]]的な改革が試みられた。スペイン側にとって、同じ王国内にありながら法域が異なり、[[関税]]がかかるという状況を改めることは、バスク側にとっては、中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。


1789年に開催された[[三部会]]において、ラブールとスールから参加した代議員は地方特権廃止に票を投じ、北バスクが享受してきた自由や特権は廃止された<ref name=allieres65>アリエール(1992)、p.65</ref>。北バスクはフランスという集合体への融合を受け入れ、バス=ピレネー県(現[[ピレネー=アトランティック県]])に統合された<ref name=allieres65/>。バスク県は存在しなかったが、バス=ピレネー県のユスタリッツ郡、サン=パレ郡、モーレオン郡がそれぞれラブール、バス=ナヴァール、スールの3地方をほぼそのまま継承した<ref name=allieres65/>。いくつかの地名が新体制風となり、例えば[[サン=ジャン=ピエ=ド=ポル]]はニヴ=フランシュに、[[サン=ジャン=ド=リュズ]]はショーヴァン=ドラゴンに改名された。18世紀末にはピレネー山脈を挟んでフランスとスペインが衝突し、1794年にはフランス軍がナバーラ県北部とギプスコア県を占拠し、1795年にはアラバ県とビスカヤ県を占拠した<ref name=allieres67>アリエール(1992)、p.67</ref>。1807年には[[ナポレオン・ボナパルト]]と[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]がフランス領バスクで対決し、[[半島戦争]](スペイン独立戦争)中の1813年から1814年にはウェリントン公爵[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|アーサー・ウェルズリー]]軍とナポレオン軍の対決の舞台となった<ref name=allieres67/>。19世紀前半以降、フランス領バスクでは[[ビアリッツ]]の海岸や[[カンボ=レ=バン]]鉱泉などのリゾート化が進行し、フランス有数の避暑地・保養地として発展した<ref name=hagio156160>萩尾ほか(2012)、pp.156-160</ref>。外部資本によるサービス産業が基幹産業となり、海岸部には非バスク語話者が流入した<ref name=hagio156160/>。[[ナポレオン3世]]は王妃[[ウジェニー・ド・モンティジョ]]のためにビアリッツに離宮を建設し、この離宮は現在では高級ホテルとして使用されている。
19世紀後半に行われた[[カルリスタ戦争]]において、バスクは自治権を守るために、[[自由主義]]的な改革に反対する[[カルリスタ]]と結んで戦った。しかし戦争は敗北に終わり、バスク地方は自治権を失った(徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った)。[[関税]]境界がバスクとスペイン側の国境から、バスクの中央を走っているスペイン・フランス国境へ移動した。このために、伝統的なパンプローナ-バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある[[密輸]]商売は消滅した。逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。


==== スペイン・バスク ====
[[ファイル:Barakaldoko Batzoki zarra.jpg|thumb|[[バラカルド]]にある、1898年にバスク国民党によって建てられた集会所(''batzoki'')。バルと政治集会の場を兼ねた。]]
[[File:Mural, Falls Road, Belfast (7) - geograph.org.uk - 802538.jpg|thumb|right|200px|バスク・ナショナリズムの存在を示すペインティング]]
カルリスタ戦争での敗北や、19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の影響を受け、バスク人はバスクをより近代的に変える思想と運動の再構築が試みられた。その中心人物に[[サビノ・アラナ]]{{enlink|Sabino Arana}}、[[ルイス・アラナ]]の兄弟がいた。今日[[バスク国の旗]]として知られるイクリニャも、19世紀のバスク民族運動のシンボルとして生み出されたものである。1895年、サビーノ・アラナらによって、バスク民族主義者の政党として'''[[バスク国民党]]'''(EAJ-PNV) が結党された。
[[File:Agirre Lekube lehendakaria.jpg|thumb|right|200px|バスク自治政府初代[[レンダカリ]]の[[ホセ・アントニオ・アギーレ|アギーレ]]]]
{{see also|バスク・ナショナリズム}}


19世紀のスペインでは[[国民国家]]形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに[[自由主義]]的な改革が試みられた。同じ王国内にありながら法域が異なって[[関税]]がかかる状況を改めることは、バスク側にとっては中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。1833年には社会制度や経済構造の維持を唱える[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|カルロス5世]]と、自由主義を標榜する[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]との間での王位継承問題を発端とする第一次[[カルリスタ戦争]]が勃発し<ref name=teiko28>大泉光一(1993)、p.28</ref>、[[フエロ]]の維持を求めるスペイン・バスクは旧体制を支持して自由主義勢力と戦ったが、1839年に敗北が決定してスペイン・バスクのフエロは縮小された<ref name=tateishi151>立石ほか(2002)、p.151</ref>。1841年にはナバーラ県のフエロが撤廃されて数百の町がスペインに統合され、ナバーラのスペイン化が完了した<ref name=michi20>大泉陽一(2007)、p.20</ref>。その後第二次カルリスタ戦争を挟んで第三次カルリスタ戦争が起こり、1876年7月21日法でバスク地方のフエロは実質的に撤廃された<ref name=tateishi151/><ref name=allieres62>アリエール(1992)、p.62</ref>。バスク地方はスペイン国家の中の一地域に位置付けられ、納税や兵役の義務が課せられた<ref name=tateishi151/>。関税境界はバスクとスペインの境界からスペイン・フランス国境に移動し、スペイン・バスクとフランス領バスクを分断した。このため、パンプローナとバイヨンヌを結ぶ歴史ある街道は分断され、バスク内陸部を潤していた旨みのある密輸商売は消滅したが、バスク沿岸部は比較的恵まれていた。また、工業発展を遂げた19世紀末のバスク地方には他地域から労働者が多数流入し、1900年時点では[[ビスカヤ県]]、[[ギプスコア県]]、[[アラバ県]]のバスク3県における人口の6割が他地域出身者となった<ref name=tateishi153>立石ほか(2002)、p.153</ref>。バスク地方では非[[バスク語]]化が進行し、[[バスク人]]の伝統的価値観や規範が脅かされた<ref name=teiko32>大泉光一(1993)、p.32</ref><ref name=tateishi154>立石ほか(2002)、p.154</ref>。。
バスク民族主義は、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。造船・冶金・小型兵器製造業といった産業は、ビルボや多くのギプスコアの都市を経済的中心に押し上げるとともに、影響力のあるバスク人ブルジョア階層を形成した。民族主義イデオロギーは、最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、[[ガリシア人]]移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。


「バスク民族主義の父」と呼ばれる<ref name=michi23>大泉陽一(2007)、p.23</ref>[[サビノ・アラナ]]は[[バルセロナ大学]]で学ぶうちに[[カタルーニャ・ナショナリズム]]に共感し、ビスカヤ地方の精神的独立の復活を訴えて政治活動を開始した<ref name=teiko37>大泉光一(1993)、p.37</ref><ref name=tateishi155156>立石ほか(2002)、pp.155-156</ref>。アラナは「血族、言語(バスク語)、統治と法(フエロ)、気質と習慣、歴史的人格」の5つをバスク民族の独自性を定義づける要素に挙げ、特に血の純潔によってバスク人は[[スペイン人]]に優越するとした<ref name=tateishi155156/>。1895年には[[バスク民族主義党]](PNV)が設立され<ref name=tateishi156>立石ほか(2002)、p.156</ref>、アラナの主張は近代的工業化から除外された中小ブルジョワ層に受容された<ref name=tateishi157>立石ほか(2002)、p.157</ref>。アラナは分離主義者ではなく地域主義者であると主張し、名称(エウスカディ)と旗([[イクリニャ]])を持つ、7地域<ref group="注">歴史的なバスク地方の7領域。フランス領バスク(北バスク)の3領域と、スペイン領バスク(南バスク)のアラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県、ナバーラ県の4県。サスピアク・バット(7つは1つ)をスローガンとした。</ref>がひとつにまとまった国を提起した<ref name=vilar26>ヴィラール(1993)、p.26</ref>。初期のバスク・ナショナリズムは反工業化を唱え<ref name=tateishi158159>立石ほか(2002)、pp.158-159</ref>、[[第一次世界大戦]]後には近代化の余波が及び始めた農村部にも伝播していった<ref name=tateishi161163>立石ほか(2002)、pp.161-163</ref>。初期のバスク・ナショナリズムはバスク地方の独立や分離を訴えたが、やがてスペイン国家内での地方自治の訴えに変化していった<ref name=watanabe57>渡部(1984)、p.57</ref>。
アラナが興したバスク国民党は、民主主義的手段をもって、かつて認められていたかそれ以上の自治を目指した。バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。[[スペイン第二共和政]](1931年~1939年)は、[[スペイン内戦]]のさなかの1936年10月、[[バスク自治政府]]を認める。バスク自治政府は共和国側に立ち、フランコ軍と戦った。この内戦の中で、中世におけるバスクの自治の象徴であった[[ゲルニカ]]に爆撃を受けた([[ゲルニカ爆撃]])。1937年6月、自治政府の首都である重工業都市ビルボがフランコ軍に占領され、自治政府は事実上活動を停止する。自治政府のビルボ撤退時、共和国政府は重工業施設を敵の手に渡すよりも破壊するように要請したが、バスクの民族主義者はこれに従わなかった。これは内戦後の復興に資することになる。


1931年には[[第二共和政]]が成立し、バスク民族主義党は[[カトリック]]を基調とし、バスク4県をほぼ独立した国家として扱うエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)を採択して国会に提出したが、特に[[スペイン社会労働党]](PSOE)による反対運動で廃案となった<ref name=teiko44>大泉光一(1993)、p.44</ref><ref name=tateishi167>立石ほか(2002)、p.167</ref><ref name=michi28>大泉陽一(2007)、p.28</ref>。この一方で、1933年にはカトリックを基調としないバスク自治憲章案(修正版)がナバーラ県を除くバスク3県の住民投票によって承認され、バスクの歴史上初めてアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3県が法制的にまとめられた<ref name=teiko45>大泉光一(1993)、p.45</ref><ref name=michi29>大泉陽一(2007)、p.29</ref>。第二共和政下では各政治勢力の主張が交錯し、バスク民族主義党はアラバ県や[[ナバーラ州|ナバーラ県]]の支持を取り付けることに失敗したことで、バスクの地方自治の実現が遅れたとされる<ref name=tateishi169>立石ほか(2002)、p.169</ref>。1932年には「祖国の日」が制定され、バスク地方では例年復活祭と同時期にバスク国の復活が祝われている<ref name=allieres63>アリエール(1992)、p.63</ref>。1936年には共和国議会でバスク自治憲章の公布が認められ、[[ホセ・アントニオ・アギーレ]]を[[レンダカリ]](政府首班)とするバスク自治政府が承認された<ref name=allieres64>アリエール(1992)、p.64</ref>。バスク自治政府はバスク大学の設立に着手し、[[グアルディア・シビル]](治安警察)やグアルディア・アサルト(治安突撃隊)を解体してバスク警察を設立し、バスク軍を再編した<ref name=kano5455>狩野(2003)、pp.54-55</ref>。1930年代後半の[[スペイン内戦]]では、ビスカヤ県とギプスコア県のバスク民族主義党は共和国側に立って[[フランシスコ・フランコ]]の反乱軍と戦ったが、アラバ県とナバーラ県は反乱軍に味方した<ref name=allieres64/><ref name=kano26>狩野(2003)、p.26</ref>。ナバーラ王国を継ぐナバーラ県はバスク地方の中心的存在だったが、ナバーラ県内の住民投票でもバスク3県への併合を拒否してバスク3県から分離された<ref name=michi29/>。1937年4月にはバスクの自治の象徴である[[ゲルニカ]]が、反乱軍と組んだドイツ軍による[[ゲルニカ爆撃]]を受け、1937年6月にはバスク軍最後の拠点である[[ビルバオ]]が陥落した<ref name=teiko51>大泉光一(1993)、p.51</ref><ref name=tateishi170>立石ほか(2002)、p.170</ref>。バスク自治政府は支配領域をすべて失い、政治的独立の試みが頓挫して亡命政府となった<ref name=teiko51/> <ref name=tateishi170>立石ほか(2002)、p.170</ref>。
=== 第二次世界大戦後 ===
[[フランシスコ・フランコ・バハモンデ|フランコ]]政権下でバスク民族主義者は強烈な抑圧を受けたが、数十年の間にそれは緩和された。[[ベネズエラ]]と[[パリ]]にバスク亡命政府が置かれたこともあったが、その活動は実態のない代表権と、困難な隠密活動に限られていた。その後、民族主義青年団 (EGI) の中に、即時行動を求める新グループを設立し分裂した。この新グループは[[バスク祖国と自由|エウスカディ・タ・アスカタスナ(バスク祖国と自由)]]と名乗り、現在ではETAとして知られている。後の非常に活発で過激な都市ゲリラ組織である。


スペイン内戦では15万人以上の[[バスク人]]が難民となり、その後のフランコ政権下では[[バスク語]]の使用禁止や[[イクリニャ]](バスク国旗)の掲揚禁止などの政策が取られた<ref name=teiko52>大泉光一(1993)、p.52</ref><ref name=tateishi171>立石ほか(2002)、p.171</ref><ref name=viva243>ビーヴァー(2011)、p.243</ref>。1946年にはアギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成し、亡命政府のバスク民族主義党が主導したビスカヤ県での労働争議は功を奏したが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させた<ref name=tateishi171/>。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年に[[バスク祖国と自由]](ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、[[バスク大学]]の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えた<ref name=tateishi172>立石ほか(2002)、p.172</ref>。発足当初のETAは民族文化復興運動団体の色彩が強かったが、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになった<ref name=tateishi174176>立石ほか(2002)、pp.174-176</ref>。それまでは穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していたが、ETAの登場で状況が変わった<ref name=tateishi326>立石博高 編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年、p.326</ref>。1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大した<ref name=tateishi332>立石博高 編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年、p.332</ref>。
スペインにおいて40年に及んだフランコ政権が終焉し、自由民主主義が取り戻されると、バスクにも自治をもたらすことになる。1978年、スペイン憲法によってバスク3県(アラバ・ビスカヤ・ギプスコア)にバスク自治州が設定され、1979年10月25日の国民投票で自治政府の行政機構を定めた地方自治憲章(ゲルニカ憲章)が承認された。一方、バスク3県と異なる歴史を歩んできたナバーラでは、親スペイン派の政党が政権を握ってきていたため、バスク州とは異なる[[ナバーラ州]]となる道を選んだ。


=== 現代 ===
バスク自治州では、穏健民族主義であるバスク国民党が州政府の与党を握ってきた。分離独立を求めるETAは[[テロリズム]]を繰り返し、2006年3月に「恒久的な休戦」を宣言するまでの38年間に800人以上のスペイン人死者を出した。休戦宣言の9ヵ月後の12月30日に[[バラハス空港]]の爆破事件を起こし、2007年6月には停戦破棄声明を出して爆弾テロや銃撃事件を起こすなど、テロ活動の収束には至っていない。
==== 日本におけるバスクの認知 ====
[[ファイル:Rural Basque Country.jpg|thumb|right|スペイン側バスク国の田舎の風景]]
1968年には[[梅棹忠夫]]らの京都大学ヨーロッパ学術調査隊がバスク地方に3-4カ月滞在して調査を行い、[[桑原武夫]]の編集による一般向け書籍がバスク人の生活を伝えた<ref name=hagio5>萩尾ほか(2012)、p.5</ref>。1983年に[[司馬遼太郎]]が書いた『街道をゆく22 南蛮のみち1』などがバスク・ブームを喚起し<ref name="watanabe1112">渡部(2004)、pp.11-12</ref>、1980年代にはバスクへの関心が飛躍的に高まったとされている<ref name=hagio5/>。司馬は[[フランシスコ・ザビエル]]の訪日を起点に南蛮文化のルーツを求め、[[ソーヴール・カンドウ|カンドウ神父]]の功績やバスク語・バスクの風習などを紹介した<ref name="watanabe1112"/>。1990年代になると日本人のバスクに対する関心が多様化し、バスク語や独立問題への関心より文化的関心(スポーツ・芸術・料理)に主流が移った<ref name=hagio7>萩尾ほか(2012)、p.7</ref>。1997年の[[ビルバオ・グッゲンハイム美術館]]の開館によってバスクのイメージは完全に刷新され、多くの観光ガイドブックにビルバオが掲載されるようになった<ref name=hagio6>萩尾ほか(2012)、p.6</ref>。2006年には日本バスク友好会という任意団体が東京に設立され、2009年にはバスク自治州が公認する国外バスク系コミュニティが東京に設立された<ref name=hagio7/>。

