称光天皇
称光天皇 | |
---|---|
元号 |
応永 正長 |
時代 | 室町時代 |
先代 | 後小松天皇 |
次代 | 後花園天皇 |
誕生 | 1401年5月12日 |
崩御 | 1428年8月30日 |
陵所 | 深草北陵 |
父親 | 後小松天皇 |
母親 | 藤原資子 |
皇居 | 京都御所 |
称光天皇(しょうこうてんのう、応永8年3月29日(1401年5月12日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日); 在位: 応永19年8月29日(1412年10月5日) - 正長元年7月20日(1428年8月30日)は、室町時代の第101代天皇である。諱ははじめ躬仁(みひと)、のち實仁(みひと)に改めた。
系譜
後小松天皇の第一皇子。母は、権大納言日野資教の養女、光範門院・藤原資子(日野西資子。実父は日野資国)
- 典侍:藤原(日野)光子(権大納言典侍) - 日野勝光女
- 内侍:源(五辻)朝子(新内侍) - 五辻朝仲女
- 皇女(1418-?) - 天皇は認知せず
- 内侍:藤原氏 - 高倉永藤女
- 宮人:藤原氏(伊予局・別当局) - 持明院基親女、正親町実秀猶子
- 皇女(1426-?)
- 宮人:鴨氏(紀伊局) - 鴨祐有女
系図
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
1412年8月29日に後小松天皇の譲位を受けて即位(即位日は、1414年12月19日)。
足利義満とは日野家を挟んで外戚関係にあり、日野資国の妹の業子は義満の正室だった。
『看聞日記』によれば、足利義持が当初の諱である躬仁の「躬」の字には“身に弓があるのは難がある”として鄂隠慧奯に相談し、「躬」と同音の「實」とすることにした。
後小松上皇が院政を行っていたが、生来病気がちであり、嗣子に恵まれなかったことから、後小松上皇は、伏見宮家より後花園天皇を猶子に迎え後継者とした。ために見るべき実績がなく、さらには、室町幕府の意向で代始改元が認められず(16年目に実現するが、その3か月後に崩御する)、弟小川宮との死別、父帝との不和など家庭内の問題が原因で精神を病むなど、不運な帝であった。
諡号・追号・異名
追号「称光院」は、天武系の第48代称徳天皇と天智系の第49代光仁天皇の一字ずつを取ったものである。