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蒼龍 (空母)

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蒼龍(1938年1月)
艦歴
起工 1934年11月20日
進水 1935年12月23日
竣工 1937年12月29日
喪失 1942年6月5日
沈没地点 北緯30度43分 西経178度38分 / 北緯30.71度 西経178.63度 / 30.71; -178.63
北緯30度25分30秒 西経178度22分30秒 / 北緯30.425度 西経178.375度 / 30.425; -178.375 (戦闘詳報沈没地点)
除籍 1942年8月10日
性能諸元
排水量 基準:15,900t
公試:18,500t
満載:19,500t
全長 227.5m
(飛行甲板全長 216.9m)
全幅 21.3m
吃水 7.62m
出力 152,000hp
最大速力 34.5kt
航続距離 18kt/7,680浬
乗員 1,103名[1]
搭載機 常用57機、補用16機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機18機
九七式艦上攻撃機:18機
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基12門
九六式二十五粍高角機銃連装14基28門

蒼龍(そうりゅう)は、日本海軍航空母艦。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。戦闘詳報には、「蒼竜」の漢字表記も併用されている。なお戦後、この名称は海上自衛隊そうりゅう型潜水艦の1番艦「そうりゅう」に引き継がれた。

概要

「蒼龍」は昭和9年度(1934年度)に建造が計画され、1937年(昭和12年)に竣工した中型航空母艦である。当初は航空巡洋艦として建造する案もあったが、「赤城」「加賀」の運用経験を取り入れ、純粋な航空母艦として建造された。竣工後は日本の主力空母として運用され、太平洋戦争においては日本の機動部隊の主力として真珠湾攻撃などに参加し、ミッドウェイ海戦でアメリカ軍機の攻撃を受け撃沈された。

計画

ワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約によって、日本海軍の航空母艦は8万1000トンに制限されるようになり、「鳳翔」「赤城」「加賀」「龍驤」の4隻の排水量を差し引きした残枠は12630トンであった。このうち、1922年(大正11年)竣工の鳳翔は条約で定められた廃艦に出来る艦齢16年に間もなく達する予定であったため、日本海軍は「鳳翔」代艦分8370トンも加えた残枠21000トンを用いた航空母艦2隻の建造を計画した[2]

昭和7年度(1932年度)に設計された基本計画番号G6案では、基準排水量12000トン、20.3cm連装砲3基6門、12.7cm連装高角砲6基12門、艦上機70機を搭載する航空巡洋艦として計画されていた。このG6案が発展した昭和9年度(1934年度)のG8案では、基準排水量10050トン、20.3cm連装砲1基、三連装砲1基5門、12.7cm連装高角砲10基20門、艦上機100機が要求されたが、10050トンの艦体に収めるのは不可能であり、最終的には15.5cm連装砲1基、三連装砲1基5門、12.7cm連装高角砲8基16門、艦上機70機の計画となった[2][3]

昭和9年度海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)によってこのG8案を具体化する形で建造開始される予定であったが、建造開始直前の1934年(昭和9年)に発生した友鶴事件の結果、この設計では艦体に比して過大な装備となることが懸念され、最終的には15.5cm砲を搭載しない形に改設計されて建造開始された。これが後の「蒼龍」である。また、「蒼龍」建造開始後の1935年に第四艦隊事件が発生したため、更に改設計されている。この時「蒼龍」の溶接構造に異常がないかを確認するため、進水後の船体を二箇所で輪切りにして調査を行った[4]

当初、「蒼龍」型航空母艦は軍縮条約の枠内で2隻を建造する予定であったが、「蒼龍」の建造開始直後の1934年(昭和9年)12月に日本はワシントン軍縮条約からの脱退を通告しており、1936年(昭和11年)12月に条約の効力が切れることが確定した。このため、排水量を抑える必要がなくなり、2番艦は「蒼龍」から更に拡大設計されて建造されることになっている。これが後の「飛龍」である。

なお、「蒼龍」は軍縮条約の関係各国に対して、排水量10000トン、水線長209.84m、最大幅20.84mと通知された[5]

