さいたまブロンコス

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埼玉ブロンコス
埼玉ブロンコス
愛称 ブロンコス
所属リーグ 日本の旗 bjリーグ
創設年 1982年
チーム史
本拠地 埼玉県
アリーナ
所沢市民体育館
収容人数 4000
チームカラー グリーン
代表者 成田俊彦
ヘッドコーチ ナタリー・ナカセ
公式サイト http://www.saitamabroncos.com/
のジャージ
チームカラー

ユニフォーム

のジャージ
チームカラー

ユニフォーム

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埼玉ブロンコス(さいたまブロンコス)は、bjリーグに所属し、埼玉県所沢市さいたま市を中心とした埼玉県全域をホームタウンとするプロバスケットボールチームである。

概要

株式会社埼玉ブロンコス
Saitama Broncos Co., Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本の旗 日本
359-1144
埼玉県所沢市西所沢2丁目8番24号
設立 1996年(平成8年)7月26日
業種 サービス業
法人番号 3030001027862 ウィキデータを編集
事業内容 バスケットボールの興行
代表者 代表取締役社長兼GM 成田俊彦
外部リンク 埼玉ブロンコス
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チームの特徴はハーフコートバスケットで、ボールを持ったら相手陣内にゆっくり入り、ショットクロックが0になる寸前にシュートを打つなど、比較的ゲームを遅めに進行させるのがブロンコスの特徴である。この遅いバスケにペースを乱し、大阪エヴェッサ高松ファイブアローズなどの攻撃力の高いチームに勝つことも少なくない。また、攻撃力は低いが、守備力が高いのも特徴で、2008年1月27日の富山グラウジーズ戦(富山も埼玉と同じく、ゲーム進行を比較的遅めに展開するチームである)では59-49という低スコアで勝利したこともある。 得点力のある外国人や日本人が加入してもスコアや勝ち星が伸びないのは、そのプレイスタイルが大きく影響している。

チームカラー

  • チームカラーはグリーン。

ユニフォームスポンサー

過去のユニフォームスポンサー

ユニフォームサプライの遍歴

スポンサー


歴史

マツダオート東京 - アンフィニ東京

元母体はマツダオート東京(のちに1991年からアンフィニ東京に社名変更。現・関東マツダ)のバスケットボール部。1982年に結成し、所沢市を拠点として活動を続けた。ブロンコスの愛称は暴れ馬という意味で、創部2年目の1983年サンタクララ大学のコーチだったランダから同大学チームのニックネームを寄贈されたことによる。1987年から旧・日本リーグ1部に定着したが、最高成績は1987 - 1988年度の6位で、下位争いがやっと。だが、1992年にはオールジャパン準優勝を果たしている。

クラブ化後

不況の影響に加え2部降格決定も重なり1996年を最後に実業団チームとしては廃止されたが、市民の根強い応援により当時の広報で現GMの成田俊彦の発案で市民資本のクラブチームとして再スタートを切る。アンフィニ時代は東京実業団連盟に加盟していたが、チーム始動時には既に登録申請を締め切られていた。だが埼玉実業団連盟の登録期限前だったのと、所沢でホームゲームを開催した経験もあって所沢を本拠地と定め、チーム名を「ME所沢ブロンコス」とした。MEは「マツダアンフィニ東京・ポート小手指店」の略で、企業名を冠した名目上の実業団である。

大会の規定で日本リーグから降格して関東実業団リーグ戦からの出直しとなったが、全日本実業団2連覇を果たし、名門住友金属ジャパンエナジーの日本リーグからの撤退に伴い、1998-1999年度に日本リーグ2部に復帰。チーム名も「所沢ブロンコス」に改めた。その後リーグ戦の組織改正に伴って1999 - 2000年度から現在の実質的な2部リーグとなる新・日本リーグに加盟することになった。その際、1999年限りで休部となった三井生命の森一誠、財前統誉士、稲野辺聡の選手3名を獲得したが、会社に籍を残したままだったため、当時の実業団連盟規定により出場選手登録を認められなかった。3選手とプロ契約を結べば認める旨を通達するも三井生命及び3選手は難色を示したため、このシーズンは3選手を欠いて臨まざるを得なかった。その後、連盟から実業団形態に戻すよう通達されるもブロンコスは引き下がらず、結果、日本リーグの選手登録規定も変更された。(もっとも、所沢ブロンコスの日本リーグ参入も特例で認められた節がある)