==== フランス領バスク ====
{{seealso|ピレネー=アトランティック県#歴史}}

フランス領バスクは19世紀から1980年代まで経済が低迷しており、若年層を中心に人口が都市部に流出した<ref name=hagio156160/>。1945年には北部バスク地方自治憲章案が策定されて自治権を求める動きがあったが、バスク・ナショナリズムの発現度は南バスクに比べて低かった<ref name=hagio156160/>。1980年代末までには左派祖国バスク主義運動(EMA)、バスク統一(EB)、{{仮リンク|バスク連帯|en|Eusko Alkartasuna}}(EA)の3派の政治団体が存在していたが、各州選挙でのこれらバスク・ナショナリスト勢力の得票率は最大でも9%にとどまった<ref name=hagio156160/>。バスク連帯はバスク県創設を求め、1981年のフランス大統領選挙ではバスク県設置とバスク語使用の擁護を公約に掲げた[[フランソワ・ミッテラン]]が立候補したが、いざ就任するとバスク県設置の公約は反故にされた<ref name=hagio156160/><ref name=allieres67/>。しかし、その後もフランス政府は地方分権化に積極的であり、1990年代後半以降には「ペイ」(pays=地方、地理的・文化的・経済的・社会的なまとまり)が法的に制度化され、1997年には地域整備政策上の行政区分単位として「バスク地方」が定義された<ref name=hagio156160/>。1993年には左派祖国バスク主義運動とバスク統一が連携して{{仮リンク|祖国バスク主義者統一|en|Abertzaleen Batasuna}}(AB)となり、バスク・ナショナリスト勢力として初めて10%を超す得票率をあげた<ref name=hagio156160/>。2007年には祖国バスク主義者統一やバスク連帯などのバスク・ナショナリスト勢力が結集し、EH Bai(バスク地方・Yes)として地方選挙で躍進した<ref name=hagio156160/>。スペイン・バスクを本拠とする[[バスク民族主義党]](PNV)はフランス領バスクにも拠点を置いているが、満足な結果は得られていない<ref name=hagio156160/>。2013年にはフランス領バスクにおける地域振興事業が満了し、「バスク地方」という行政区分は消失した<ref name=hagio156160/>。

==== スペイン・バスク ====
{{seealso|バスク自治州#歴史}}

1975年にフランコが死去するとスペインでは{{仮リンク|民主化への移行|en|Spanish transition to democracy}}が開始され、1978年には国民投票が行われて[[スペイン1978年憲法]](現行憲法)が制定された。憲法にはスペイン国家の不可分一体性が明記され、バスク人は民族を構成するには至らない民族体と位置付けられたが<ref name=seki385387>関ほか(2008)、pp.385-387</ref>、1979年にはスペイン国会で{{仮リンク|ゲルニカ憲章|en|Statute of Autonomy of the Basque Country}}(バスク自治憲章)が承認された後に住民投票でも承認され、アラバ、ビスカヤ、ギプスコアの歴史的3領域の自治組織としてのバスク自治州が発足した<ref name=seki387391>関ほか(2008)、pp.387-391</ref>。憲法の規定でナバーラ県はバスク自治州への統合が可能とされたが、結局1982年に単独で[[ナバーラ州]]に昇格した<ref name=seki387391/>。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっている<ref name=allieres65>アリエール(1992)、p.65</ref>。ETAは1968年の暴力活動開始以後に800人以上を殺害し、1990年代頃にバスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服がバスク地方最大の懸念事項となったが、2000年代後半以降には軍事的・政治的に弱体化したとされている<ref>{{cite web |url=http://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/europe/ETA.html |title=「バスク祖国と自由」(ETA) |website=公安調査庁 |date= |accessdate=2014-10-10}}</ref>。2003年にはバスク民族主義党の[[フアン・ホセ・イバレチェ]]がゲルニカ憲章改正案({{仮リンク|イバレチェ・プラン|en|Ibarretxe Plan}})をスペイン国会に提出してバスク地方の自治拡大を狙ったが、スペインの不可分一体性を崩しかねないこのプランは[[代議院 (スペイン)|スペイン下院]]に否決された<ref name=seki393396>関ほか(2008)、pp.393-396</ref>。

== 経済 ==
=== 中近世 ===
中世には[[捕鯨]]がバスク地方の一大産業であり、ヨーロッパにおける捕鯨のルーツはバスク地方である<ref name=watanabe12>渡部(2004)、p.12</ref>。19世紀後半にノルウェー式の捕鯨銃による捕獲方法が確立するまでは、集団で銛を打ち込むバスク式はイギリスやオランダなどでも採用され、北米のアメリカ合衆国にまで伝承された<ref name=watanabe12/>。バスク地方は農業生産力で他地方に劣っていたが、[[フエロ]]による消費財の自由な輸入や国税の免除などが商業活動の発展に貢献した<ref name=seki343345>関ほか(2008)、pp.343-345</ref>。

バスク人の[[捕鯨]]を伝える文献は11世紀・12世紀のものがもっとも古い<ref name=yamashita7476>山下渉登『捕鯨Ⅰ』法政大学出版局、2004年、pp.74-76</ref>。13世紀・14世紀には、[[ビスケー湾]]内だけでなく[[大西洋]]上でも捕鯨を行うようになったとされ、[[フランドル]]・イギリス・デンマークなどでも[[鯨油]]や鯨ヒゲが販売されるようになった<ref name=yamashita7476/>。灯火用に用いられていたオリーブ油やアブラナ油の産地である地中海沿岸がアラブ人やトルコ人の支配下に置かれると、バスク人が産する鯨油のヨーロッパでの需要が高まった<ref name=yamashita7476/>。また、繊維産業や皮革産業の発展によって、洗浄用の石鹸の原料として鯨油が、[[コルセット]]の材料などとして鯨ヒゲが使用されるようになった<ref name=yamashita7476/>。15世紀には[[ビスケー湾]]から[[タイセイヨウセミクジラ]]が姿を消したため、バスク人は大西洋を北上するようになり、1550年までには北アメリカ大陸沿岸の[[ニューファンドランド島]]や[[ラブラドール半島]]に至った<ref name=yamashita7476/>。1560年代がバスク捕鯨の全盛期であり、バスク地方の全漁撈人口2万人のうち4,000人が捕鯨に従事し<ref name=yamashita7680>山下渉登『捕鯨Ⅰ』法政大学出版局、2004年、pp.76-80</ref>、毎年50隻もの捕鯨船が北米沿岸に航海してヨーロッパの鯨油市場を独占していた<ref name=yamashita8183>山下渉登『捕鯨Ⅰ』法政大学出版局、2004年、pp.81-83</ref>。また、塩干のタラはヨーロッパ各国に輸出される国際交易品となった<ref name=watanabe8587>渡部(2004)、pp.85-87</ref>。16世紀後半には捕鯨船の所有元や資金提供元がバスク地方内部からスペイン国外に移り、18世紀後半にはバスク捕鯨が終焉を迎えた<ref name=yamashita8183/>。

=== 近現代 ===
18世紀初頭の[[スペイン継承戦争]]後はビルバオのブルジョワがカスティーリャ産毛織物の海上輸送ルートを手にし、スペインから海路で輸出される毛織物の50%が{{仮リンク|ビルバオ港|en|Port of Bilbao}}から積み出された<ref name=seki345248>関ほか(2008)、pp.345-348</ref>。19世紀にビルバオ周辺で豊かな鉄鉱石の鉱床が発見されたため、19世紀末には外国資本が流入して製鉄と造船が盛んになり、スペインはヨーロッパ最高の鉄生産量を誇った<ref name=kawanari166>川成ほか(2013)、p.166</ref>。[[ビルバオ河口]]はバスク地方における[[産業革命]]の中心地として、スペインでは[[カタルーニャ州|カタルーニャ地方]]と並ぶ工業地帯となり、特に鉄鋼業、造船業、製造業、製紙業などの重工業が発達した<ref name=ikari17>碇(2008)、p.17</ref>。1855年には[[ビルバオ・ビスカヤ・アルヘンタリア銀行|ビルバオ銀行]](現BBVA)が創業し、2年後にはスペインで初めて紙幣発行の認可を受けてスペインの筆頭銀行となった<ref name=watanabe104108>渡部(2004)、pp.104-108</ref>。20世紀初頭のバスク地方には、22の冶金工場、65の鋳造工場、2の製紙工場、12の繊維工場、20の製粉工場、18の電気エネルギー製造センター、25の缶詰工場、22のセメント工場、5の製材所その他があった<ref name=watanabe104108/>。1930年におけるバスク地方の対全スペイン比率を見ると、製鉄業が65%、造船業が71%、製紙業が71%、海運業が69%、鉄鋼生産が74%、銀行預金が42%などであり、スペインを代表する経済・工業力を有した<ref name=watanabe104108/>。1970年代・1980年代の経済危機を経て、バスク自治州ではハイテク産業が成長した<ref name=ikari17/>。

== 社会 ==
=== 言語 ===
{{See also|バスク自治州#言語}}

[[File:Basque as first language(corrected).JPG|thumb|right|200px|バスク地方における自治体別バスク語話者の割合]]

[[バスク語]]が話される領域はバスク7領域の一部であり、その歴史の中で拡大も縮小も経験している。10世紀頃にはすでにナバーラ州南端部ではバスク語が話されなくなり、12世紀以後はバスク語領域が徐々に衰退した<ref>{{cite web |url=http://www.euskaltzaindia.net/dok/iker_jagon_tegiak/6817.pdf |title= El largo camino del euskera |last1=Michelena |first1=Luis|last2= |first2= |year= 1977 |website= El Libro Blanco del Euskera |publisher=[[エウスカルツァインディア]]|accessdate=3 July 2013}}</ref>。国民国家の成立過程では、スペイン政府もフランス政府も多かれ少なかれ、バスク人とその言語的アイデンティティを抑制しようと試みてきた<ref>Torrealdi, J.M. ''El Libro Negro del Euskera'' (1998) Ttarttalo ISBN 84-8091-395-9</ref>。20世紀の大部分ではバスク語の社会言語学的状況は深刻に低下した。これは他地域からスペイン・バスクにスペイン人労働者が大量に流入し、[[フランシスコ・フランコ]]独裁政権下でバスク語やバスク文化が抑圧されたことなどが理由である。1960年頃にはバスク語復権運動が起こり、1975年頃にはバスク7領域で160校の[[イカストラ]]<ref group="注">バスク語で初等教育・中等教育を行う学校。1960年頃に非合法的に運営が開始され、民主化後の1993年には約40%のイカストラが公立学校に編入、その他は私立学校として存続した。</ref>が34,000人の生徒を抱えるまでに至った<ref name=hagio194198>萩尾ほか(2012)、pp.194-198</ref>。[[スペイン1978年憲法]]第3条では[[スペイン語|カスティーリャ語]]を国家公用語と定めているが、同時に他言語も自治州内の公用語となる可能性を明記している<ref name=hagio189193>萩尾ほか(2012)、pp.189-193</ref>。バスク自治州は1979年の{{仮リンク|ゲルニカ憲章|en|Statute of Autonomy of the Basque Country}}でバスク語を固有言語に選定し、カスティーリャ語との二言語共同公用体制を敷いた<ref name=hagio189193/>。ナバーラ州は州域を法的に「バスク語圏」「混合圏」「非バスク語圏」に分け、非バスク語圏以外ではバスク語を公用語として認めている<ref name="parlamentodenavarra.es">{{cite web |url= http://www.parlamentodenavarra.es/home.aspx |title=Ipar Euskal Herriko ikastola guztiak arriskuan direla salatzeko manifestazioa deitu du Seaskak larunbatean Baionan |date= |work=ナバーラ州議会 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。一方、[[フランス共和国憲法]]は[[フランス語]]を国語と定めており、フランス領バスクにおいてバスク語は公的な地位を得ていない。2013年6月にはフランスの公用語がフランス語であるとする条項に則り、バスク語学校の新設に財政補助を行おうとしたアンダイエ議会に対して違法であるとする判決が下された<ref>{{cite web |url=http://www.kazeta.info/euskalherria/ipar-euskal-herriko-ikastola-guztiak-arriskuan-direla-salatzeko-manifestazioa-deitu-du-seaskak-larunbatean-baionan |title=Ipar Euskal Herriko ikastola guztiak arriskuan direla salatzeko manifestazioa deitu du Seaskak larunbatean Baionan |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date= 18 June 2013|website=Kazeta.info |publisher= |accessdate=14 July 2013}}</ref>。なお、バスク語は[[欧州連合]](EU)機関内で限定的な使用が認められており、2011年にはスペイン国会上院でも使用が認められるようになった<ref name=hagio189193/>。2000年代半ばの調査ではバスク語話者は約650,000人であり、うち550,000人がスペイン・バスクに、100,000がフランス領バスクに居住しているとされる<ref>{{cite web|url=http://www.englishpen.org/writersintranslation/magazineofliteratureintranslat/basquecountry/basquelanguage/|title=Basque language|publisher=English Pen|date=13 May 2004|accessdate=6 March 2012}}</ref>。

=== 教育 ===
[[File:University bilbao 11.JPG|thumb|right|200px|ビルバオにあるデウスト大学]]

1540年にはアビラ司教によってギプスコアに{{仮リンク|オニャティ大学|en|University of Oñati}}が創立され、1548年に[[エルナニ (スペイン)|エルナニ]]から[[オニャティ]]に移転した<ref name= ingeba>{{cite web |url= http://www.ingeba.org/argazkia/arkit/onate.htm |title=Universidad del Sancti Spiritus |author= |date= |work= |publisher=Instituto Geographico Vasco |accessdate=2014-11-05}}</ref>。神学、法学、教会法学、芸術学、医学が教えられ、1869年までは学生は[[ローマ・カトリック]]に限定されていた。オニャティ大学の建物は現存しており、1931年には国定史跡となっている<ref>{{cite web |url=http://www.mcu.es/bienes/buscarDetalleBienesInmuebles.do?brscgi_DOCN=000003183&brscgi_BCSID=388b30ec&language=es&prev_layout=bienesInmueblesResultado&layout=bienesInmueblesDetalle |title= Edificio antigua Universidad (Hoy Instituto de Enseñanza Media) |author= |date= |work=Database of the "Patrimonio Cultural" |publisher=スペイン教育文化スポーツ省 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。1901年に閉校するまでオニャティ大学はスペイン・バスクで唯一認可された大学だった。1897年にはスペイン初の現代的な工学部を持つビルバオ高等工科学校が設立され、現在ではバスク大学の一部となっている。1886年にはイエズス会によって[[ビルバオ]]近郊のデウスト<ref group="注">デウストはその後ビルバオと合併し、現在ではビルバオを構成する8区のうちのひとつである。</ref>に[[デウスト大学]]が創立され<ref name=deustouniv>{{cite web |url=http://www.deusto.es/servlet/Satellite/Page/1102609954978/_ingl/%231227879422943%231102609954978/UniversidadDeusto/Page/PaginaCollTemplate |title=History and Mission |date= |work= |publisher=[[デウスト大学]] |accessdate=2014-11-05}}</ref>、1916年にはスペインで初めて経済学の学位を与えた<ref name=deustouniv/>。[[フランシスコ・フランコ]]政権下ではマドリード大学(現[[マドリード・コンプルテンセ大学]])に次いで文官大臣を多く輩出した大学であり、スペイン屈指のエリート養成機関だった<ref name=watanabe164166>渡部(1984)、pp.164-166</ref>。第二次世界大戦後まで長らく政府非公認の[[カトリック大学]]という位置づけだったが、1962年にはスペイン政府によって正式な大学として認可された。デウスト大学の卒業生である[[ホセ・アントニオ・アギーレ]]などによって公立大学の創設が望まれており、[[スペイン内戦]]中の1938年にはビルバオに公立大学が設置された。バスク自治州発足後の1980年にはこれら自治州各地の教育機関を統合して、正式に[[バスク大学]](UPV)が創設された。バスク大学はバスク自治州にある唯一の公立大学であり、3県それぞれにキャンパスを置いている。1943年には[[アラサーテ|アラサーテ/モンドラゴン]]に高等工科学校が設立され、1997年に正式に[[モンドラゴン大学]]として認可された<ref name=monduniv>{{cite web |url=http://www.mondragon.edu/en/about-us/what-is-mu |title=What is MU? |date= |work= |publisher=[[モンドラゴン大学]] |accessdate=2014-11-05}}</ref>。2011年にはヨーロッパ初の食科学に関する4年制学部として、[[サン・セバスティアン]]に食科学部が開設された<ref>高城剛『人口18万人の街がなぜ美食世界一になれたのか』祥伝社新書、2012年、pp.154</ref>。