特徴

「蒼龍」は建造に至るまで、航空巡洋艦も検討されるなどの紆余曲折があったものの、最終的には「赤城」「加賀」の運用経験に基づいて設計されており、日本初の本格的空母として誕生した[6]。だが第四艦隊事件のため船体を輪切りにしたり、また工事中に搭載予定航空機の機種や機数も幾度か変更されたため、艤装には困難が伴った[7]。本艦が竣工した頃に日本海軍の空母運用法が確立されており、「蒼龍」は第二艦隊に配属され、1934年(昭和9年)に制式化された九四式艦上軽爆撃機(後の艦上爆撃機)をもって敵空母を無力化し、制空権を握る任務に就くこととされていた。巡洋艦部隊である第二艦隊に配属される予定であったことから、「蒼龍」の各種要目は、この任務中における米巡洋艦との遭遇戦を考慮して決定されている。その後の日本空母が34kt前後の速力と、20cm砲に対する防御を求められたのはこのためである。

その他の兵装上の特徴としては25ミリ機銃の配置が挙げられる。「蒼龍」には25ミリ機銃は14基あったが、このうち3基は艦首に搭載された。艦首に兵器を搭載するのは「蒼龍」が初めてであった。

艦橋は右舷前部にあり、右舷中部に下方排出式の煙突を2つ持つ。エレベーターは3基。後部エレベーター脇には揚収用クレーンを備え、「加賀」や「龍驤」に見られた格納庫後端の扉は廃止されている。15万馬力の機関を搭載した「蒼龍」の最大速力は34.9ktを記録し、日本海軍では最も高速の航空母艦であった。また、排水量制限のために搭載機数は「赤城」などの大型空母より少ない。少しでも格納庫スペースを確保するために、ボイラーへの給気や機関室の排気などは船体中央付近の舷側に外付けされた箱型の通風筒で行われており、「蒼龍」、「飛龍」の外見上の特徴となっていた。

航空関連の艤装としては、艦尾の着艦標識、滑走静止装置などがある。これらは、後に日本空母の標準装備となっていくが、建造当初から設置されたのは「蒼龍」が初めてである。なお、従来、艦上機からの個艦識別用として、飛行甲板後端に「サ」の文字が書かれていたとされてきたが、最近では無記入であった説が有力となっている。根拠としては、「そんな文字は無かった」という元乗組員の証言[要出典]と、ミッドウェー作戦時の空撮写真にそれらしいものがまったく写っていないことがある。ほぼ同条件で撮影された「飛龍」はかろうじて「ヒ」の文字が判読できるため、小さすぎて画像が潰れてしまっているわけではない。

「蒼龍」の中型空母としての性能は申し分ないものだったが、他の日本空母と同様にダメージコントロールの面では米英空母と比べると劣っており、3箇所のエレーベーターの前後に防火鎧扉が設けられ、炭酸ガスで火災を消火するという方式である[8]。さらに航空機格納庫は密閉式だったため爆風を逃すことが出来ず、喪失の原因となった[9]。こうした欠点は、可能な限り多くの航空機を搭載し、所属戦闘機によって敵機を排除しようという発想からきているものであった[10]。また、竣工から喪失までの間に大きな改装を受けることはなかったが、右舷に設置された艦橋は駆逐艦の艦橋とほぼ同規模の大きさであり、幾度か小改装を施されている。

艦歴

太平洋戦争まで

空母「蒼龍」は1935年(昭和10年)12月23日に呉海軍工廠にて進水し[11]1937年(昭和12年)11月11日の公試では排水量18871トン、機関出力15万2483馬力で34.898ノットを発揮した[12]。12月29日、引渡し[13]1938年(昭和13年)12月15日、第二航空戦隊へ編入された。1941年(昭和16年)3月、ベトナムとタイとの国境紛争を調停すべく南方へ進出中、第二十三駆逐隊(菊月、夕月)の駆逐艦「夕月」と衝突事故を起こす[14]。「蒼龍」の艦首が「夕月」の左舷中央部に乗り上げ、破口が生じた[14]。両艦とも沈没の危険はなかったが、「蒼龍」は搭載機を「飛龍」にうつしたのち佐世保に戻ってドックに入った[15]。4月、修理を終えた本艦は横須賀に回航された[15]

