菊池新吉
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名前 | ||||||
カタカナ | キクチ シンキチ | |||||
ラテン文字 | KIKUCHI Shinkichi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1967年4月12日(57歳) | |||||
出身地 | 岩手県遠野市 | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 80kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1986-1992 1992-2001 2000 |
読売サッカークラブ ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969 →川崎フロンターレ(loan) |
77 (0) 199 (0) 6 (0) | ||||
代表歴 | ||||||
1994-1995[1] | 日本 | 7 (0) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。生涯成績現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
菊池 新吉(きくち しんきち、1967年4月12日 - )は、岩手県遠野市出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。実弟の菊池利三も元サッカー選手。
来歴
後述のように育った環境はお世辞にもいいとは言い難いものだったが、読売サッカークラブ入団後は藤川孝幸を抑えてレギュラーを獲得。Jリーグではヴェルディ川崎で三浦知良、武田修宏、ラモス瑠偉、北澤豪、ルイス・カルロス・ペレイラ、柱谷哲二、都並敏史等と共にスタメンの座を不動のものにする。Jリーグ開幕後は、地元・遠野で「菊池新せんべい」なるものが発売されたほどであった。
1993年にはシーズン16完封の未だに残るJ1記録(2009年、FC東京の権田修一が並ぶ)、1stステージ2位と2ndステージ制覇と初代王座、1994年にはJリーグベストイレブン・日本代表にも選出され2年連続チャンピオンに貢献している。翌1995年もベストイレブンに選出された。1997年1月1日には第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会を制覇している。
日本代表には、1994年に初招集され、同年のアジア大会にも全4試合に出場した。しかし怪我も多かったことから、1994年以前は松永成立、1995年は前川和也、1996年は下川健一の控えになることがほとんどであり、1996年後半以降はアトランタ五輪で大活躍した川口能活が台頭してきたことから代表にも招集されなくなり、結局A代表キャップ数は7試合にとどまった。
1997年以降はガンバ大阪からレンタル移籍で加入した本並健治とポジション争いを繰り広げる。当初はレギュラーだったが、1999年は完全に本並にレギュラーを奪われて2000年に川崎フロンターレにレンタル移籍した。しかし、浦上壮史からポジションは奪えず2001年にヴェルディ復帰。晩年は持病の腰痛に泣かされ、その年に本並と共に引退。
引退後は指導者の道に進み、古巣ヴェルディや栃木SC等のコーチを経て、2012年よりフロンターレのコーチを務める。
人物
- 幼くして父を亡くし、新聞配達をして家計を助けるほどの苦労をしていた。中学で自分のスパイクが持てず、コーチに借りていたというほどであった。岩手県立遠野高等学校を卒業後、読売サッカークラブに即入団。学区内のトップ進学校の同校では就職希望者も少なかったこともあり一番早い就職内定だったという。また、好きな言葉は「努力」というように、苦しい状況でも忍耐強さを見せるプレースタイルがファンの心を捉えた。
- 2001年にチームが川崎から東京に移転して迎えたFC東京との1回目の東京ダービーではチーム名変更後最初の退場者となった。
所属クラブ
- 1986年 - 2001年 読売クラブ/ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1986-87 | 読売 | 21 | JSL1部 | 22 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 27 | 0 |
1987-88 | 10 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 15 | 0 | |||
1988-89 | 9 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 13 | 0 | |||
1989-90 | 8 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | |||
1990-91 | 1 | 22 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 26 | 0 | ||
1991-92 | 6 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 | |||
1992 | V川崎 | - | J | - | 9 | 0 | 5 | 0 | 14 | 0 | |
1993 | 28 | 0 | 8 | 0 | 3 | 0 | 39 | 0 | |||
1994 | 39 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 43 | 0 | |||
1995 | 36 | 0 | - | 3 | 0 | 39 | 0 | ||||
1996 | 30 | 0 | 15 | 0 | 5 | 0 | 50 | 0 | |||
1997 | 1 | 11 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 19 | 0 | ||
1998 | 33 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 39 | 0 | |||
1999 | J1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | ||
2000 | 川崎 | 21 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | |
2001 | 東京V | 1 | 16 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 21 | 0 | |
通算 | 日本 | J/J1 | 199 | 0 | 48 | 0 | 25 | 0 | 272 | 0 | |
日本 | JSL1部 | 77 | 0 | 10 | 0 | 14 | 0 | 101 | 0 | ||
総通算 | 276 | 0 | 58 | 0 | 39 | 0 | 373 | 0 |
その他の公式戦
- 1987-88年
- アジアクラブ選手権 3試合0得点
- 1989年
- アジア・アフリカクラブ選手権 0試合0得点
- 1990年
- コニカカップ 7試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 3試合0得点
- 1992-93年
- アジアクラブ選手権 6試合0得点
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- アジアクラブ選手権 1試合0得点
- 1994年
- 1995年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1996年
- サントリーカップ 1試合0得点
- 1997年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- アジアカップウィナーズカップ 4試合0得点
代表歴
出場大会など
- 1994年アジア競技大会 (広島アジア大会)[1]
試合数
- 国際Aマッチ 7試合 0得点 (1994-1995)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1994 | 5 | 0 |
1995 | 2 | 0 |
通算 | 7 | 0 |
指導歴
- 2002年 東京ヴェルディ1969:育成組織GKコーチ
- 2003年 JFAトレセン(東北地区):GKコーチ
- 2003年 U-16日本代表:GKコーチ
- 2004年 東京ヴェルディ1969:育成組織GKコーチ
- 2006年 - 2009年 東京ヴェルディ1969:GKコーチ
- 2010年 - 2011年 栃木SC:GKコーチ
- 2012年 - 川崎フロンターレ:GKコーチ
関連項目
外部リンク
出典