1952年には[[ローマ・カトリック教会]]に属する[[オプス・デイ]]が[[パンプローナ]]に{{仮リンク|ナバーラ大学|en|University of Navarra}}を創設した。ナバーラ大学はパンプローナとサン・セバスティアンの2か所にキャンパスを有しており、経済学・経営学部は[[エコノミスト]]誌や[[フィナンシャル・タイムズ]]紙によって世界トップクラスの評価を受けている<ref name=navarrauniv>{{cite web |url=http://www.unav.es/facultad/econom/incoming |title=Incoming |author= |date= |work= |publisher=ナバーラ大学 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。医学部は前衛的な研究を行っており、2004年には[[腫瘍学]]・[[病態生理学|病理生理学]]・[[神経科学]]・生物医学の4ジャンルを合わせもつ応用医学研究センターが開設された<ref name=navarrasubete>{{cite web |url=http://www.navarra.es/NR/rdonlyres/D1850D13-B358-4EA8-87D3-799278041709/256861/NavarraMano_japones.pdf |title=ナバラのすべて |author= |date=2005 |work=ナバラ州政府政府広報官オフィス コミュニケーション総局企画出版局|publisher=ナバーラ州政府 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。1987年にはナバーラ州初の公立大学として、既存の高等教育機関を統合して{{仮リンク|ナバーラ州立大学|en|Universidad Pública de Navarra}}が創設された<ref name=navarrasubete/><ref name=navarrapublicuniv>{{cite web |url=http://www.unavarra.es/conocerlauniversidad/history/origins-and-former-statutes |title=Origins and former statutes |author= |date= |work= |publisher=ナバーラ州立大学 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。パンプローナと[[トゥデラ]]にはスペイン国立通信教育大学(UNED)のセンターが存在する<ref name=navarrasubete/>。

=== 交通 ===
[[File:Bilbao (- Sondica) (BIO - LEBB) AN0466068.jpg|thumb|right|200px|バスク地方最大の空港であるビルバオ空港]]

バスク地方には[[ビルバオ空港]](ビスカヤ県)、[[サン・セバスティアン空港]](ギプスコア県)、[[ビトリア空港]](アラバ県)、[[パンプローナ空港]](ナバーラ州)、{{仮リンク|ビアリッツ=アングレット=バイヨンヌ空港|en|Biarritz – Anglet – Bayonne Airport}}(ラブール)の5つの空港がある。バス=ナヴァールとスールに空港は存在しない。ビルバオ空港とビアリッツ=アングレット=バイヨンヌ空港は国際空港であり、その他は国内便のみの空港である。ビルバオ空港の2012年の旅客数は約417万人であり、スペイン国内では13番目に旅客数の多い空港だった<ref name=aena2012>{{cite news |title=TRÁFICO DE PASAJEROS, OPERACIONES Y CARGA EN LOS AEROPUERTOS ESPAÑOLES 2012|url=http://www.aena-aeropuertos.es/csee/ccurl/52/737/Estadisticas_Acumulado%20DEF_2012.pdf |work=空港・航空管制公団(AENA) |date= |accessdate=2014-11-05}}</ref>。サン・セバスティアン空港はスペイン=フランス国境を流れる[[ビダソア川]]に面しており、滑走路のすぐ先に国境線が引かれている。2012年の旅客数は約26万人であり、スペイン国内では31番目に旅客数の多い空港だった<ref name=aena2012/>。ビトリア空港は5空港の中で最長の3,500mの滑走路を有するが、貨物便を主体とする空港であり、2012年の旅客数は約24,000人の少なさだった<ref name=aena2012/>。ビトリア空港には2014年10月にニューヨーク行きの旅客便が設定され、バスク地方から初めて大西洋を超える便となった<ref>{{cite news |title=Foronda, el caso del 'mejor' aeropuerto vasco|url=http://www.elmundo.es/pais-vasco/2014/08/24/53f9fbe3ca4741cc6c8b4578.html |newspaper=[[エル・ムンド]] |date=2014-08-24 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。ビアリッツ=アングレット=バイヨンヌ空港はロンドンなどへの国際便を有し、2013年の旅客数は約110万人であり、フランス国内では20番目に旅客数の多い空港だった<ref name=aerofrancais>{{cite news |title=Résultats d'activité des aéroports français 2013|url=http://www.aeroport.fr/fichiers/Rapport_activite_2013.pdf |work=フランス空港連合(union des aéroports français) |date= |accessdate=2014-11-05}}</ref>。

== 文化 ==
=== 文学 ===
[[File:Bernardo Atxaga - 01.jpg|thumb|right|200px|ベルナルド・アチャーガ]]

{{main|en:Basque literature}}

現在確認されている[[バスク語]]最古の出版物は、1545年にベルナット・エチェパレによって[[ボルドー]]で出版された韻文詩集の『バスク初文集』である<ref name=hagio297302>萩尾ほか(2012)、pp.297-302</ref>。この韻文詩集から約20年後にはヨハネス・レイサラガによって[[新約聖書]]と[[カルヴァン派]]の教えの部分的翻訳が試みられ、17世紀半ばにはペドロ・デ・アシュラルというバスク語最初期の作家が登場した<ref name=obaba411>ベルナルド・アチャーガ『オババコアック』西村英一郎訳、中央公論新社、2004年、p.411</ref>。バスク語文学は[[ラブール]]を中心に開花し、アシュラルの代表作である1643年の『あとで』は「バスク語文学における真の傑作」と称された<ref name=hagio297302/>。19世紀にはフアン・アントニオ・モゲルがバスク語による初の小説とされる『ペル・アバルカ』を著し、ビスカヤ方言で書かれたこの作品は言語的にも貴重な資料となった<ref name=hagio297302/>。[[ルイ=リュシアン・ボナパルト]]のバスク研究開始(1856年)からスペイン内戦勃発(1936年)まではバスク文芸のルネッサンスの時代とされ<ref name=shimomiya46>下宮(1979)、p.46</ref>、19世紀末には「バスク民族主義の父」[[サビノ・アラナ]]が様々なバスク語雑誌を刊行してバスク語の発展に貢献した<ref name=obaba412>ベルナルド・アチャーガ『オババコアック』西村英一郎訳、中央公論新社、2004年、p.412</ref>。{{仮リンク|チョミン・アギーレ|es|Txomin Agirre}}は漁師や農民の生活に興味を抱き、1906年にはビスカヤ方言で『潮』を、1912年にはギプスコア方言で『羊歯』を著した<ref name=hagio297302/>。詩の分野では{{仮リンク|シャビエル・リサルディ|es|Xabier de Lizardi}}や[[オリシェ]]が活躍した<ref name=hagio297302/>。[[スペイン内戦]]後のフランコ体制下では言語的に迫害されたが、1950年頃には文芸復興が始まった<ref name=obaba412/>。1957年に[[チリャルデギ]]が書いた『レトゥリアの秘密の日記』は「バスク語文学における小説の真の始まり」と言われ、{{仮リンク|ラモン・シャイサルビトリア|en|Ramon Saizarbitoria}}の作品は普遍性のある文学として評価された<ref name=hagio297302/>。20世紀末から21世紀初頭には[[ベルナルド・アチャーガ]]、{{仮リンク|アンヘル・レルチュンディ|es|Anjel Lertxundi}}、マリアシュン・ランダ、{{仮リンク|ウナイ・エロリアガ|es|Unai Elorriaga López de Letona}}、[[キルメン・ウリベ]]などのバスク語作家がスペイン国民文学賞の各部門で受賞し、[[スペイン文学]]界で高い評価を受けている<ref name=hagio297302/>。カスティーリャ語文学やフランス語文学と比べるとバスク語文学の歴史は乏しいが、現代作家は様々な文芸分野で活動してバスク文化に大きな影響を与えている<ref name=hagio297302/>。

=== 音楽・映画・美術 ===
{{seealso|en:Basque music}}

バスク地方には生活に深く根付いた[[ベルチョラリツァ]]と呼ばれる伝統的な即興詩歌があり、競技大会や友人の集まりなど様々な場所で披露される<ref name=hagio257261>萩尾ほか (2012)、pp.257-261</ref>。また、{{仮リンク|チストゥ|en|Txistu}}(3本穴の縦笛)、{{仮リンク|アルボカ|en|Alboka}}(牛の角笛)、{{仮リンク|チャラパルタ|en|Txalaparta}}(木板の打楽器)、{{仮リンク|トリキティシャ|en|Trikiti}}(ボタン式アコーディオン)などの伝統的な楽器があり<ref name=hagio308312>萩尾ほか(2012)、pp.308-312</ref>、結婚式や村祭りなどの祭事で演奏されてきた<ref name=hagio3393412>萩尾ほか(2012)、pp.339-341</ref>。1960年代には{{仮リンク|ミケル・ラボア|en|Mikel Laboa}}などがバスク語による新しいバスク音楽の創造を試み、1980年代半ばには[[フェルミン・ムグルサ]]などが政治的主張も行うラディカル・ロックでスペイン国外にも進出し、1990年代以降には政治性を排した[[ケパ・フンケラ]](トリキティシャ)やオレカTX(チャラパルタ)などの伝統楽器奏者が国内外で高い評価を受けている<ref name=hagio308312/>。

バスク地方では無声映画の時代から、バスク語やカスティーリャ語で映画が製作されている<ref name=hagio336338>萩尾ほか(2012)、pp.336-338</ref>。カスティーリャ語の映画では『タシオ』(1984年)、『バスク・ボール』(2003年)、『オババ』(2005年)など、バスク語の映画では『道を教えて、イシャベル』(2006年)、『80日間で』(2010年)などがある<ref name=hagio336338/>。バスク地方出身の映画監督には[[フリオ・メデム]]や[[アレックス・デ・ラ・イグレシア]]などがおり、メデムはバスク自治州の独立問題・テロ問題を扱った『バスク・ボール』で論争を巻き起こした<ref>{{cite web |url=http://www.theguardian.com/film/2003/sep/22/festivals.londonfilmfestival2003 |title=Medem's Basque documentary sparks bitter controversy |date=2003-09-22 |work=[[ガーディアン]] |accessdate=2014-11-05}}</ref>。

バスク地方出身の芸術家には[[ホルヘ・オテイサ]]や[[エドゥアルド・チリーダ]](いずれも彫刻家)などがいる。いずれも抽象的・幾何学的・重厚な作風が特徴であり<ref name=hagio313317>萩尾ほか(2012)、pp.313317</ref>、両者は[[スペイン内戦]]後のスペイン彫刻の出発点をなすとされる<ref name=mieken>{{Cite news |url=http://www.nytimes.com/2005/07/08/arts/design/08glue.html |title=3. 彫刻、幾何学的傾向 |date= |accessdate=2014-10-26 |work=[[三重県立美術館]]}}</ref>。両者は1980年代後半に相次いで[[アストゥリアス皇太子賞]]を受賞しており、オテイサは[[サンパウロ・ビエンナーレ]]彫刻部門グランプリ、チリーダは[[高松宮殿下記念世界文化賞]]彫刻部門などを受賞して世界的にも評価されている<ref name=hagio313317/>。1997年にはビルバオに[[ビルバオ・グッゲンハイム美術館]]が開館し、地域経済への投資の増加など大きな成功をおさめている<ref name=gaidai144161>京都外国語大学(2003)、pp.144-161</ref>。

<gallery>
Alboka.jpg|伝統的なアルボカ
JosebaTapia.JPG|トリキティシャ奏者
Two txalaparta players at a performance in a fiesta.jpg|チャラパルタ奏者
Chillida berlin Bundeskanzleramt.jpg|[[エドゥアルド・チリーダ|チリーダ]]の彫刻作品
Guggenheim-bilbao-jan05.jpg|[[ビルバオ・グッゲンハイム美術館]]
</gallery>

=== 料理 ===
{{main|バスク料理}}
{{seealso|バスク自治州#料理}}

[[File:Cuisine of the Basque Country Merluza a la Koskera (Salsa verde o a la Vasca) 001.JPG|200px|thumb|right|伝統的なタラ料理]]

スペインやフランスの他地域とは異なる食文化は[[バスク料理]]として知られている。[[エル・ブジ]]などで知られるシェフの[[フェラン・アドリア]]は、「食事の平均的な質やレストランの質という観点では、[[サン・セバスティアン]]が世界でもっとも優れた町かもしれない」と述べている<ref>{{cite news|last=Carlin|first=John|title=Is San Sebastián the best place to eat in Europe?|url=http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2005/mar/13/foodanddrink.shopping2|accessdate=2010-09-09|newspaper=[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]|date=2005-03-13}}</ref>。[[タラ]]、[[メルルーサ]]、ウナギの稚魚などの魚介類が海バスクを代表する食材であり、定番料理には{{仮リンク|マルミタコ|en|Tuna pot}}(カツオとジャガイモの煮込み)、タラのピルピルソース風、イカの墨煮、ウナギの稚魚のビルバオ風などがある<ref name="michi100102">大泉陽一(2007)、pp.100-102</ref>。有名レストランで提供される新バスク料理や、[[バール (飲食店)|バル]]で提供される[[ピンチョス]]なども含め、バスク料理自体が観光資源となっている。アラバ県のエブロ川流域は{{仮リンク|リオハ (ワイン)|label=リオハ|en|Rioja (wine)}}として知られる赤ワインの生産地域であり、ビスケー湾沿岸では{{仮リンク|チャコリ|en|Txakoli}}と呼ばれる白ワインが生産される<ref name=hagio281283>萩尾ほか(2012)、pp.281-283</ref>。[[シードル|シードラ]]と呼ばれるリンゴ酒の生産も盛んであり、酒蔵はギプスコア県・{{仮リンク|アスティガラガ|es|Astigarraga}}周辺に集中している<ref name=hagio281283/>。

=== スポーツ ===
バスク地方では[[サッカー]]、[[ラグビーユニオン]]、[[自転車競技]]、[[サーフィン]]などのスポーツが盛んであり、ペロタ・バスカや農作業から生まれた伝統的スポーツも人気がある。

; スペイン・バスク
{{seealso|バスク自治州#スポーツ}}

スペイン・バスクでは特にサッカー、バスケットボール、自転車競技などが盛んである。サッカーでは[[アスレティック・ビルバオ]](リーグ優勝8回・カップ優勝24回)や[[レアル・ソシエダ]](リーグ優勝2回・カップ優勝2回)などのクラブが[[リーガ・エスパニョーラ]]に所属している。アスレティック・ビルバオは[[バスク人]]のみで選手を構成していることが特徴であり<ref name=ball9697>フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、pp.96-97</ref><ref group="注">アスレティック・ビルバオに所属可能な「バスク人」の定義は曖昧であり、歴史的なバスク地方の領域には含まれない[[ラ・リオハ州]]の選手の在籍も認めているし、両親ともに非バスク人だがバスク地方生まれの選手なども在籍している。</ref>、[[レアル・マドリード]]や[[FCバルセロナ]]とともに1部リーグから降格したことがない3クラブのひとつである<ref name=ball7879>フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、pp.78-79</ref><ref name=hagio318323>萩尾ほか(2012)、pp.318-323</ref>。レアル・ソシエダもかつてはバスク人のみで選手を構成していたが、1989年にはバスク人以外の初の選手としてイングランド人の[[ジョン・オルドリッジ]]を獲得した<ref name=ball9697/>。1913年にビルバオに建設された初代[[エスタディオ・サン・マメス]]はスペイン初の大規模サッカー専用スタジアムであり<ref name=ball85>フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、p.85</ref>、1920年に[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]が銀メダルを獲得した[[アントワープオリンピックにおけるサッカー競技|アントワープ五輪]]では、全メンバーのうち計15人がバスク人だった<ref name=hagio318323/>。1928年の全国リーグ創設時には10クラブ中4クラブがバスク3県に本拠地を置くクラブだった<ref name=ball7879/>。フランコが死去してスペインが民主化移行期にあった1980年代初頭には、アスレティック・ビルバオとレアル・ソシエダの2クラブが4シーズンの間リーグタイトルを独占した<ref name=hagio318323/>。2000-01シーズンにはアスレティック・ビルバオ、レアル・ソシエダ、[[デポルティーボ・アラベス]]、[[CAオサスナ]]が1部リーグに在籍したが、スペイン・バスクの4領域すべてのクラブが揃うのは史上初のことだった<ref name=ball102>フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、p.102</ref>。スペイン・バスク出身の著名選手には、スペイン代表最多出場記録を保持していた[[アンドニ・スビサレッタ]]、[[2010 FIFAワールドカップ]]優勝メンバーとなった[[シャビ・アロンソ]]などがいる。

バスク地方出身の著名な自転車競技選手には、[[ツール・ド・フランス]]で5度個人総合優勝を果たした[[ミゲル・インドゥライン]]などがおり、[[アブラハム・オラーノ|アブラアム・オラーノ]]は[[ブエルタ・ア・エスパーニャ]]と[[世界選手権自転車競技大会|世界選手権]]個人ロード・個人TTで優勝した。自転車競技チームとしてはかつて[[UCIプロツアー|UCIプロチーム]]の[[エウスカルテル・エウスカディ]]が存在し、[[北京オリンピックにおける自転車競技|北京オリンピック]]個人ロード金メダルの[[サムエル・サンチェス]]などが所属していたが、資金難のために2013年に解散した<ref name=cyclowired>{{cite news |title=スポンサー探しが頓挫 スペインのエウスカルテルが19年間の歴史に幕|url=http://www.cyclowired.jp/?q=node/115100 |publisher=cyclo wired |date=2013-08-20 |accessdate=2014-10-20}}</ref>。エウスカルテルは「バスク人のバスク人によるバスク人のためのチーム」であり、2012年までは所属選手をバスク地方出身かバスク地方でアマチュア時代を過ごした選手に限定していた<ref name=cyclowired/><ref name=cyclingtime>{{cite news |title=オレンジ集団終焉の時、さらばエウスカルテル・エウスカディ|url=http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=20066 |publisher=Cycling Time |date=2013-08-23 |accessdate=2014-10-20}}</ref>。同じくUCIプロチームの[[モビスター・チーム]]はパンプローナ近郊のナバーラ州エグエスに本部を置いている。