4月10日、「蒼龍」は第一航空艦隊に編入される[16]。太平洋戦争開戦前の7月には南部仏印進駐作戦の支援を行った。

真珠湾攻撃

真珠湾に向かう蒼龍。赤城から見た姿
飯田房太

太平洋戦争の開戦にあたり、日本海軍は真珠湾攻撃を計画した。この際、「蒼龍」は新型の翔鶴型航空母艦や「加賀」よりも航続距離が短く、補給を受けたとしても真珠湾まで往復できるか危ぶまれた為、「赤城」や「飛龍」と同様に大量の重油入りドラム缶を艦内に搭載することで参加できる目途が立った。真珠湾攻撃には第二航空戦隊旗艦として山口多聞少将が座乗し、出撃直前、空母「赤城」に集合した搭乗員達に真珠湾攻撃の全貌が明かされた際には[17]、「蒼龍」に戻った搭乗員達の間で酒宴となり、山口少将や柳本艦長を胴上げして気勢をあげている[18]。11月26日、「蒼龍」は南雲機動部隊の一翼として千島列島単冠湾を出港した。

1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃に参加した。参加した「蒼龍」の艦上機の詳細は以下の通りである。

攻撃隊 零戦 九九艦爆 九七艦攻(水平爆撃隊) 九七艦攻(雷撃隊)
指揮官 機数 指揮官 機数 指揮官 機数 指揮官 機数
第一次攻撃隊 菅波政治大尉 8機 なし 阿部平次郎大尉 10機 長井彊大尉 8機
第一次攻撃隊 飯田房太大尉 8機 江草隆繁少佐 18機 なし なし

宣戦布告遅延問題は別にして、ハワイ攻撃は戦術的な成功を収めた。もっとも森拾三(雷撃隊2番機操縦士)によれば、事前説明があったにも関わらず艦攻3-4機がフォード島北岸に停泊していた標的艦「ユタ」を雷撃している[19]。「ユタ」は旧式戦艦を改造した2万トン級標的艦だったため、雷撃機隊員が「戦艦」と誤認したのである。「蒼龍」は第二次攻撃隊から零戦3機[20]、九九艦爆2機が未帰還となった[21]。南雲機動部隊は所在不明の米空母「エンタープライズ」、「レキシントン」を捜索しながら日本への帰途についた[22]江草隆繁少佐は山口多聞少将や柳本艦長を通じて米空母の徹底捜索と撃滅を進言したが、南雲中将や草鹿参謀長は艦隊の保全を優先している[23]

ウェーク島攻略戦

同時期、ウェーク島攻略にむかった日本軍第四艦隊第六水雷戦隊は、島を守るアメリカ海兵隊の反撃によって思わぬ苦戦を強いられた。ハワイからの帰投中だった第二航空戦隊はウェーク島攻略の支援を命じられ、本艦は空母「飛龍」と共に南雲機動部隊主隊から分離した。12月21日、零戦9機、九九艦爆14機がウェーク島に空襲を行う[24]。22日の空襲では零戦3機、九七式艦攻16機が出撃した[25]。ウェーク島到達直前、米軍戦闘機F4Fワイルドキャットの奇襲を受け九七艦攻3機(含1機不時着着水)が撃墜されるが、そのうちの1機は水平爆撃の名手として知られ、真珠湾攻撃の際に艦攻隊の誘導機を務めた金井昇 一飛曹機であった[26][25]。23日には第一波(零戦6、艦爆6)、第二波(零戦2、艦攻9)が出撃し、上陸した海軍陸戦隊の支援をおこなった[27]。同日、ウェーク島は陥落する。12月29日、「蒼龍」は日本に戻った[28]