チームは2006年にさいたま市のさいたまスーパーアリーナなどで開催される予定の世界選手権大会の開催をきっかけに、2000年からこれまでの所沢市に加え、さいたま市もホームタウンに加えることになり、チーム名も「さいたまブロンコス」に変更された。新リーグになってからは前年度出場停止となった3選手の出場を認められたこともあって上位に参加するようになって2002-2003年度、そして2003-2004年度のシーズンに2連覇を達成した。MVPはそれぞれチャールズ・ジョンソンアイザック・ソジャナー

しかし、2004年8月に新潟アルビレックス(元・大和証券バスケット部)とともにプロリーグ(後にリーグ名・bjリーグと決定)を結成する構想を明らかにした。これまでの企業重視の運営に疑問を感じたさいたまと新潟の2チームが中心となって、全国6都市を本拠とする地域密着型の新リーグを作ることを計画したものである。日本バスケットボール協会が日本リーグ機構からの脱退を認めていなかったが、2005年4月に脱退が認められた。(協会主導のプロリーグ計画は一歩後退したセミプロ形式の日本バスケットボールリーグとして2007年に発足された)

bjリーグでの経歴

2005-2006シーズン

2005年度のbjリーグ発足時にチーム名を「埼玉ブロンコス」に変更した。これは従前の所沢、さいたま両市を含む埼玉県全域にホームタウンを広げ、県民チームとしての定義を目指す意図があった。

リーグ初年度の2005-06シーズンの前半に、大黒柱のデービッド・ベンワーを怪我で失うアクシデントに見舞われ、19連敗を喫するなど、ブロンコスは不振に陥った。この19連敗は2011年12月に高松ファイブアローズが20連敗を喫するまでbjリーグのワースト連敗記録だった。アシスタントコーチとして残留したベンワーと入れ替わる形で監督のチャールズ・ジョンソンが選手としても出場、またシーズン途中でアメリカのABAよりマーカス・トニーエルを、福岡レッドファルコンズから地元出身の庄司和広を獲得したものの低迷は終わらず、勝率2割に満たない7勝33敗でリーグ最下位としてシーズンを終えた。埼玉ブロンコスのブースター(ファン)は、リーグにより「ベストブースター賞」を贈られた。

2006-2007シーズン

2006-07シーズンはヘッドコーチがジョンソンから山根謙二に交代。15勝25敗の成績でチームを昨年度の最下位から脱出、シーズンを6位で終えた。山根は契約年数を1年残していたが、解任という形でブロンコスを去った。

2007-2008シーズン

2007-08シーズンは前年度限りで現役引退したベンワーがヘッドコーチに就任。21勝23敗と過去最高の成績を収めるが、混戦となった東地区で4位となり、悲願のプレーオフを逃した。しかし、プレーオフ圏内である3位以内を逃したのも、東地区が混戦になったからであり、大阪エヴェッサから連勝するなど、埼玉ブロンコスのチーム力は確実にアップしてきている。事実としてプレーオフに進出する西地区3位のライジング福岡の成績を上回っている。ヘッドコーチにはベンワーが残留。bjリーグのブロンコスにおいて、初めて2年連続で指揮を握るヘッドコーチとなる。

