黒木博司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒木 博司(くろき ひろし、1921年(大正10年)9月11日 - 1944年(昭和19年)9月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大尉(事故死のために一階級特進のみで海軍少佐)。岐阜県益田郡下呂村(現:下呂市)出身。黒木家は尊皇の志篤く、父親は医師として近隣の貧しい農民の医療に貢献した。
太平洋戦争末期、旧日本海軍がもちいた特攻兵器、人間魚雷回天を発案し、戦力化にも多大な貢献をした一人である。
目次 |
[編集] 略歴
- 岐阜中学卒業後、1938年(昭和13年)に海軍機関学校に入学(51期)。機関学校生徒の頃から東京帝国大学の国史学教授平泉澄に深く傾倒していたという。
- 1941年(昭和16年)11月17日に当時旧式だった戦艦「山城」に着任し、太平洋戦争開戦を迎える。
- 1942年(昭和17年)7月、海軍潜水学校に入学し、12月に甲標的講習員(第六期)となる。
- 1943年(昭和18年)10月、同室の仁科関夫(海軍兵学校-71期)と「魚雷を人間が操縦し、敵艦への命中率を高める」という、回天の原型となる物を考えたという。この人間魚雷構想を幾度も嘆願するが、海軍は当初生還の見込みの無い出撃はあり得ないとして考慮されなかった。
- 1944年(昭和19年)2月、人間魚雷構想が取り入れられ、開発が開始される。8月には「回天」として採用される。
- 1944年(昭和19年)9月6日夕方、山口県大津島の訓練基地から樋口孝大尉が操縦する回天に指導の為に同乗、樋口大尉と共に遭難、殉職。艇内に残された遺書により、亡くなったのは9月7日の早朝と推測されている。この回天が発見されたのは、9月7日9時のことであった。
[編集] 人物
- 幼少より成績優秀、努力家であったという。海軍機関学校(51期)に入ったのは岐阜県では黒木1名であったという。
- 海軍機関学校在学中、水雷術の教官が「最も理想とする魚雷は何か」という質問に対し、「人間が操縦すれば百発百中」と答えたという。在学中(1938年~1941年)に人間魚雷の考えがあったと推測もできる。
- 明敏な洞察力を持ち、国体の将来を憂慮していたという。国際情勢の変転と戦局の行方を予見しており、1943年頃、イタリアは裏切り、ドイツは敗れるであろうという内容の短歌を詠んでいる。
- 幼少より、忠義尊皇を両親より訓育され、機関学校では古風会に入会した縁で平泉澄に師事するなど、尊王心の非常に篤い人物であった。また、才気煥発(さいきかんぱつ)の熱血漢でもあった。甲標的の艇長になるべく潜水学校に入校するが、甲標的の艇長は兵科将校に限られ、機関科将校には資格がなかった。しかし、並々ならぬ情熱で実現している。そして、ガダルカナルの敗北後アメリカの物量に押される日が続くと、甲標的によるパナマ運河の特攻爆砕を軍令部に直訴したが聞き入れられなかった(この時既に同様の計画が伊400型潜水艦によって準備されていた)。
- 回天の生みの親の一人。仁科関夫少尉と出会い、「回天」の具体的プランが生まれたとされる。なお、黒木は海軍上層部に人間魚雷構想を請願するさい、全文血文字の文書を提出している。1943年4月~1944年3月に毎日記述した日記「鉄心之心」は、憂国の内容に富んだ全文血文字の日記であった。
[編集] 事故当時の状況・報告書
1944年9月6日の事故の原因は、時化で訓練用の回天「一号的」が波に叩かれて、急激なダウンにより水深20mの海底の泥に突き刺ささり、救助までの間に艇内の酸素がもたず、酸欠により黒木、樋口は殉職した。普段穏やかな瀬戸内海にあって、この日は波と風があった。板倉司令や同僚の仁科中尉の反対に対して、黒木は「天候が悪いからといって敵は(侵攻)まってくれないぞ」と訓練開始を主張し、また樋口大尉も訓練の開始を請願した。そこで、訓練開始となり、襲撃訓練が行われた。陸上の基地より発射された、「一号的」は、波に叩かれて、急激なダウンにより黒髪島沖の海底の泥に突っ込んでしまう。同一コースの海上を走っていた2隻の魚雷艇は一隻は折り返し地点で、波を被って機関部に進水して航行不能に、もう一隻は波が荒くて、海底に「一号的」が突き刺さったときにできる気泡を見つけられずに通過してしまった。2名は翌日発見されたが、この事故により殉職する。艇内に残された報告書、黒木博司と樋口孝は、約10時間艇内に閉じこめられ、酸欠により死亡していた。その10時間のあいだに、佐久間艇長にならい、泰然として報告書と遺書をしたためている。(以下の記述は要約である)
- 事故状況
- 17時40分に出発。蛇島に向かって針路を取り、18時に180°取舵。18時10分に潜航。18時12分(推定)に浮上を行なうが、突然急激に傾斜する。深度計は18mを示し、海底に着底する。直ちに緊急停止を行う。
- 応急処置として、5分間隔に主空気を1分間排気(空気の泡で海上に知らせるための処置)。電動縦舵機を停止。18時45分~19時25分にかけて数回主空気を排気した後、空気の排気ができなる。
- 回天の改善点
- 悪天候の浅深度高速潜航の実験が必要である。
- 過酸化水素水(酸素供給のため)の曹の設置。
- 事故に備え、用便器が必要。(艇内の温度を上げないため)遺書に「用便器が必要。」とある。
- 2人が搭乗時は7時間が限界。
- 航外灯が必要。
- 応急ブローが必要。
- 遺書
- 平泉澄、仁科関夫、先輩友人などへの言葉の記述。事故は私の責任である記述。「天皇陛下万歳 大日本帝国万歳 帝国海軍万歳」の記述。辞世の句などを記述している。
- その後の状況(艇内に残された文書、壁書による)
- 19時55分、酸素の消費を抑えるために睡眠。9月7日4時に起床。4時5分に万歳三唱。4時45分に君が代を斉唱。この後呼吸困難になる。
- 6時現在は2名とも生存(樋口孝の遺書では6時10分まで生存)。
[編集] その他
- 1964年(昭和39年)、益田郡下呂町(現・下呂市)の信貴山山頂に楠公社が創建され、併せて、黒木博司など回天で出撃し殉職した138柱が合祀されている。楠公社の祭神は楠木正成であるが、これは1944年11月8日の回天の初出撃の部隊名「菊水隊」が楠木正成の家紋「菊水」に由来することからである。
- 墓は岐阜県下呂市の温泉寺にある。
[編集] 黒木博司に関する書籍
- 『ああ黒木少佐』 松平永芳 私家版 1960年
- 『ああ黒木少佐』 井星英 私家版 1960年
- 『慕楠記』(慕楠黒木博司の記録) 平泉澄 岐阜県教育懇話会 1975年
- 『ああ黒木博司少佐』 吉岡勲 教育出版文化協会 1979年
- 『続・あゝ伊号潜水艦』 板倉光馬 光人社NF文庫 1980年
- 『回天菊水隊の四人 -海軍中尉仁科関夫の生涯』 前田昌宏 光人社NF文庫 1989年