; フランス領バスク
フランス領バスクではサッカーよりラグビーの方が盛んだとされており<ref name=hagio318323>萩尾ほか(2012)、pp.318323「バスク・サッカー事情」</ref>、[[フランス選手権トップ14]]には常に[[アビロン・バイヨンヌ]]や{{仮リンク|ビアリッツ・オランピック|en|Biarritz Olympique}}などのクラブが所属している。ビアリッツ・オランピックは赤・白・緑のバスクカラーのユニフォームをまとい、サポーターはスタンドから[[イクリニャ]](バスク国旗)を振って応援する。ビアリッツ・オランピックは[[ハイネケン・カップ]]のホームゲームを、国境を越えたサン・セバスティアンの[[エスタディオ・アノエタ]]で開催している。

フランス領バスクには有力なサッカークラブがないが、フランス領バスク出身で[[サッカーフランス代表]]の主力として活躍した選手には、1990年代後半に代表キャプテンを務めた[[ディディエ・デシャン]]や[[ビセンテ・リザラズ]]などがいる。バスク・サッカー連盟は[[国際サッカー連盟]](FIFA)や[[欧州サッカー連盟]](UEFA)などの統括機関には加盟していないが、[[サッカーバスク国代表]]はバスク7領域全体の代表として定期的に各国代表と試合を行っている<ref>{{cite news |title=Catalonia and Basque Country reignite call for independent national football identities |url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/spain/10541466/Catalonia-and-Basque-Country-reignite-call-for-independent-national-football-identities.html |work=[[デイリー・テレグラフ]] |date=2013-12-30 |accessdate=2014-11-05}}</ref>。サッカーの他には、バスケットボール、アイスホッケー、女子サッカーなどの競技でバスク7領域全体のバスク国代表が結成されている。

<gallery>
Afición Athletic ayuntamiento.jpg|バスク人のみで構成される[[アスレティック・ビルバオ]]
JuanjoOroz CircuitoGetxo2013.JPG|[[エウスカルテル・エウスカディ]]の選手
Allez B.O.!.jpg|[[イクリニャ]]を揺らすビアリッツ・オランピックの応援
</gallery>

==== 伝統的スポーツ ====
[[File:Aizkolaria gasteizko jaietan.jpg|thumb|right|200px|丸太切り競技中の選手]]

{{main|en:Basque rural sports|label=バスクの伝統的スポーツ}}

バスク地方の伝統的なスポーツとしてはペロタ・バスカがある。ペロタ・バスカは素手もしくはラケットとボールを用いるコートスポーツ / [[球技]]である。ペロタ・バスカは[[パリオリンピック (1900年)]]では正式競技として開催され、その後は[[パリオリンピック (1924年)]]、[[メキシコシティオリンピック]](1968年)、[[バルセロナオリンピック]](1992年)の3大会で公開競技として開催された<ref>{{cite news |title=LA PELOTA VASCA EN LOS JUEGOS OLIMPICOS |url=http://www.fipv.net/media/docs/2012/01/26/juegos-olimpicos.pdf?PHPSESSID=b8450b68299aeafcd72ec5765c93ef08 |work=ペロタ・バスカ国際連盟(FIPV) |date= |accessdate=2014-11-05}}</ref>。1929年にはバスク・ペロタ国際連盟が設立され、ヨーロッパや南北アメリカを中心にフィリピンやインドなども加えた27カ国の連盟が加盟している。1940年からスペイン全国選手権が開催されており、バスク地方にはプロ選手が存在するほか、ナバーラ州ではサッカー選手よりもペロタ選手のほうが人気があるとされる<ref name=hagio203206>萩尾ほか(2012)、pp.203-206</ref>。ペロタ・バスカの変種に[[ハイアライ|ハイ・アライ]]があり、特にアメリカ合衆国でプレーされている。ハイ・アライは羊皮でくるまれた125-140gのボールを用い、「あらゆるスポーツの中でもっとも硬いボールを用いる」とされることがある<ref>{{cite news |title=JAI-ALAI TRIVIA |url=http://www.jai-alai.info/jai-alai-trivia.html |work=Jai alai.info |date= |accessdate=2014-11-05}}</ref>。ホセ・ラモン・アレイティオはハイ・アライのボールで時速302km (188mph)を記録したことがあり、これはボール競技の世界最高速度となっていたが、2007年にはゴルフボールのロングドライブ競技<small>([[:en:Long drive|英語版]])</small>で、ジェイソン・ズバックが時速328km (204mph)を記録して世界記録を塗り替えた。ハイ・アライにはギャンブルの要素も加わっている<ref name="michi8990">大泉陽一(2007)、pp.89-90</ref>。

農作業から生まれた伝統的スポーツも人気が高く、克己心や忍耐力を必要とするバスク民族固有の特性が反映されている<ref name=michi93>大泉陽一(2007)、p.93</ref>。イディ・プロバック(巨大な石を制限時間内に引っ張る競技)、セガ・アプストゥア(刈り取った牧草の重量を競う草刈り競技)、エリ・キロラク(巨大な石を肩まで担ぐ石の担ぎ上げ競技)、アイスコラリ(斧だけを用いて丸太を切断する丸太切り競技)、ソカ・ティラ(綱引き競技)、チンガス(両手に鉄の塊を持って歩く競技)などがある<ref name="michi91">大泉陽一(2007)、p.91</ref><ref>{{cite news |title=世界のスポーツ 民族スポーツ バスク地方 |url=http://www.taishukan.co.jp/sports/world/ethnic/Basque.htm |work=[[大修館書店]]スポーツ資料館 |date= |accessdate=2014-11-05}}</ref>。これらの競技にもギャンブルの要素が加わり、祭礼には欠かせないイベントとなっている<ref name=michi91>大泉陽一(2007)、p.91</ref>。伝統的スポーツは職業の作業形態を競技化したものがほとんどであり、そこには原初的なスポーツの成立過程がみられる<ref name=inagaki9395>稲垣正浩『テニスとドレス』叢文社、2002年、pp.93-95</ref>。サッカーを除けばバスク人は近代スポーツへの関心が薄いとされ、他民族に比べて固有の伝統的スポーツの人気が高い<ref name=inagaki9395/>。桁はずれな体力と気力を必要とする競技ばかりであるが、格闘技の要素を持つ競技はみられない<ref name=inagaki102>稲垣正浩『テニスとドレス』叢文社、2002年、p.102</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
* ジャック・アリエール『バスク人』萩尾生訳 白水社 1992年
* 碇順治『現代スペインの歴史』彩流社、2005年
* 大泉光一『バスク民族の抵抗』新潮社、1993年
* 大泉陽一『未知の国スペイン –バスク・カタルーニャ・ガリシアの歴史と文化-』原書房、2007年
* 狩野美智子『バスクとスペイン内戦』彩流社、2003年
* 下宮忠雄『バスク語入門』大修館書店、1979年
* 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 2 近現代・地域からの視座』山川出版社、2008年
* 立石博高・中塚次郎『スペインにおける国家と地域 ナショナリズムの相克』国際書院 2002年
* レイチェル・バード『ナバラ王国の歴史』狩野美智子訳、彩流社、1995年
* 萩尾生・吉田浩美『現代バスクを知るための50章』(エリア・スタディーズ)明石書店、2012年
* アントニー・ビーヴァー『スペイン内戦』根岸隆夫訳、みすず書房、2011年
* 渡部哲郎『バスク –もう一つのスペイン-』彩流社、1984年
* 渡部哲郎『バスクとバスク人』平凡社、2004年


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[ク国|バスク自治州]](スペインの自治州
* [[フランバスク]](北バ
*[[フランバスク]]
* [[スペイン・バスク]](南バスク)
* [[独立主張のある地域一覧]]
*[[バスク人]]
*[[バスク語]]
*[[バスク料理]]
*バスク神話([[:en:Basque Mythology]])
*[[独立主張のある地域一覧]]
*スペインの国民性([[:en:Nationalities in Spain]])
*[[ゲルニカ]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
119行目: 343行目:
* [http://www.tourisme-pays-basque.fr Basque Country (Travel guide)]
* [http://www.tourisme-pays-basque.fr Basque Country (Travel guide)]
* [http://www.allempires.com/article/index.php?q=basque_people The Basque People in the Middle Ages (historical article)]
* [http://www.allempires.com/article/index.php?q=basque_people The Basque People in the Middle Ages (historical article)]
{{Euskal Herria provinces}}

{{DEFAULTSORT:はすくこく}}
{{DEFAULTSORT:はすくこく}}
[[Category:バスク]]

[[カテゴリ:ヨーロッパ史]]
[[Category:バスクの歴史]]
[[Category:ヨーロッパ史]]
[[カテゴリ:バスク|*はすくこく]]
[[カテゴリ:バスクの歴史|*はすくこく]]

2014年11月20日 (木) 09:31時点における版

歴史的な領域としてのバスク国バスク語Euskal Herria)は、バスク人バスク語の歴史的な故国を指す概念である。バスク地方とも呼ばれる。ピレネー山脈の両麓に位置してビスケー湾に面し、フランススペインの両国にまたがっている。

スペイン側にはバスク自治州の3県とナバーラ州の計4領域があり、フランス側にはフランス領バスクの3領域がある。バスク・ナショナリズム運動の中で「サスピアク・バット」(7つは1つ)というスローガンが掲げられ、7領域からなるバスク地方の地理的範囲が示された[1]。バスク地方全体の旗としてイクリニャ(バスク国旗)が、バスク地方のシンボルとしてラウブル(バスク十字)がある[2]

地域区分

バスク国の構成

歴史的なバスク地方は、南バスクまたはスペイン・バスクと呼ばれるスペイン領土の4地域、北バスクまたはフランス領バスクと呼ばれるフランス領土の3地域の計7領域からなる[3]。バスク地方全体の面積は20,947 km2であり、2005年から2011年の調査に基づいた人口は約308万人、人口密度は約149人/km2であり[4]、スペイン全体やフランス全体の人口密度と同程度である。バスク自治州に約210万人(約70%)、ナバーラ州に約60万人(約20%)、フランス領バスクに約30万人(約10%)が住む。人口の偏りは激しく人口の1/3がビルバオ都市圏に居住しており、ビスカヤ県の人口密度は約500人/km2に達するが、バス=ナヴァールスールの人口密度は約20人/km2でしかない。

南バスク

南バスク(スペイン・バスク)4地域はバスク語ではエウスカディと表記され、いずれもスペインのに位置づけられている[3]。このうち西部の3地域(アラバ県ビスカヤ県ギプスコア県の3県)は、1979年から面積7,234km2バスク自治州を構成し[5]、「バスク3県」とも呼ばれるバスク地方の中核的な地域である。東部の1地域(ナバーラ県)は1982年から単独で面積10,391 km2ナバーラ州を構成しており[5]、面積はバスク自治州3県の合計より大きい。南バスク全体の面積は17,955 km2であり[注 1]、2010年と2011年の調査に基づく人口は2,810,331人である[4]。アラバ県内にあるカスティーリャ・イ・レオン州の飛び地トレビニョ英語版とビスカヤ県内にあるカンタブリア州の飛び地バリェ・デ・ビリャベルデ英語版はバスク自治州には含まれないが、バスク地方の範囲には含まれる場合がある[6]

地域 中心都市
日本語名[注 2] 面積(km2)[注 1] 人口(人)[注 3] バスク語名 カスティーリャ語名 日本語名 バスク語名 カスティーリャ語名
アラバ 3,316 317,016 Araba Álava ビトリア=ガステイス Gasteiz Vitoria
ビスカヤ 2,236 1,151,708 Bizkaia Vizcaya ビルバオ Bilbo Bilbao
ギプスコア 1,980 700,314 Gipuzkoa Guipúzcoa サン・セバスティアン Donostia San Sebastián
ナバーラ 10,421 641,293 Nafarroa Navarra パンプローナ Iruña Panplona

北バスク

北バスク(フランス領バスク)3地域はバスク語では Iparraldea(イパラルデア)と表記され、フランスのピレネー=アトランティック県の一部である[3]。1990年代後半から2013年までは暫定的にバスク地方という行政区分がなされたが、現在は北バスクを単独で管轄する行政区分は存在しない[7]。北バスクの面積は2,992km2であり、2005年の国勢調査による人口は272,103人である[4]

地域 中心都市
日本語名[注 2] 面積(km2)[注 1] 人口(人)[注 3] バスク語名 フランス語名 日本語名 バスク語名 フランス語名
ラブール 855 227,754 Lapurdi Labourd バイヨンヌ Baiona Bayonne
バス=ナヴァール 1,322 28,835 Nafarroa Beherea Basse-Navarre サン=ジャン=ピエ=ド=ポル Donibane Garazi St. Jean Pied de Port
スール 814 15,514 Zuberoa Soule モレオン Maule Mauleon

自治体

# 自治体 地域名 人口[注 4] # 自治体 地域名 人口[注 4]
1 ビルバオ 南バスク・ビスカヤ県 349,356人 9 サントゥルツィ 南バスク・ビスカヤ県 47,129人
2 ビトリア=ガステイス 南バスク・アラバ県 241,386人 10 バイヨンヌ 北バスクラブール 44,300人
3 パンプローナ 南バスク・ナバーラ州 196,955人 11 バサウリ 南バスク・ビスカヤ県 41,971人
4 サン・セバスティアン 南バスク・ギプスコア県 186,500人 12 エレンテリア 南バスク・ギプスコア県 39,324人
5 バラカルド 南バスク・ビスカヤ県 100,502人 13 トゥデラ 南バスク・ナバーラ州 35,429人
6 ゲチョ 南バスク・ビスカヤ県 79,839人 14 レイオア 南バスク・ビスカヤ県 30,454人
7 イルン 南バスク・ギプスコア県 61,113人 15 ビアリッツ 北バスクラブール 30,055人
8 ポルトゥガレテ 南バスク・ビスカヤ県 47,756人 16

地理

バスク地方の地形

地形的に大まかな境界を見ると、北端がビスケー湾、北東端がアドゥール川、東端がアニ峰、南端がエブロ川、西端がネルビオン川である[8]

山地

バスク地方北東部をピレネー山脈が占め、2,504mのアニ峰、2,044mのアルラ峰、2017mのオリ峰など、スペインとフランスの国境をなす稜線には標高2,000mを超す山々が連なっている[9]。ピレネー山脈はバスク山脈カンタブリア山脈東部)に接続しており、バスク山脈はナバーラ州とギプスコア県、ギプスコア県とアラバ県、アラバ県とビスカヤ県の境界を東西に伸びている[9]。バスク山脈の主要な山には、アンディア山地、ウルバサ山地、1,427mのアララール山地、1,551mのアイスコリ山、1,361mのアンボト岩山、1,537mのゴルベア山などがある[9]。フランス側は山地の標高が低く、923mのアルツァメンディ山、678mのウルスヤ山などがある[9]

水文

フランス領バスクではアドゥール川ニヴェル川の2河川がビスケー湾コスタ・バスカ(バスク海岸)に流れ込んでいる[9]スールの中央部を南北に流れるセゾン川はソーヴテール=ド=ベアム(フランス語版)付近でオロロン川と合流し、ペルオラード英語版付近でアドゥール川に合流すると東西に向きを変える。バス=ナヴァールは北部と南部で水系が分かれており、サン=パレ(フランス語版)など北部を流れるビドゥーズ川はギシュ付近でアドゥール川と合流するが、サン=ジャン=ピエ=ド=ポルなど南部を流れるニーヴ川は北ではなく北西に流れてラブール中央部を通り、ビスケー湾まで数キロに近づいてから、バイヨンヌの旧市街付近でアドゥール川と合流する。いくつもの支流を集めたアドゥール川は河口部にバイヨンヌ=アングレット=ビアリッツ都市圏共同体を持つ。ラブール西部を流れるニヴェル川はアドゥール川より規模が小さいが、河口のサン=ジャン=ド=リュズに目の細かい砂浜海岸を形成している[10]

ナバーラ州内に水源を持つビダソア川は下流部の数キロでスペイン=フランスの自然的国境となり、河口部にはイルンオンダリビア(いずれもスペイン)とアンダイエ(フランス)などが国境を跨いだチングディ湾都市圏を形成する。スペイン・バスクにはアドゥール川に匹敵する河川はないが、河口にサン・セバスティアンを形成するウルメア川オリア川、デバ川、自然保護区のウルダイバイ河口(ゲルニカ川)、河口にビルバオを形成するネルビオン川などがビスケー湾に注いでいる[9]。ピレネー山脈やバスク山脈はおおまかに大西洋と地中海の分水嶺となっており、ナバーラ州やアラバ県を流れる河川の多くはやがてエブロ川となって地中海に注ぐ。この分水嶺はバスク語の言語境界線とも似通っており、山脈以南ではバスク語話者の比率が低い。ナバーラ州東部にはアラゴン川、中央部にはパンプローナを流れるアルガ川、西部にはエステーリャを流れるエガ川があり、アラバ県にはビトリア=ガステイスを流れるサドーラ川がある。ナバーラ州とアラバ県にありながら河川が大西洋に注ぐ地域は、両地域の北端部などに限られる。