2008-2009シーズン

ベンワーをヘッドコーチに留任させたブロンコスは、ゴードン・ジェームス高松ファイブアローズに移籍したのを皮切りに外国人を総入れ替え、ジェームズが移籍した高松からレジー・ウォーレンスティーブ・ホーンを獲得、ドラフトではアーリーチャレンジ制度で昨シーズン途中からプレイしていた北向由樹を指名し、新潟アルビレックスBBから寺下太基を獲得、育成指定選手2名と選手契約をするなど、新規選手の獲得に消極的だった例年とは違い積極的な補強を行った。

初のプレイオフの進出を目指すべく始動した2008-09シーズン、bjリーグ創設時のチームで唯一開幕戦未勝利だったブロンコスは富山グラウジーズに勝利すると、北向、庄司、清水ら日本人選手の活躍で破竹の勢いで開幕5連勝と波に乗り、プレイオフ進出の悲願がかなうかに見えた。しかし、新規参入の浜松・東三河フェニックスに連勝をストップさせられると、そこからあっけなく5連敗、そして相性の悪い仙台89ERS東京アパッチ相手に歯が立たないどころか、開幕戦に連勝した富山グラウジーズにも連敗を喫するなど歯車がかみ合わず、結局新潟アルビレックスBBとの4位争いに敗れ、創設から4年連続でプレイオフ進出を逃す結果となった。

2009-2010シーズン

前シーズン終了後、ヘッドコーチのベンワーとアシスタントコーチの青野和人は契約満了に伴い退任した。後任は元富山グラウジーズの福島雅人が就任した。

選手の補強では、庄司和広安藤毅などが退団したが、宍戸治一波多野和也らが加入。外国人選手も昨シーズンに続いて総入替をしてシーズン前にマリオ・ジョインターなど5名が入団。シーズン中にもカービー・レモンズを補強し、外国人選手は最終的に合計6名となる。

2009-10シーズンは開幕戦の仙台89ERS戦からいきなりの7連敗を喫するスタートとなったが、その直後に4連勝。2009年末までに8勝10敗まで盛り返してプレイオフ進出争いに加わる。しかし2010年になってからは黒星が嵩み、2月13日の大阪エヴェッサ戦から6連敗。3月6日、怪我人が出て選手層の薄さに苦しむ高松ファイブアローズには連勝して連敗をストップさせたが、続く3月13日の大分ヒートデビルズ戦からは再び10連敗を喫し、プレイオフ進出が遠ざかる。終盤は、首位の浜松・東三河フェニックスにシーズン初勝利するなど幾分持ち直したが、結局シーズン中に6名もの外国人ロスターが在籍していたにも関わらず、東地区最下位の富山グラウジーズと同勝率、得失点差で上回っただけの5位でシーズンを終え、またもプレイオフ進出を逃す結果となった。

2010-2011シーズン

福島雅人ヘッドコーチは1シーズンで退団し、新ヘッドコーチには前ハワイ大ヘッドコーチのボブ・ナッシュが就任。

米本聡が引退、チームのbjリーグ参入時より在籍していた清水太志郎もFA権を行使して宮崎シャイニングサンズに移籍。 bjリーグ開幕時の6チームで、開幕当初から在籍している選手が一人もいなくなったのは埼玉ブロンコスが初めてである(大阪エヴェッサも開幕当初から在籍している日本人選手は一人もいない)。外国人選手も再び総入替を敢行し、元NBA選手のケニー・サターフィールドやナッシュHCの子息のボビー・ナッシュらを獲得。開幕後に元高松琉球ジョージ・リーチも補強。

開幕戦はホーム所沢で、現役日本代表石崎巧が加入し注目を集める島根スサノオマジックと対戦し、勝利を収める。しかし、その後はなかなか連勝ができず、5連敗を2度、4連敗を1度喫するなど負けが込み、東地区最下位に沈んでいたが、12月19日の大分戦で勝利すると次節の東京戦でシーズン初の連勝。以降も勢いは衰えず、年を跨いでbjリーグ参入後チーム新記録となる7連勝を達成し、東地区5位まで浮上して前半戦を終えた。

