永野修身

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。柴崎力栄 (会話 | 投稿記録) による 2012年5月28日 (月) 03:26個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:獄死した人物)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

永野 修身
生誕 1880年6月15日
高知県
死没 1947年1月5日
東京都
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1900年 - 1947年
最終階級 元帥海軍大将
指揮 第三戦隊司令官
第一遣外艦隊司令官
練習艦隊司令官
横須賀鎮守府司令長官
海軍大臣
第一艦隊司令長官
連合艦隊司令長官
軍令部総長
戦闘 日露戦争
太平洋戦争
テンプレートを表示

永野 修身(ながの おさみ、1880年6月15日 - 1947年1月5日)は、大日本帝国海軍軍人海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将正三位勲一等功五級東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。帝国海軍の歴史上、海軍三長官海軍大臣連合艦隊司令長官軍令部総長)を全て経験したのは永野だけである。

経歴

高知県士族永野春吉の四男として誕生。山下奉文参謀本部次長であった沢田茂と同じく、藩主・山内豊範が明治初年に設けた高知海南中学を卒業。海軍兵学校第28期。入校時成績は116名中第2位、卒業時成績は105人中次席(首席の波多野貞夫中将が海軍火薬廠の技官に転向したので事実上首席)で卒業した後、海軍大学校に入学・卒業。 明治天皇にとても可愛がられ閲兵の際には常に天皇のお供をし、度々、明治天皇が愛用されていたお召し物、双眼鏡などを天皇より直々賜った。

海軍中尉で日露戦争の開戦となり、仮装巡洋艦香港丸に乗組みを命じられたが、まもなく、旅順工作部員名義で重砲隊に転じた。旅順要塞攻撃の時には海軍陸戦重砲隊の中隊長として旅順港に逼塞するロシア太平洋艦隊の撃滅に参加した。艦隊を直接狙う高地を占領できなかったため、山越えの目算砲撃を強いられた。この時、永野は重砲隊指揮官の黒井悌次郎大佐(のち大将)に座標をもとに、二〇三高地から着弾地点を観測して無線連絡を取りながら補正していく案を進言し、着弾観測と照準補正連絡のために最前線で陣頭指揮を執り、砲撃を成功させた。重砲隊指揮官の黒井大佐には部下の手柄を横取りする悪癖があり当初は永野の実績も伝えられなかったが、引退後は「永野君の砲座が最もよく撃った」と永野を絶賛するようになった。旅順要塞陥落後は大尉に昇進、第2艦隊第4戦隊副官として日本海海戦に参加した。

戦後、巡洋艦厳島の砲術長になる。1908年の練習航海で僚艦の松島馬公港で爆沈した際には港内はパニックに陥り混乱を極めた。永野は冷静に短艇を派遣し、真っ先に救助に着手した。

1910年海軍少佐に昇任した後、1913年から1915年まで米国駐在武官としてハーバード大学に留学。1920年から1922年まで再び在米国大使館付武官として米国駐在、ワシントン会議にも全権随員として参加。

1923年海軍少将軍令部第三班長、第3戦隊司令官、第1派外艦隊司令官、練習艦隊司令官を経て、1927年海軍中将となった後は海軍兵学校長・軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官を務めた。

兵学校長時代は自学自習を骨子とするダルトン式教育の採用や体罰の禁止など、抜本的な教育改革を推進した。ダルトン教育の導入は永野が軍令部次長に転じた後に消滅したが、太平洋戦争に駆逐艦長・潜水艦長・隊司令として活躍した55期(吉田俊雄によれば58期から60期)を中心とする永野の教え子たちからは、永野校長時代の兵学校の校風を絶賛する声が大きい。一方、他律的な型嵌め教育を受けていないために任官先の他の期の士官から理屈っぽく意見が多いと評判が悪かったという。また、大戦中に兵学校長を務めていた井上成美は「一人前の海軍士官を育てるのが兵学校最大の任務で、ある程度型嵌め教育は必要」との立場から永野のダルトン式教育を批判しており、永野が井上校長時代の兵学校を訪れた際に「生徒の前で永野に持論を述べられると困る」との思惑から慣例となっていた生徒向けの訓話を行わせなかった。

1934年、海軍大将任官、軍事参議官となる。

1935年12月からの第二次ロンドン海軍軍縮会議には全権として出席し、翌年日本の脱退を通告する。1936年3月9日広田弘毅内閣の海軍大臣に就任し、「国策の基準」の策定を推進する。この時、三国軍事同盟を回避するため、海軍航空本部長に左遷されていた山本五十六を中央に引き戻し海軍次官に据えた。

1937年2月2日広田内閣の総辞職に伴い、米内光政に海相の椅子を譲って連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)となり、海上勤務に出る。後に再び軍事参議官。1941年4月9日伏見宮博恭王の後任として海軍の軍令のトップである軍令部総長に就任(在任期間は1944年2月21日まで)。ちなみに、この時の海軍次官沢本頼雄、海軍の軍政のトップである海軍大臣は及川古志郎嶋田繁太郎が就いた。

