十朱久雄

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とあけ ひさお
十朱 久雄
本名 小倉 久雄
生年月日 (1908-09-08) 1908年9月8日
没年月日 (1985-12-18) 1985年12月18日(77歳没)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市日本橋区小網町[1](現在の東京都中央区日本橋小網町
死没地 日本の旗 日本東京都大田区
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ舞台
活動期間 1930年 - 1984年
著名な家族 祖父:初代三遊亭遊三
義叔父:松居松葉
娘:十朱幸代
主な作品
東京物語』 / 『警察日記
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十朱 久雄(とあけ ひさお、1908年9月8日 - 1985年12月18日)は、日本俳優。本名は小倉 久雄

軽妙洒脱な演技で多くの映画に出演し、個性派の脇役俳優として活躍した。戦前は長岡輝子らのテアトル・コメディに参加し舞台で活動、戦後から映画に出演し、作品数は250本を超える。主な出演映画に『本日休診』『東京物語』『警察日記』など。娘は女優十朱幸代、祖父は落語家初代三遊亭遊三

来歴・人物

1908年(明治41年)9月8日東京府東京市日本橋区小網町(現在の東京都中央区日本橋小網町)に、麻苧商の父・久兵衛と母・ムメの長男として生まれる[2]。母は初代三遊亭遊三の養女で、その母の姉は松竹キネマ創立者の1人・松居松葉に嫁ぎ、さらに父は素人義太夫の大家だったことから、幼いころから芸の世界に親しんだ[2]

暁星小学校から京華中学校を経て法政大学経済学部に入学し、在学中の1928年(昭和3年)に高見順主宰の劇団制作座に参加[2]1930年(昭和5年)には大学の先輩だった三島雅夫の紹介で知った金杉惇郎や、フランスから帰国したばかりの長岡輝子らが結成したテアトル・コメディの創立に参加、『ジャン・ド・ラ・リュンヌ』の主役で初舞台を踏む[2]。発足当時の劇団には森雅之松山崇杉浦幸雄らがおり、遅れて北沢彪飯沢匡らが加わった。1933年(昭和8年)に大学を卒業。1936年(昭和11年)にテアトル・コメディが解散すると、伊馬春部主宰の東宝新喜劇に入り、同年にはムーラン・ルージュに入団。1937年(昭和12年)、父の意向で奈良の繊維会社に事務員として入社し、芸能界と縁を切る[2]1939年(昭和14年)に結婚。

戦後の1946年(昭和21年)、JOBK(現在のNHK大阪放送局)のラジオに出演して芸能界復帰。1950年(昭和25年)7月には東京に戻って文学座に客員として入り、『娼婦マヤ』等の舞台に立つ[2]1951年(昭和26年)、渋谷実監督の『自由学校』で映画初出演し、翌1952年(昭和27年)の渋谷監督『本日休診』ではとぼけ役を巧演。1953年(昭和28年)の文学座退団後は映画に専念した。大きく後退した額、長い顎が特徴のユニークな脇役として活躍し、お洒落でキザな中年の都会人を演じさせたら天下一品だった[2]溝口健二小津安二郎今井正成瀬巳喜男久松静児ら多くの巨匠監督に起用され、特に溝口監督からはその姉が嫁いだ松平忠正子爵に似ているということで、ことさら目をかけられた[2]テレビドラマにも多く出演している。

1985年(昭和60年)12月18日肺がんのため東京都大田区東急病院で死去。77歳没。

出演作品

映画

太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインされた作品
◎印は小津安二郎監督作品

テレビドラマ

その他のテレビ番組

脚注

  1. ^ 十朱久雄KINENOTE、2015年11月6日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.381

外部リンク