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ラウル・アマリージャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラウル・アマリージャ
名前
本名 ラウル・ビセンテ・アマリージャ・ベラ
Raúl Vicente Amarilla Vera
愛称 タクアラ (Tacuara)[1]
フンコ (Junco)[1]
ラテン文字 Raúl AMARILLA
基本情報
国籍 パラグアイの旗 パラグアイ
スペインの旗 スペイン
生年月日 (1960-07-19) 1960年7月19日(64歳)
出身地 ルケ
身長 189cm
体重 77kg
選手情報
ポジション FW
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1980 パラグアイの旗 スポルティボ・ルケーニョ
1980-1981 スペインの旗 ラシン・サンタンデール
1980-1985 スペインの旗 レアル・サラゴサ 126 (47)
1985-1988 スペインの旗 FCバルセロナ 35 (9)
1988-1989 パラグアイの旗 オリンピア・アスンシオン
1989-1990 メキシコの旗 クラブ・アメリカ
1990-1993 パラグアイの旗 オリンピア・アスンシオン
1993-1994 日本の旗 横浜フリューゲルス 26 (15)
通算 187 (71)
代表歴
1982-1983 スペインの旗 スペイン U-21 2 (0)
監督歴
2006-2007 パラグアイの旗 パラグアイ (暫定)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ラウル・アマリージャ(Raúl Vicente Amarilla Vera、1960年7月19日 - )は、パラグアイ・ルケ出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフォワードであり、189cmの長身を生かしたヘディングを最大の武器としていた[2]。息子のラウル・アマリージャ・ロメロ英語版もサッカー選手である[3]。ニックネームはスペイン語で竹。妻は元パラグアイ代表フリオ・セサル・ロメロの妹[4]

経歴

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選手時代

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パラグアイ、スペインの二重国籍を持ち、本来の母国であるパラグアイ代表入りを目指したが レアル・サラゴサ在籍時にスペインU-21代表として公式戦に出場していたため、当時の国際サッカー連盟の規定によりパラグアイ代表としてプレーすることができなかった[5]。1984-85シーズン途中から1988年まではスペインのFCバルセロナでプレーし、リーガ優勝やスペイン国王杯優勝を経験した。

1989年には通算10ゴールをあげてオリンピア・アスンシオンリベルタドーレス杯決勝進出に貢献、決勝では敗れた[4]。一時メキシコのクラブ・アメリカへ移籍していたため、翌年のリベルタドーレス杯では2次ラウンドからオリンピアに複帰、5試合6得点、出場した試合全てでゴールを決め、リベルタドーレス杯の優勝に貢献し[4]南米年間最優秀選手賞を受賞[5]。同年12月のトヨタカップで訪日し、イタリアのACミランと対戦した(試合は0-3でオリンピアの敗退)[6]

1993年から日本の横浜フリューゲルスに入団し、11月13日の清水エスパルス戦でJリーグ初ゴール[7]、1994年1月1日の第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の鹿島アントラーズ戦では延長戦に入り2ゴールを決め、チーム初タイトルに貢献した[5]1994年シーズンは開幕からゴールを量産して得点王を狙える位置にいたが、恥骨結合炎を発症し、後期開幕を前に引退を決断した。Jリーグでは26試合15ゴールの成績を残した[7]

引退後

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引退後はサッカー指導者となり、スポルティボ・サン・ロレンソ英語版タクアリーFC英語版スポルティボ・ルケーニョなどのクラブを指導[1]。2006年にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップの際にはウルグアイ人監督のアニバル・ルイス英語版の下でアシスタントコーチを務め[1]、ルイスの退任後はヘラルド・マルティーノに引き継ぐまでの間、暫定監督を務めた[8]

その後はサッカーとは距離を置き、アルト・パラナ県のスポーツ長官を務めた[1]。2017年9月に古巣のオリンピアに復帰すると[1]、2020年時点では同クラブのスポーツマネージャーを務めている[9]

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1993 横浜F - J 7 3 4 0 5 3 16 6
1994 19 12 0 0 - 19 12
通算 日本 J 26 15 4 0 5 3 35 18
総通算 26 15 4 0 5 3 35 18

その他の公式戦

タイトル

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クラブ

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バルセロナ

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オリンピア

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横浜フリューゲルス

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個人

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脚注

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  1. ^ a b c d e f ¿Qué fue de Raúl Vicente Amarilla? El 'Tacuara' no se muerde la lengua”. sport.es (2018年5月10日). 2021年1月15日閲覧。
  2. ^ 週刊サッカーマガジン 編『サッカーマルチ大事典 改訂版』ベースボール・マガジン社、2006年、56頁。ISBN 4-583-03880-1 
  3. ^ Raúl Vicente Amarilla (h), del fútbol al básquetbol”. abc.com (2013年9月27日). 2016年10月15日閲覧。
  4. ^ a b c TOYOTA CUP ヨーロッパサウスアメリカカップ 1990年 大会公式パンフレット、P39
  5. ^ a b c ラウル・ビセンテ・アマリージャ・ヴェラ”. 超WORLDサッカー!. 2016年10月15日閲覧。
  6. ^ More Than A Game: Cerro Porteno vs Olimpia”. FourFourTwo (2006年12月1日). 2016年10月15日閲覧。
  7. ^ a b “アマリージャ”. j-league. https://data.j-league.or.jp/SFIX04/?player_id=1590 17 April 2020閲覧。 
  8. ^ APF nombra a Raúl Vicente Amarilla como técnico de la selección”. nacion.com (2006年8月23日). 2021年1月15日閲覧。
  9. ^ Raúl Vicente Amarilla extiende su contrato con Olimpia”. tigosports (2020年11月6日). 2021年1月15日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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