開戦前には病気を理由に辞職を考えたが後任に避戦強硬派の長谷川清百武源吾が就任する恐れがあったため、開戦派の圧力を受けて続投した。ただ、永野も本来は避戦派であり、山本と同様、留学経験・在米武官の経験も長く、軍縮会議などでは各国の将官と討論などをしており、国際関係にもよく精通していた。

永野は軍人は極力政治に関わるべきでないと言う信条を持っており、政府に対して、役職柄海軍の代表者として海軍の実情について報告はするものの、政府が決めた方針については賛成も反対もせず、日米戦開戦の時も回避のための行動は見られなかった。

この永野の姿勢には1941年6月初旬に日蘭会商からの石油の供給が完全に停止されたという海軍の実情も反映しているともいわれている。1939年以来、アメリカからの経済的制裁を受けるようになっていた日本は石油などの不足資源の多くを蘭印からの輸入に頼っていた。1941年6月5日海軍省で算定した結果によると日本国内には1年半~2年分しか石油備蓄がなく、このことは海軍の軍令を司る立場にあった永野にとって死活問題だった。また、一部報道では過激な開戦派によるクーデターとそれに伴う国家の暴走を警戒していたともいわれている。7月30日ABCD包囲網について昭和天皇から意見を求められた際には、(海軍としては)対米戦を決断するならば早期に開戦をした方が有利と奉答している(詳細は下記)。その手段として、日米交渉が決裂した場合に備え、連合艦隊司令長官だった山本五十六が進めていた真珠湾攻撃作戦を採用した。山本のハワイ作戦ついては、その投機性の高さから軍令部内では反対する意見が根強くあった。当初、永野自身もアメリカとの戦いについては南方資源地帯の確保と本土防衛を主軸とした漸減邀撃作戦を構想しており、太平洋まで出てアメリカと直接対決する想定しておらず、「余りにも博打すぎる」と慎重な態度を示した。しかし、山本が本作戦が通らなければ連合艦隊司令部一同が総辞職すると強く詰め寄ったため、最終的に永野が折れる形で決着した。

将兵達の勝利への意志力を維持し、対立する陸海軍の間に立ち作戦調整や意志統一を計り、第1段作戦の成功に貢献した。

1943年6月21日、元帥。

1944年2月21日、トラック島空襲の余波で陸海軍統帥部(軍令部・参謀本部)両総長の更迭が断行され、以後陸海軍共に軍政を司る大臣が軍令の長を兼任することとなった。

しかし、大井篤によれば同時に辞任した陸軍の杉山元参謀総長と合わせ、既に長老ぶりの弊害を自認していたかのような状態だったという[1]。副官の吉田俊雄にも「年をとり過ぎていたよ」と述べた。

1945年8月14日ポツダム宣言を受託するにあたって昭和天皇元帥府の意見を聴取した際、「皇室の安泰は敵側において確約しあり,大丈夫」との天皇の所信を伝えられ、これに従った。自決を図ろうとするも、親友の左近司政三に「生きることこそあなたの責任だ」と諭され自決を思いとどまった。

戦後、アメリカをはじめとする戦勝国に真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷するが、裁判途中の1947年1月2日に寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送後同病院内で1947年1月5日に死去した(『海よ永遠に元帥海軍大将永野修身の記録』南の風社では1月5日11時50分に両国の米陸軍第361野戦病院で死去したこととなっている)。永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞した。享年66。戦死ではなく病死ではあったが1978年、A級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機らと共に法務死として靖国神社に合祀された。

墓は東京都世田谷区奥沢7丁目の浄真寺高知市の筆山墓地にある。

エピソードなど

軍令部総長就任頃まで

吉田俊雄によると若い頃は侠気に満ち、清水次郎長に弟子入りしようとした。海軍内でも常に指揮官先頭で、創意と意欲の塊と言われていたという。また、後年のぶっきらぼうと評された発言に通じる屈託の無さなどは、秀才型の官僚軍人的な海軍大将たちとは肌合いが違っていたという。

新物好きでも有名で、ダルトン式教育の他、海相に就任した際には、海軍の制度と人事を刷新すると意気込んで部下にその検討をさせた。高木惣吉は軍務局でこの時の制度調査会に参加させられており、岡敬純神重徳等と共に作業にあたり11月に兵備局の新設を提言するとともに、海軍内部の長年に渡る懸案とされていた兵機一系化についての提言を井上成美にまとめさせた。提言書には、精神主義に傾斜する兵科士官教育を、科学、合理的な教育に改めること、そのためには兵学校を廃止して機関学校に統一するべきことなどがまとめられていたが、永野が改革に乗り出す前に大臣を辞職してしまったため、改革は実現に至らなかった。  戦後、井上成美は、この時の経験と太平洋戦争での反省を踏まえ、海軍の戦力は、優れた技術が総てであると説き、合理的、科学的な教育を行うべきであるとの見地から、工科大学をベースに現在の防衛大学校が創設された。 また、高木は三国軍事同盟の締結を阻止するために、左遷されていた山本五十六海軍次官に起用したことを評価している。 ただし腹切り問答の際には民政党と陸軍の仲裁を試みたものの陸軍は国会を解散に追い込もうと意気込んでいたため先手を打たれ、広田内閣は総辞職に追い込まれると共に、永野は就任10ヶ月余りで連合艦隊司令長官に転出した。制度改革も提言の際に守旧派の反対に遭ったまま進展は無いままであったため失敗した。しかし、1940年に高田利種少将が制度改革に手をつけた際にはこの時の経験を参考とし、海軍機関学校の一系化などの類似した内容の改革が行なわれている[2]

