ロック・オペラ

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ロック・オペラ(Rock operas)とは、ロックオペラのことである。

歴史

それまでのロック・アルバムでは、収録されている曲はそれぞれが独立した曲で、相互の関連性もなかった。それに対し、一貫したストーリーを持たせたのが、ロック・オペラやコンセプト・アルバム[注釈 1]などである。コンセプト・アルバムはストーリーの統一と、テーマの一貫性があれば成り立つが、ロック・オペラの歌詞はキャラクターの一人称形式をとる場合が多い。

音楽・演劇の専門書の中で、「ロック・オペラ」という言葉は誤りである、と指摘されたことがある。オペラを「役を演じる歌手たちによって展開されるドラマ」と定義するならば、ロック・オペラはまさにそれに当てはまる。逆に、歌手が役を演じるのでなく、ストーリーの内容を歌うだけならば、それはロック・オペラではない。

1960年代

1966年、カナダでロック・オペラという言葉が、トロントの雑誌「RPMマガジン1966年7月4日号に載った。「ブルース・コバーンと(ウィリアム・)ホーキンス氏がロック・オペラの準備中」と報道したのが初期の例である[1]

同じく1966年、イギリスのロックバンド、ザ・フー[注釈 2]ギタリストピート・タウンゼントと仲間たちが、非公式の集まりで使ったのが最初だと言われている。そこでタウンゼントは、ザ・フーのマネージャーのキット・ランバートのために冗談で作った『Gratis Amatis』というテープを流した。仲間たちは大笑いし、その中の一人が言った。「その変な歌はまるでロック・オペラだな」。それを聞いたランバートも「そいつはいい!」と言った[2]

他のロックのジャンルと区別される「ロック・オペラ」の原型を最初に作ったのは、やはりピート・タウンゼントだった。彼は、1966年に発表されたザ・フーのセカンド・アルバム『ア・クイック・ワン』に収録された「クイック・ワン」("A Quick One While He's Away")という約9分の曲[注釈 3]で、アイヴァーという名前の機関士が若いガイドの娘を誘惑するというストーリーを描いた。

一方、1967年5月には、イタリアローマのパイパー・クラブで、ティート・スキーパ・ジュニアが、ビート・オペラなる『ゼン・アン・アレイ/Then an Alley』を企画・上演した。バックに「ボブ・ディランの曲18曲を流した」この作品は、イタリア国内で話題になったが、それ以外の国で話題になることはなかった。スキーパ・ジュニアはさらに『Orfeo 9』という舞台作品を書いた。これが最初の「イタリア語の」ロック・オペラで、初演は1970年1月だった。『Orfeo 9』は2枚組アルバムと、テレビ映画[3]になった。ちなみにテレビ映画の音楽監督は、後のアカデミー賞受賞者ビル・コンティ[注釈 4]だった。

1968年、イギリスのロックバンド、ザ・プリティ・シングスが『S.F. Sorrow』というアルバムをリリースした。このアルバムで何よりの価値があったのは、一つの物語体のコンセプトを持っていたことで、ロック・バンドによる最初の試みであった。あらすじは、セバスチャン・F・ソローという人物が主人公の成年向けの話だが、後のロック・オペラほど筋は通っていなかった。ヒッピー・ミュージカル「ヘアー」はロック・オペラとは呼ばれず、ロック・ミュージカルと呼ばれた。1960年代後半の『ヘアー』はヒット作になった。ヘアーは反戦、ヒッピー、フリーセックス、フリーラヴがテーマで、ヌードシーンも登場する。「The American Tribal Love-Rock Musical」という副題がつけられた『ヘアー』は、1967年、ジョセフ・パップ・パブリック・シアターで初演された[4]

1969年、ザ・フーが二枚組アルバム『トミー』をリリースした[注釈 5]。第一次世界大戦から帰還した父親が殺人を犯すのを目撃した衝撃で、自らの意志で三重苦となって内なる世界に閉じこもってしまった少年Tommyと、彼を取り巻く様々な人々を描いた全24曲[注釈 6]からなる本作品には「ピンボールの魔術師」「シー・ミー・フィール・ミー」などの優れた曲が含まれていた。『トミー』は初の本格的なロック・オペラと呼ばれ、発表されてから半世紀以上が過ぎた今日もロック・オペラの代表作の一つとされている。ザ・フーのコンサートだけでなく、映画[注釈 7]、バレエ、ブロードウェイでのミュージカルなど様々な形で演じられた。