ポート・ダーウィン空襲と蘭印攻略支援

1942年(昭和17年)1月18日、「蒼龍」はパラオ諸島に到着した。蒼龍航空隊はペリリュー島に移動して待機していたが、この間「米軍潜水艦7隻出現」の索敵報告により、緊急出動している[29]。実際はイルカの大群の誤認であったという[29]。1月21日、空母「飛龍」と共に出港しモルッカ諸島アンボン島の州都アンボン港湾・船舶を零戦9、艦爆9、艦攻9が攻撃した[30]。24日にも同機数がアンボン港湾を襲っている[31]。2月15日、南方部隊に編入されて出撃、オーストラリアに向かった。2月19日、ポート・ダーウィン空襲に零戦9、艦爆18、艦攻18が参加し[32]カーチスP-40キティーホーク9機を撃墜、艦爆1機が不時着救助された[33]。この空襲ではアメリカ駆逐艦ピアリーなど8隻が沈み、オーストラリアのスループ、スワンやアメリカの水上機母艦ウィリアム・B・プレストンなどが損傷している[34]。同日、九九艦爆9機が連合軍特設巡洋艦を攻撃し、250kg爆弾3発命中を記録して撃沈している[35]。2月21日、「蒼龍」はスラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾に入港した。

3月1日、偵察帰りの九七式艦攻が、クリスマス島南方でフリーマントルに向かう途中のアメリカ給油艦ペコスを発見[36]。12時55分、空母加賀九九式艦爆9機からなる攻撃隊(指揮官:渡部俊夫大尉)を発進させ[37]、次いで蒼龍も13時9分に九九式艦爆9機からなる攻撃隊(指揮官:池田正偉大尉)を発進させてペコスに向かわせた[38]。加賀攻撃隊は13時21分にペコスを発見して攻撃態勢に入り、ペコスに直撃弾1発と至近弾8発を与えたが、ペコスは対空火器で応戦して4機が被弾した[37]。加賀攻撃隊は14時39分に加賀に帰投してきた[37]。蒼龍攻撃隊は、加賀攻撃隊がペコスを攻撃中の13時30分に現場に到着[38]。加賀攻撃隊が引き上げていった後に攻撃を開始し、命中弾3発と至近弾1発を与えたが[38]、依然対空砲火はすさまじく5機が被弾した[38]。しかし、ペコスは度重なる被弾で左に15度傾き[38]、やがて艦首を先にして南緯14度27分 東経106度11分 / 南緯14.450度 東経106.183度 / -14.450; 106.183の地点[39]にて15時48分に沈没した。蒼龍攻撃隊は15時1分に蒼龍に帰投し、ペコス沈没の瞬間は見ていない[38]</ref>。同日午後7時、蒼龍艦爆9機が戦艦「比叡」や重巡洋艦「利根」「筑摩」の砲撃をたくみに回避していた駆逐艦「エドソール」を爆撃して航行不能とし、同艦撃沈のお膳立てをした[40]。3月5日、蒼龍攻撃隊がジャワ島チラチャップを空襲して商船3隻撃沈、14隻が損傷したあと自沈した[41]。その後、南雲機動部隊はスマトラ島南方で脱出する連合軍艦艇の捕捉につとめたが、3月7日午後1-2時に艦爆6・艦攻2が商船「プーラウ・ブラス」を撃沈[42]、午後4時に艦爆7機が商船4隻を攻撃、商船「ウールガー」を撃沈したのみで[43]、決定的な戦果を挙げるには至らなかった。3月11日、スターリング湾に入港する。

セイロン沖海戦

3月26日、南雲機動部隊(赤城、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)として出撃し、インド洋へ向かう。4月5日のセイロン沖海戦にも機動部隊の一角として参加、駆逐艦「テネドス」、仮装巡洋艦「ヘクター」を撃沈した。さらに英軍東洋艦隊を襲撃した際には、他空母攻撃隊と協同して空母「ハーミーズ」、重巡洋艦「ドーセットシャー」、「コーンウォール」、駆逐艦「ヴァンパイア」、コルヴェット艦「ホリホック」、給油艦「アセルステーン」、「ブリティッシュ・サージャント」を撃沈した[44]。同海戦での蒼龍艦爆隊の命中率は78%にも及び、各地で華々しい戦果を挙げた。4月18日のドーリットル空襲の際には台湾海峡を航行中だったため、千葉県沖にいた米軍機動部隊(エンタープライズ、ホーネット)を補足することはできなかった。4月22日、日本・横須賀軍港に戻る。この時、第二航空戦隊の旗艦が「飛龍」に変更となり、定期人事異動によって南雲機動部隊の航空戦力は「基礎訓練の修了レベルに到達した者は一人もいなかった。未熟な航空兵は昼間着艦する段階にも達しておらず、熟練搭乗員の中にさえ明らかに腕の落ちた者がいた」という状態になる[45]

ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦で、回避運動を続ける蒼龍

6月に入り、ミッドウェー攻略作戦への参加が決定した。出撃前、「蒼龍」の長沼道太郎機関特務大尉は、床屋から「日本海軍が行けばミッドウェーでも楽勝ですね」とおだてられたという[46]。大和多(艦攻操縦員)は戦後米国の作家から「士官が作戦を芸者に聞かせて、そこから漏れた」という話を聞いている[47]。5月27日、「蒼龍」は日本を出発した[48]

日本時間6月5日午前1時30分、空母「蒼龍」から九七式艦上攻撃機18機、零式艦上戦闘機9機がミッドウェー島第一次攻撃隊として発進した[49]。九七艦攻は魚雷ではなく、800kg陸用爆弾を搭載しての出撃である。米軍基地から発進したF4Fワイルドキャット戦闘機6機、F2Aバッファロー戦闘機19機の迎撃と対空砲火により、蒼龍攻撃隊は全機が被弾して艦攻3機を喪失(不時着2含む)[50]、零戦搭乗員1名が重傷を負った。残る艦攻も1機が「飛龍」に着艦、即時使用可能艦攻は10機であった[50]

午前5時20分、重巡洋艦利根」から発進した零式水上偵察機が予期せぬ米軍機動部隊を報告する[51]。この時、「蒼龍」は十三試艦上爆撃機の試作機を改造した試作偵察機を搭載しており、南雲忠一中将はこの十三試艦爆の投入を命じた[52]。操縦は飯田正忠(飛曹)、電信は近藤勇(飛曹長)であった[53]。午前5時30分に発進した十三試艦爆は午前8時30分ごろ米軍機動部隊を発見し、「蒼龍」被弾後は午前10時30分に空母「飛龍」に着艦して貴重な情報をもたらしている[54]。なお十三試艦爆は米軍機動部隊発見を南雲機動部隊に向けて発信し、戦闘詳報にも記録が残っているが[55]、無線機故障により艦隊側では受信していないとされる[56]。十三試艦爆の活躍に対し、戦闘詳報は『敵機動部隊情況不明なりし際、極めて適切に捜索触接に任じ、その後の攻撃(飛龍の反撃)を容易にならしめたり。功績抜群なり』と高く評価した[57]。一方で、艦爆や艦攻搭乗員達は「索敵で日が暮れる」と艦隊司令部への不満を抱いていたという[58]

その後、「蒼龍」は米軍ミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け、回避行動と直衛戦闘機の発進に専念する[59]。またミッドウェー基地攻撃に出撃した艦攻隊の収容も行ったため、米艦隊に向けた攻撃隊の発進準備は遅々として進まなかった[60]。艦攻の収容に至っては、午前6時50分までかかっている[61]。午前7時以降、南雲機動部隊は米空母「ホーネット」や「ヨークタウン」から発進したTBDデバステーター雷撃機の攻撃を受け、「蒼龍」も魚雷を回避する[62]。この状況下、零戦隊も各艦の注意も低空の米軍機に向けられた。「蒼龍」戦闘詳報では、直衛零戦の行動や連絡方法について『戦闘機使用電波を制空用・上空直衛用の2種類に分くるる不必要なるのみならず、今回の如き電波転換の暇なき場合、直衛指揮に支障をきたすことあり』『敵雷撃機に味方戦闘機集中の傾向大なり』と問題点を指摘している[63]

日本時間午前7時25-28分頃(現地時間10時25分頃)、「蒼龍」は、米空母「ヨークタウン」から発進したSBDドーントレス急降下爆撃機十数機の攻撃を受ける[64]。ちょうどミッドウェー島攻撃から戻ってきた第一次攻撃隊艦攻搭乗員達が、搭乗員待機室で食事を取っている時だった[65]。砲術長が気付いて対空射撃を行うも米軍機の阻止には至らず[66]、投下された1,000ポンド爆弾三発がそれぞれ三基のエレベータ付近に一発ずつ命中した[67]。一発が格納庫下段、二発が格納庫上段で炸裂する。当時の「蒼龍」格納庫内には第二次攻撃隊として出撃予定の九九式艦上爆撃機と、搭載すべき対艦船用爆弾、陸用爆弾が多数あった[68]。それらが次々に誘爆を起こし、「蒼龍」に深刻なダメージを与える[64]。また被弾時、左舷中央部艦底にあった魚雷調整場から魚雷18本が格納庫に揚げられていたという[69]。これも誘爆を起こして「蒼龍」に致命的損傷を与えた。小俣定雄(上機曹、機関科電気分隊)は、最初の一弾が主蒸気管を破壊し、罐室が全滅、主機械と発電用タービンが停止したと推測している[70]