コスタ・バスカはリアス式海岸が連続しており、高い崖や奥まった入江を持つ天然の良港を抱える[1]。コスタ・バスカに砂浜海岸は少なく[9]アンダイエサン=ジャン=ド=リュズサン・セバスティアンなどに限られている。ビスケー湾沿岸のビアリッツやサン・セバスティアンは、それぞれ19世紀以後にフランス王侯貴族やスペイン王侯貴族の保養地となった。

気候・植生

バスク地方の湾岸部は西岸海洋性気候(CfB)であり、内陸部は大陸性気候に属している[11]イベリア半島内でもっとも降水量が多い地域だが[12]、南部は石灰質土壌のために保水力が弱い[9]。東部のピレネー山脈の稜線部では降雪量が多く[9]、平地でも降雪や厳寒がみられるが[12]、標高150m以下ではほとんど降雪はない[9]。山間部はトドマツブナモミが主体の亜高山帯であり、南部はヨーロッパアカマツツゲセイヨウヒイラギが顕著であり、北部はヨーロッパナラセイヨウトネリコなどの大西洋岸種や、ギョリュウイチゴノキなど半島北東部種が支配的である[9]

歴史

先史時代

フランコ・カンタブリア美術の洞窟絵画の分布

バスク地方で前期旧石器時代の痕跡は見られず、バスク地方に人類が居住し始めたのは約15万年前の中期旧石器時代であるとされる[12]ネアンデルタール人は温暖な時代には河川に近い屋外の段丘面に住み、寒冷な時代になると奥行きのある洞窟に住んで寒さから身を守っていた[12]。イステュリッツ洞窟、オーシュリュック遺跡(以上がフランス領バスク)などで硬石製の道具が発掘されており、イステュリッツ洞窟ではムスティエ文化期(300,000年前 - 30,000年前)のネアンデルタール人の下顎が発掘されている[13]。後期旧石器時代、オーリニャック文化期(32,000年前 - 26,000年前)の遺跡としてはサール遺跡(ラブール)、イステュリッツ洞窟、サンティマミニェ洞窟(ビスカヤ県)などがあり、ソリュートレ文化英語版期(21,000年前 - 17,000年前)の遺跡としてはオーシュリュック遺跡、ボリンコバ遺跡(ビスカヤ県)、エルミティア遺跡(ギプスコア県)、イステュリッツ洞窟、サンティマミニェ洞窟などが、マドレーヌ文化英語版期(18,000年前 - 11,000年前)の遺跡としてはサンティマミニェ洞窟、ボリンコバ遺跡、イステュリッツ洞窟、エルミティア遺跡、アイツビタルテ遺跡、ウルティアガ遺跡(ギプスコア県)、ルメンチャ遺跡(ビスカヤ県)などの遺跡がある[13]。イステュリッツ洞窟、アルケルディ遺跡(ナバーラ州)、アルチェリ洞窟、サンティマミニェ洞窟などの洞窟絵画はフランコ・カンタブリア美術に属し、他地域のアルタミラ洞窟(スペイン・カンタブリア州)やラスコー洞窟(フランス・ドルドーニュ県)と同時代である。ベンタ・ラペラ洞窟の洞窟壁画には抽象的な記号とともにバイソンクマなどの動物が描かれ、サンティマミニェの壁画には雌鹿やバイソンなど大型の野生生物が描かれた[14]。イステュリッツ洞窟やサンティマミニェ洞窟などでは彫刻作品も発掘されている[13]。2008年、サンティマミニェ洞窟は世界遺産である「アルタミラ洞窟とスペイン北部の旧石器洞窟美術」に追加登録された[15]

先史時代の主な遺跡
名称 地域名 時代
サンティマミニェ洞窟 ビスカヤ県 中期旧石器時代から青銅器時代まですべて。洞窟壁画を有する。
ボリンコバ遺跡(Bolinkoba) ビスカヤ県 後期旧石器時代(グラヴェット、ソリュートレ)
エルミティア遺跡(Ermitia) ギプスコア県 後期旧石器時代(ソリュートレ、マドレーヌ)
アイツビタルテ遺跡(Aitzbitarte) ギプスコア県 後期旧石器時代(オーリニャック、グラヴェット、ソリュートレ、マドレーヌ)
パライレアイツ遺跡(Paraileaitz) ギプスコア県 後期旧石器時代(ソリュートレ、マドレーヌ)。洞窟壁画を有する。
イステュリッツ洞窟(Isturitz) バス=ナヴァール 中期旧石器時代、後期旧石器時代。洞窟壁画を有する。
アルチェリ洞窟(Altxerri) ギプスコア県 後期旧石器時代(マドレーヌ)。洞窟壁画を有する。

中石器時代アジール文化英語版期(10,500年前 - 9,000年前)には、上述の旧石器時代からの遺跡の大半やレセチキ遺跡、ベロベリア遺跡などで人間の頭蓋骨などが出土している[13]新石器時代(紀元前3,500年 – 紀元前2,000年)の痕跡はサンティマミニェ洞窟、ルメンチャ遺跡、エルミティア遺跡、ウルティアガ遺跡、ベロベリア遺跡などにあり、貝塚などが出土している[13]。人類は洞窟ではなく平野に住居を建てはじめ、狩猟に加えて果実の収穫や野生動物の家畜化などを行いはじめた[16]青銅器時代(紀元前1,200年 – 紀元前600年)に先駆けてドルメンなどの巨石記念物が登場し、東方と南方からやってきた民族によって埋葬の儀式とともに普及したとされる[13]。これらの巨石記念物は、山地や牧畜地帯に建立された古典的な羨道墳、アルタホナ遺跡(ナバーラ州)に見られる巨大な通廊墳、ロンカル遺跡に見られるカタルーニャ風の通廊墳の3つの潮流に分類される[13]。巨石記念物や高地に埋まっている建造物はバスク全土で400以上も記録されており、銅製や青銅製の遺物が出土している[17]鉄器時代(紀元前600年以降)にはケルト人と推定される民族がバスク地方を横断し、製鉄、動物による車の牽引、優れた農耕法、新たな作物、牛馬の飼育などの技術をもたらした[13]。銅器時代までは断続的な居住地跡しか発見されていないが、鉄器時代には定住的になり、川べりの小高い丘を中心にした永住地跡が発見されている[18]

古代

古代のバスク系部族

紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山脈の麓に達したが、征服や植民を行うことはなくバスク人との関係は良好であり、多くのバスク人がカルタゴ人の傭兵となった[19]。この頃のバスク人たちは長老会議や戦士団を持ち、女性は農業を、男性は狩猟や略奪を行った。何らかの言語を話していたが、その言語を文字にすることはなかった[20]。紀元前133年のヌマンティア英語版の攻囲戦でローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現パンプローナ)を建設し[21]ピレネー山脈に向かう際の強力な防衛地点として使用した[22]。ポンパエロには神殿、公共浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり、バスク地方南部ではオリーブ小麦やブドウなどローマ的な農作物が生産されるようになった[22][23]。土地がやせている北部では鉱山や避難港などがローマ人に利用された[23]。この頃のバスク人はいくつかの部族にわかれて広い領域に分布しており、カエサルはポンペイウスの軍隊を解散させて近ヒスパニア[注 5]全域の統治を確立した[21]。紀元前1世紀にはバスク地方にもローマ人が到着したが[20]アウグストゥスバスク人が住むピレネー山脈の山岳民やアクイタニアを平定させることができず[21]、これらの地域はローマ法ラテン語キリスト教などのローマの影響をほとんど受けなかった[22]。ローマ人とバスク人は協力関係にあったとされ、イタリアのブレシアには「すべてのバスク民族はローマと友好関係を保ち、直ちに兵士としてローマ軍に加わった」と刻まれた1世紀の石碑が残っている[23]。ローマ人はバスク人をヴァスコニア(Vasconia)と呼んでおり、バスク人は自らのことをエウスカルドゥナク(バスク語を話す人々)と呼んでいた[23]。ヴァスコニアは現在のバスクという統一的な名称の創始であり、またガスコーニュという地名の語源にもなっている。3世紀末にはバスク地方南部の都市にキリスト教が伝播されたが、ローマ時代にはキリスト教は浸透せず、太陽・月・天などケルト文化の影響を受けた自然崇拝が主流だった[24]

中世

中世前期

5世紀には西ゴート族がバスク地方に侵入し、バスク地方にいた種族は連合して異民族に抵抗した[25]。714年にはウマイヤ朝のイスラーム勢力がバスク地方に侵入し、718年にはパンプローナが征服されたが、732年にはフランク王国の宮宰カール・マルテルトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を撃退し、イスラーム勢力はイベリア半島南部に戻った[26]。11世紀までは断続的にバスク人とイスラーム勢力との間で諍いが起こったが、おおむね平和に共存した[26]。7世紀以降にはフランク族のメロヴィング朝の家臣によるヴァスコニア公爵領が存在し、西ゴート族、イスラーム勢力、フランク王国に対してピレネー山脈の両側のバスク人は連合した[27]。778年のロンセスバーリェスの戦いではカール大帝軍に勝利したが、この戦いは叙事詩『ローランの歌』のモデルとなった[28][29]。ヴァスコニアは西ヨーロッパの人々によって野蛮性が強調され[30]、「破壊者」「浮浪者」「略奪者」などと呼ばれた[31]。バスク人は基本的に山岳地帯の散村で生活していたことから、広い領域との関わりを持たず、バスク人全体を統一する権力者は長らく登場しなかった[32]

北バスク

封建時代初期の北バスクは3つの独立した組織体で構成されていた[33]。東部(現スール)はガスコーニュ公爵とビゴール伯爵の支配下にスール子爵領があったが、1078年にベアルン子爵の支配下にはいった[33]。中央部(現バス=ナヴァール)は11世紀初頭になってアルベルー、オスタバレ、オッセス、シーズ、ミクス、バイゴリの封地が確立したが、13世紀にはナバーラ王国の一地域としてウルトラ・プエルトス代官区を構成した[33]。西部(現ラブール)は11世紀初頭にナバーラ王国のサンチョ3世に質権が渡されていたが、1033年にはガスコーニュ公爵の庇護化に入った[33]。この3地域のいずれも自由地として自治権を有しており、農奴制の範囲外だった[33]。1155年にはイギリスのプランタジネット朝ヘンリー2世がアキテーヌ公爵を兼ねるようになったが、ラブールとスールの諸権利が譲渡されたことをバスク地方の貴族は好まずに敵対し、12世紀末にリチャード1世(獅子心王)がバイヨンヌを攻囲して占領する結果となった[33]。1204年にはカスティーリャ王アルフォンソ8世がラブールとスールに進攻してバイヨンヌを焼き払った。14世紀初頭にはスールでフランス人の子爵がイギリスに反旗を翻したが、子爵に占領された領土はナバーラ王経由でイギリスに返還された[33]

南バスク

1030年頃のイベリア半島。ナバーラ王国(濃橙)の最大版図

824年、イニゴ・アリスタらがフランク王国ルイ1世(敬虔王)に勝利したことでパンプローナ王朝(後のナバーラ王国)が誕生し、その息子のガルシア・イニゲスはアストゥリアス王国との戦いの後に和平を結んだ[34]。イニゴ家の起源については定かでないが、ピレネー山脈北部から出てナバーラのサラサール谷に定住していた可能性がある[34]。イニゴ・アリスタ朝は3代続き、905年にはヒメノ家のサンチョ・ガルセス1世がパンプローナ王となってヒメノ朝が開始された[35]。922年にはアラゴン伯領を保護領とし、924年には後ウマイヤ朝アブド・アッラフマーン3世によってパンプローナが略奪・焼き討ちに遭うが、937年にはアストゥリアス・レオン王国と同盟を結び、939年にはシマンカスの戦いに勝利してイスラーム勢力を撃退した[36]。フランク王国のカール大帝によって自然崇拝が禁じられていたが、パンプローナに修道院司教区が設置されるようになったのは9世紀になってからであり、11世紀になってようやくビスカヤやギプスコアにも修道院が急増した[37]

1004年に即位したサンチョ3世(大王)はバスクの諸地域を次々と従えた[38]ラブールバス=ナヴァールの質権を受け取り、婚姻によってビスカヤアラバを併合し、スールも間接的にナバーラ王国に従属していた[38]。サンチョ3世の死後、正嫡の長男が王国を相続すると言う当時のイベリア半島の慣習[39]に反して、ナバーラ王国はサンチョ3世の遺言どおりにアラゴン、ナバーラ、カスティーリャ、ソブラルベ英語版リバゴルサ英語版に分割されて4人の息子たちに与えられたが、兄弟は敵対して領地争いが起こった[40]。ナバーラ王国は1076年にはアラゴン王国の一地方となったが、ガルシア・ラミレス(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てた[40]。1212年にはサンチョ7世(不屈王)がキリスト教連合軍の一員としてラス・ナバス・デ・トロサの戦いに参加し、レコンキスタにおける重要な役割を果たしたが[41][42]、1234年に死去したサンチョ7世には正当後継者がいなかったため、シャンパーニュ家テオバルド1世がナバーラ王となり、フランス王朝が始まった[43]。11世紀以後にはナバーラ王国内部をサンティアゴの巡礼路が通るようになり、いくつかの都市が巡礼路沿いに建設された[44]。巡礼路はバスク地方のキリスト教化に貢献し、15世紀末にはバイオナ司教区、オロロン司教区、ダックス司教区、イルニャ司教区、ガステイス司教区の5司教区がバスク地方を所轄していた[44]

バスクの他地方を見ると、9世紀にはアラバビスカヤの名称が、11世紀にはギプスコアの名称が初めて文献に登場した。アラバはナバーラ王国内の領主領や伯爵領として9世紀中頃から独立を保ったが[45]、1076年にアラゴン=ナバーラ連合王国に吸収され、1200年にはアルフォンソ8世によってカスティーリャ王国に併合された[38][46]。ギプスコアはいったんカスティーリャ王国の支配下にはいったが1076年に分離独立し、1180年にはサン・セバスティアンがナバーラ王国のサンチョ6世からフエロを得ていたものの、1200年に再びカスティーリャ王国のアルフォンソ8世によって併合された[38][46]ビトリア=ガステイスやサン・セバスティアンだけでなく、1330年代前半にはアラバとギプスコアのほぼ全領域がカスティーリャ王国に飲み込まれている[44]。ビスカヤは11世紀半ばからナバーラ王国のビスカヤ領主による封建体制が続き、1379年にカスティーリャ王国に併合された[46]。カスティーリャ王国はトレビニョ英語版を除いたアラバ、ビスカヤ、ギプスコアにフエロ(特権)を認め、バスク3地方は政治的独立、国税免除、兵役免除などの権利を得た[46]。カスティーリャ王はビスカヤ領主に就任するとゲルニカに出向き、ゲルニカのオークの木の前でフエロの遵守を宣誓する義務を負っていた[44]。1483年にカスティーリャ女王イサベル1世がゲルニカの木の下で宣誓を行ってから、1839年まではこの宣誓なしにはビスカヤ領主として認められなかった[47]。1181年にサン・セバスティアンが建設されたのを発端として、オンダリビアゲタリアサラウツベルメオなどの港湾都市が誕生し、1300年には14世紀後半以後にバスク地方の中核都市となるビルバオが建設された[44]

近世

オニャティ大学があった建物

1512年にはカスティーリャ王フェルナンド5世の軍隊がナバーラ王国に侵攻し、首都パンプローナをはじめとするピレネー以南のナバーラ王国領を占領して併合した[44]。ナバーラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバーラ王国に残された[41]。ピレネー以北のバス=ナヴァールはナバーラ王国から分離し、フランス王国と連合するなどして1620年まで政治的独立を保ち[44]、1620年にフランス王国に編入されて州となった。少なくとも16世紀初頭には、バスク人が北米大陸のニューファンドランド島沿岸まで航海して捕鯨遠洋漁業を行っていたことが判明している[1]。バスク人はスペイン帝国の植民活動で重用され、航海中に死去したフェルディナンド・マゼランの後を継いで史上初めて世界一周を達成したフアン・セバスティアン・エルカーノはバスク人であったし[注 6]、メキシコのサカテカス銀山やボリビアのポトシ銀山を主に開発したのもバスク人だった[48]。多くのバスク人聖職者が新世界で布教活動を行っており、イエズス会の創始者であるイグナチオ・デ・ロヨラフランシスコ・ザビエルもやはりバスク人だった[48]。1545年にはボルドーで司祭のベルナット・エチェパレがバスク語現存最古の出版物である『バスク初文集』を刊行し[48][49]、同年にはバスク地方初の大学としてオニャティ大学が創設された[48]。1545年以後のトリエント公会議は土着の言語での布教を推奨しており、1571年にはラ・ロシェルでヨハネス・レイサラガが新約聖書のバスク語訳を刊行した[48][50]。バスク地方には王立造船所があり、この造船所で建造された船がカスティーリャ王に献上された[51]。ビルバオはカスティーリャ王国の羊毛の積み出し港であり、16世紀前半にはビルバオに海事領事所が設置された[51]

