水谷勝宗

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水谷勝宗
時代 江戸時代前期
生誕 元和9年(1623年
死没 元禄2年2月19日1689年4月8日
改名 弥太郎(幼名)、勝宗
戒名 栄興院殿健岑全勇大居士
墓所 岡山県高梁市和田町の定林寺
官位 従五位下左京亮
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
備中松山藩
氏族 水谷氏
父母 水谷勝隆寺沢広高
兄弟 勝宗勝能仙石政俊正室、
一柳直照正室、水野忠久正室
青山幸成松尾相氏娘栄子[1]
勝美勝時平山常時室ら
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水谷 勝宗(みずのや かつむね)は、備中国松山藩2代藩主。

生涯[編集]

初代藩主・水谷勝隆の長男。寛文4年(1664年)、父の死去によりその跡を継ぐ。このとき、弟の勝能に2000石を分与した。寛文6年(1666年)、京極高国が改易されたとき、丹後宮津城の守備を務めた。貞享元年(1684年)、外様大名から譜代大名に列せられたが、このために江戸城における勤務が極端に長くなったため、しばらく藩政は嫡男の勝美と家老の鶴見良俊が担当した。勝宗の藩政においては、新田開発や水路の建設、城下町の建設などに尽力している。また、3年にわたって松山城の改修を行っており、現存する重要文化財の天守は勝宗の代に現在の姿となったものである。元禄2年(1689年)閏正月に家督を勝美に譲って隠居し、同年2月19日、桜田屋敷で死去した。享年67。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 松尾家は京都の松尾大社神職出身の地下人であり、栄子はその縁で勝宗死後に右衛門佐の引き立てで大奥に出仕した(参考文献『大系日本の歴史』10 p.16-20)