二・二六事件が起きた際には「陸軍を粛正せねば国家遂に危かるべし」と前途の不安を語っている。

海軍部内でのあだ名は、男女川(みなのがわ)で、その由来は永野の容貌が第34代横綱男女ノ川登三の魁偉な容貌に似ていたため名づけられたもので古賀峯一は大戦中の私信で永野のことを「男女川」と記している。

1941年4月、これまで軍令部総長を務めていた伏見宮総長が病気を理由に辞職、後任に永野修身が軍令部総長に親補された。

帝国国策遂行要領での姿勢について

1937年以来続く日中戦争の結果、日米関係は悪化の一途を辿った。1939年7月26日には日米通商航海条約が破棄され、米国から経済制裁を受けるようになった。これに伴い、日本は蘭印との経済関係を重要視するようになった。1940年、ナチスドイツがオランダ本国に侵攻すると蘭印との関係を維持・確保することに迫られた。この時、米内内閣は蘭印の現状維持を宣言するが、蘭印に対して見返りとして重要物資の輸出拡大を要請した。続く第2次近衛内閣でも前政権と同様に蘭印からの石油などの重要物資を安定して供給できるように確約を得るべく、第2次会商を実施した。しかし、この時の交渉では日本が1940年9月に三国同盟を締結したことや日本が蘭印を大東亜共栄圏の一員であることを表明し、インドネシア人に自治権を与えることを期待する態度を示したことなどから、オランダ側が警戒感を高め、仮想敵視する動きを見せはじめた。日本側も、三国同盟を重視し、(欧州のオランダ本国を占領していた)ドイツを支援する立場を崩さないため、交渉は進まなかった。その一方では、蘭印の防衛体制を整える前に日本が開戦をしないように、引き伸ばし交渉も継続した。この結果両者の協議は平行線を辿り、1941年6月初旬をもって事実上決裂のまま交渉は打ち切られた。これによって日蘭会商からの石油の安定供給はストップ、北部では独ソ戦必定の情報も届き、関東軍が臨戦態勢に入るなど逼迫しており、日本にとっては受難の時だった。そのような中、11日の連絡懇談会では原嘉道枢密院議長や松岡洋介外務大臣らが、ソ連を打つの好機到来と北進論を陸軍首脳部に訴える中、突如永野は「仏印、タイに兵力行使の基地を造ることは必要であるとし南部仏印進駐を強く推し、これを妨害するものは、断乎として打ってよろしい。叩く必要のある場合には叩く」との強行ぶりは杉山元参謀総長に不安を抱かせるほどだった。

吉田は、アメリカの国力を知るからこそ、その戦力が強大化しないうちにタイミングを見計らった行動をとるべきと考えていた旨を推測している[3]

永野は渡米経験を含め海外勤務の経験が豊富であり、アメリカの底力を良く知っていた。したがって、この種の強い開戦決意の姿勢は元来からのものではなく、亀井によれば1941年6月頃から表出してきたものであったという。吉田・亀井などによればこれには、

  1. 「バスに乗り遅れるな」といった言葉に代表される欧州の戦局と日独伊三国軍事同盟などの国際関係
  2. 軍令部内の作戦課の意向と詳細な分析結果
  3. 陸軍との調整役として重宝され、その結果大陸での駐兵を譲らない陸軍強硬派の影響を受けていたとされる海軍省軍務局の石川信吾やドイツ駐在組(あるいは渡米経験のない高級士官全般)の報告
  4. それらによる下からの突き上げ

などが影響しており、奉答の際も部下の用意した書面を読み上げている際と、永野個人の意思で述べている際とではニュアンスが大きく違っていたこともあった。また、国内での軍事革命への胎動を警戒していたと言う[3][4][5]

