後宇多天皇
後宇多天皇 | |
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元号 |
文永 建治 弘安 |
時代 | 鎌倉時代 |
先代 | 亀山天皇 |
次代 | 伏見天皇 |
誕生 | 1267年12月17日 |
崩御 |
1324年7月16日 大覚寺殿 |
陵所 | 蓮華峯寺陵 |
諱 | 世仁 |
別称 |
大覚寺殿 金剛性 |
父親 | 亀山天皇 |
母親 | 藤原佶子 |
子女 |
邦治親王(後二条天皇) 奨子内親王 尊治親王(後醍醐天皇) 性円法親王 禖子内親王(崇明門院) |
後宇多天皇(ごうだてんのう、文永4年12月1日(1267年12月17日) - 元亨4年6月25日(1324年7月16日)は、鎌倉時代の第91代天皇(在位:文永11年1月26日(1274年3月6日) - 弘安10年10月21日(1287年11月27日 ))。諱は世仁(よひと)。
系譜
亀山天皇第二皇子、母は左大臣洞院実雄の娘、皇后藤原佶子(京極院)。
- 後宮:源(堀川)基子(西華門院)(1269-1355) - 堀川具守女、久我基具養女
- 第一皇子:邦治親王(後二条天皇)(1285-1308)
- 典侍:藤原(五辻)忠子(談天門院)(1268-1319) - 五辻忠継女、花山院師継養女
- 妃:姈子内親王(遊義門院)(1270-1307) - 後深草天皇皇女
- 後宮:瑞子女王(永嘉門院)(1272-1329) - 宗尊親王王女
- 後宮:藤原氏(一条局) - 橋本実俊女
- 第五皇子:性勝法親王(良治親王)(?-1354) - 大覚寺
- 後宮:掄子女王(1265-?) - 宗尊親王王女
- 後宮:藤原氏 - 五辻宗親女
- 第三皇女:愉子内親王
- 後宮:藤原氏 - 花山院長雅女
- 皇女 - 落飾
- 後宮:某氏(新三位局) - 父不詳
- 皇子(1307-?)
系図
88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | 恒明親王 〔常盤井宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | 96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 康仁親王 〔木寺宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
後嵯峨上皇の意志により文永5年(1268年)生後8か月で立太子。同11年(1274年)1月に亡き上皇の意向を継いで亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚。亀山上皇による院政が行われた。
治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生した。
弘安10年(1287年)、後深草上皇が、自分の血統(持明院統)ではなく、弟亀山上皇の血統(大覚寺統)が天皇になったのを不満に思っていたため、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子・伏見天皇に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。
長子である後二条天皇(94代)の治世、正安3年(1301年)から徳治3年(1308年)まで院政を敷いた。
徳治2年(1307年)、遊義門院が亡くなったことが契機となり、仁和寺で落飾(得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌3年(1308年)には皇子である後二条天皇が崩御したため、天皇の父としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。このころから、真言密教に関心を深め、正和2年(1313年)、かねてからの希望であった高野山参詣を行った。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労してしまい、供をしている者が後宇多天皇に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。真言密教に関する著作として『弘法大師伝』『御手印遺告』などがある。大覚寺で院政を執ったときに法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨(永代にわたり有効たる宣旨)を出した(ただしこの永宣旨は明治維新を迎えると廃止された)。
持明院統の花園天皇を挟んで、もう一人の皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318年)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。元亨4年(1324年)6月25日、大覚寺御所にて崩御。
晩年は後二条天皇の長子(自らの嫡孫)である皇太子邦良親王の即位によって大覚寺統が早期に一本化することを望んでいたと言われ、中継ぎに甘んじない後醍醐天皇との父子仲は次第に疎遠になっていき、その結果院政停止・天皇親政に至ったと推測されているが、院政停止は後宇多院自身の希望ともいわれ、なお考証を要する。
陵墓・霊廟
大覚寺殿にて崩御し、その3日後に蓮華峰寺の傍山に葬られた。現在は京都市右京区北嵯峨朝原山町の蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)となっている。
諡号・追号・異名
遺詔によって宇多天皇の追号に後の字を冠した後宇多院を奉った。嵯峨天皇の離宮であった大覚寺を再興しそこで院政を執ったため、大覚寺殿と称され、のちには亀山・後宇多の皇統を指す語にもなった。ほかに御所として使用された万里小路殿や常磐井殿に基づく異称もある。また、落飾(得度)したため、僧侶としての法諱・金剛性がある。