後宮虎郎

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うしろく とらお

後宮 虎郎
生誕 1914年4月22日
京都府
死没 (1992-06-12) 1992年6月12日(78歳没)
東京都港区
死因 肺炎
墓地 多磨霊園
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法学部
子供 3人
父:後宮淳
親戚 義父:吉見信一
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後宮 虎郎(うしろく とらお、1914年4月22日 - 1992年6月12日)は、日本外交官。駐オランダ大使、駐タイ大使、駐大使や国立京都国際会館の館長を務めた。

生涯[編集]

1914年京都府生まれ。父は後宮淳、義父は吉見信一[1]第三高等学校 (旧制)文科甲類[2]を経て、東京大学進学。

1936年外交科試験に合格し、1937年東京大学法学部政治学科を卒業して外務省に入省した[3][4]

1938年徴兵され、京都市伏見区にある陸軍輜重隊に所属し[5]二等兵から始まり終戦前には中尉まで昇進している[1]

外務省に戻り、1949年管理局在外邦人課長、1951年アジア局第二課長(後の中国課長)、1952年在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、1954年大臣官房総務課長、1956年大臣官房参事官、1957年経済局外務参事官、1960年在タイ日本国大使館公使、1962年アジア局長などを歴任[4]

1952年にはアジア局第二課長として日華平和条約の交渉に参加した[6]。また、第1次および第2次の日韓会談にも随行している[1]

1962年にアジア局長として日韓国交正常化交渉を担当し、特に争点となった日韓併合条約を有効と認めるかという問題では、韓国側の主張する「null and void(無効)」という文言の前に「already(既に)」という一語を入れる事を提案し、無効化時期の解釈に幅を持たせることで合意した[7]

1966年に駐オランダ大使1968年に駐タイ大使となる[8]。1972年から駐大韓民国大使を務め、在任中に発生した金大中事件文世光事件に対処した[9]1975年2月に退官した後、高山義三の死去を受けて後任の国立京都国際会館長に就任[10]1992年6月12日肺炎のため東京都港区の病院で死去し、東京聖三一教会で葬儀が行われた[9]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『読売新聞』1962年9月26日付朝刊、P.2
  2. ^ 「旧制高等学校物語 第3」財界評論社 1965年
  3. ^ 『朝日新聞』1966年4月5日付夕刊、P.1
  4. ^ a b 『日本官界名鑑』1970年版 145頁 日本官界情報社
  5. ^ 『朝日新聞』1984年1月21日付夕刊、P.1
  6. ^ 『朝日新聞』1987年12月1日付朝刊、P.6
  7. ^ 『朝日新聞』2000年8月25日付朝刊、P.31
  8. ^ 『朝日新聞』1968年3月12日付夕刊、P.2
  9. ^ a b 『朝日新聞』1992年6月13日付朝刊、P.31
  10. ^ 『朝日新聞』1975年6月9日付朝刊、P.6