一方、鳥居民は永野の南仏印進駐における一連の言動は、陸軍による独ソ戦介入を避けようしたものであり、日本が二正面戦争という愚を冒そうとしたのを避けようして海軍省に一部同調したのではないかと推察している。あの時、仮に日本が独ソ戦に参戦した場合、日本は蒋介石政府とソ連を相手に戦いをしつつ、背後で緊張関係にある(戦争準備を進めている)アメリカと対峙せねばならなくなるが、6月の時点で蘭印との交渉は決裂しており、石油、鉄、アルミ、ゴム、航空燃料など、日本が必要とする物資の供給は完全に絶たれており、国内に残されていた限られた備蓄だけで先の見えない戦争をしなければならない事態に陥る上、イギリス支援を焦るアメリカは対独包囲網の形成のためにソ連との結びつきも強めており(レンドリース法を参照)、日本がドイツと共にソ連を挟撃した場合、三国同盟が発動されたと判断し(口実に)、唯一輸入することが許されていた物資である石油の供給をも絶ってきたり、松岡外相に対して石川信吾大佐が指摘してるように欧州戦線の状況次第では、アメリカの判断で戦を仕掛けてくる恐れがあった[6]。日本の外交的立場は圧倒的に不利で、最早アメリカと外交交渉を継続できる余地はなく、石油の残量がなくなれば破局の道を辿るほかなかったという。実際、独ソ開戦以来、関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を強く主張し、関東軍特種演習(関特演)などを切っ掛けにドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようと考えていた。特に当時の陸軍はノモンハン事件の大敗や支那事変の泥沼化によって、国民の信頼を失いかけており、陸軍中堅層を中心に大戦果を望む声が強くあった上、陸軍の参戦を願う国民の声もあり、関東軍の挑発行動によって第二の盧溝橋事件・ノモンハン事件を通じて戦闘がはじまること警戒していたのではないかと推察している。しかし、このことが後に永野を縛り、陸軍首脳部の前で発言が出来なくなってしまったのではないかと推察している。つまり海軍が組織的に陸軍の北進を阻んだことが判明すれば陸海軍の対立が決定的となり、国防上問題となる。

8月3日、陸軍側の田中新一作戦部長と有末二十班長らがソ連態度案を海軍側に提出したが、開戦等の文字を削除するように迫り、5日に妥結した。 同日高松宮宣仁親王が昭和天皇に対して「アメリカとの戦いは避けられない」と進言しており、なおも北進しようとする陸軍の動きを止めようとしたのではないかと推察している<高松宮日記には、結局南北どちらに進んでも結果は同じことで、北に行ってアメリカが黙っていれば良いがそうもいかない。北に行けば(日ソ戦争が勃発すれば)それ以上のことになるという趣旨の文があるとし、海軍は日米交渉を延命させる見込みがある南を押したのではないかと推察している。

7月30日、昭和天皇に上奏し、海軍は日米戦争を望んでないこと、しかし三国同盟(アメリカを仮想敵国とした条約)がある限り、日米交渉はまとまらず対立関係に入る事、日米交渉がまとまらなければ石油の供給を絶たれること、国内の石油備蓄量は2年、戦となれば1年半しかもたないことを述べた上で、この上は打って出るしかないと戦争決意について述べた。しかし、勝算を問われると、自己の見解として「書類には持久戦でも勝算ありと書いてあるが、日本海海戦のような大勝はもちろん、勝てるかどうかも分かりません」と述べた。

そのため、昭和天皇の目には永野は頼りない人物に映り、永野も信任を得ていない旨を自覚していたと言う。この原因には健康状態が優れないこともあり、永野(と海軍大臣であった及川)の更迭が秋口まで水面下で画策され、首相の近衛文麿岡田啓介などがそれを支持した。そうした密議に関わった豊田貞次郎は、軍令部総長が国策に関わるのは大本営政府連絡会議のときだけで閣議への出席はしない事を示し、「海相さえしっかりしていれば総長など物の数ではない」と述べ、海相更迭を重視した。 豊田は永野の真意を知っており、永野の態度は有事への備えの上でも日米交渉を行う上でも抑止力として有効に機能しており、問題は機能を果たさなくなっていた及川海軍大臣にあると考えていたが、実際は統帥権の独立により総長の政治的影響は大きいものがあった。 結局永野に総長の座を禅譲した伏見宮博恭王の了解を取り付ける見込みがたちそうにないことや軍令承行の制約などから、総長・海相更迭案は共に消える事となった。

一方、鳥居民は7月30日の永野上奏は、日米関係を改善させるための第一歩であり、三国同盟を解決して日米交渉をまとめない限り、難しい戦争をしなければならなくなることを、昭和天皇に伝えることで、同盟問題を閣議に上げようにとしたのではないかと推察している。特に当時の欧州情勢は東西戦線ともドイツ軍が優勢で、米国はドイツ軍によるイギリス本土侵攻とソ連侵攻に神経を尖らせており、日本が同盟から脱して、世界大戦の渦から外れることができれば(陸軍の管理下にある支那駐兵問題に触れずに)日米関係を修復させる糸口ができると考えていたのではないかと推察している。日米間で支那駐兵問題が取り上げられるようになるのは欧州情勢が一段落するずっと後だった。この上奏を受けて不安に感じた昭和天皇は、日米戦争を捨て鉢の戦争と呼び、閣議で同盟問題を取り上げようとした節があるが、木戸内大臣が米国は日本の三国同盟締結を認めているとし、三国同盟を破棄しないようにと助言、さらに天皇の不安を無くすためにと召還された及川古志郎海軍大臣の助言によって無効化されてしまっている。 鳥居は、及川海軍大臣も豊田と同様、永野の真意は知っていたが、当時の及川大臣は三国同盟締結の失態から極度に責任を負わされることを警戒しており、日頃から部下たちにも「下駄を履かされるな」と言明し、組織の機能が正常に機能をしなくなっていたと指摘している。更に及川大臣は大事な局面で辞職する際、引継ぎを一切行わずに辞職してしまい、後任の嶋田海軍大臣は重要な局面で状況を十分に飲み込めないまま公務に就いたため、海軍大臣職が完全に機能不全に陥っていたことも指摘している。 戦後出版された昭和天皇の言葉をまとめたとされる独白録にも、三国同盟と石油の関係、そして同盟を結んだことに対する後悔の念が綴られている。

