卑弥呼

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卑弥呼
倭 女王
別号 親魏倭王

出生 不明
死去 247年あるいは248年
配偶者 未婚
子女 台与(宗女、一族の娘か)
宗教 鬼道
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卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号親魏倭王。後継には宗女の壹與が女王に即位したとされる。

史書の記述

『三国志』の卑弥呼

「魏志倭人伝」の卑弥呼

魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。

既に年長大であったが夫を持たず(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、狥葬者奴碑百餘人)。

「魏書帝紀」の俾弥呼

三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。

年譜

『三国志』

  • 時期不明 - 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王とした(卑弥呼の即位)。
  • 景初二年(238年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らをに派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた[1]
  • 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
  • 正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
  • 正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与[2]
  • 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢[3]を授与。
  • 時期不明 - 卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

『後漢書』

『晋書』

『梁書』

  • 光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。
  • 正始年間(240年 - 249年) - 卑弥呼死亡。

『三国史記』新羅本紀

  • 173年 - 倭の女王卑弥呼[4]が新羅に使者を派遣した[5]
  • 193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った[6][7]
  • 208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の利音を派遣して防いだ[8]
  • 232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
  • 287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。

『三国史記』于老列伝

  • 233年 - 倭軍が新羅の東方から攻め入った。新羅の伊飡の于老[9]が沙道(地名)で倭軍と戦った。于老は火計をもって倭軍の船を焼いたので倭兵は溺れて全滅した。
  • 249年 - 倭国使臣が新羅の舒弗邯の于老[10]を殺した。

『北史』

  • 光和年間(178年 - 184年) - 倭国の内乱。
  • 184年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。。

『隋書』

  • 桓帝霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱
  • 189年前後か? - 卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は王に共立した。

日本列島における皆既日食

呼び名

三国志魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。

一説には、中華思想により、他国の地名、人名には蔑字を使っている為に、この様な表記となっている。

また他の一説には、古代日本語を聞いた当時の者が、それに最も近い自国語の発音を当てた為に、また(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。

現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。

  • ひみこ(日巫女、日御子) - 「日巫女」は太陽に仕える巫女、の意。「日御子」は太陽神の御子、の意
  • ひめこ(日女子、姫子)- 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
  • ひめみこ(日女御子、姫御子)[11]
  • ひむか・ぴむか - 長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語 ―弥生語復元―』学生社 2010年。3世紀の洛陽音の復元による。
  • ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
  • ひみか(日甕) - 古田武彦が唱えた、筑後風土記に登場する女性・甕依姫に該当するという説。聖なる甕という意。
  • ぴやこ、みやこ(宮居) - 1937年に藤井尚治が「国史異論奇説新学説考」の中で唱えた説。中国の学者が、「宮居」を人名と誤解したとし[12]、卑弥弓呼は「ミヤツコ(宮仕)」に、卑狗が「ミコ(皇子)」になるとする[12]

など諸説ある。

一方、中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある。

現代中国語でのピンインでの表記

  • 卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
    • (俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)
  • 掖邪狗:Yè xié gǒu / Ye4 xie2 gou3
  • 帥升:Shuài shēng / Shuai4 sheng1
  • 難升米:Nán shēng mǐ / Nan2 sheng1 mi3
  • 伊聲耆:Yī shēng qí / Yi1 sheng1 qi2[13]

いずれにせよ、弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則については説が確立しておらず、したがってその意味も判然としない。少なくとも現代日本語で解釈するのは学術的に無意味であり、古代日本語の音韻論及び古代漢語の発音を究明する「音韻学」を基本に考察しなければならない。

卑弥呼の死

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。

倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
(倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹椽史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ) に授け、檄文を作って諭した。して、卑弥呼は死んだ。死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。 )

この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとし、卑弥呼の死も240年から246年までに起きた出来事とする考えもある。

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。

天文学者斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では9月4日)に北部九州皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。[14]さらに、橘高章安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。

しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[15]、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。

