ミウトン・ケイロス・ダ・パイション
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この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はケイロス、第二姓(父方の姓)はダ・パイションです。 |
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名前 | ||||||
本名 |
ミウトン・ケイロス・ダ・パイション Milton Queiroz da Paixão | |||||
ラテン文字 | TITA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1958年4月1日(61歳) | |||||
出身地 | リオデジャネイロ | |||||
身長 | 174cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
代表歴 | ||||||
1979-1990 |
![]() | 32 | (6) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
チッタ (Tita) こと、ミウトン・ケイロス・ダ・パイション(Milton Queiroz da Paixão, 1958年4月1日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。
経歴[編集]
現役時代は攻撃的ミッドフィールダーとして、ブラジル、ドイツ、イタリア、メキシコ、グアテマラのクラブでプレー。フラメンゴとグレミオで、それぞれ1981年と1983年のコパ・リベルタドーレスに優勝、同年のトヨタカップ制覇も経験している。1984年にはコパ・リベタルタドーレス得点王も獲得した。ブラジル代表にも選ばれ1990年のイタリアワールドカップも経験。代表通算32試合6得点を記録した。
引退後はヴァスコ・ダ・ガマでコーチを務めた後、アメリカーノFC、バスコ・ダ・ガマで監督を務めた。2001年はJ1に復帰した浦和レッズの監督に就任した。1stステージは7位と健闘したが2ndステージに入ると早々に辞任した。
2006年には、ジュニオールとともにスカウティング担当として、ジーコ監督率いるワールドカップドイツ大会の日本代表スタッフに加わった。
所属クラブ[編集]
CRフラメンゴ 1977-1982
グレミオFBPA 1983
CRフラメンゴ 1983-1985
SCインテルナシオナル 1985-1986
CRヴァスコ・ダ・ガマ 1987
バイエル・レバークーゼン 1987-1988
ペスカーラ・カルチョ 1988-1989
CRヴァスコ・ダ・ガマ 1989-1990
クラブ・レオン 1990-1994
プエブラFC 1994-1995
クラブ・レオン 1995-1996
コムニカシオネスFC 1997-1998
代表歴[編集]
- ブラジル代表 1979-1990
- 代表通算 - 32試合6得点
- 1989年 - コパ・アメリカ
- 1990年 - イタリアワールドカップ
指導歴[編集]
アメリカーノFC 2000
CRヴァスコ・ダ・ガマ 2000
浦和レッドダイヤモンズ 2001
エル・パソ・ペイトリオッツ 2002
アメリカFC (リオデジャネイロ州) 2002-2003
バングーAC 2003
アメリカーノFC 2003
SERカシアス・ド・スル 2004
クルーベ・ド・レモ 2004-2005
カンピネンセ・クルーベ 2005
オラリアAC 2005
日本代表チームスタッフ 2006
トゥピFC 2006-2007
マカエEFC 2007-2008
CRヴァスコ・ダ・ガマ 2008
アメリカFC (リオグランデ・ド・ノルテ州) 2009
ヴォルタ・レドンダFC 2010
クラブ・レオン 2010-2011
クルブ・ネカクサ 2012
マカエEFC 2016
※ 特筆なき限り、役職は監督
監督成績[編集]
年度 | チーム | 所属 | 順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 |
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2001 | 浦和 | J1・1st | 7位 | 21 | 15 | 7 | 1 | 7 |
J1・2nd | - | 3 | 3 | 1 | 0 |
2001年2ndステージ第3節終了後に辞任。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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