午前7時40分、機関が停止する[71]。機関部では通風孔から炎が噴出し、やむなく復水機の蒸留水を飲んでしのいだ[72]。応急班員は格納庫内での爆弾や燃料の誘爆で死傷し、彼らを手伝う筈の機関部員は火災で機関室に閉じ込められ、被弾と同時に電源が切れたため消火ポンプも作動せず[73]、消火活動ははかどらなかった。日本空母の弱点であったダメージコントロールの低さも災いしたが、被弾の時点でもはや手がつけられず、被弾からわずか15分後の午前7時45分に総員退去が下令される[71]。大部分の乗組員は炎に追われ、また爆風で海に吹き飛ばされた。救助にあたった駆逐艦「磯風」は、蒼龍脱出者に対する米軍機の銃撃を目撃している[74]。午前8時12分、重巡洋艦「筑摩」から救援人員を乗せた短艇が到着した[75]

南雲司令部は駆逐艦「天津風」、「磯風」、「浜風」に「蒼龍」の護衛と北西への退避を命じる[76]。これに対し、午後2時に駆逐艦「磯風」から「蒼龍」の航行不能と今後の行動指示を乞う旨の返答があった[77]。午後2時32分には、火災が一旦鎮火したという報告が入る[78]。「蒼龍」は乗員の駆逐艦への移乗を開始し、午後3時2分、「磯風」、「浜風」は「蒼龍」生存者を収容した[79]。その後火災が少し収まったので、楠本幾登飛行長は防火隊を編成して再度乗艦の準備を始める[80]。直後に再度の爆発が起こり、救出は不可能と判断された。乗組員達は柳本艦長に脱出するよう懇願したが、柳本は拒否した[81]。柳本の最期には、艦橋の炎の中に飛び込んだ、ピストルで自決した、など諸説ある[82]。こうして、空母「蒼龍」は日本時間6月5日午後4時13-15分(現地時間6月4日19時13分)、日没と共に沈没した[83]。「磯風」の魚雷により処分されたという異説もある[84]。「浜風」に救助された大多和は大爆発と共に「蒼龍」中央部に水柱があがると、艦尾から沈んだと述べている[85]。午後4時20分、「磯風」は水中で大爆発が起きたのを確認した[80]

艦と運命を共にした柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死[86]。その多くは艦内の火災で脱出不可能となった機関部員だった。機関科の脱出者は定員300名中、30名弱でしかない[87]。搭乗員戦死者は機上6名、艦上4名の合わせて10名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻5名)で[88]江草隆繁飛行隊長以下、搭乗員の多くは救助された。直衛隊の零戦数機が「飛龍」に着艦して戦闘を続けたが、「飛龍」の沈没と共に全機が失われた[89]「蒼龍」の沈没位置は北緯30度43分 西経178度38分 / 北緯30.71度 西経178.63度 / 30.71; -178.63 (沈没地点)と記されている。[要出典]戦闘詳報では、北緯30度42.5分、西経178度37.5分を採用している[90]

年表

歴代艦長

艤装員長

  1. 大野一郎 大佐:1935年12月23日 -
  2. 奥本武夫 大佐:1936年4月1日 -
  3. 別府明朋 大佐:1936年12月1日 -

艦長

  1. 別府明朋 大佐:1937年8月26日 -
  2. 寺岡謹平 大佐:1937年12月1日 -
  3. 上野敬三 大佐:1938年11月15日 -
  4. 山田定義 大佐:1939年10月15日 -
  5. 蒲瀬和足 大佐:1940年10月15日 -
  6. 上阪香苗 大佐:1940年11月25日 -
  7. (兼)長谷川喜一 大佐:1941年9月12日 -
  8. 柳本柳作 大佐:1941年10月6日 - 1942年6月5日戦死

