目黒雅叙園

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目黒雅叙園

株式会社目黒雅叙園(かぶしきがいしゃめぐろがじょえん)は、東京都目黒区で目黒雅叙園(結婚式場ホテルレストランなど)を運営する企業。

目次

[編集] 解説

石川県出身の創業者・細川力蔵が、東京府荏原郡目黒町大字下目黒字坂下耕地一帯[要出典]および岩永省一邸として記録された建造物を入手し、増改築を進めて1931年(昭和6年)に目黒に開業した料亭で、国内最初の総合結婚式場[要出典]でもあった[1]。(それより以前1928年(昭和3年)には、東京・芝浦にある細川力蔵の自邸を改築し、芝浦雅叙園という「純日本式料亭」を経営していた。)

なお岩永省一とその家族が住んでいたのは「岩永省一邸」として記録された建造物ではなく、広大な屋敷を持つ別の建物でありこの敷地が目黒雅叙園と接していた(出典『岩永裕吉君』)。

本格的な北京料理や日本料理を供する料亭だったが、メニューに価格を入れるなど当時としては斬新なアイディアで軍人や政治家、華族層以外の一般市民の料亭利用者を増やした。また、中華料理店で一般に見られる円形のターンテーブル(二層構造の円形テーブル上部に料理を載せ回転させることで取りやすくするもの)も1931年(昭和6年)細川力蔵の考案で[2]、その後に中国大陸へ伝わったものである、という説もある。しかし英語圏などでレイジースーザン英語:Lazy Susan)と呼ばれるターンテーブル自体は、18世紀のイギリスにすでに存在していたので、細川力蔵の発明や最初の考案と断言はできない。

目黒雅叙園(旧木造館)は太宰治の小説『佳日』にも登場する。絢爛たる装飾を施された園内の様子は<昭和の竜宮城>とも呼ばれ、ケヤキの板材で作られた園内唯一の木造建築「百段階段」(実際は99段)とその階段沿いに作られた七つの座敷棟宴会場の内の四つは、2009年3月16日に東京都指定登録有形文化財(建造物)に登録された。「十畝(じっぽ)の間」、「漁樵(ぎょしょう)の間」、「草丘(そうきゅう)の間」、「静水(せいすい)の間」、「星光(せいこう)の間」、「清方(きよかた)の間」、「頂上(ちょうじょう)の間」、計七つの中から4棟の座敷棟が登録された。映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなったもので、樹齢百年の床柱や天井、壁面、ガラス窓にいたるまで贅を凝らし、昭和初期における芸術家達の求めた美と大工の高度な伝統技術が融合した素晴らしい装飾となっている。希望者は申請すれば観覧が可能となっており、イベントや宿泊、食事とのセットで公開されている。2010年1月29日から3月3日までの期間、初めて「百段雛(ひな)まつり」という豪華絢爛な催しが行われた(第一回)。日本全国にある雛文化の中から、非常に贅を尽くしたものが多いといわれる山形の雛を中心に、上記七つの宴会場で飾られることとなり盛況を博した。

1945年8月15日正午、大西瀧治郎中将は終戦の玉音放送を軍令部の中庭で聞いた後、当時、海軍病院の分室だったこの雅叙園を訪れて同期生の多田海軍次官を見舞った。そして深夜、渋谷区南平台の官舎に帰られ、16日遺書(ウィキクォートに全文があります)を残した上で、特攻作戦の責を取り14:45割腹自決を遂げた。

1991年(平成3年)の全面改築は日建設計および鹿島建設によるもので、このリニューアルに際し、園内のエレベーター壁面や室内に使われた螺鈿による装飾は、韓国の漆芸家・全龍福(チョン・ヨンボク)によって新たに制作、もしくは修復された。一階にある化粧室の内装も彼の手による漆工芸によって装飾されている。

目黒雅叙園カフェラウンジを上より望む

昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたという。金泥の制限で時局の悪化を知ったという画家の逸話もある。その結果、文展やかつて帝展に出品された数多くの作品を所有し館内を飾った。その数は数千点にもおよぶ膨大なコレクションであり、旧館取り壊し時に額装保存された天井画や欄間絵とともに、新館に併設された美術館(目黒雅叙園美術館)で定期的に観覧に供したが、美術館は2002年に閉鎖されて、多くの作品群は散逸し個々の所在は不明である。

創業者・細川力蔵亡き後は、合資会社雅叙園として同族による経営が成されてきたが、これを受けた運営会社である雅秀エンタープライズが2002年に経営破綻し、外資ファンドにより買収された。現在の株式会社目黒雅叙園として再建の後、2004年ワタベウェディング傘下となる。2007年には経営破綻した福岡山の上ホテル(福岡県福岡市中央区)の再建スポンサーとなり、傘下におさめている。

同一敷地内に全面改築時に建設されたオフィスビルアルコタワーを有していたが、現在は別資本である。

[編集] 脚注

  1. ^ 岩永省一邸国立科学博物館
  2. ^ 昭和6年1931年11月18日、目黒に目黒雅叙園を開園の頃に考案

目黒雅叙園・旧木造館

木造館時代当時の目黒雅叙園

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[編集] 概要

  • 設立 2003年(平成15年)5月
  • 資本金 3億7800万円
  • 本社所在地 東京都目黒区下目黒1-8-1

[編集] 内部リンク

[編集] 備考

雅叙園観光ホテル(中央上、解体前)。手前の屋根は目黒雅叙園
  • 隣接していた雅叙園観光ホテルは元来目黒雅叙園の新館(洋館)であったが、1948年興行師の松尾國三が経営に乗り出して雅叙園観光(現:東北雅叙園)株式会社が設立され、分離。合資会社雅叙園は地主として同ホテルとの関係を持っていたが、事実上目黒雅叙園と雅叙園観光ホテルは全く別物となった。
    • 松尾が雅叙園観光を設立して観光ホテルの経営に乗り出した背景には、二代目細川力蔵と初代未亡人との間で起こった細川家の相続争奪戦があった。二代目が松尾を頼り、松尾は二代目に加担。この際洋館の建物を譲り受けて、中華料理店であった同館を観光ホテルに大改装した。松尾の進出は二代目に対する後方支援でもあった。
    • 雅叙園観光はかつて静岡県三島市に三島雅叙園ホテルを、横浜市戸塚区ホテルエンパイアを、神戸市葺合区(現在の中央区)にニューポートホテルをそれぞれ経営していた。東証一部上場企業であり、松尾が経営していた日本ドリーム観光の姉妹会社であった。松尾没後に経営権争奪(コスモポリタン事件)が起こり、雅叙園観光と日本ドリーム観光は分離。雅叙園観光は結局その過程に於いてイトマン事件に巻き込まれ、1997年倒産。経営していたホテルもすべて閉鎖され現存しない。
    • このイトマン事件に雅叙園観光が巻き込まれ大々的な報道の対象となったことは、目黒雅叙園にも少なからぬ風評被害を及ぼした。その為か、雅叙園観光倒産時には、目黒雅叙園側が「当『目黒雅叙園』とは一切関係がありません」と異例の新聞広告を行っている。
    • 雅叙園観光ホテル跡地は目黒雅叙園の手に戻り、現在エントランス棟の建設工事が予定されている。

[編集] 関連

[編集] 外部リンク

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