8月頃には北進論は、アメリカによる石油禁輸による影響から完全に影を潜めた。陸軍は年内の北進を実行に移すことを諦め、来年の北進に備えて南方資源地帯の確保を視野に入れはじめた。これに対し、永野は、日米両国間の最大の懸案となっている支那事変の早期解決を実現するため、援蒋補給路遮断を目的とした昆明封鎖作戦を昭和天皇に上奏するが、海軍の一連の動きを知った杉山元参謀総長と木戸幸一内大臣の働きによって3日で葬られてしまった。昆明を封鎖することで、日本の外交優位を作り、支那事変解決のための糸口を作ろうとしたのではないかと推察している。

帝国国策遂行要領』が陸海軍中央の折衝を重ねて起草され、1941年9月3日、大本営政府連絡会議にて決定された。最初、海軍案では「戦争ヲ決意スルコトナク」という文字があったが、これに陸軍が難色を示し、戦争決意の文字をいれるように強く迫った。海軍は苦慮し「戦争ヲ辞セザル覚悟ノモト二」とニュアンスを若干緩める形で会議はまとまった。一方で永野は、木戸内大臣の執務室を訪れ、対英米戦の施策について説明したという。鳥居は、軍令部総長の異例の訪問は帝国国策遂行要領から対米戦決意の文字を抹消するため、内大臣の協力を求めたのではないかと推察している。

この時期、永野はアメリカという国を知る者として、軍事的外交の専門家として、会議の場では常に決まったいくつかの助言している。まず、中途半端な態度で臥薪嘗胆をして交渉を長引かせたとしても何の解決にもならず、軍事、外交上、日本の立場を不利にするだけであること、臥薪嘗胆で行くなら腹を据えてアメリカに譲歩するつもりで挑んだ方が良いこと、戦うなら今以外に戦機はこないこと、但し、海軍としては戦った場合、国力の問題から2年以後は戦う自信がないことなどである。また、首相と外相には開戦に至らない様にする覚悟と勇気が政府にあるか言明を求めていた。

会議の冒頭で提案理由を次のように述べた。

帝国は各般の方面において物が減りつつあり、すなわちやせつつあり。これに反し敵側は段々強くなりつつあり。時を経れば帝国はいよいよやせて足腰立たぬ。また外交によってやるのは忍ぶ限りは忍ぶが、適当の時機に見込みをつけねばならぬ。到底外交の見込みなき時、戦を避け得ざる時になれば早く決意を要する。今なれば戦勝のチャンスあることを確信するも、この機は時と共になくなるを虞れる。戦争については海軍は長期短期二様に考える。多分長期になると思う。従って長期の覚悟が必要だ。敵が速戦即決に来ることは希望する所にして、その場合は我近海において決戦をやり、相当の勝算があると見込んで居る。しかし戦争はそれで終わるとは思わぬ、長期戦となるべし。この場合も戦勝の成果を利用し、長期戦に対応するが有利と思う。これに反し決戦なく長期戦となれば苦痛だ。特に物資が欠乏するので之を獲得せざれば長期戦は成立せず。物資を取ることと戦略要点を取ることにより、不敗の備をなすことが大切だ。敵に王手と行く手段はない。しかし王手がないとしても、国際情勢の変化により取るべき手段はあるだろう。要するに国軍としては、非常に窮境に陥らぬ立場に立つこと、また開戦時機を我方で定め、先制を占める外なし、これによって勇往邁進する以外に手がない

— 『大本営政府連絡会議議事録』[7]

その後9月6日の御前会議にて上記『帝国国策遂行要領』は付議され採択されたが、その際、昭和天皇は杉山の奉答を聞いて立腹した。その際、永野は例え話を交えて次のように発言し、天皇をなだめたとされる。吉田によれば永野のとっさの例え話は永野が海相であった時代から有名であったという。

時機を逸して数年の後に自滅するか、それとも今のうちに国運を引き戻すか、医師の手術を例に申上げれば、まだ、七、八分の見込みがあるうちに最後の決心をしなければなりませぬ。相当の心配はあっても、この大病を治すには大決心を以て国難排除を決意する外はない。思い切るときは思い切らねばならぬと思います。