卑弥呼の墓

卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。この墓がどこか様々な説がある。一歩 (尺貫法)の単位については、周代では約1.35m、秦・漢代では約1.38m、魏代では約1.44mと言われている。 卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たる。邪馬台国が畿内にあれば卑弥呼の墓は古墳の可能性があり、箸墓古墳宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説もある。一方、九州説では平原遺跡[16]や九州最大・最古級の石塚山古墳などを卑弥呼の墓とする説などがある。

また、魏志では徇葬者は奴婢百餘人と記述されている。卑弥呼の墓は、古墳埴輪が導入される以前だったかもしれないとの説もある。『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰(のみのすくね)が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したとあり、これを埴輪の起源とするためである。

邪馬台国畿内説の奈良県桜井市箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説では、箸墓古墳の後円部は約150mで径百余歩に近いからとする。箸墓の築造年代は3世紀第3四半期頃に絞り込まれつつあり、この説は箸墓を寿陵とみるか否か、および卑弥呼の死去を何年頃と見積もるかに大きく依存することになる。また、奈良県御所市玉手山の尾根が径百余歩で、卑弥呼の墓という説が近年出された。この説は六代孝安天皇を卑弥呼の男弟とする説で、孝安が葬られたとする玉手山にその古墳が存在することを重要な根拠とする。[17]

九州にある石塚山古墳については、築造時期が3世紀中頃(古墳時代開始時期)~4世紀初頭で、墳丘長は120m~130m前後と考えられている。ヤマト王権の象徴である前方後円墳(国内でも最古級)である一方、吉備地方に起源をもつ特殊土器類(特殊器台特殊壺)や埴輪は確認されていないという特徴を持つ。出土鏡はすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられている。

また、平原遺跡については古墳時代以前、弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓がある遺跡である。1号墓からは「大型内行花文鏡」が出土されているが、原田大六によってヤマト王権の三種の神器の一つ「八咫鏡」の起源であると主張されている。平原遺跡出土の「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」は直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなっている。尚、咫(あた)は円周の単位ともされ、約0.8尺である。径1尺の円の円周を4咫としていた。したがって「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味する」といわれている。尚、『御鎮座伝記』には「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」と記載されている。

人物比定

卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証はなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史(隋書)における「倭國」についての記述で、”居(都)於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。

天照大神説

中国の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはず。ヤマト王権の史書編纂者にとって都合が悪い事実であっても何らかの形で記されたはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。白鳥庫吉和辻哲郎らに始まる[18]。卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命天照大神の説もある。

アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日248年9月5日の2回、北部九州皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある[19]。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている[20]

安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという[21]。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。

魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後のヤマト王権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一柱であり(もう一柱はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。

安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動してヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている[22]

また、元衆議院議員で郷土史家の石原洋三郎氏も、卑弥呼女王を天照大御神としている。石原は、卑弥呼は、本来の意義として「ヒミコ」であろう、と述べている。 石原は、高天原=阿蘇カルデラ台地=邪馬台国としているが、女王の支配地域・時代背景を考えた場合、女王は天照大御神の時代に重なる、と述べている。(高天原阿蘇カルデラ台地説・邪馬台国九州説

魏志倭人伝で、女王の支配地域は、「女王國以北」・「周旋可五千餘里(約385km)」と記載されている。そのため、女王國が「阿蘇カルデラ台地」であれば、概ね「筑紫国豊国火国」の国産み神話における三面を支配していることになる。 女王は、出雲国日向国熊襲を支配地域としていないこととなり、天岩戸以前の時代背景となる。そのため、石原は、女王を、天岩戸以前に登場し人間関係が類似する、天照大御神としている。

また井沢元彦は『逆説の日本史』で、伊勢神宮はアマテラスを祀った施設で宇佐八幡宮はそのモデルとなった卑弥呼を祀った墓所であるとし、卑弥呼が祀られた理由をタタリへの恐怖心と断定している。

