日本ドリーム観光

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日本ドリーム観光(にっぽんドリームかんこう) は、かつて存在したレジャーエンターテイメントの総合観光企業。大阪証券取引所1部に上場していた。「昭和の興行師」こと松尾國三が経営にあたった。松尾の死後、経営権争奪戦が起こり、結局1993年中内功率いるダイエーに吸収合併された。

沿革[編集]

創設期[編集]

松竹時代[編集]

  • 1923年(大正12年)
    • 1月 - 石井定七の持ち株を引き受けた白井松次郎が社長に就任、松竹系列の会社となる
  • 1930年11月 - 千日前楽天地を閉鎖。取り壊して跡地に大阪歌舞伎座を建設。
  • 1932年10月 - 大阪歌舞伎座開場。
  • 1934年8月 - 新たに大阪松竹少女歌劇団(OSSK)の本拠地となった千日前・大阪劇場(大劇)の経営を担当。
  • 1937年9月 - 株式会社大阪劇場を合併。
  • 1946年2月 - 白井松次郎会長となり、白井信太郎が社長に就任。

1947年(昭和22年)

    • 9月 - 戎橋松竹を演芸場として開場
    • 12月 - 白井信太郎が公職追放に指定され、社長を辞職。松次郎会長が陣頭指揮を執る
  • 1949年8月 - 株式会社神戸八千代劇場、株式会社国技館を合併。
  • 1950年10月 - 白井信太郎の追放が解除され、社長に復帰。
  • 1951年(昭和26年)
    • 1月 - 会長・白井松次郎死去
    • 12月 - 千土地興行株式会社と改称

雅叙園・松尾國三時代[編集]

  • 1954年(昭和29年)
    • 8月 - 白井信太郎以下役員が総辞職。雅叙園観光[1]株式会社社長・松尾國三が代表取締役に就任、事実上松竹グループから離脱
    • 12月 - 千土地興行労組、全面ストライキを決行。これは翌年1月まで続き、年末興行が中止されたほか正月興行も遅れた
  • 1955年8月 - 白井信太郎、相談役として復帰
  • 1956年8月 - 白井信太郎が代表取締役会長、松尾國三が代表取締役社長に就任
  • 1957年(昭和32年)
    • 1月 - 歌舞伎地下演芸場開場(映画館からの転換)
    • 2月 - 戎橋松竹閉場
    • 7月 - 株式会社大阪松竹歌劇団を設立
  • 1958年(昭和33年)
  • 1960年9月 - 株式会社ドリームランド設立
  • 1961年7月 - 奈良ドリームランド開園
  • 1963年(昭和38年)
    • 8月 - 株式会社ドリームランドと合併、新社名を日本ドリーム観光株式会社とする。これにともない、大阪松竹歌劇団(OSK)を日本歌劇団(NKD)、その運営会社を株式会社日本歌劇団と改称。
  • 1964年8月 - 横浜ドリームランド開園
  • 1966年6月 - 株式会社新歌舞伎座(現存)、株式会社奈良ドリームランド、株式会社横浜ドリームランド、千日興行株式会社、株式会社神戸ニューポートホテル、千日ツーリスト株式会社の現業会社を設立し、事業を譲渡する
  • 1967年6月 - 大阪劇場(大劇)を閉鎖、改装して「大劇レジャービル」とする
  • 1969年4月 - 千日劇場閉場。これにより日本ドリーム観光グループは演芸興行から撤退
  • 1969年6月 - 会長・白井信太郎会長死去
  • 1972年5月 - 千日デパート火災発生
  • 1984年1月 社長・松尾國三死去

ダイエー時代[編集]

  • 1987年(昭和62年)2月 - 雅叙園観光株式会社との提携を解消
  • 1988年(昭和63年)7月 - 株式会社ダイエーの傘下に入る
  • 1990年(平成2年)6月 - 奈良・横浜両ドリームランドの運営会社が株式会社ドリームパークとなる
  • 1993年(平成5年)3月 - 株式会社ダイエーに吸収合併され、株式会社新歌舞伎座などグループ各社はダイエー直属の子会社となる
  • 1995年(平成7年)3月 - ダイエー、株式会社日本歌劇団から資本撤退、役員を引き上げる
  • 2002年(平成14年)2月 - 経営不振により、横浜ドリームランド閉園
  • 2005年(平成17年)
    • 11月 - ダイエー、株式会社ドリームパークを株式会社テンラッシュに譲渡
    • 12月 - ダイエー、株式会社新歌舞伎座を有限会社新宿オーフォー(株式会社リサ・パートナーズのSPC)に譲渡
  • 2006年(平成18年)8月 - 経営不振により、奈良ドリームランド閉園、株式会社ドリームパーク解散

主要事業[編集]

遊園地[編集]

  • 千日前楽天地
    1914年7月、大阪千日前に開業した大型アトラクション施設。地上3階建ての建物の中に、劇場演芸場、展望台、動物園、遊戯施設などを設置。夜間にはイルミネーションも配し、大正期における大阪随一のアミューズメントパークとなった。松竹経営後の1930年に閉鎖。跡地に1932年大阪歌舞伎座が建設された。

ホテル[編集]

以下は、雅叙園観光株式会社が経営するホテルである。

演劇興行[編集]

大阪歌舞伎座と上方歌舞伎[編集]

大阪歌舞伎座(おおさかかぶきざ)は1932年開場。千日前楽天地の跡地に建てられた地上7階建地下1階のビルの1〜4階を占めた。3,000人収容の大劇場ながら東京・歌舞伎座よりも舞台設備が充実しており、客席も芝居が見やすく設計されていて、まさに上方歌舞伎の殿堂であった。初代中村鴈治郎こけら落しの際、「ほんまに夢のようだす」とコメントしてこの豪華劇場の誕生に感涙したという。千日土地建物(通称・千土地)が劇場の経営にあたり、松竹の興行による上方歌舞伎が定期的に上演された。翌1933年には6階にアイススケート場を併設。劇場横の飲食店が立ち並ぶ横丁は「鴈治郎横丁」(現:ビック通り)と名付けられ賑わった。