17世紀にはカスティーリャ王国の衰退が顕著になったが、特にビルバオでは造船業や海運業が繁栄し、ビスカヤとギプスコアではヨーロッパに輸出する武器製造業が発展した[52]。1659年に結ばれたフランス・スペイン戦争の終戦条約であるピレネー条約では、スペインとフランスとの国境がほぼ確定し、バスク地方は北バスクと南バスクに完全に分断された[48]。18世紀初頭のスペイン継承戦争後にはスペイン各地でフエロが撤廃されたが、ブルボン家に味方したバスク地方ではフエロの存続が認められ、特にアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3領域は一体性を喚起する枠組みが与えられた[48]。1728年には王立カラカス・ギプスコア会社が設立され、金・銀・タバコ・皮革・カカオなどを取引する新大陸貿易で大きな利益を得た[52]。18世紀後半のバスク地方では農業と牧畜業の均衡が崩れ、伝統的な製鉄業は産業革命を経たイギリスに後れを取って競争力を失ったが[48]、それまでに経済活動で蓄積していた資本が経済復興に役立った[52]。1765年には科学・技術・芸術を通じて経済振興を目指すバスク地方友の会が創設され、「イルラク・バット」(3つは1つ)をスローガンに3領域の一体性を主張した[48]

近代

フランス領バスク

高級保養地となったビアリッツ

1789年に開催された三部会において、ラブールとスールから参加した代議員は地方特権廃止に票を投じ、北バスクが享受してきた自由や特権は廃止された[53]。北バスクはフランスという集合体への融合を受け入れ、バス=ピレネー県(現ピレネー=アトランティック県)に統合された[53]。バスク県は存在しなかったが、バス=ピレネー県のユスタリッツ郡、サン=パレ郡、モーレオン郡がそれぞれラブール、バス=ナヴァール、スールの3地方をほぼそのまま継承した[53]。いくつかの地名が新体制風となり、例えばサン=ジャン=ピエ=ド=ポルはニヴ=フランシュに、サン=ジャン=ド=リュズはショーヴァン=ドラゴンに改名された。18世紀末にはピレネー山脈を挟んでフランスとスペインが衝突し、1794年にはフランス軍がナバーラ県北部とギプスコア県を占拠し、1795年にはアラバ県とビスカヤ県を占拠した[54]。1807年にはナポレオン・ボナパルトカルロス4世がフランス領バスクで対決し、半島戦争(スペイン独立戦争)中の1813年から1814年にはウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー軍とナポレオン軍の対決の舞台となった[54]。19世紀前半以降、フランス領バスクではビアリッツの海岸やカンボ=レ=バン鉱泉などのリゾート化が進行し、フランス有数の避暑地・保養地として発展した[7]。外部資本によるサービス産業が基幹産業となり、海岸部には非バスク語話者が流入した[7]ナポレオン3世は王妃ウジェニー・ド・モンティジョのためにビアリッツに離宮を建設し、この離宮は現在では高級ホテルとして使用されている。

スペイン・バスク

バスク・ナショナリズムの存在を示すペインティング
バスク自治政府初代レンダカリアギーレ

19世紀のスペインでは国民国家形成が進められ、中央集権化と均一化が図られるとともに自由主義的な改革が試みられた。同じ王国内にありながら法域が異なって関税がかかる状況を改めることは、バスク側にとっては中世以来のさまざまな協定や慣習によって守られてきた権利や独自性を脅かすものにほかならなかった。1833年には社会制度や経済構造の維持を唱えるカルロス5世と、自由主義を標榜するイサベル2世との間での王位継承問題を発端とする第一次カルリスタ戦争が勃発し[55]フエロの維持を求めるスペイン・バスクは旧体制を支持して自由主義勢力と戦ったが、1839年に敗北が決定してスペイン・バスクのフエロは縮小された[56]。1841年にはナバーラ県のフエロが撤廃されて数百の町がスペインに統合され、ナバーラのスペイン化が完了した[57]。その後第二次カルリスタ戦争を挟んで第三次カルリスタ戦争が起こり、1876年7月21日法でバスク地方のフエロは実質的に撤廃された[56][58]。バスク地方はスペイン国家の中の一地域に位置付けられ、納税や兵役の義務が課せられた[56]。関税境界はバスクとスペインの境界からスペイン・フランス国境に移動し、スペイン・バスクとフランス領バスクを分断した。このため、パンプローナとバイヨンヌを結ぶ歴史ある街道は分断され、バスク内陸部を潤していた旨みのある密輸商売は消滅したが、バスク沿岸部は比較的恵まれていた。また、工業発展を遂げた19世紀末のバスク地方には他地域から労働者が多数流入し、1900年時点ではビスカヤ県ギプスコア県アラバ県のバスク3県における人口の6割が他地域出身者となった[59]。バスク地方では非バスク語化が進行し、バスク人の伝統的価値観や規範が脅かされた[60][61]。。

「バスク民族主義の父」と呼ばれる[62]サビノ・アラナバルセロナ大学で学ぶうちにカタルーニャ・ナショナリズムに共感し、ビスカヤ地方の精神的独立の復活を訴えて政治活動を開始した[63][64]。アラナは「血族、言語(バスク語)、統治と法(フエロ)、気質と習慣、歴史的人格」の5つをバスク民族の独自性を定義づける要素に挙げ、特に血の純潔によってバスク人はスペイン人に優越するとした[64]。1895年にはバスク民族主義党(PNV)が設立され[65]、アラナの主張は近代的工業化から除外された中小ブルジョワ層に受容された[66]。アラナは分離主義者ではなく地域主義者であると主張し、名称(エウスカディ)と旗(イクリニャ)を持つ、7地域[注 7]がひとつにまとまった国を提起した[67]。初期のバスク・ナショナリズムは反工業化を唱え[68]第一次世界大戦後には近代化の余波が及び始めた農村部にも伝播していった[69]。初期のバスク・ナショナリズムはバスク地方の独立や分離を訴えたが、やがてスペイン国家内での地方自治の訴えに変化していった[70]

1931年には第二共和政が成立し、バスク民族主義党はカトリックを基調とし、バスク4県をほぼ独立した国家として扱うエステーリャ憲章(バスク自治憲章案)を採択して国会に提出したが、特にスペイン社会労働党(PSOE)による反対運動で廃案となった[71][72][73]。この一方で、1933年にはカトリックを基調としないバスク自治憲章案(修正版)がナバーラ県を除くバスク3県の住民投票によって承認され、バスクの歴史上初めてアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3県が法制的にまとめられた[74][75]。第二共和政下では各政治勢力の主張が交錯し、バスク民族主義党はアラバ県やナバーラ県の支持を取り付けることに失敗したことで、バスクの地方自治の実現が遅れたとされる[76]。1932年には「祖国の日」が制定され、バスク地方では例年復活祭と同時期にバスク国の復活が祝われている[77]。1936年には共和国議会でバスク自治憲章の公布が認められ、ホセ・アントニオ・アギーレレンダカリ(政府首班)とするバスク自治政府が承認された[78]。バスク自治政府はバスク大学の設立に着手し、グアルディア・シビル(治安警察)やグアルディア・アサルト(治安突撃隊)を解体してバスク警察を設立し、バスク軍を再編した[79]。1930年代後半のスペイン内戦では、ビスカヤ県とギプスコア県のバスク民族主義党は共和国側に立ってフランシスコ・フランコの反乱軍と戦ったが、アラバ県とナバーラ県は反乱軍に味方した[78][80]。ナバーラ王国を継ぐナバーラ県はバスク地方の中心的存在だったが、ナバーラ県内の住民投票でもバスク3県への併合を拒否してバスク3県から分離された[75]。1937年4月にはバスクの自治の象徴であるゲルニカが、反乱軍と組んだドイツ軍によるゲルニカ爆撃を受け、1937年6月にはバスク軍最後の拠点であるビルバオが陥落した[81][82]。バスク自治政府は支配領域をすべて失い、政治的独立の試みが頓挫して亡命政府となった[81] [82]

スペイン内戦では15万人以上のバスク人が難民となり、その後のフランコ政権下ではバスク語の使用禁止やイクリニャ(バスク国旗)の掲揚禁止などの政策が取られた[83][84][85]。1946年にはアギーレがニューヨークでバスク亡命政府を編成し、亡命政府のバスク民族主義党が主導したビスカヤ県での労働争議は功を奏したが、反共産主義の立場を取る西側勢力はフランコを容認するようになり、1960年のアギーレの死もあってバスク亡命政府は政治的影響力を低下させた[84]。1952年に地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年にバスク祖国と自由(ETA)に発展し、バスク語の民族語としての擁立、バスク大学の創設などバスク民族の政治的自立や民主的諸権利の認知を訴えた[86]。発足当初のETAは民族文化復興運動団体の色彩が強かったが、やがて政治的独立を掲げる集団が主流派となり、1968年には武力闘争が開始されて世界的に知られるようになった[87]。それまでは穏健派のバスク民族主義党がバスク・ナショナリズム運動を独占していたが、ETAの登場で状況が変わった[88]。1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動が高まり、1970年代になるとバスク民族主義党が保守層の支持を背景に組織を拡大した[89]

現代

日本におけるバスクの認知

1968年には梅棹忠夫らの京都大学ヨーロッパ学術調査隊がバスク地方に3-4カ月滞在して調査を行い、桑原武夫の編集による一般向け書籍がバスク人の生活を伝えた[90]。1983年に司馬遼太郎が書いた『街道をゆく22 南蛮のみち1』などがバスク・ブームを喚起し[91]、1980年代にはバスクへの関心が飛躍的に高まったとされている[90]。司馬はフランシスコ・ザビエルの訪日を起点に南蛮文化のルーツを求め、カンドウ神父の功績やバスク語・バスクの風習などを紹介した[91]。1990年代になると日本人のバスクに対する関心が多様化し、バスク語や独立問題への関心より文化的関心(スポーツ・芸術・料理)に主流が移った[92]。1997年のビルバオ・グッゲンハイム美術館の開館によってバスクのイメージは完全に刷新され、多くの観光ガイドブックにビルバオが掲載されるようになった[93]。2006年には日本バスク友好会という任意団体が東京に設立され、2009年にはバスク自治州が公認する国外バスク系コミュニティが東京に設立された[92]

フランス領バスク

フランス領バスクは19世紀から1980年代まで経済が低迷しており、若年層を中心に人口が都市部に流出した[7]。1945年には北部バスク地方自治憲章案が策定されて自治権を求める動きがあったが、バスク・ナショナリズムの発現度は南バスクに比べて低かった[7]。1980年代末までには左派祖国バスク主義運動(EMA)、バスク統一(EB)、バスク連帯英語版(EA)の3派の政治団体が存在していたが、各州選挙でのこれらバスク・ナショナリスト勢力の得票率は最大でも9%にとどまった[7]。バスク連帯はバスク県創設を求め、1981年のフランス大統領選挙ではバスク県設置とバスク語使用の擁護を公約に掲げたフランソワ・ミッテランが立候補したが、いざ就任するとバスク県設置の公約は反故にされた[7][54]。しかし、その後もフランス政府は地方分権化に積極的であり、1990年代後半以降には「ペイ」(pays=地方、地理的・文化的・経済的・社会的なまとまり)が法的に制度化され、1997年には地域整備政策上の行政区分単位として「バスク地方」が定義された[7]。1993年には左派祖国バスク主義運動とバスク統一が連携して祖国バスク主義者統一英語版(AB)となり、バスク・ナショナリスト勢力として初めて10%を超す得票率をあげた[7]。2007年には祖国バスク主義者統一やバスク連帯などのバスク・ナショナリスト勢力が結集し、EH Bai(バスク地方・Yes)として地方選挙で躍進した[7]。スペイン・バスクを本拠とするバスク民族主義党(PNV)はフランス領バスクにも拠点を置いているが、満足な結果は得られていない[7]。2013年にはフランス領バスクにおける地域振興事業が満了し、「バスク地方」という行政区分は消失した[7]

スペイン・バスク

1975年にフランコが死去するとスペインでは民主化への移行英語版が開始され、1978年には国民投票が行われてスペイン1978年憲法(現行憲法)が制定された。憲法にはスペイン国家の不可分一体性が明記され、バスク人は民族を構成するには至らない民族体と位置付けられたが[94]、1979年にはスペイン国会でゲルニカ憲章英語版(バスク自治憲章)が承認された後に住民投票でも承認され、アラバ、ビスカヤ、ギプスコアの歴史的3領域の自治組織としてのバスク自治州が発足した[95]。憲法の規定でナバーラ県はバスク自治州への統合が可能とされたが、結局1982年に単独でナバーラ州に昇格した[95]。バスク人とナバーラ人の分離はスペイン政府の意図するところであり、バスク地方とスペイン国家の係争解決に向けた大きな障害となっている[53]。ETAは1968年の暴力活動開始以後に800人以上を殺害し、1990年代頃にバスク経済が一定程度回復するとテロリズムの克服がバスク地方最大の懸念事項となったが、2000年代後半以降には軍事的・政治的に弱体化したとされている[96]。2003年にはバスク民族主義党のフアン・ホセ・イバレチェがゲルニカ憲章改正案(イバレチェ・プラン英語版)をスペイン国会に提出してバスク地方の自治拡大を狙ったが、スペインの不可分一体性を崩しかねないこのプランはスペイン下院に否決された[97]

経済

中近世

中世には捕鯨がバスク地方の一大産業であり、ヨーロッパにおける捕鯨のルーツはバスク地方である[98]。19世紀後半にノルウェー式の捕鯨銃による捕獲方法が確立するまでは、集団で銛を打ち込むバスク式はイギリスやオランダなどでも採用され、北米のアメリカ合衆国にまで伝承された[98]。バスク地方は農業生産力で他地方に劣っていたが、フエロによる消費財の自由な輸入や国税の免除などが商業活動の発展に貢献した[99]

バスク人の捕鯨を伝える文献は11世紀・12世紀のものがもっとも古い[100]。13世紀・14世紀には、ビスケー湾内だけでなく大西洋上でも捕鯨を行うようになったとされ、フランドル・イギリス・デンマークなどでも鯨油や鯨ヒゲが販売されるようになった[100]。灯火用に用いられていたオリーブ油やアブラナ油の産地である地中海沿岸がアラブ人やトルコ人の支配下に置かれると、バスク人が産する鯨油のヨーロッパでの需要が高まった[100]。また、繊維産業や皮革産業の発展によって、洗浄用の石鹸の原料として鯨油が、コルセットの材料などとして鯨ヒゲが使用されるようになった[100]。15世紀にはビスケー湾からタイセイヨウセミクジラが姿を消したため、バスク人は大西洋を北上するようになり、1550年までには北アメリカ大陸沿岸のニューファンドランド島ラブラドール半島に至った[100]。1560年代がバスク捕鯨の全盛期であり、バスク地方の全漁撈人口2万人のうち4,000人が捕鯨に従事し[101]、毎年50隻もの捕鯨船が北米沿岸に航海してヨーロッパの鯨油市場を独占していた[102]。また、塩干のタラはヨーロッパ各国に輸出される国際交易品となった[103]。16世紀後半には捕鯨船の所有元や資金提供元がバスク地方内部からスペイン国外に移り、18世紀後半にはバスク捕鯨が終焉を迎えた[102]

近現代

18世紀初頭のスペイン継承戦争後はビルバオのブルジョワがカスティーリャ産毛織物の海上輸送ルートを手にし、スペインから海路で輸出される毛織物の50%がビルバオ港英語版から積み出された[104]。19世紀にビルバオ周辺で豊かな鉄鉱石の鉱床が発見されたため、19世紀末には外国資本が流入して製鉄と造船が盛んになり、スペインはヨーロッパ最高の鉄生産量を誇った[105]ビルバオ河口はバスク地方における産業革命の中心地として、スペインではカタルーニャ地方と並ぶ工業地帯となり、特に鉄鋼業、造船業、製造業、製紙業などの重工業が発達した[106]。1855年にはビルバオ銀行(現BBVA)が創業し、2年後にはスペインで初めて紙幣発行の認可を受けてスペインの筆頭銀行となった[107]。20世紀初頭のバスク地方には、22の冶金工場、65の鋳造工場、2の製紙工場、12の繊維工場、20の製粉工場、18の電気エネルギー製造センター、25の缶詰工場、22のセメント工場、5の製材所その他があった[107]。1930年におけるバスク地方の対全スペイン比率を見ると、製鉄業が65%、造船業が71%、製紙業が71%、海運業が69%、鉄鋼生産が74%、銀行預金が42%などであり、スペインを代表する経済・工業力を有した[107]。1970年代・1980年代の経済危機を経て、バスク自治州ではハイテク産業が成長した[106]

