ラングレー (CVL-27)

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1944年12月12日撮影
艦歴
起工 1942年4月11日
進水 1943年5月22日
就役 1943年8月31日
退役 1947年2月11日
その後 フランス海軍に移管、「ラ・ファイエット」として就役
性能諸元
排水量 11,000トン
全長 189,74 m
艦幅 21.793 m
全幅 33.274 m
吃水 7.9248 m
最大速 31ノット
乗員 士官、兵員1,569名
兵装 26 x 40ミリ機関砲
搭載機 45

ラングレー (英語: USS Langley, CVL-27) は、アメリカ海軍航空母艦インディペンデンス級の6番艦として建造された。ラングレーという艦名は、サミュエル・ラングレーに因む[1]。アメリカ海軍最初の航空母艦で[1]太平洋戦争蘭印作戦で撃沈されたラングレー[2]の名を受け継いだ。

1943年8月の就役後、ラングレー(2代目)はギルバート・マーシャル諸島の戦いマリアナ・パラオ諸島の戦いマリアナ沖海戦[3]フィリピン攻略戦レイテ沖海戦[4]沖縄戦坊ノ岬沖海戦)などに参加した。第二次世界大戦終結後、フランス海軍に供与されてラ・ファイエット (La Fayette, R96) と改名した。

艦歴

ラングレー(2代目)はニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所で建造された。当初はクリーブランド級軽巡洋艦ファーゴ (USS Fargo, CL-85) として発注されたが、1942年4月の起工時までに軽巡洋艦の船体と機関を流用した航空母艦へと変更された[注釈 1]。 艦名も当初はアメリカ独立戦争での古戦場クラウン・ポイント砦」(Battle of Crown Point)に由来するクラウン・ポイント (USS Crown Point) だったが、1942年2月下旬に戦闘機輸送作戦中に撃沈された初代ラングレー[5]の艦名を受け継ぐ形で[注釈 2]、11月13日付で「ラングレー」と改称される[8][注釈 3]

1943年(昭和18年)8月に初代艦長W.M.ディロン大佐の指揮のもと就役し、同年末に太平洋戦線に配備される。

1944年 - 1945年

コブラ台風に翻弄される「ラングレー」(1944年12月18日)

ラングレー(2代目)は、初陣として1944年(昭和19年)1月から2月にかけて、エニウェトクの戦いなどマーシャル諸島攻略作戦に参加した。続く四ヶ月にわたって「ラングレー」は第58任務部隊マーク・ミッチャー少将)の一翼を担う。「ラングレー」の艦載機太平洋中部とニューギニア西部の日本軍基地への攻撃を行った。

同年6月19日20日マリアナ沖海戦(連合国呼称、フィリピン海海戦)には、W・K・ハリル (William K. Harrill) 少将が指揮する第58.4任務群の一艦として参加している[9]マリアナ沖海戦、両軍戦闘序列[3]小沢機動部隊と対決し、第58任務部隊は勝利した[10]

「ラングレー」は8月から9月のパラオ攻略支援とフィリピン攻撃、10月からの台湾沖縄大空襲に参加(台湾沖航空戦)。10月中旬以降はフィリピン攻略作戦に参加した[4]10月23日から26日にかけてのレイテ沖海戦には、フレデリック・C・シャーマン少将が指揮する第38.3任務群(第38機動部隊第3群)に属して参加した[11]。この海戦が始まった時の第38.3任務群は[12]、大型空母2隻(レキシントンエセックス)、軽空母2隻(ラングレー、プリンストン)、サウスダコタ級戦艦2隻(サウスダコタマサチューセッツ)、巡洋艦や駆逐艦部隊で編成されていた[13]レイテ沖海戦、両軍戦闘序列)。第38任務部隊(ミッチャー提督)の旗艦はレキシントン (USS Lexington, CV-16) で、第38.3任務群(シャーマン提督)の旗艦がエセックス (USS Essex, CV-9) だった[13][14]

10月24日小沢機動部隊第二航空艦隊(基地航空部隊)の攻撃隊が第38任務部隊を攻撃した[15]。その中でも、最も陸地に近い位置にいた第38.3任務部隊が目標にされた[16]。各艦は艦上戦闘機を発進させて日本軍機を邀撃する[17]。ラングレーのF6Fは、少なくとも敵機5機を撃墜した[15]。だが第38.3任務群も無傷ではいられなかった[18]姉妹艦プリンストン (USS Princeton, CVL-23) が艦上爆撃機彗星」の爆撃を受ける[19]。火災を鎮火できず、誘爆で救援作業中のクリーブランド級軽巡バーミンガム (USS Birmingham, CL-62) が大破した末に[20]、プリンストンは雷撃処分された[21]

