土田正顕

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土田 正顕(つちだ まさあき、1936年8月18日 - 2004年1月30日)は日本官僚。元国税庁長官(第25代)。東京証券取引所社長(初代)。秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市矢島町)出身。

来歴・人物[編集]

学習院初等科学習院中等科都立小石川高校を経て、1959年東京大学法学部卒業、大蔵省に入省。同期には斎藤次郎日本郵政2代目社長、元大蔵事務次官)、公文宏(国土事務次官、内閣内政審議室長)、大須敏生(理財局長)、瀧島義光(関税局長、生命保険協会副会長)、日吉章防衛事務次官)、米倉明(東大法学部名誉教授)、永谷敬三ブリティッシュコロンビア大学名誉教授)ら。

1981年銀行局調査課長時代に米里恕銀行局長(1951年入省)の下で、銀行局総務課企画官である坂本導聡(1964年入省)、鏡味徳房(1965年入省)、吉田正輝銀行局担当審議官(1954年入省)らと銀行業界の強い抵抗を押し切って50年ぶりに新銀行法改正を成立させ、国債の窓口販売、新規店舗開店の緩和により銀行界の自由競争を一歩推し進めた。この功績で同銀行局末席課長から銀行課長、大臣官房秘書課長へ抜擢された[1]。のち内閣総理大臣秘書官[2]などを経て、1989年から1992年まで銀行局長就任。

橋本龍太郎大蔵大臣の下、銀行局長として1990年に金融機関の不動産関連融資を抑える「総量規制」の通達を出し、1992年に解除した。
これが結果的に日本経済の急激な景気後退を招くこととなり、後に言われる「失われた10年」の端緒を開いたとされている。さらには、従業員や下請け企業に多大な犠牲を負わせるリストラや、急成長を続ける新興国重視のシフトなどによる大企業を中心とした業績回復にもかかわらず、国民の所得はほとんど回復しなかったために景気低迷が長期に渡った「失われた20年」へと突入していくこととなった引き金だったとも指摘されている[3]

また土田の銀行局長後任には、同じ小石川高出身、かつ金融・証券業界に業態別子会社相互参入方式という"中途半端"ながら垣根を取り払う金融制度改革を仕上げた松野允彦(証券局長、1960年入省)が予定されていたが、証券業界大手四社なかんずくガリバー野村證券との関係が悪化していた市場主義的な松野を[4]、時の保田博次官が退官時、自らと共に退官させた[5]。代わって証券局長に小川是、銀行局長に寺村信行が充てられた。

国税庁長官で退官後、国民金融公庫(現 株式会社日本政策金融公庫)副総裁を経て2000年5月に東京証券取引所理事長に就任。2001年11月には東証の株式会社化を実現し初代社長となった。2004年1月30日死去。享年67。菩提寺は由利本荘市矢島町の龍源寺

「ミスター警視庁」と呼ばれた土田國保(元警視総監)及び歴史学者土田直鎮は実兄である。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 神一行『大蔵官僚 超エリート集団の人脈と野望』講談社、1982年8月31日、74-76頁。
  2. ^ 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、469頁。
  3. ^ 例えば小室直樹は、自身の多くの著作の中で一局長(土田の死後は名指し)が国民の財産である土地の地価を操ろうなどというのは日本国憲法への挑戦であり、結果市場の反撃をくらいバブルが崩壊した、と土田を激烈に批判している。
  4. ^ 真鍋繁樹『大蔵省 懲りない権力』二期出版、1992年6月20日、231-235頁。
  5. ^ 保田次官 - 松野証券局長ラインで、証券取引審議会の谷村裕会長、竹内道雄委員らに長岡實を残して再任を求めないことを決断。それとのバランス上、保田自らの退任と共に松野にも退任を求めた。証券業界に身を置く大蔵大物OBであり、かつ"NTTライン"と呼ばれた長岡 - 竹内 - 谷村 らの現・前・元東証理事長ラインは、金融制度改革にあたり、銀行が証券子会社を通じて流通資本市場に参入することには揃って慎重姿勢だった(栗林良光『大蔵省権力人脈』講談社文庫、1994年3月15日、31頁。)。

外部リンク[編集]

先代:
平澤貞昭
大蔵省銀行局
1989年 - 1992年
次代:
寺村信行
先代:
尾崎護
国税庁長官
第25代:1992年 - 1993年
次代:
浜本英輔