社会

言語

バスク地方における自治体別バスク語話者の割合

バスク語が話される領域はバスク7領域の一部であり、その歴史の中で拡大も縮小も経験している。10世紀頃にはすでにナバーラ州南端部ではバスク語が話されなくなり、12世紀以後はバスク語領域が徐々に衰退した[108]。国民国家の成立過程では、スペイン政府もフランス政府も多かれ少なかれ、バスク人とその言語的アイデンティティを抑制しようと試みてきた[109]。20世紀の大部分ではバスク語の社会言語学的状況は深刻に低下した。これは他地域からスペイン・バスクにスペイン人労働者が大量に流入し、フランシスコ・フランコ独裁政権下でバスク語やバスク文化が抑圧されたことなどが理由である。1960年頃にはバスク語復権運動が起こり、1975年頃にはバスク7領域で160校のイカストラ[注 8]が34,000人の生徒を抱えるまでに至った[110]スペイン1978年憲法第3条ではカスティーリャ語を国家公用語と定めているが、同時に他言語も自治州内の公用語となる可能性を明記している[111]。バスク自治州は1979年のゲルニカ憲章英語版でバスク語を固有言語に選定し、カスティーリャ語との二言語共同公用体制を敷いた[111]。ナバーラ州は州域を法的に「バスク語圏」「混合圏」「非バスク語圏」に分け、非バスク語圏以外ではバスク語を公用語として認めている[112]。一方、フランス共和国憲法フランス語を国語と定めており、フランス領バスクにおいてバスク語は公的な地位を得ていない。2013年6月にはフランスの公用語がフランス語であるとする条項に則り、バスク語学校の新設に財政補助を行おうとしたアンダイエ議会に対して違法であるとする判決が下された[113]。なお、バスク語は欧州連合(EU)機関内で限定的な使用が認められており、2011年にはスペイン国会上院でも使用が認められるようになった[111]。2000年代半ばの調査ではバスク語話者は約650,000人であり、うち550,000人がスペイン・バスクに、100,000がフランス領バスクに居住しているとされる[114]

教育

ビルバオにあるデウスト大学

1540年にはアビラ司教によってギプスコアにオニャティ大学が創立され、1548年にエルナニからオニャティに移転した[115]。神学、法学、教会法学、芸術学、医学が教えられ、1869年までは学生はローマ・カトリックに限定されていた。オニャティ大学の建物は現存しており、1931年には国定史跡となっている[116]。1901年に閉校するまでオニャティ大学はスペイン・バスクで唯一認可された大学だった。1897年にはスペイン初の現代的な工学部を持つビルバオ高等工科学校が設立され、現在ではバスク大学の一部となっている。1886年にはイエズス会によってビルバオ近郊のデウスト[注 9]デウスト大学が創立され[117]、1916年にはスペインで初めて経済学の学位を与えた[117]フランシスコ・フランコ政権下ではマドリード大学(現マドリード・コンプルテンセ大学)に次いで文官大臣を多く輩出した大学であり、スペイン屈指のエリート養成機関だった[118]。第二次世界大戦後まで長らく政府非公認のカトリック大学という位置づけだったが、1962年にはスペイン政府によって正式な大学として認可された。デウスト大学の卒業生であるホセ・アントニオ・アギーレなどによって公立大学の創設が望まれており、スペイン内戦中の1938年にはビルバオに公立大学が設置された。バスク自治州発足後の1980年にはこれら自治州各地の教育機関を統合して、正式にバスク大学(UPV)が創設された。バスク大学はバスク自治州にある唯一の公立大学であり、3県それぞれにキャンパスを置いている。1943年にはアラサーテ/モンドラゴンに高等工科学校が設立され、1997年に正式にモンドラゴン大学として認可された[119]。2011年にはヨーロッパ初の食科学に関する4年制学部として、サン・セバスティアンに食科学部が開設された[120]

1952年にはローマ・カトリック教会に属するオプス・デイパンプローナナバーラ大学を創設した。ナバーラ大学はパンプローナとサン・セバスティアンの2か所にキャンパスを有しており、経済学・経営学部はエコノミスト誌やフィナンシャル・タイムズ紙によって世界トップクラスの評価を受けている[121]。医学部は前衛的な研究を行っており、2004年には腫瘍学病理生理学神経科学・生物医学の4ジャンルを合わせもつ応用医学研究センターが開設された[122]。1987年にはナバーラ州初の公立大学として、既存の高等教育機関を統合してナバーラ州立大学が創設された[122][123]。パンプローナとトゥデラにはスペイン国立通信教育大学(UNED)のセンターが存在する[122]

交通

バスク地方最大の空港であるビルバオ空港

バスク地方にはビルバオ空港(ビスカヤ県)、サン・セバスティアン空港(ギプスコア県)、ビトリア空港(アラバ県)、パンプローナ空港(ナバーラ州)、ビアリッツ=アングレット=バイヨンヌ空港(ラブール)の5つの空港がある。バス=ナヴァールとスールに空港は存在しない。ビルバオ空港とビアリッツ=アングレット=バイヨンヌ空港は国際空港であり、その他は国内便のみの空港である。ビルバオ空港の2012年の旅客数は約417万人であり、スペイン国内では13番目に旅客数の多い空港だった[124]。サン・セバスティアン空港はスペイン=フランス国境を流れるビダソア川に面しており、滑走路のすぐ先に国境線が引かれている。2012年の旅客数は約26万人であり、スペイン国内では31番目に旅客数の多い空港だった[124]。ビトリア空港は5空港の中で最長の3,500mの滑走路を有するが、貨物便を主体とする空港であり、2012年の旅客数は約24,000人の少なさだった[124]。ビトリア空港には2014年10月にニューヨーク行きの旅客便が設定され、バスク地方から初めて大西洋を超える便となった[125]。ビアリッツ=アングレット=バイヨンヌ空港はロンドンなどへの国際便を有し、2013年の旅客数は約110万人であり、フランス国内では20番目に旅客数の多い空港だった[126]

文化

文学

ベルナルド・アチャーガ

現在確認されているバスク語最古の出版物は、1545年にベルナット・エチェパレによってボルドーで出版された韻文詩集の『バスク初文集』である[127]。この韻文詩集から約20年後にはヨハネス・レイサラガによって新約聖書カルヴァン派の教えの部分的翻訳が試みられ、17世紀半ばにはペドロ・デ・アシュラルというバスク語最初期の作家が登場した[128]。バスク語文学はラブールを中心に開花し、アシュラルの代表作である1643年の『あとで』は「バスク語文学における真の傑作」と称された[127]。19世紀にはフアン・アントニオ・モゲルがバスク語による初の小説とされる『ペル・アバルカ』を著し、ビスカヤ方言で書かれたこの作品は言語的にも貴重な資料となった[127]ルイ=リュシアン・ボナパルトのバスク研究開始(1856年)からスペイン内戦勃発(1936年)まではバスク文芸のルネッサンスの時代とされ[129]、19世紀末には「バスク民族主義の父」サビノ・アラナが様々なバスク語雑誌を刊行してバスク語の発展に貢献した[130]チョミン・アギーレスペイン語版は漁師や農民の生活に興味を抱き、1906年にはビスカヤ方言で『潮』を、1912年にはギプスコア方言で『羊歯』を著した[127]。詩の分野ではシャビエル・リサルディスペイン語版オリシェが活躍した[127]スペイン内戦後のフランコ体制下では言語的に迫害されたが、1950年頃には文芸復興が始まった[130]。1957年にチリャルデギが書いた『レトゥリアの秘密の日記』は「バスク語文学における小説の真の始まり」と言われ、ラモン・シャイサルビトリア英語版の作品は普遍性のある文学として評価された[127]。20世紀末から21世紀初頭にはベルナルド・アチャーガアンヘル・レルチュンディスペイン語版、マリアシュン・ランダ、ウナイ・エロリアガスペイン語版キルメン・ウリベなどのバスク語作家がスペイン国民文学賞の各部門で受賞し、スペイン文学界で高い評価を受けている[127]。カスティーリャ語文学やフランス語文学と比べるとバスク語文学の歴史は乏しいが、現代作家は様々な文芸分野で活動してバスク文化に大きな影響を与えている[127]

音楽・映画・美術

バスク地方には生活に深く根付いたベルチョラリツァと呼ばれる伝統的な即興詩歌があり、競技大会や友人の集まりなど様々な場所で披露される[131]。また、チストゥ英語版(3本穴の縦笛)、アルボカ英語版(牛の角笛)、チャラパルタ(木板の打楽器)、トリキティシャ(ボタン式アコーディオン)などの伝統的な楽器があり[132]、結婚式や村祭りなどの祭事で演奏されてきた[133]。1960年代にはミケル・ラボアなどがバスク語による新しいバスク音楽の創造を試み、1980年代半ばにはフェルミン・ムグルサなどが政治的主張も行うラディカル・ロックでスペイン国外にも進出し、1990年代以降には政治性を排したケパ・フンケラ(トリキティシャ)やオレカTX(チャラパルタ)などの伝統楽器奏者が国内外で高い評価を受けている[132]

バスク地方では無声映画の時代から、バスク語やカスティーリャ語で映画が製作されている[134]。カスティーリャ語の映画では『タシオ』(1984年)、『バスク・ボール』(2003年)、『オババ』(2005年)など、バスク語の映画では『道を教えて、イシャベル』(2006年)、『80日間で』(2010年)などがある[134]。バスク地方出身の映画監督にはフリオ・メデムアレックス・デ・ラ・イグレシアなどがおり、メデムはバスク自治州の独立問題・テロ問題を扱った『バスク・ボール』で論争を巻き起こした[135]

バスク地方出身の芸術家にはホルヘ・オテイサエドゥアルド・チリーダ(いずれも彫刻家)などがいる。いずれも抽象的・幾何学的・重厚な作風が特徴であり[136]、両者はスペイン内戦後のスペイン彫刻の出発点をなすとされる[137]。両者は1980年代後半に相次いでアストゥリアス皇太子賞を受賞しており、オテイサはサンパウロ・ビエンナーレ彫刻部門グランプリ、チリーダは高松宮殿下記念世界文化賞彫刻部門などを受賞して世界的にも評価されている[136]。1997年にはビルバオにビルバオ・グッゲンハイム美術館が開館し、地域経済への投資の増加など大きな成功をおさめている[138]

料理

伝統的なタラ料理

スペインやフランスの他地域とは異なる食文化はバスク料理として知られている。エル・ブジなどで知られるシェフのフェラン・アドリアは、「食事の平均的な質やレストランの質という観点では、サン・セバスティアンが世界でもっとも優れた町かもしれない」と述べている[139]タラメルルーサ、ウナギの稚魚などの魚介類が海バスクを代表する食材であり、定番料理にはマルミタコ(カツオとジャガイモの煮込み)、タラのピルピルソース風、イカの墨煮、ウナギの稚魚のビルバオ風などがある[140]。有名レストランで提供される新バスク料理や、バルで提供されるピンチョスなども含め、バスク料理自体が観光資源となっている。アラバ県のエブロ川流域はリオハ英語版として知られる赤ワインの生産地域であり、ビスケー湾沿岸ではチャコリと呼ばれる白ワインが生産される[141]シードラと呼ばれるリンゴ酒の生産も盛んであり、酒蔵はギプスコア県・アスティガラガスペイン語版周辺に集中している[141]

スポーツ

バスク地方ではサッカーラグビーユニオン自転車競技サーフィンなどのスポーツが盛んであり、ペロタ・バスカや農作業から生まれた伝統的スポーツも人気がある。

スペイン・バスク

スペイン・バスクでは特にサッカー、バスケットボール、自転車競技などが盛んである。サッカーではアスレティック・ビルバオ(リーグ優勝8回・カップ優勝24回)やレアル・ソシエダ(リーグ優勝2回・カップ優勝2回)などのクラブがリーガ・エスパニョーラに所属している。アスレティック・ビルバオはバスク人のみで選手を構成していることが特徴であり[142][注 10]レアル・マドリードFCバルセロナとともに1部リーグから降格したことがない3クラブのひとつである[143][144]。レアル・ソシエダもかつてはバスク人のみで選手を構成していたが、1989年にはバスク人以外の初の選手としてイングランド人のジョン・オルドリッジを獲得した[142]。1913年にビルバオに建設された初代エスタディオ・サン・マメスはスペイン初の大規模サッカー専用スタジアムであり[145]、1920年にスペイン代表が銀メダルを獲得したアントワープ五輪では、全メンバーのうち計15人がバスク人だった[144]。1928年の全国リーグ創設時には10クラブ中4クラブがバスク3県に本拠地を置くクラブだった[143]。フランコが死去してスペインが民主化移行期にあった1980年代初頭には、アスレティック・ビルバオとレアル・ソシエダの2クラブが4シーズンの間リーグタイトルを独占した[144]。2000-01シーズンにはアスレティック・ビルバオ、レアル・ソシエダ、デポルティーボ・アラベスCAオサスナが1部リーグに在籍したが、スペイン・バスクの4領域すべてのクラブが揃うのは史上初のことだった[146]。スペイン・バスク出身の著名選手には、スペイン代表最多出場記録を保持していたアンドニ・スビサレッタ2010 FIFAワールドカップ優勝メンバーとなったシャビ・アロンソなどがいる。

バスク地方出身の著名な自転車競技選手には、ツール・ド・フランスで5度個人総合優勝を果たしたミゲル・インドゥラインなどがおり、アブラアム・オラーノブエルタ・ア・エスパーニャ世界選手権個人ロード・個人TTで優勝した。自転車競技チームとしてはかつてUCIプロチームエウスカルテル・エウスカディが存在し、北京オリンピック個人ロード金メダルのサムエル・サンチェスなどが所属していたが、資金難のために2013年に解散した[147]。エウスカルテルは「バスク人のバスク人によるバスク人のためのチーム」であり、2012年までは所属選手をバスク地方出身かバスク地方でアマチュア時代を過ごした選手に限定していた[147][148]。同じくUCIプロチームのモビスター・チームはパンプローナ近郊のナバーラ州エグエスに本部を置いている。

フランス領バスク

フランス領バスクではサッカーよりラグビーの方が盛んだとされており[144]フランス選手権トップ14には常にアビロン・バイヨンヌビアリッツ・オランピックなどのクラブが所属している。ビアリッツ・オランピックは赤・白・緑のバスクカラーのユニフォームをまとい、サポーターはスタンドからイクリニャ(バスク国旗)を振って応援する。ビアリッツ・オランピックはハイネケン・カップのホームゲームを、国境を越えたサン・セバスティアンのエスタディオ・アノエタで開催している。

フランス領バスクには有力なサッカークラブがないが、フランス領バスク出身でサッカーフランス代表の主力として活躍した選手には、1990年代後半に代表キャプテンを務めたディディエ・デシャンビセンテ・リザラズなどがいる。バスク・サッカー連盟は国際サッカー連盟(FIFA)や欧州サッカー連盟(UEFA)などの統括機関には加盟していないが、サッカーバスク国代表はバスク7領域全体の代表として定期的に各国代表と試合を行っている[149]。サッカーの他には、バスケットボール、アイスホッケー、女子サッカーなどの競技でバスク7領域全体のバスク国代表が結成されている。

伝統的スポーツ

丸太切り競技中の選手

バスク地方の伝統的なスポーツとしてはペロタ・バスカがある。ペロタ・バスカは素手もしくはラケットとボールを用いるコートスポーツ / 球技である。ペロタ・バスカはパリオリンピック (1900年)では正式競技として開催され、その後はパリオリンピック (1924年)メキシコシティオリンピック(1968年)、バルセロナオリンピック(1992年)の3大会で公開競技として開催された[150]。1929年にはバスク・ペロタ国際連盟が設立され、ヨーロッパや南北アメリカを中心にフィリピンやインドなども加えた27カ国の連盟が加盟している。1940年からスペイン全国選手権が開催されており、バスク地方にはプロ選手が存在するほか、ナバーラ州ではサッカー選手よりもペロタ選手のほうが人気があるとされる[151]。ペロタ・バスカの変種にハイ・アライがあり、特にアメリカ合衆国でプレーされている。ハイ・アライは羊皮でくるまれた125-140gのボールを用い、「あらゆるスポーツの中でもっとも硬いボールを用いる」とされることがある[152]。ホセ・ラモン・アレイティオはハイ・アライのボールで時速302km (188mph)を記録したことがあり、これはボール競技の世界最高速度となっていたが、2007年にはゴルフボールのロングドライブ競技(英語版)で、ジェイソン・ズバックが時速328km (204mph)を記録して世界記録を塗り替えた。ハイ・アライにはギャンブルの要素も加わっている[153]