日本軍機の空襲を撃退する一方、第38任務部隊の攻撃隊も栗田艦隊(第一遊撃部隊)に空襲を敢行し[22]、戦艦武蔵を撃沈し、数隻に被害を与えた[注釈 4]

10月25日、第38任務部隊の攻撃隊は小沢機動部隊を捕捉し、エンガノ岬沖海戦がはじまった[24]。空襲と水上艦艇の追撃により、アメリカ側は第三航空戦隊の空母4隻などを撃沈する[25][注釈 5]。第38任務部隊の第三次攻撃隊に所属していたレキシントン隊とラングレー隊は、歴戦の空母瑞鶴を雷撃して撃沈した[30]

11月から12月にかけても、引き続きフィリピン攻撃の支援を行った。第38任務部隊は多号作戦にともなうルソン島やレイテ島の空襲で多数の日本海軍艦艇を撃沈し、マニラ湾に停泊していた重巡那智、ルソン島沿岸に潜んでいた重巡熊野も始末した[31]

12月18日に遭遇したコブラ台風により、「ラングレー」の船体は左右に35度傾くなどしたものの、幸い被害はなかった[32]。1945年1月から2月にかけては第3艦隊ウィリアム・ハルゼー大将)および第5艦隊レイモンド・スプルーアンス大将)の一部として1月に南シナ海グラティテュード作戦に従事[注釈 6]、2月以降は日本本土および硫黄島への攻撃を行う

3月下旬以降、空母4隻(ヨークタウンイントレピッド、ラングレー、インディペンデンス)を基幹とする第58.4任務群は沖縄戦に参加した[注釈 7]。4月上旬には第二艦隊の戦艦大和第二水雷戦隊に対しての攻撃に参加(坊ノ岬沖海戦)。

「ラングレー」は6月から7月にかけて本国でオーバーホールを行い、8月の終戦時には太平洋上にあった。

戦後

「ラングレー」は戦後、復員兵帰還のマジック・カーペット作戦に従事し太平洋から帰還後1945年11月から1946年1月まで大西洋で同様の任務を行った。その後フィラデルフィアで不活性化が行われ、1947年2月に予備役となった。1951年初めにモスボール化が解かれ、相互防衛援助計画の下のフランスに移管される。

「ラングレー」はフランス海軍では「ラ・ファイエット」 (La Fayette, R96) として就役した[注釈 8]。「クレマンソー」就役後の1963年にアメリカに返還され、翌年スクラップとして売却された。

「ラングレー」は第二次世界大戦の戦功で9つの従軍星章を受章した[33]

出典

  1. ^ 太平洋戦争終結後、ファーゴ級軽巡洋艦ファーゴ (USS Fargo, CL-106) が就役した。
  2. ^ 第二次世界大戦勃発前、ラングレーは飛行甲板の一部を撤去して水上機母艦になった[6]USS Langley, AV-3になったあと、合衆国アジア艦隊に配備されて太平洋戦争勃発を迎えた[7]
  3. ^ エドサル級護衛駆逐艦の1隻が1942年7月10日にラングレーとして起工したが、8月1日にハンマン (USS Hammann, DE-131) と改名された。この艦名は、アメリカ海軍の海軍航空隊操縦士だったチャールズ・ハマンに由来する。
  4. ^ 第38任務部隊攻撃隊は武蔵を撃沈した他、重巡妙高を脱落させた[23]。他に戦艦2隻(大和長門)、巡洋艦2隻(利根矢矧)、駆逐艦浜風などが小破した。
  5. ^ 空襲により空母3隻(瑞鶴瑞鳳千歳)と駆逐艦秋月が沈没した[26]デュボース隊の追撃で空母千代田と駆逐艦初月が沈没した[27][28]。潜水艦ジャラオ (USS Jallao, SS-368) の雷撃で軽巡多摩が沈没した[29]
  6. ^ フレデリック・C・シャーマン提督が率いる第38.3任務群は、空母4隻(タイコンデロガエセックス、ラングレー、サン・ジャシント)、戦艦2隻(ワシントンノースカロライナ、巡洋艦4隻、駆逐艦部隊であった。
  7. ^ 高速空母機動部隊ミッチャー提督が指揮する(沖縄戦、海軍部隊戦闘序列)。その隷下にあってラドフォード提督が率いる第58.4任務群は、艦隊型空母2隻(ヨークタウン、イントレピッド)、軽空母2隻(ラングレー、インディペンデンス)、アイオワ級戦艦3隻、アラスカ級大型巡洋艦2隻、巡洋艦4隻、フレッチャー級駆逐艦17隻という編成だった。
  8. ^ 姉妹艦の空母ベロー・ウッド (USS Belleau Wood, CVL-24) もフランス海軍に移管され、ボア・ベロー (Bois Belleau, R97) と改名された。