天皇が「絶対に勝てるか?」と尋ねた際には、大坂の役を例とし

絶対とは申し兼ねます。事は単に人の力だけでなく、天の力もあり、算があればやらなければなりませぬ。必ず勝つかときかれても奉答出来かねますが、全力を尽くして邁進する外はなかるべし。外交で対米妥結といっても、一年や二年限りの平和では駄目で、少くも十年、二十年でなければなりませぬ。一年や二年の平和では、第一国民が失望落胆すべし — 『御下問奉答綴』

と述べたという[8]

この際、枢密院議長原嘉道その他から、「二年以後のことはわからないでは明瞭を欠く。何かもっと具体的に言えぬか」との指摘がなされたが、永野は同じ言葉を繰り返すのみであったと言う。亀井宏はこれを「韜晦するつもりはなく、彼独特の無駄をはぶいた簡潔な表現であって、当人としたらかけ値のないギリギリのところを明かしたつもりであったろう」と評した[4]

一方、大井篤は戦後、この発言について「わからぬ」という点が曖昧であり、「アイマイな言葉しかあの際使えなかったとしても、他の方法で「二年以後は(国内から石油が完全に無くなり戦うにも)負け戦になる」ことは説明すべきであった」と評した(ただし大井は御前会議の日付を9月8日としている)[9]

会議後、永野は統帥部を代表する形で次のように「亡国」という言葉を交えて語ったといという。

戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである

— [4]

吉田によれば永野個人は軍人は極力政治に関わるべきでないと言う考えを持っており、高度な政治性を持ちえる海軍三顕職にあってもそれは変わらなかったという。

真珠湾攻撃について

11月1日に行われた連絡会議で、最後の国策方針を決める際、東條首相が慣習に沿って、これまでに挙げられた

  • 1.戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
  • 2.直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する
  • 3.戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める

の3案の他にないかと出席者に尋ねた。

この時、永野は「日米不戦」を提案。この際、陸海軍は矛を収めて政府に協力し、交渉だけで問題を解決する方針を提示した。これに対し、東條英機首相兼陸軍大臣は「交渉条件を低下させることはできない」とだけ述べ、第4案はボツとされた。第1案に賛成したのは東郷茂徳外務大臣と賀屋興宣大蔵大臣だけだった。これに対し、永野は(政府が武力発動を放棄して外交だけで問題を解決することを言明しない以上、責任はもてない[10]として)第1案には反対した。2案に賛成する者はなく。陸軍は作戦準備のため、第3案を選択。結果、東條内閣(政府と統帥部)の方針は第3案「戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める」に決まり、外務省が出した乙案を基に日米外交が一方で行われることになった。

11月3日杉山元参謀総長と列立して作戦計画について昭和天皇に報告した。この時、昭和天皇が作戦(真珠湾攻撃)の決行日について尋ねられた際、永野は開戦予定日を、そのまま日本時間で答えてしまった。  一方、実松譲は著書にて12月2日に参内しZ作戦他の作戦開始日を12月8日とする裁可を得た際に次のように述べたと書いており、若干の食い違いも見られる。

御上:海軍ノ日次ハ何日カ
永野:8日ト予定シテ居リマス
御上:8日ハ月曜日デハナイカ
永野:休ミノ翌日ノ疲レタ日ガ良イト思イマス

— 1941年11月3日/「明治百年史叢書」『杉山メモ』より

もっとも、開戦直前の12月2日に、永野は再度上奏しており、その時には以下のように説明している。

武力発動の時機を十二月八日と予定しました主なる理由は、月齢と曜日との関係に因るもので御座いまして、陸海軍とも航空第一撃の実施を実施を容易にし且つ効果あらしめますためには、夜半より日出頃まで月のあります月齢二十日付近の月夜を適当と致します。また海軍機動部隊のハワイ空襲には、米艦艇の真珠湾在泊が比較的多く且つその休養日たる日曜日を有利と致しますので、ハワイ方面の日曜日にして月齢十九日たる十二月八日を選定致した次第で御座います。もちろん八日は東洋におきましては月曜日となりますが、機動部隊の奇襲に重点を置きました次第で御座います。……

— 1941年12月2日/実松譲 「第三章 真珠湾作戦と海大」『海軍大学教育』[11]

吉田俊雄は、永野は事前には真珠湾攻撃に反対していたが、ハワイ奇襲が南方進攻と連動した第1段作戦であって、第2段作戦では従来型の艦隊決戦を行なうつもりであり、研究の第一人者が自信をもっていたからこそ認めた旨を述べた[3]。 帰還後の兵士達に戦果を労ったり、訓示した時に涙を流したが、それを見た反戦派軍人は「軍令部長は年を取りすぎた」と嘆いていた。