後半戦に入り、チームは新潟とプレーオフ進出圏内の4位を争った。しかし、直接対決で連敗してプレーオフ進出が遠のく。

3月11日、東日本大震災が発生。この震災の影響でチームは活動を休止し、シーズンを終えた[1]。チームが活動を休止した後、急遽もうけられたリーグの選手救済制度により、寺下、北向、椎名、クライバー、リーチ、サターフィールドは活動を継続するチームにレンタル移籍している。

2011-2012シーズン

ダラス・マーベリックスGMのドン・ネルソンの推薦によりディーン・マーレイが新ヘッドコーチに就任。元東京アパッチの得点王ジョン・ハンフリーらを補強した。開幕直前にフォワードのジェイミー・ミラーが故障したため、彼を欠いた状態でシーズン開幕を迎えた。

11月20日、埼玉ブロンコスは、マーレイHCに契約違反があったとして出場停止処分を下し、その日の富山グラウジーズ戦はナタリー・ナカセアシスタントコーチがHC代行として指揮を執り、勝利を飾った。ディーン・マーレイHCは復帰することなく24日に契約解除となり、新たにナタリー・ナカセACが昇格して、bjリーグ初の女性ヘッドコーチに就任した[2]

12月に入ると、センターのゲイブリエル・ヒューズが病気のため戦線離脱。フォワードのジョン・フラワーズも3日の滋賀レイクスターズ戦で負傷したため、この試合の途中から11日の信州ブレイブウォリアーズ戦までの4試合は身長2m以上の選手が一人も居ない状態での試合を余儀なくされた。10日の信州戦ではハンフリーがbjリーグ歴代2位タイの52得点(フリースローはリーグ新記録の24本成功)をマークする活躍を見せた。17日の新潟アルビレックスBB戦からはミラーが、翌日にはフラワーズが復帰したが、ヒューズは健康面を考慮して現役を引退。代わってナシード・ビアード(前JBL2豊田通商)が加入したが、彼は約1ヶ月在籍しただけで契約満了となり、新たにジェームス・ポーターが加入。 女性ヘッドコーチの就任を含め、このシーズンはさいたまスーパーアリーナでオールスター開催など話題こそ集めたものの、レギュラーシーズンでは勝ちきれない試合が多く、高松戦以外で同一カード連勝はなく、初年度以来の最下位という結果に終わった。

なお、bjリーグ開幕時に参加した6チームの中で埼玉だけが一度もプレーオフに進出しておらず、かつ勝率が5割に達したシーズンがない。また、bjリーグ創設時の6チームの中で選手がベスト5に唯一選出されたことのないチームでもある。

チーム名の変遷

  • 1982年 マツダオート東京バスケットボール部
  • 1983年 マツダオート東京ブロンコス
  • 1991年 アンフィニ東京ブロンコス
  • 1997年 ME所沢ブロンコス
  • 1998年 所沢ブロンコス
  • 2000年 さいたまブロンコス
  • 2005年 埼玉ブロンコス

主な成績

日本リーグ

年度 リーグ ディビジョン レギュラーシーズン セミファイナル ファイナル 最終結果
順位
1996 関東実業団 1部
1997 日本リーグ 2部 31 6位
1998 32 3位
1999 33 3位
2000 34 3位
2001 日本リーグ 35 3位
2002 36 優勝
2003 37 優勝
2004 38 準優勝

bjリーグ

年度 レギュラーシーズン 最終結果 HC 備考
勝率 ゲーム差 得点 失点 得失点差 順位
2005-06 7 33 .175 24.0(11.0) 71.5 81.0 -9.5 6位 6位 チャールズ・ジョンソン bjリーグ初年度
2006-07 15 25 .375 14.0(7.0) 81.4 82.9 -1.5 6位 6位 山根謙二
2007-08 21 23 .477 8.0(5.0) 78.9 76.4 +2.5 東4位 --- デービッド・ベンワー
2008-09 19 33 .365 17.0(5.0) 76.9 79.6 -2.7 東5位 ---
2009-10 17 35 .327 24.0(5.0) 75.5 81.6 -6.1 東5位 --- 福島雅人
2010-11 14 24 .368 - 79.3 82.7 -3.4 - --- ボブ・ナッシュ 活動休止前時点を最終成績としている
2011-12 16 36 .308 21.0(9.0) 79.1 85.3 -6.2 東10位 --- ディーン・マーレイ
ナタリー・ナカセ