農作業から生まれた伝統的スポーツも人気が高く、克己心や忍耐力を必要とするバスク民族固有の特性が反映されている[154]。イディ・プロバック(巨大な石を制限時間内に引っ張る競技)、セガ・アプストゥア(刈り取った牧草の重量を競う草刈り競技)、エリ・キロラク(巨大な石を肩まで担ぐ石の担ぎ上げ競技)、アイスコラリ(斧だけを用いて丸太を切断する丸太切り競技)、ソカ・ティラ(綱引き競技)、チンガス(両手に鉄の塊を持って歩く競技)などがある[155][156]。これらの競技にもギャンブルの要素が加わり、祭礼には欠かせないイベントとなっている[155]。伝統的スポーツは職業の作業形態を競技化したものがほとんどであり、そこには原初的なスポーツの成立過程がみられる[157]。サッカーを除けばバスク人は近代スポーツへの関心が薄いとされ、他民族に比べて固有の伝統的スポーツの人気が高い[157]。桁はずれな体力と気力を必要とする競技ばかりであるが、格闘技の要素を持つ競技はみられない[158]

脚注

注釈

  1. ^ a b c バスク統計院のデータであり、他の統計機関によるデータとは異なる場合がある。
  2. ^ a b ここでは日本における慣用表記を考慮した名称を記載している。バス=ナヴァールは低ナバーラや低ナヴァールと表記されることも多く、ビトリア=ガステイスはビトリア単独で表記されることも多い。
  3. ^ a b バスク統計院によるバスク自治州の人口は2010年時点、ナバーラ統計院によるナバーラ州の人口は2011年時点、フランス国勢調査によるフランス領バスクの人口は2005年時点であり、出典は萩尾ほか(2012)、p.25。カスティーリャ/フランス語名・バスク語名の出典は碇(2005)、p.252。
  4. ^ a b スペイン・バスクの自治体は2013年のスペイン国立統計局(INE)の調査による。
  5. ^ エブロ川以北のイベリア半島の呼称であり、アウグストゥス以後はヒスパニア・タッラコネンシス属州と呼ばれた。
  6. ^ 総責任者の座をマゼランから継いだエルカーノを含め、世界一周を達成して生還した18人中4人がバスク人だった。萩尾ほか(2012)、p.76
  7. ^ 歴史的なバスク地方の7領域。フランス領バスク(北バスク)の3領域と、スペイン領バスク(南バスク)のアラバ県、ビスカヤ県、ギプスコア県、ナバーラ県の4県。サスピアク・バット(7つは1つ)をスローガンとした。
  8. ^ バスク語で初等教育・中等教育を行う学校。1960年頃に非合法的に運営が開始され、民主化後の1993年には約40%のイカストラが公立学校に編入、その他は私立学校として存続した。
  9. ^ デウストはその後ビルバオと合併し、現在ではビルバオを構成する8区のうちのひとつである。
  10. ^ アスレティック・ビルバオに所属可能な「バスク人」の定義は曖昧であり、歴史的なバスク地方の領域には含まれないラ・リオハ州の選手の在籍も認めているし、両親ともに非バスク人だがバスク地方生まれの選手なども在籍している。

出典

  1. ^ a b c 萩尾ほか(2012)、pp.24-28 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "hagio2428"が異なる内容で複数回定義されています
  2. ^ 萩尾ほか(2012)、pp.274-275
  3. ^ a b c 渡部(2004)、pp.22-23
  4. ^ a b c 萩尾ほか(2012)、p.25
  5. ^ a b Instituto Geográfico Nacional”. スペイン国立統計局. 2009年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年9月14日閲覧。
  6. ^ Le Pays Basque. Pau: SNERD. (1979) , p. 25.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l 萩尾ほか(2012)、pp.156-160
  8. ^ アリエール(1992)、pp.11-14
  9. ^ a b c d e f g h i j k アリエール(1992)、pp.14-15
  10. ^ Beaches”. サン=ジャン=ド=リュズ. 2014年11月11日閲覧。
  11. ^ 大泉陽一(2007)、p.2
  12. ^ a b c d 大泉陽一(2007)、p.3
  13. ^ a b c d e f g h アリエール(1992)、pp.21-24
  14. ^ 大泉陽一(2007)、pp.2-7
  15. ^ Cueva de Santimamiñe”. Rutas Con Historia. 2014年11月11日閲覧。
  16. ^ 大泉陽一(2007)、p.6
  17. ^ バード(1995)、pp.11-16
  18. ^ バード(1995)、pp.16-17
  19. ^ バード(1995)、pp.19-20
  20. ^ a b バード(1995)、pp.20-23
  21. ^ a b c アリエール(1992)、pp.41-43
  22. ^ a b c バード(1995)、pp.25-28
  23. ^ a b c d 大泉陽一(2007)、p.9
  24. ^ 大泉陽一(2007)、p.10
  25. ^ バード(1995)、pp.28-31
  26. ^ a b バード(1995)、pp.31-34
  27. ^ バード(1995)、pp.34-36
  28. ^ 渡部(1984)、p.31
  29. ^ 大泉光一(1993)、p.23
  30. ^ 渡部(1984)、p.32
  31. ^ 大泉陽一(2007)、p.16
  32. ^ 渡部(1984)、p.33
  33. ^ a b c d e f g アリエール(1992)、pp.50-52
  34. ^ a b バード(1995)、pp.42-45
  35. ^ バード(1995)、pp.45-46
  36. ^ アリエール(1992)、pp.45-46
  37. ^ 大泉陽一(2007)、p.11
  38. ^ a b c d アリエール(1992)、pp.46-50
  39. ^ バード(1995)、pp.92-94
  40. ^ a b バード(1995)、pp.64-68
  41. ^ a b 渡部(1984)、p.36
  42. ^ 大泉光一(1993)、p.25
  43. ^ バード(1995)、pp.97-99
  44. ^ a b c d e f g 萩尾ほか(2012)、pp.71-75
  45. ^ バード(1995)、pp.46-48
  46. ^ a b c d 関ほか(2008)、pp.340-343
  47. ^ アギーレ(1989)、p.7
  48. ^ a b c d e f g h i 萩尾ほか(2012)、pp.76-80
  49. ^ 下宮(1979)、p.34
  50. ^ 下宮(1979)、p.36
  51. ^ a b 渡部(1984)、p.37
  52. ^ a b c 渡部(1984)、p.38
  53. ^ a b c d アリエール(1992)、p.65
  54. ^ a b c アリエール(1992)、p.67
  55. ^ 大泉光一(1993)、p.28
  56. ^ a b c 立石ほか(2002)、p.151
  57. ^ 大泉陽一(2007)、p.20
  58. ^ アリエール(1992)、p.62
  59. ^ 立石ほか(2002)、p.153
  60. ^ 大泉光一(1993)、p.32
  61. ^ 立石ほか(2002)、p.154
  62. ^ 大泉陽一(2007)、p.23
  63. ^ 大泉光一(1993)、p.37
  64. ^ a b 立石ほか(2002)、pp.155-156
  65. ^ 立石ほか(2002)、p.156
  66. ^ 立石ほか(2002)、p.157
  67. ^ ヴィラール(1993)、p.26
  68. ^ 立石ほか(2002)、pp.158-159
  69. ^ 立石ほか(2002)、pp.161-163
  70. ^ 渡部(1984)、p.57
  71. ^ 大泉光一(1993)、p.44
  72. ^ 立石ほか(2002)、p.167
  73. ^ 大泉陽一(2007)、p.28
  74. ^ 大泉光一(1993)、p.45
  75. ^ a b 大泉陽一(2007)、p.29
  76. ^ 立石ほか(2002)、p.169
  77. ^ アリエール(1992)、p.63
  78. ^ a b アリエール(1992)、p.64
  79. ^ 狩野(2003)、pp.54-55
  80. ^ 狩野(2003)、p.26
  81. ^ a b 大泉光一(1993)、p.51
  82. ^ a b 立石ほか(2002)、p.170
  83. ^ 大泉光一(1993)、p.52
  84. ^ a b 立石ほか(2002)、p.171
  85. ^ ビーヴァー(2011)、p.243
  86. ^ 立石ほか(2002)、p.172
  87. ^ 立石ほか(2002)、pp.174-176
  88. ^ 立石博高 編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年、p.326
  89. ^ 立石博高 編『スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000年、p.332
  90. ^ a b 萩尾ほか(2012)、p.5
  91. ^ a b 渡部(2004)、pp.11-12
  92. ^ a b 萩尾ほか(2012)、p.7
  93. ^ 萩尾ほか(2012)、p.6
  94. ^ 関ほか(2008)、pp.385-387
  95. ^ a b 関ほか(2008)、pp.387-391
  96. ^ 「バスク祖国と自由」(ETA)”. 公安調査庁. 2014年10月10日閲覧。
  97. ^ 関ほか(2008)、pp.393-396
  98. ^ a b 渡部(2004)、p.12
  99. ^ 関ほか(2008)、pp.343-345
  100. ^ a b c d e 山下渉登『捕鯨Ⅰ』法政大学出版局、2004年、pp.74-76
  101. ^ 山下渉登『捕鯨Ⅰ』法政大学出版局、2004年、pp.76-80
  102. ^ a b 山下渉登『捕鯨Ⅰ』法政大学出版局、2004年、pp.81-83
  103. ^ 渡部(2004)、pp.85-87
  104. ^ 関ほか(2008)、pp.345-348
  105. ^ 川成ほか(2013)、p.166
  106. ^ a b 碇(2008)、p.17
  107. ^ a b c 渡部(2004)、pp.104-108
  108. ^ El largo camino del euskera”. El Libro Blanco del Euskera. エウスカルツァインディア (1977年). 2013年7月3日閲覧。
  109. ^ Torrealdi, J.M. El Libro Negro del Euskera (1998) Ttarttalo ISBN 84-8091-395-9
  110. ^ 萩尾ほか(2012)、pp.194-198
  111. ^ a b c 萩尾ほか(2012)、pp.189-193
  112. ^ Ipar Euskal Herriko ikastola guztiak arriskuan direla salatzeko manifestazioa deitu du Seaskak larunbatean Baionan”. ナバーラ州議会. 2014年11月5日閲覧。
  113. ^ Ipar Euskal Herriko ikastola guztiak arriskuan direla salatzeko manifestazioa deitu du Seaskak larunbatean Baionan”. Kazeta.info (2013年6月18日). 2013年7月14日閲覧。
  114. ^ Basque language”. English Pen (2004年5月13日). 2012年3月6日閲覧。
  115. ^ Universidad del Sancti Spiritus”. Instituto Geographico Vasco. 2014年11月5日閲覧。
  116. ^ Edificio antigua Universidad (Hoy Instituto de Enseñanza Media)”. Database of the "Patrimonio Cultural". スペイン教育文化スポーツ省. 2014年11月5日閲覧。
  117. ^ a b History and Mission”. デウスト大学. 2014年11月5日閲覧。
  118. ^ 渡部(1984)、pp.164-166
  119. ^ What is MU?”. モンドラゴン大学. 2014年11月5日閲覧。
  120. ^ 高城剛『人口18万人の街がなぜ美食世界一になれたのか』祥伝社新書、2012年、pp.154
  121. ^ Incoming”. ナバーラ大学. 2014年11月5日閲覧。
  122. ^ a b c ナバラのすべて”. ナバラ州政府政府広報官オフィス コミュニケーション総局企画出版局. ナバーラ州政府 (2005年). 2014年11月5日閲覧。
  123. ^ Origins and former statutes”. ナバーラ州立大学. 2014年11月5日閲覧。
  124. ^ a b c “TRÁFICO DE PASAJEROS, OPERACIONES Y CARGA EN LOS AEROPUERTOS ESPAÑOLES 2012”. 空港・航空管制公団(AENA). http://www.aena-aeropuertos.es/csee/ccurl/52/737/Estadisticas_Acumulado%20DEF_2012.pdf 2014年11月5日閲覧。 
  125. ^ “Foronda, el caso del 'mejor' aeropuerto vasco”. エル・ムンド. (2014年8月24日). http://www.elmundo.es/pais-vasco/2014/08/24/53f9fbe3ca4741cc6c8b4578.html 2014年11月5日閲覧。 
  126. ^ “Résultats d'activité des aéroports français 2013”. フランス空港連合(union des aéroports français). http://www.aeroport.fr/fichiers/Rapport_activite_2013.pdf 2014年11月5日閲覧。 
  127. ^ a b c d e f g h 萩尾ほか(2012)、pp.297-302
  128. ^ ベルナルド・アチャーガ『オババコアック』西村英一郎訳、中央公論新社、2004年、p.411
  129. ^ 下宮(1979)、p.46
  130. ^ a b ベルナルド・アチャーガ『オババコアック』西村英一郎訳、中央公論新社、2004年、p.412
  131. ^ 萩尾ほか (2012)、pp.257-261
  132. ^ a b 萩尾ほか(2012)、pp.308-312
  133. ^ 萩尾ほか(2012)、pp.339-341
  134. ^ a b 萩尾ほか(2012)、pp.336-338
  135. ^ Medem's Basque documentary sparks bitter controversy”. ガーディアン (2003年9月22日). 2014年11月5日閲覧。
  136. ^ a b 萩尾ほか(2012)、pp.313317
  137. ^ “3. 彫刻、幾何学的傾向”. 三重県立美術館. http://www.nytimes.com/2005/07/08/arts/design/08glue.html 2014年10月26日閲覧。 
  138. ^ 京都外国語大学(2003)、pp.144-161
  139. ^ Carlin, John (2005年3月13日). “Is San Sebastián the best place to eat in Europe?”. オブザーバー. http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2005/mar/13/foodanddrink.shopping2 2010年9月9日閲覧。 
  140. ^ 大泉陽一(2007)、pp.100-102
  141. ^ a b 萩尾ほか(2012)、pp.281-283
  142. ^ a b フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、pp.96-97
  143. ^ a b フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、pp.78-79
  144. ^ a b c d 萩尾ほか(2012)、pp.318-323 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "hagio318323"が異なる内容で複数回定義されています
  145. ^ フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、p.85
  146. ^ フィル・ボール『バルサとレアル』近藤隆文訳、日本放送出版協会、2002年、p.102
  147. ^ a b “スポンサー探しが頓挫 スペインのエウスカルテルが19年間の歴史に幕”. cyclo wired. (2013年8月20日). http://www.cyclowired.jp/?q=node/115100 2014年10月20日閲覧。 
  148. ^ “オレンジ集団終焉の時、さらばエウスカルテル・エウスカディ”. Cycling Time. (2013年8月23日). http://www.cyclingtime.com/modules/ctnews/view.php?p=20066 2014年10月20日閲覧。 
  149. ^ “Catalonia and Basque Country reignite call for independent national football identities”. デイリー・テレグラフ. (2013年12月30日). http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/spain/10541466/Catalonia-and-Basque-Country-reignite-call-for-independent-national-football-identities.html 2014年11月5日閲覧。 
  150. ^ “LA PELOTA VASCA EN LOS JUEGOS OLIMPICOS”. ペロタ・バスカ国際連盟(FIPV). http://www.fipv.net/media/docs/2012/01/26/juegos-olimpicos.pdf?PHPSESSID=b8450b68299aeafcd72ec5765c93ef08 2014年11月5日閲覧。 
  151. ^ 萩尾ほか(2012)、pp.203-206
  152. ^ “JAI-ALAI TRIVIA”. Jai alai.info. http://www.jai-alai.info/jai-alai-trivia.html 2014年11月5日閲覧。 
  153. ^ 大泉陽一(2007)、pp.89-90
  154. ^ 大泉陽一(2007)、p.93
  155. ^ a b 大泉陽一(2007)、p.91
  156. ^ “世界のスポーツ 民族スポーツ バスク地方”. 大修館書店スポーツ資料館. http://www.taishukan.co.jp/sports/world/ethnic/Basque.htm 2014年11月5日閲覧。 
  157. ^ a b 稲垣正浩『テニスとドレス』叢文社、2002年、pp.93-95
  158. ^ 稲垣正浩『テニスとドレス』叢文社、2002年、p.102

参考文献

  • ジャック・アリエール『バスク人』萩尾生訳 白水社 1992年
  • 碇順治『現代スペインの歴史』彩流社、2005年
  • 大泉光一『バスク民族の抵抗』新潮社、1993年
  • 大泉陽一『未知の国スペイン –バスク・カタルーニャ・ガリシアの歴史と文化-』原書房、2007年
  • 狩野美智子『バスクとスペイン内戦』彩流社、2003年
  • 下宮忠雄『バスク語入門』大修館書店、1979年
  • 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 2 近現代・地域からの視座』山川出版社、2008年
  • 立石博高・中塚次郎『スペインにおける国家と地域 ナショナリズムの相克』国際書院 2002年
  • レイチェル・バード『ナバラ王国の歴史』狩野美智子訳、彩流社、1995年
  • 萩尾生・吉田浩美『現代バスクを知るための50章』(エリア・スタディーズ)明石書店、2012年
  • アントニー・ビーヴァー『スペイン内戦』根岸隆夫訳、みすず書房、2011年
  • 渡部哲郎『バスク –もう一つのスペイン-』彩流社、1984年
  • 渡部哲郎『バスクとバスク人』平凡社、2004年

関連項目

外部リンク