1970年代以降

ピート・タウンゼントのロック・オペラは、多くのミュージシャンに影響を与えた。作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーもその一人で、作詞家のティム・ライスと組んで、『ジーザス・クライスト・スーパースター』を作曲。1970年、コンセプト・アルバムとして録音・リリース。アルバムのヒットで得た資金で、1971年には舞台化した。『ジーザス・クライスト・スーパースター』も広告で「ロック・オペラ」と謳っていたが、ブロードウェイで有名になると、ロック・ミュージカルと呼ばれるようになった。だが、日本では株式会社「劇団四季」が複数回上演することで、商業主義の娯楽作と見られるようになってしまった。

ザ・フーは1973年に二枚組アルバム『四重人格』を発表した。本作品は、1960年代のロンドンに実在した若者の集団であるモッズ[注釈 8]に属する青年Jimmyの多重人格と精神の葛藤とを描写する全17曲から構成され、『トミー』に続くザ・フーの2作目のロック・オペラとされた[注釈 9]

1983年にはまだ社会主義国だったハンガリーでロック・オペラ映画『国王イシュトヴァーン』が公開された。映画撮影のためだけにブダペストの中央公園であるヴァーロシュリゲトで上演したものだったが空前の大ヒットだったため、その後舞台でも頻繁に上演されるようになった。1000年ないし1001年に戴冠したハンガリー初代国王イシュトヴァーンが国王になるまでの物語だが、登場人物やシーンの構成が『ジーザス・クライスト・スーパースター』を彷彿とさせている作品となった。作者は当初は映画の冒頭に「そしてその一千年後…」と表示するかどうか考えたと言う。結局さらにこのイシュトヴァーンの物語から千年後には1956年ハンガリー動乱が勃発するわけで、この作品は千年前のイエスユダとの対立の物語を念頭に置きながらイシュトヴァーンコッパーニュの戦いを描くことでカーダール・ヤーノシュナジ・イムレ首相の対立の悲劇を暗喩的に描いたものである。日本ではこの作品は公開されなかったが、当時この作品の成功は報道されている[5]

ピーター・ガブリエルが中心だった頃のジェネシス (バンド)も『眩惑のブロードウェイ(ザ・ラム・ライズ・ダウン・オン・ブロードウェイ)』という大作を発表した。ニューヨークに住むラエルという非行少年が地底世界に迷い込み、失っていた自分の一部を探すという内容で、欲望、奇怪なクリーチャー、狂気、救いとストーリーは転がってゆく。

ピンク・フロイドのロック・オペラ『ザ・ウォール』は1,900万枚[注釈 10]を売り上げた。曲を書いたのは主にロジャー・ウォーターズである。ピンク・フロイドによって1980年1981年に、ウォーターズによって1991年ベルリンの壁で、大がかりなセットを使った『サ・ウォール』のパフォーマンスが行われた。また、そのプロットを使って長編映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』が作られた。ウォーターズはさらにブロードウェイ・スタイルのものにも潤色している。

他には、1996年、ジョン・マイナーがロック・オペラ『Heavens Cafe』をラスベガスのフラミンゴ劇場で上演。2004年にはロサンゼルスで再演された。

ファット・ボーイズはラップ・オペラを制作している。また、パンク・ロック・バンド、グリーン・デイは、2004年の反戦アルバム『アメリカン・イディオット』でロック・オペラ作品を発表した。同作品は、大統領ブッシュの戦争を批判したものである。

ロック・オペラはさまざまな言語で制作されてきた。たとえば、スペインのロック・グループ、マゴ・デ・オズの『Gaia II - La Voz Dormida』(2005年)などである。