ゲーム差は()外は1位、()内はプレイオフ圏との差をそれぞれ表している。

獲得タイトル

個人別タイトル

MVP

ルーキー・オブ・ザ・イヤー

コーチ・オブ・ザ・イヤー

ベスト5

得点

  • 日本リーグ2002-03 コーリー・ルイス
  • 日本リーグ2003-04 カービー・レモンズ
  • 日本リーグ2004-05 カービー・レモンズ

アシスト

  • 日本リーグ2001-02 チャールズ・ジョンソン
  • 日本リーグ2002-03 チャールズ・ジョンソン

リバウンド

ブロックショット

  • 日本リーグ2002-03 コーリー・ルイス
  • 日本リーグ2003-04 アイザック・ソジャナー

スティール

  • 日本リーグ2001-02 チャールズ・ジョンソン
  • 日本リーグ2002-03 チャールズ・ジョンソン
  • 日本リーグ2004-05 カービー・レモンズ

フィールドゴール成功率

  • 日本リーグ2002-03 コーリー・ルイス

スリーポイント成功率

フリースロー成功率

ダンクシュート

  • 日本リーグ2002-03 コーリー・ルイス

その他受賞

  • bjリーグ2005-06 ベストブースター賞
  • bjリーグ2007-08 ベストパフォーマー賞

リーグ戦の主な記録

個人記録

通算最多試合出場

最多連続試合出場

最年少試合出場

最年長試合出場

シーズンフルタイム出場

1試合最多得点 ジョン・ハンフリー 52得点(2011年12月10日、信州戦)

1試合最多リバウンド デービッド・ベンワー 25本(2005年11月27日、仙台戦)

1試合最多アシスト ケニー・サターフィールド 13本(2010年11月6日、東京戦)

通算最多得点

最多連続得点試合

シーズン最多得点

最年少得点

最年長得点

チーム記録

得点失点関連記録

最多得点・最多失点

  • 1試合最多得点 109得点(2009年4月5日、富山戦)
  • 1試合最多失点 111失点(2006年12月23日、大阪戦)

連勝記録

最多連勝 7連勝(2010年12月19日大分戦から2011年1月16日大阪戦まで)

最多連敗 19連敗

同一カード最多連勝

同一カード最多連敗

観客動員記録

最多観客動員試合

最少観客動員試合

年度別観客動員記録

年度 試合数 合計 平均 最大 最小 試合会場 備考
日本リーグ 2000-01 --- ---人 ---人 ---人 ---人 --- ---
2001-02 --- ---人 ---人 ---人 ---人 --- ---
2002-03 --- ---人 ---人 ---人 ---人 --- ---
2003-04 --- ---人 ---人 ---人 ---人 --- ---
2004-05 --- ---人 ---人 ---人 ---人 --- 日本リーグ脱退
bjリーグ 2005-06 20 27,620人 1,381人 2,027人 640人 --- bjリーグ開幕
2006-07 20 41,681人 2,013人 3,683人 1,022人 --- ---
2007-08 20 ---人 ---人 ---人 ---人 --- ---