その後

戦中(特に軍令部総長時代)は、実務は次長以下に任せ、戦死者の墓碑銘を書く日が多かったと言われている。

ただし、1943年9月、陸軍の押しで絶対国防圏構想が陸海統帥部の間で纏まろうとしていた際(同30日御前会議で裁可)には、参内した折、同構想の後方要線の防備が手付かずであることを理由に、従来通りマーシャル沖での決戦方針を堅持することを主張した(ソロモンに大量の戦力をつぎ込んでいた事もあって、絶対国防圏構想への反発は古賀峯一連合艦隊司令長官などをはじめこの時期の海軍内では一般的な見方のひとつであった)。昭和天皇は永野の意見を陸軍との調整が取れていないものとみなし、それまで陸海軍で会議を重ねた事を指して「なんのために、あれだけやったのか」と立腹した[3]。陸軍が主張する絶対国防圏の要であるグアムやサイパン島などの島々は防備化が遅れており、戦略上、前線基地であるソロモンを即放棄するわけにもいかなかったという。

1943年12月には黒木博司中尉と仁科関夫少尉からはじめて体当たり攻撃の嘆願を受けたが「それはいかんな」と却下し、永野が軍令部総長職にあった時には特攻作戦については認められなかった。

戦後アメリカ戦略爆撃調査団が永野に質問を行なった際、その中には、なぜ日本海軍は無差別潜水艦作戦を実施しなかったのかという潜水艦の用兵に関する質問があった。永野は戦争中海軍の軍令の最高責任者を長く務めたにもかかわらず「残念ですが、私は潜水艦については詳しく知りません」と陳述した。吉田俊雄は「信じられないような答え」と評した[12]。この潜水艦の用法については連合艦隊司令部も同様であり、日本海海戦以来伝統となっていた少ない海軍力でいかに敵を防ぐかという漸減邀撃戦術に捉われていた。

居眠りの名人として知られ、会議中でも目を盗んではウトウトと居眠りをしていたと云う。ただ、不思議なことに居眠りをしているにもかかわらず、大事なところでは急に目覚をさまし、いつも的を射た発言を行うことから、本当は狸寝入りをしているのではないかと疑われていたという。第四艦隊事件を巡る話し合いに、はじめてこの永野の様子を見た三代一就は「大きな口をあけて寝ていたが、会議の中盤辺りで、急に目を覚まし、今までの話を聞いていたかのように、鋭いことを発言して周囲を唖然とさせていた。どう凄いのかわからないが、怪物みたいなんですよ。」と語っている。

私生活は家庭に恵まれず、次々と妻、子息を病気・空襲(仙台空襲等)で亡くした。結婚は4回、戦後まで生存した子どもは5名である。4回目に結婚した京子夫人は永野の獄死直後に、脳出血により病没している。墓は東京都世田谷区九品仏と高知県高知市筆山(分骨)にある。九品仏浄真寺は浄土宗の寺であるが永野本人は神道信者として埋葬されている。

人物

評価

吉田によれば、永野の下で作戦部長として働いた事のある中澤佑は、普段は部下に委細を任せて責任を取るような政将であったことを絶賛しているという。 開戦への経緯については「ナリユキ任せ」として、他の首脳部一同と同様に厳しく批判しているが、この問題について、『海軍反省会』においては、永野だけの問題ではなく、旧帝国海軍という組織全体の体質に問題があったと指摘されている。当時の日本海軍の伝統では、海軍大臣にある役職の者を除き、政治に干渉してはならないと厳しく教育を受けていた。日本海軍は「サイレント・ネイビー」を合言葉(反省会では「隠れ蓑」)に、長年に渡って陸軍の横暴を見て見ぬふりしてきたことが、その後の災いに繋がったと振り返っている。 また、東條英機が昭和天皇に非常に信任されていたこともその要因の一つとされる。 亀井宏は職務上永野以外の人物だったとしても統帥部の頂点にいた人物が、戦争に反対することは不可能であった旨を述べ、永野に同情的である。

親族

本人
  • 戸籍上の表記(戦前):永野脩身  (戦後):永野修身
祖父母
  • 祖父:永野種次郎
  • 父: 永野春吉(種次郎長男、戸籍上の表記:「土(つち)」に「口(くち)」)
  • 母: 永野佐喜(元衆議院議員の田村元曽祖叔母
  • 養父: 永野正路(永野春吉長男) 
兄弟姉妹
  • 長兄:永野正路(検事)
  • 次兄:永野道里
  • 三兄:永野敬長
  • 妹 :永野國子(永野春吉孫、両親死亡のため母実家である永野春吉養女となる。のちに永野正路養女)
妻(結婚年順)
  • 妻: 永野りつ(山崎家より嫁す。りつ初婚。死別。婚姻期間 1907-1910)
  • 妻: 永野信子(國澤家より嫁す。信子初婚。死別。婚姻期間 1913-1916)
  • 妻: 永野ユウ(三浦家より嫁す。ユウ初婚。死別。婚姻期間 1917-1930)
  • 妻: 永野京子(岩屋家より嫁す。京子再々婚。婚姻期間 1931-1947 前夫・後藤恕作と死別後に再婚。婚姻時期より参考文献に登場する永野修身夫人とは永野京子のことである。)
  • 長女: 永野田鶴子(たづこ)母:りつ 1909-1925(粟粒結核で死亡)
  • 次女: 永野侯子 (きみこ) 母:信子 1916-1916(生後半年で死亡)
  • 三女: 永野寿子        母:ユウ 1918-1978
  • 長男: 永野浩         母:ユウ 1919-1998
  • (男子)               母:ユウ 1930-1930(出産時母子ともに死亡・入籍せず)
  • 次男: 永野誠        母:京子 1933-
  • 四女: 永野美紗子     母:京子 1934-
  • 三男: 永野孝昭       母:京子 1937-1945(仙台空襲で死亡)
  • 五女: 永野紗貴子     母:京子 1939-