この説の難点としては九州にあった邪馬台国が東遷して畿内に到着したとは限定できず、畿内で卑弥呼女王の邪馬台国や倭国連合も創立されたとする説も十分成り立つところである。また、そもそも「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない説があり[23]、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王[24]が天と日を兄と弟としていた(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)とある。天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある[25]。また、天照大神は本来は男性の神とする説もある[26]。また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「~ノメ」を巫女とする用例がなく(ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例はない)、根拠に乏しい。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は説文解字に「女字也」とのみあることから、これは誤りである。

宇那比姫説

海部氏勘注系図』『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする[27]

また和邇系図では和邇氏の祖天足彦国押人命の子である押媛命と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており[28]、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。いずれにしろ両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝にでてくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。

倭迹迹日百襲媛命説

倭迹迹日百襲媛命の墓と伝えられる、箸墓古墳(奈良県桜井市

孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。

もともと『古事記』の崩年干支から歴代天皇の実年代を求めようという説は古くから数多く、崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説がもっとも一般的[29]であり、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となる。

『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。

この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。

日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。

従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている[30][31]

現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。

この説の弱点は、倭迹迹日百襲媛命が、皇族の一人ではあっても、「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは、考えにくいことである。安本美典の批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「日本書紀」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。しかし、日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており[32]、国中に争いが起きたことは確かであって、安本美典の批判は当たらない。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように倭迹迹日百襲媛命の墓は崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。

倭姫命説

戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者はきわめて少ない。

神功皇后説

『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼を神功皇后と同一視できるように編集されている。この説への反論としては、神功皇后の百済関係の記事が、卑弥呼よりも120年(干支2回り)あとの時代のものであり、それを120年繰り上げているために卑弥呼の時代ではありえないことが井上光貞ほかから指摘されている。しかし、古事記の神功皇后には干支を伴った朝鮮関係の記事はなく、朝鮮関係記事は日本書紀編纂時に組み込まれたものにすぎないことは通説になっているため、この批判は「組み込まれる前の帝紀の原形がどうなっていたか」とはとりあえず関係がなく、これをもって神功皇后説を否定することはできない。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないがそれに次いで支持者が多い。また九州説論者でも神功皇后説を採る論者が何名もいる。

熊襲の女酋説

本居宣長鶴峰戊申那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[33]。本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している[34]那珂通世も、大隅国姫木を邪馬台国とし、卑弥呼は九州の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。星野悟は、新井白石が邪馬台国を筑後国山門郡に比定した[35]のを承けて、卑弥呼は山門郡にいた土蜘蛛(土着の豪族)の田油津媛(日本書紀によると神功皇后に成敗されたという)の先代にあたる女酋だとした。宣長は日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は到底受け入れられるものではなかった。これらの考えは、九州王朝説へと引き継がれている。

甕依姫説

九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。ただし筑後風土記逸文の原文からは、甕依姫がいつ頃の人なのか不明でありその生存年代をうかがう術はまったくない。

登場作品

小説
漫画
映画
特撮
テレビゲーム
ビデオゲーム
  • トゥームレイダー(2013)
  • beatmania IIDX16 EMPRESS(2008)
  • モンスターストライク(2014)
テレビアニメ