会場別観客動員記録

年度 自治体 アリーナ 座席数 ホームゲーム観客数
試合数 合計 平均 最大 最小
2005-06 所沢市 市民体育館 約4300席 11 1563人 2627人 1003人
春日部市 ウイングハット 3584席 4 882人 1528人 640人
さいたま市 市総合体育館 2954席 4 1290人 2038人 704人
秩父市 市文化体育C  席 1 1751人
ホーム計 20 27620人 1381人 2027人 640人
2006-07 所沢市 市民体育館 約4300席 14 29839人 2131人 3683人 1318人
春日部市 ウイングハット 3584席 2 4418人 2209人 2316人 2102人
さいたま市 市総合体育館 2954席 2 5188人 2594人 2831人 2357人
秩父市 市文化体育C 2 2236人 1118人 1214人 1022人
ホーム計 20 41681人 2013人 3683人 1022人
2007-08 所沢市 市民体育館 約4300席 15 ----人 ----人 ----人 ----人
春日部市 ウイングハット 3584席 1 ----人 ----人 ----人 ----人
さいたま市 市総合体育館 2954席 4 ----人 ----人 ----人 ----人
秩父市 市文化体育C 1 ----人 ----人 ----人 ----人
行田市 グリーンアリーナ 1 ----人 ----人 ----人 ----人
ホーム計 22 ----人 ----人 ----人 ----人

下部組織

2003年より二軍チームとして「ブロンコスクラブ」を設立。

2007年、東京クラブ連盟に移り、チーム名も「RBC東京」に改められた。現在は三木力雄テクニカルアドバイザーがコーチを務め、元ブロンコスの江黒大樹や安藤毅らが選手登録されている。活動は東京都内で行っており、トライアウトなども開催し、東京No.1 そして日本でも有数のクラブチームを目指している。

かつては青野和人もアシスタントコーチ時代に選手登録されていた。

応援

応援スタイル

マスコット

No. 名前 P 生年 身長、体重 出身 前所属
00 日本の旗キズナ・ブロンコス G/F/C 1996 240cm、502kg 埼玉県

チアダンスチーム

2005年のbjリーグ発足とともに結成されたPONYS GREENと2007年より活動を開始したブロンコスチアリーダーズにより応援パフォーマンスを行っている。ブロンコスチアリーダーズは当初「ZERO」として活動していた。

2007-08シーズンより設けられた初代ベストパフォーマンス賞に選出された。

オフィシャルソング

オフィシャルソングとして杉山清貴の「THIS IS LIFE」、入場ソングにCLIFF EDGEの「Let's go BRONCOS」、「キズナ 〜Get a DREAM〜」が使用されている。

応援番組

キーワード

オフィシャルカー

オフィシャルカー

埼玉ブロンコスのオフィシャルカーの車種は、富士重工業フォレスターSTiを採用。車体にブロンコスのマスコット(キズナ)やチームロゴを全体にペイントを施して、地元の埼玉県でチームに関連する業務や地元のホームゲーム開催時に活用されている。この他にもスバル・エクシーガ三菱・ディオン(グリーンカラー)も採用している。

練習場

練習場は、所沢市民体育館の近くにある所沢市立美原中学校で行う場合が多い。練習は原則非公開だが、公開する場合もある。bj開幕当初は、通訳がおらず、選手が代わりに通訳をしていたこともあったという。

メディア露出について

埼玉ブロンコスは、bjリーグ創設に関わったチームであるとはいえ、他のチームに比べて未だにメディア露出が少ない。NACK5ではブロンコスの応援コーナーがあるが、地上波であるテレビ埼玉NHKさいたま放送局でブロンコスの試合が放映されたことがない。また、GAORAでの放映回数も年に1~2回程度である。また、BSフジでの放送実績もない(GAORAやBSフジにおいてはアウェイで放送されたことはある)。

絆-KIZNA-

埼玉ブロンコスでは「絆-KIZNA-」をキーワードに地域活動及びブースターとの交流を行っている。例えば、埼玉ブロンコスでは、好きな試合に使用可能な3枚組チケットKIZNAチケットの販売や、所沢市内の商店街のブロンコスフラッグ掲示、ミニバスのブロンコスカップを開催している。また、マスコットの名前も暴れ馬のKIZNA君である。

脚注

関連項目

外部リンク