2005年9月22日、ロック・バンドのLudoがリリースしたロック・オペラ『ブロウクン・ブライド/Broken Bride』は、ザ・トラベラーと呼ばれる男が愛する人を亡くして、数年後タイム・マシーンで彼女を救いに時間を遡るというストーリーである。彼の旅が年代記的に語られていく。2006年にニュー・ジャージーの4人組ロックバンド、マイ・ケミカル・ロマンスは、を患った男を主人公としたオルタナティブ・ロック・オペラ『ザ・ブラック・パレード』を発表した。

2006年、ザ・フーが24年ぶりに発表したアルバム『エンドレス・ワイヤー』には、タウンゼンドの小説『The Boy Who Heard Music』に基づいたミニ・ロック・オペラ『Wire & Glass』が収録された。この作品は、より大きなコンセプトを持つロック・オペラ『The Boy Who Heard Music』の一部に使われ、後に舞台劇となって、2007年7月13日から15日にかけてヴァッサー大学で上演された[6]

脚注

出典

  1. ^ Maconie, Stuart (2013). The People’s Songs: The Story of Modern Britain in 50 Records. p. 167. https://books.google.com/books?id=6xmq82qoq70C&pg=PA167 
  2. ^ 原文(英語版)には書かれていないが、1996年に再発されたCD『トミー』のライナー・ノートに寄せられた、リチャード・バーネスの『Deaf, Dumb and Blind Boy』という一文が出典である
  3. ^ IMDB
  4. ^ Kenrick, John, "Rock: 'The Age of Aquarius'" article at the Musicals101 website
  5. ^ 深谷志寿:「文化 ― ロック・オペラにハンガリー国民“熱狂” ― 史話劇『国王イシュトヴァーン』、『朝日新聞』,1985年2月13日(水)付夕刊5面「文化」
  6. ^ The Hypertext Who > Liner Notes > Endless Wire - 2010年10月3日閲覧

注釈

  1. ^ ビートルズが1967年に発表した『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が初期のコンセプト・アルバムの代表作である。
  2. ^ オリジナル・メンバーはピート・タウンゼントロジャー・ダルトリージョン・エントウィッスルキース・ムーンの四人。代表曲には「マイ・ジェネレーション」、「ババ・オライリィ」、「無法の世界」などがある。
  3. ^ 六つのセクションからなり、各セクションをピート・タウンゼントロジャー・ダルトリージョン・エントウィッスルが分担した。
  4. ^ 「ロッキー」のテーマをヒットさせた
  5. ^ 殆んどの広告ははっきりと「ロック・オペラ」と謳っていたが、いくつかの広告には「トミー(1914-1984)」と書かれてあった。
  6. ^ 2曲がベーシストのジョン・エントウィッスルの作品、1曲がドラマーのキース・ムーンの作品、1曲がブルース歌手サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの『Eyesight to the Blind』、残りはタウンゼントの作品。但しムーンによるとされた作品は、実際には彼のアイデアに基づいてタウンゼントが書いた(http://www.thewho.net/discography/songs/TommysHolidayCamp.html) 。
  7. ^ 映画でピンボールの魔術師を演じたエルトン・ジョンによる「ピンボールの魔術師」は全英シングルチャートで7位に達し、日本でも一部で話題を呼んだ。
  8. ^ ザ・フーはモッズの間で非常に人気があった。
  9. ^ 様々な人物が登場した『トミー』とは異なり、Jimmy以外の登場人物はゴッドファーザーとベル・ボーイの二人だけで、ゴッドファーザーが「パンクとゴッドファーザー」、ベル・ボーイが「ベル・ボーイ」という曲で、Jimmyと会話を交わす形式で登場する。残りの曲は全てJimmyの独白であり、物語の内容を補足説明する為にタウンゼントによるライナーノーツと写真集とが添付された。作品の評価は高く、売れ行きも好調であり、1978年には本作品に基づいた映画が制作された。この映画では多くの新しい登場人物が加えられて、原作よりも具体的な物語となった。Jimmyを含めた登場人物全員の台詞は全て会話である。原作からの数曲が、ザ・フーの他の曲や設定年代時のヒット曲と共に挿入歌として用いられた。
  10. ^ 売り上げの数字に関しては、ザ・ウォールを参照のこと。

関連項目