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C05110730500「官房第4347号 10.12.23 軍艦進水の件」
    • Ref.C05110625400「第5098号 9.11.3 蒼龍」
    • Ref.C08051578600『昭和16年12月~昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(1)』。 
    • Ref.C08051578700『昭和16年12月~昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(2)』。 
    • Ref.C08051578800『昭和16年12月~昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書(3)』。 
    • Ref.C08030023800『昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)』。 
    • Ref.C08030023900『昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)』。 
    • Ref.C08030024000『昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)』。 
    • Ref.C08030024100『昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)』。 
    • Ref.C08030040500『昭和17年6月1日~昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦 戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08051585400『昭和16年12月~昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書』。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史部編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社、1971年)
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年。 
  • 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』文藝春秋社、1986年5月。 
  • 橋本敏男田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0606-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 堀元美『造船士官の回想(上)』朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN -4-257-17284-3  本艦艤装工事担当部員。
  • 大多和達也『予科練一代 ある艦攻パイロットの悪戦苦闘記』光人社NF文庫、1996年。ISBN 4-7698-2109-3  - 大多和は「蒼龍」艦攻操縦員。真珠湾攻撃から沈没まで乗艦。ミッドウェー基地攻撃隊第2中隊第1小隊2番機。
  • 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7 
  • 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社、1999年。ISBN 4-7698-0935-2C0095{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8  - 橋本は1940年11月から「蒼龍」航海科、見張り指揮官付。1941年4月10日、第一航空艦隊司令部に転勤。
  • 森拾三『奇蹟の雷撃隊 ある雷撃機操縦員の生還』光人社NF文庫、2004年。ISBN 4-7698-2064-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。  - 森は「蒼龍」艦攻操縦員。真珠湾攻撃から沈没まで乗艦し、本艦沈没後は「飛鷹」所属。
  • ピーター・C・スミス著、地主寿夫訳『天空からの拳 艦爆の神様・江草隆繁』PHP研究所、2009年。ISBN 978-4-569-77149-6 

