松山城 (備中国)

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松山城
岡山県
松山城本丸(平成の復元後)
松山城本丸(平成の復元後)
別名 高梁城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 複合式望楼型2重2階(1681年改)
築城主 秋庭三郎重信
築城年 1240年
主な改修者 三村元親、水谷勝宗
主な城主 三村氏、水谷氏、板倉氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 現存天守・櫓・塀、石垣、土塁
指定文化財 国の重要文化財(天守、二重櫓、土塀)
国の史跡
再建造物 櫓・門・塀
位置 北緯34度48分32.68秒 東経133度37分20.29秒 / 北緯34.8090778度 東経133.6223028度 / 34.8090778; 133.6223028座標: 北緯34度48分32.68秒 東経133度37分20.29秒 / 北緯34.8090778度 東経133.6223028度 / 34.8090778; 133.6223028
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代表紋章:左三つ巴

松山城(まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下にあった日本の城山城)である。別名、高梁城(たかはしじょう)。国の史跡日本100名城四国愛媛県松山市にあった松山城 (伊予国)との混同を避けるために、一般的には「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ぶ。城跡が国の史跡江戸時代に建造された天守や二重櫓などが国の重要文化財に指定されている。標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある[1]

概要

城のあった臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500m、1時間ほどの道のりの山道を経て至る。

江戸期備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・の政務を行った。

現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されている。そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には岡山県立高梁高等学校がある。

歴史・沿革

鎌倉時代 - 安土桃山時代

天守(重要文化財)
三の平櫓東土塀(重要文化財)
 二重櫓(重要文化財)
石垣群

仁治元年(1240年)、秋庭三郎重信備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。

城主は時代と共に上野氏庄氏三村氏と変遷する。戦国時代三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。

元亀元年(1570年)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つ為に出撃した際に、直家と通じた庄高資庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571年)2月に穂井田元清の協力の元で庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。

江戸時代

近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。

慶長4年(1600年関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次政一)を置いた。この頃、麓に御根小屋が築かれた。

元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3千石で立藩するが、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。 翌寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。

水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老大石良雄が城番となった。元禄8年(1695年)、安藤重博が6万5千石で入封するが、正徳元年(1711年)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。

慶応4年1月18日1868年2月11日戊辰戦争朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断で無血開城した。

近現代

  • 明治6年(1873年廃城令が公布され、御根小屋は取り壊された。また、山上の建物は放置され次第に荒廃していった。
  • 昭和初期に山上の建物が修復され、昭和16年(1941年)には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受ける。
  • 昭和25年(1950年文化財保護法の施行により天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国の重要文化財に指定される。
  • 昭和31年(1956年11月7日、国の史跡に指定される。
  • 昭和35年(1960年)高梁市が管理団体となる。
  • 平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。
  • 平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(68番)に選定された。

天守

松山城の天守は、構造などは不明であるが毛利氏時代から、小堀氏が城番で入城する慶長の間にはすでに存在していたと考えられている[2]。 現在見られる天守は、天和元年(1681年)に2代水谷勝宗が造営したとされるが、慶長5年(1600年)に小堀政次、政一が建てたものを、2代水谷勝宗が改修し、現在のような姿になったともいわれる[3]

現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至った[3]。また天守に通じる石段は、敵の侵入を遅らせるために、直角に曲げられている。1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られているが、城内で火を使うことは禁じられ[要出典]、ほとんど使われることはなかったといわれている。一段高い場所にある「装束の間」は、城主の御座所であるとされ[3]、また城が攻められた時に城主が自害をするための場所であるともされる[2]。2階には、愛宕権現成田明神など9柱の神を祀った「御社壇(ごしゃだん)」と呼ばれる舞良戸で仕切られた部屋がある。外観は、建物高さが約11mほどで現存する12か所の天守の内では最も小規模であるが、12か所の内では最も高所にある[4]。腰板張りで1重目の唐破風出窓や2重目の折れ曲がり出窓など、縦連子窓を多用し、1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられている[3]

問題点

石垣崩落の危険性

大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪石垣は圧巻である。しかしながら、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっている。更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。これらの影響で上部の石垣が変形しつつあり、将来崩落する危険を孕んでいる。

このため、平成11年(1999年)より高梁市教育委員会は京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面にペルーマチュ・ピチュ遺跡などで地滑りの観測をしているのと同様の不安定岩盤斜面監視システムを設置し、調査・観測している。

獣害

臥牛山には野生のが生息しており建造物に登り壁や瓦を破損させるなどの被害が出ていた。このため平成の復元整備の際に、主要建造物の周囲に高圧電線の柵を張り巡らせ侵入を防止する対策を施している。また、登城道路脇にはフェンスが張られ、猿と同時にが麓に降りて農作物を荒らす被害を防止している。

雲海

竹田城兵庫県)のように時期や条件などが合えば雲海に浮かぶ姿が見られる。

  • 時期:9月下旬から4月上旬の早朝、特に11月上旬から12月上旬は可能性が高い。12月中旬から2月末までは積雪になる事もあるので注意。時間は明け方から午前8時頃まで。
  • 条件:朝方と日中の気温差が大きい事。現地の濃霧注意報などを参考にする事。

現地情報

松山城 (備中国)の位置(日本内)
松山城 (備中国)
備中松山城

交通アクセス

利用案内

  • 公開時間
    • 4月~9月:9時~17時30分
    • 10月~3月:9時~16時30分
  • 休城日:12月28日~1月4日
  • 入城料:大人 300円、小中学生 150円、団体割引あり

その他

大河ドラマ「真田丸」のオープニングに使用された[5]

脚注

  1. ^ 竹田城跡だけじゃない、「天空の城」人気岡山・備中松山城、福井・越前大野城などMoneyzine, 2014年05月11日
  2. ^ a b 西ヶ谷恭弘 監修『復原 名城天守』学習研究社〈歴史群像デラックス版〉、1996年。ISBN 4-05-500160-6 
  3. ^ a b c d 三浦正幸 監修『【決定版】図説・天守のすべて』学習研究社〈歴史群像シリーズ特別編集〉、2007年。ISBN 978-4-05-604634-2 
  4. ^ 村田修三 監修『ビジュアル・ワイド 日本名城百選』小学館、2008年。ISBN 978-4-09-681564-9 
  5. ^ 「おいでよ!高梁」 岡山県高梁市

関連項目

参考文献

  • 西ヶ谷恭弘 編『定本 日本城郭事典』秋田書店、2000年。ISBN 4-253-00375-3 
  • 『国指定重要文化財 備中松山城』 現地配布パンフレット

外部リンク