青木勇人 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Yy719 (会話 | 投稿記録) による 2012年1月15日 (日) 04:06個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎記録)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

青木 勇人
広島東洋カープ コーチ #93
2008年6月27日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都江戸川区
生年月日 (1977-05-06) 1977年5月6日(46歳)
身長
体重
173 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1999年 ドラフト6位
初出場 2000年7月12日
最終出場 2010年5月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 広島東洋カープ (2011 - )

青木 勇人(あおき はやと、1977年5月6日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロ野球選手投手)。

2011年度から、広島東洋カープの3軍投手コーチ。

来歴

プロ入り前

1977年に東京都江戸川区で生まれる。幼少期は巨人ファンで、桑田真澄斎藤雅樹原辰徳らに憧れていた。江戸川区立上一色南小学校1年から野球を始め、中学時代も軟式野球部に所属し、遊撃手で活躍した。修徳学園中学校・修徳高等学校に進学して硬式野球部に入部したが、本人と推薦組の選手達との間にある待遇の差に、1ヶ月で退部した。一時は野球を辞めようと思ったが、軟式野球部の監督に誘われて軟式に転向。エース投手として活躍し、3年時は全国高等学校軟式野球選手権大会でベスト8に進出。

一般入試で進学した同志社大学では準硬式野球部に所属。1年時の全日本大学準硬式野球選手権大会で優勝する。準硬式の関西六大学リーグでは通算28勝、全公式戦39勝を挙げた。

1999年のドラフト会議で西武ライオンズから6位指名を受けて入団。

西武時代

ドラフト6位と下位指名ながら、1年目の2000年から17試合に登板して防御率2.60の結果を残した。2001年には登板数を伸ばし、大事な場面での登板も増え、46試合で防御率2.96、プロ初勝利を含む4勝を記録した。2002年も36試合に登板した。3年目までは126イニングで四死球は32とかなり少なく、主力投手として活躍した。

2002年シーズン中に肩を故障。2003年に復帰するも、対大阪近鉄バファローズ戦にて中村紀洋に死球を与えた時、青木が帽子に手をやることもなかったため、そのことに激高したタフィ・ローズに突き飛ばされ、外傷性頸部症候群(むち打ち症)になってしまう。それによる降格以降は思い切りの良さが消え、故障も重なって低迷が続いた。これ以降3年連続防御率10点台と大不振に陥った。

2006年3月23日、福地寿樹との交換トレードで広島東洋カープに移籍した。

広島時代

2006年は広島で8試合の登板に終わったが、被安打4で防御率0.00と安定していた。

2007年梅津智弘の不振と上野弘文の経験不足もあり、8月から中継ぎとして活躍し、防御率3.00・15ホールドを挙げた。四球の少ない投球で防御率は途中まで1点台と、抑えの横山竜士と共に安定していたが、終盤になって打ち込まれるケースが多かった。9月1日、前田智徳の通算2000本安打達成試合において1/3回登板ながら5年ぶりの勝利を挙げた。

2008年は前年から被打率が大きく悪化して11試合の登板に終わったが、2009年は再び出場機会を増やした。2010年は6試合の出場に留まり、10月3日に戦力外通告を受けて現役を引退。2011年から広島の3軍投手コーチを務める[1]

プレースタイル

高校では軟式、大学では準硬式と硬式野球の経験が全く無いにもかかわらず、プロ野球球団にドラフト指名された異色の選手。適応力と抜群の野球センスを発揮し、早い時期から中継ぎとして頭角を現した。投手でありながら俊足でもあり、投手としての守備力が高いことでも知られた。

サイドスローから平均140km/h前後の速球と多彩な変化球を低めに集めるスタイル。スライダーシュートシンカーなどを投げ分ける器用さが持ち味で、コントロールも非常に良い。初球から勝負を意識し、どんどん攻めるスタイルという事もあり、2007年は四死球が1試合平均0.82という少ない数字であった。プロ入り当初はスリー・クォーターのフォームからナックルボールを多投する変則派であったが、2001年シーズン半ば頃よりサイドスローの軟投派に転向した。

2006年、当時の2軍投手コーチだった石井丈裕と「スピードが無い分、打者からボールの出所を見にくくするため」としてフォームを研究。広島移籍後は西武時代と比べると腕の位置が大きく下がった。

小林幹英からは「いつも変わらない投球ができる」という高い評価を受けていた。

エピソード

  • 2000年8月7日オリックス―西武19回戦(神戸)において、9回表2死満塁の場面で代打として登場した投手の松坂大輔が2点タイムリーを放ったが、青木はその直後に松坂の代走として出場している。これは西武ベンチが野手を全員使い切ってしまっていたためであり、松坂に代えられたのも試合途中から9番に入っていた投手のデニーであった。当時の東尾修監督はその場面での代打候補として松坂と青木の2人を考えていたという[2]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2000 西武 17 1 0 0 0 0 2 1 -- .000 141 34.2 32 3 11 1 1 5 1 0 10 10 2.60 1.24
2001 46 0 0 0 0 4 1 0 -- .800 225 54.2 58 2 9 2 2 33 0 0 21 18 2.96 1.23
2002 36 0 0 0 0 4 1 0 -- .800 163 36.2 46 5 7 1 2 25 0 0 22 19 4.66 1.45
2003 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 32 4.0 15 2 4 0 1 2 0 0 11 11 24.75 4.75
2004 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 28 5.0 9 2 4 0 0 7 1 0 8 8 14.40 2.60
2005 6 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 35 6.2 16 1 1 0 1 3 0 0 8 8 10.80 2.55
2006 広島 8 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 30 8.2 4 0 0 0 0 4 0 0 0 0 0.00 0.46
2007 43 0 0 0 0 1 1 0 15 .500 138 36.0 29 4 4 1 0 17 1 0 12 12 3.00 0.92
2008 11 0 0 0 0 0 1 0 1 .000 53 11.0 17 1 2 0 2 6 0 0 4 4 3.27 1.73
2009 29 0 0 0 0 0 0 0 4 ---- 99 23.2 25 3 4 2 1 10 0 0 10 10 3.80 1.23
2010 6 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 49 10.2 11 2 3 1 1 4 0 0 8 7 5.91 1.32
通算:11年 210 1 0 0 0 9 6 1 22 .600 993 231.2 262 25 49 8 11 116 3 0 114 107 4.16 1.34

記録

背番号

  • 53 (2000年 - 2006年途中)
  • 36 (2006年途中 - 2010年)
  • 93 (2011年 - )

脚注

関連項目