年譜

脚注

  1. ^ 大井(1953) 「15 トラック異変とその波紋」
  2. ^ 高木惣吉 「第四章 大陸に戦火ひろがる」内「政党政治の崩れ去る日」『自伝的日本海軍始末記』 光人社〈光人社NF文庫〉、1995年、ISBN 4-7698-2097-6。(初出1971年)
  3. ^ a b c d 吉田(1991) 「第一章 永野修身」
  4. ^ a b c 亀井宏 「人物抄伝 太平洋の群像2 永野修身」『奇襲ハワイ作戦 (歴史群像太平洋戦史シリーズ1)』 学習研究社、1994年、ISBN 4-0560-0367-X
  5. ^ 野村實 「実らなかった山本五十六海相案」『山本五十六再考』 中央公論社〈中公文庫〉、1996年、ISBN 4-12-202579-6。(初出1988年)
  6. ^ ソ連と戦争すれば、アメリカが出てこないと言うわけではないでしょう。支那事変をこのままにして戦争をすれば、アメリカが適当な時期をつかんで攻めてくるのは知れきったことです。海軍はアメリカに備えるだけで精一杯なのに、ソ連を相手にせよと言われてもできるものじゃありません。対ソ開戦などとバカげた話はしないで下さい
  7. ^ 瀬島(2000) 「第七章 東条内閣の登場と国策の再検討」
    出典:参謀本部第二〇班(戦争指導)保管『大本営政府連絡会議議事録』(戦後防衛研究所所蔵、当時参謀総長だった杉山元がメモしたものを同班がまとめたもの)
  8. ^ 瀬島(2000) 「第七章 東条内閣の登場と国策の再検討」
    出典:参謀本部第二〇班(戦争指導)保管『御下問奉答綴』(戦後防衛研究所所蔵、当時参謀本部第一部長だった田中新一中将の日誌に基づく手記に拠る)
  9. ^ 大井(1953) 「2 船はそんなに沈まない」
  10. ^ 既に米政府は日本本土に対する先制攻撃作戦を許可されていた。海軍は、日本周辺に大量の爆撃機が配備されつつあること、来年初頭には米陸軍の戦力配備が完了し、打つ手がなくなることをつかんでいた(フライングタイガース隊を参照[1])。永野は、統制が利かない日本が戦機を逸脱して、抵抗(本土決戦)を試みることになることを恐れたとされる。
  11. ^ 実松譲 「第三章 真珠湾作戦と海大」『海軍大学教育』 光人社〈光人社NF文庫〉、1993年、ISBN 4-7698-2014-3。(初出1975年)
  12. ^ 吉田(1991) 「序章」

参考文献

  • 半藤一利 「永野修身と杉山元」『指揮官と参謀 コンビの研究』 文藝春秋〈文春文庫〉、1992年、ISBN 4-1674-8302-5。 (初出1988年)
  • 吉田俊雄 「序章」「第一章 永野修身」『四人の軍令部総長』 文藝春秋〈文春文庫〉、1991年、ISBN 4-16-736004-7。(初出1988年)
    • 永野の名を関してはいないが永野について200項近くと多くの分量を割いている。著者は副官を務めた。
  • 片岡紀明 「『われ開戦の責を負う』 軍令部総長・永野修身の胸中」『正論』1998年6月号、産経新聞社。
  • 半藤一利・秦郁彦横山恵一戸高一成 「永野修身」『歴代海軍大将全覧』 中央公論新社〈中公新書ラクレ〉177、2005年。
  • 大井篤 『海上護衛戦』 (初出1953年、以後数回に渡り出版社を変え再版)
  • 瀬島龍三 『大東亜戦争の実相』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年、ISBN 4-569-57427-0。(1972年11月のハーバード大学での講演を出版、初出1998年)
  • 永野美紗子 『海よ永遠に 元帥海軍大将永野修身の記録』 南の風社。
    • 著者は実子(四女)
  • 山岡兼三 真珠湾への道 日米開戦65年(6)『日本戦略コラム』内

関連項目


公職
先代
大角岑生
日本の旗 海軍大臣
1936年3月9日 - 1937年2月2日
次代
米内光政
軍職
先代
米内光政
連合艦隊司令長官
第24代:1937年2月2日 - 12月1日
次代
吉田善吾
先代
伏見宮博恭王
軍令部総長
第16代:1941年4月9日 - 1944年2月21日
次代
嶋田繁太郎