関連項目

  1. ^ 同三年(239年)の誤記とする説が有力
  2. ^ ただし帯方郡に付託した状態でありこの段階では倭国にはまだ届けられてはいなかった。
  3. ^ この黄幢は正始六年に帯方郡に付託されていたもの。
  4. ^ この年紀は干支1運60年繰り上がっており実際は233年ではないかとの説が有力。
  5. ^ 二十年夏五月 倭女王卑彌乎遣使来聘
  6. ^ 192年から194年にかけて、新羅・高句麗・中国で異常気象や飢饉の記録があるので、山本武夫はこの頃東アジア一帯が小氷期に見舞われていたとして、倭人の飢饉もその一環とする説を唱えている。
  7. ^ 新羅本紀第二伐休尼師今十年六月 倭人大饑来求食者千余人
  8. ^ 新羅本紀第二奈解尼師今十三年四月 倭人犯境遣伊伐飡利音将兵拒之
  9. ^ 日本書紀の神功皇后紀に登場する「宇流助富利智干」(うるそほりちか)か。
  10. ^ 日本書紀の「宇流助富利智干」は神功皇后に降伏した新羅王として出てくるが「一書曰く」で始まる別伝では、日本に殺される新羅王の話があり、これは『三国史記』の于老の話と筋立てが同じであるから同一の史実に基づくと考えられる。
  11. ^ 伊藤博文著『皇室典範義解』第三十一条解説は「・・・上古に考うるに皇子は『みこ』と称え、皇女は『ひめみこ』と称う」と指摘している伊藤博文著『皇室典範義解』現代語訳参照
  12. ^ a b 国史異論奇説新学説考 藤井尚治 1937年
  13. ^ 歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-1~4歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-5~7
  14. ^ 更に同書では「倭国大乱」は156年の皆既日食を原因とし、その時期を167年169年頃と推定する。また卑弥呼はその中で自身を「太陽の化身」と称して人望を集め民衆を統率したが、248年の狗奴国との戦争中に皆既日食が発生して自身の正当性が崩れた為に大敗して邪馬台国が壊滅寸前にまで至り、その結果王頎の部下の張政が作成した檄文によって弑殺されたとしている。
  15. ^ NASAによる241~260年の皆既・金冠日食。一般の天文シミュレータでも確認可能。
  16. ^ 奥野正男『邪馬台国は古代大和を征服した』、糸島平原遺跡の研究 など。
  17. ^ 『古代海部氏の系図』(金久与市,1983年)、邪馬台国出現 宇那比姫を卑弥呼とする理由
  18. ^ 「倭女王卑弥呼考」『白鳥庫吉全集』 第1巻 岩波書店 1969年和辻哲郎『新稿 日本古代文化』 岩波書店1951年井沢元彦 『逆説の日本史』シリーズ小学館1993年
  19. ^ 毎日新聞(関西)朝刊 1995年7月25日8月5日
  20. ^ 「中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動」(論文)名古屋大学の河鰭公昭、国立天文台の谷川清隆、相馬充は、慣性能率の変動によると疑定される有意な地球の自転速度変化を論じ、自転速度低下率が一定であると仮定していた過去の計算法の精確性に対して疑問を投げかけている。
  21. ^ 『卑弥呼の謎』講談社新書 1972年など。
  22. ^ 安本美典『神武東遷』(中公新書 中央公論新社 1982年 ISBN 9784121001788、徳間文庫 徳間書店 1988年 ISBN 9784195984840
  23. ^ 岡正雄三品彰英は、本来の皇祖神はタカミムスビであるとしている。
  24. ^ 隋書では俀國、俀王。
  25. ^ 筑紫申真『アマテラスの誕生』 講談社 2002年、佐藤弘夫『アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座』 法藏館 2000年
  26. ^ 折口信夫『天照大神』 1952年松前健『日本の神々』 中央公論社 1974年、松前健『日本神話の謎』 大和書房 1985年
  27. ^ 『古代海部氏の系図』(金久与市,1983年)
  28. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店 1963年 第三巻P6661(原典は静岡県磐田市、國玉神社大久保氏系図)
  29. ^ ただし、古事記の崩年干支を重視しつつも、具体的にそれが西暦の何年なのかという点では様々な説が数多く存在する。
  30. ^ 2世紀後半の倭国大乱~孝霊天皇の吉備平定~卑弥呼(百襲姫)誕生
  31. ^ 邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳産経新聞 2009年5月29日
  32. ^ 全現代語訳日本書紀上巻(宇治谷孟訳、講談社学術文庫、1988年)129頁。
  33. ^ 本居宣長馭戎概言』、鶴峯戊申襲国偽僣考』、近藤芳樹征韓起源』など。安本美典『江戸の邪馬台国』 柏書房 1991年等を参照。
  34. ^ 本居宣長『馭戎概言』
  35. ^ 誤解が流布しているが筑後国山門郡説を唱えたのは本居宣長ではなく新井白石である。

外部リンク