脚注

  1. ^ a b 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 15–16米海軍空母の第一号
  2. ^ 昭和16.12~18.12大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和17年2月」 アジア歴史資料センター Ref.C16120656600  p.10(昭和17年2月)〔 28|1515|チラチャップ ノS80′ニテ ラングレー ラシキモノ爆撃|南西|浸水傾斜 警戒中ノdガ自ラ ラングレー ヲ雷撃沈没セシム 〕
  3. ^ a b 撃沈戦記(II) 1988, pp. 91–93.
  4. ^ a b Leyte 1971, pp. 200–204レイテ海戦の日米両国艦隊編成 一九四四年十月二十三日~二十六日
  5. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 25–26不運の艦と乗員たち
  6. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 17–18.
  7. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 18–20アジア艦隊、フィリピンを退く
  8. ^ NavSource Online:Aircraft Carrier Photo Archive USS LANGLEY(CVL-27)
  9. ^ BATTLE OF THE PHILIPPINE SEA - The US Fifth Fleet
  10. ^ Leyte 1971, pp. 13–14中部太平洋を米艦隊進攻
  11. ^ ポッター, 463ページ
  12. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 111–114ポパイが率いる第38任務部隊
  13. ^ a b 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 56–58第38任務部隊
  14. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 118–119.
  15. ^ a b Leyte 1971, pp. 69a-70零戦あいついで撃墜される
  16. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 143–145最後の空母機攻撃
  17. ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 115.
  18. ^ Leyte 1971, pp. 70–76「彗星」が空母を血祭り
  19. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 60–61彗星、「プリンストン」を爆撃す
  20. ^ Leyte 1971, pp. 76–78修羅場と化した「プリンストン」
  21. ^ 連合軍艦艇撃沈す 2013, pp. 61–65決死の消火作業もおよばず
  22. ^ Leyte 1971, pp. 78–85.
  23. ^ 撃沈戦記(II) 1988, p. 124.
  24. ^ Leyte 1971, p. 165エンガノ岬沖海戦、1944年10月25日
  25. ^ Leyte 1971, pp. 198–199(1944年10月25日、経過概要)
  26. ^ Leyte 1971, pp. 164–166.
  27. ^ Leyte 1971, pp. 178–179.
  28. ^ 撃沈戦記(II) 1988, pp. 149–151囮部隊の囮となって
  29. ^ Leyte 1971, pp. 180–181.
  30. ^ Leyte 1971, pp. 176–177.
  31. ^ Leyte 1971, p. 186.
  32. ^ カルフォーン, 80ページ
  33. ^ NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive USS LANGLEY(CVL-27)

参考文献

  • C・レイモンド・カルフォーン/妹尾作太男・大西道永(訳)『神風、米艦隊撃滅』朝日ソノラマ、1985年、ISBN 4-257-17055-7
  • 木俣滋郎『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8 
    • 第1節 アメリカ航空機運搬艦「ラングレー」/第4節 アメリカ軽空母「プリンストン」
  • 永井喜之、木俣滋郎『新戦史シリーズ撃沈戦記・PART II』朝日ソノラマ、1988年10月。ISBN 4-257-17223-1 
    • 第2部 第二次世界大戦 - 日本編/(7)日本空母「翔鶴」/(9)日本戦艦「武蔵」/(11)日本軽空母「千代田」
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • ドナルド・マッキンタイヤーLeyte レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』 第5巻、大前敏一 訳、サンケイ新聞出版局〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年3月。 

外部リンク