脚注

  1. ^ 『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』
  2. ^ a b 篠原幸好 (1994), 連合艦隊艦船ガイド, 新紀元社 
  3. ^ 片桐大自 (1993), 聯合艦隊軍艦銘銘伝, 光人社 
  4. ^ #造船士官の回想 上162頁
  5. ^ 「第5098号 9.11.3 蒼龍」p.2
  6. ^ #造船士官の回想 上88頁
  7. ^ #造船士官の回想 上185頁
  8. ^ #造船士官の回想 上191-192頁
  9. ^ #天空からの拳238頁
  10. ^ #天空からの拳237頁
  11. ^ 「軍艦進水の件」p.1、#造船士官の回想 上90頁
  12. ^ #造船士官の回想 上210頁
  13. ^ #造船士官の回想 上216頁
  14. ^ a b #橋本信号員55頁
  15. ^ a b #橋本信号員56頁
  16. ^ #橋本信号員57頁
  17. ^ #奇蹟の雷撃隊140-141頁
  18. ^ #奇蹟の雷撃隊145-146頁
  19. ^ #奇蹟の雷撃隊166頁
  20. ^ #蒼龍飛行機隊調書(1)p.7
  21. ^ #蒼龍飛行機隊調書(1)p.9
  22. ^ #蒼龍飛行機隊調書(1)p.15
  23. ^ #天空からの拳196-197頁
  24. ^ #蒼龍飛行機隊調書(1)pp.24-25
  25. ^ a b #蒼龍飛行機隊調書(1)pp.26-27
  26. ^ 押尾・野原「ウェーク島攻略戦とF4F」53ページ、押尾・野原『日本陸海軍航空英雄列伝』34ページ
  27. ^ #蒼龍飛行機隊調書(1)pp.30-33
  28. ^ #奇蹟の雷撃隊195頁
  29. ^ a b #奇蹟の雷撃隊203-205頁
  30. ^ #蒼龍飛行機隊調書(1)pp.1-2
  31. ^ #蒼龍飛行機隊調書(1)p.30-33
  32. ^ #蒼龍飛行機隊調書(2)pp.9-14
  33. ^ #天空からの拳204頁、#蒼龍飛行機隊調書(2)pp.13-14
  34. ^ Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy - Volume Vol1, p.595
  35. ^ #蒼龍飛行機隊調書(2)pp.15-16
  36. ^ 木俣, 163ページ
  37. ^ a b c #加賀飛行隊調書
  38. ^ a b c d e f #蒼龍飛行機隊調書(2)
  39. ^ Chapter IV: 1942” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. 2010年12月31日閲覧。
  40. ^ #天空からの拳212頁、#蒼龍飛行機隊調書(2)pp.28-29
  41. ^ #天空からの拳215-216頁
  42. ^ #天空からの拳216-217頁、#蒼龍飛行機隊調書(2)pp.50
  43. ^ #天空からの拳217頁、#蒼龍飛行機隊調書(2)pp.48-49
  44. ^ #天空からの拳225-228頁
  45. ^ #天空からの拳235-236頁
  46. ^ #証言77頁
  47. ^ #予科練一代214頁
  48. ^ #奇蹟の雷撃隊225頁
  49. ^ #蒼龍飛行機隊調書(3)pp.55-58
  50. ^ a b #MI海戦日誌(2)p.59
  51. ^ #天空からの拳247頁、#1航艦戦闘詳報(2)p.14
  52. ^ #橋本信号員131頁、#天空からの拳248頁
  53. ^ #蒼龍飛行機隊調書(3)p.54
  54. ^ #蒼龍飛行機隊調書(3)p.54、#MI海戦日誌(2)pp.66-67
  55. ^ #MI海戦日誌(2)pp.66-67
  56. ^ #天空からの拳249頁
  57. ^ #MI海戦日誌(2)p.69
  58. ^ #奇蹟の雷撃隊246頁
  59. ^ #証言141-142頁、#天空からの拳250頁、#1航艦戦闘詳報(4)p.14
  60. ^ #予科練一代217-218頁
  61. ^ #MI海戦日誌(2)p.57
  62. ^ #1航艦戦闘詳報(4)p.14
  63. ^ #MI海戦日誌(2)p.47
  64. ^ a b #1航艦戦闘詳報(1)p.44、#1航艦戦闘詳報(4)p.14 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "艦隊詳報壱44"が異なる内容で複数回定義されています
  65. ^ #予科練一代220頁
  66. ^ 『文藝春秋臨時増刊 目で見る太平洋戦争史』(昭和48年12月増刊号)162頁 金尾滝一海軍中佐 蒼龍砲術長談
  67. ^ #1航艦戦闘詳報(4)p.23、#MI海戦日誌(2)p.42
  68. ^ #天空からの拳252-253頁
  69. ^ #証言85-86頁、元木茂男(上等整備兵曹、魚雷調整員)
  70. ^ #証言97頁
  71. ^ a b #1航艦戦闘詳報(1)p.45
  72. ^ #証言79頁
  73. ^ #証言94頁
  74. ^ #井上 磯風40-42頁
  75. ^ #1航艦戦闘詳報(2)p.31
  76. ^ #1航艦戦闘詳報(2)p.48
  77. ^ #1航艦戦闘詳報(2)p.49
  78. ^ #1航艦戦闘詳報(2)p.52
  79. ^ #1航艦戦闘詳報(3)p.1
  80. ^ a b #1航艦戦闘詳報(1)p.46
  81. ^ #橋本信号員173頁、#証言230-231頁
  82. ^ #奇蹟の雷撃隊258頁
  83. ^ #奇蹟の雷撃隊261頁、#1航艦戦闘詳報(1)p.46、#1航艦戦闘詳報(3)p.5
  84. ^ 『文藝春秋臨時増刊 目で見る太平洋戦争史』(昭和48年12月増刊号)163頁
  85. ^ #予科練一代232頁
  86. ^ #1航艦戦闘詳報(4)p.47
  87. ^ #証言96頁
  88. ^ 澤地『記録 ミッドウェー海戦』、#天空からの拳255頁
  89. ^ #MI海戦日誌(2)pp.44-45
  90. ^ #天空からの拳254頁、#1航艦戦闘詳報(4)p.46

関連項目

外部リンク