太平洋戦争敗戦後の1945年10月、6階のスケート場等が占領軍向けの特殊慰安所(キャバレー)に改装された(後述のキャバレーの項参照)。

1954年、爆発的な「扇雀ブーム」に乗じた関西松竹の「役振り」への不満が爆発して紛争が続発、肝心の中村扇雀(現:四世坂田藤十郎)も宝塚映画との契約後松竹の劇場への出演が激減したので、上方歌舞伎の観客動員力は急速に低下した。このため、不採算物件と化した大阪歌舞伎座を御堂筋西側へ縮小移転することとなり、1958年4月いっぱいで閉鎖され、建物は内部を改装して複合商業施設「千日デパート」となった(千日デパートの項参照)。この1958年1月興行より興行主体は松竹から千土地興行に代わっていた。

大阪劇場とOSK[編集]

劇団についての詳細はOSK日本歌劇団を参照

OSKは大阪松竹歌劇団の略称。笠置シズ子京マチ子などの大スターを生み出したことで知られる。1922年宝塚少女歌劇の成功に刺激された白井松次郎が「松竹楽劇部」を編成、翌1923年に落成した道頓堀大阪松竹座を本拠に活動を開始した。1926年日舞と洋舞を折衷した「春のおどり」が成功。1928年浅草松竹座での公演の成功は東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇団=SSK・松竹歌劇団=SKD)誕生のきっかけとなった。

1934年松竹楽劇部の運営を委託された千土地は、これを「大阪松竹少女歌劇団」(OSSK)と改称するとともに、前年の1933年に開場し、同年千土地が取得していた千日前・東洋劇場を大阪劇場(通称・大劇)と改称して、新生OSSKの本拠地とした。大阪劇場は実演と映画の二本立てが興行の建前で、実演はOSSKのレビューか人気歌手の歌謡ショーや映画俳優の演劇(OSSKも出演)、映画は松竹映画を上映した。1943年劇団名から「少女」を省いて「大阪松竹歌劇団」とし、同時に英字略称を廃止した。したがって、OSKという略称が公に使えるようになったのは戦後のことである。

1950年以降近鉄あやめ池遊園地で定期興行を行うようになったことから近鉄と縁が深くなり、1956年には大劇内にあった養成学校があやめ池に移転した。1957年OSKは松竹本体から分離し、松竹・近鉄・千土地興行三者の出資による株式会社大阪松竹歌劇団が運営することになった。1963年親会社:千土地の日本ドリーム観光への編成替えに伴い、OSKも社名・劇団名ともに「日本歌劇団」(NKD)と改称。このころから人気に翳りが見られるようになったが、同年3月には大劇舞台での深夜稽古中に舞台装置が転倒する事故があり41名の劇団員が重軽傷を負う惨事となった。1967年ついに大阪劇場は閉鎖、NKDはあやめ池円型大劇場に完全移転した。

1970年、NKDは「OSK日本歌劇団」と改称して愛着のあるOSKという略称を復活した。翌1971年、松竹の撤退・朝日放送の資本参加を機にOSKの経営権は完全に近鉄側が掌握し、日本ドリーム観光は事実上OSKから手を引いた(日本ドリーム観光を吸収合併したダイエーが株式会社日本歌劇団から完全に撤退したのは1995年)。

戎橋松竹と戦後の上方演芸[編集]

戦後、上方落語の復興を目指し5代目笑福亭松鶴らが定期落語会を催していたのを、松竹および千土地会長の白井松次郎が着目し、四ツ橋・文楽座で松竹主催の落語会を興行したところ概ね好評だった。白井は戦前から演芸進出を企み、一時期傍系の新興キネマに演芸部を設けて演芸王国の吉本興業に対抗していたが、戦後は吉本が演芸から撤退していた事もあり、「上方演芸復興」を旗印として漫談家・花月亭久里丸を中心に芸人を掌握。1947年、千土地が経営する映画館・戎橋松竹を演芸場に改装して、演芸興行を開始した。

1957年に戎橋松竹を閉鎖。代わりに同年大阪歌舞伎座地下の映画館を改装して、歌舞伎地下演芸場を開場したが、これも翌1958年大阪歌舞伎座の改装と共に閉鎖。この時までに出演していた芸人の多くは、所属事務所の関係で道頓堀角座に出演する事となり、残された千土地専属の芸人は京都新京極にあった映画館・京洛劇場を演芸場に改装の上出演した後、千日デパート6階に完成した千日劇場に出演する事になった。千日劇場は1969年まで営業を続けたが、吉本・松竹芸能の台頭と引き替えに衰退し、千日劇場閉鎖と共に日本ドリーム観光は演芸から撤退した(戎橋松竹の項を参照)。

大阪新歌舞伎座と歌手芝居[編集]

大阪新歌舞伎座は、大阪歌舞伎座の代替劇場として1958年映画館・なんば大映の跡地に建設された。「観光劇場」と銘打ち、当時松尾社長が標榜していた「観光立国」の牽引役として桃山造りの外装や豪華な内装となったが、舞台装置は敷地上の関係で歌舞伎舞台特有の回り舞台が設置されず、代わりにスライディングステージを設置する事等苦心の設計となった。

名称は旧歌舞伎座の後継劇場であることを示す「大阪新歌舞伎座」としたものの、松尾は建設当初から歌舞伎を上演することよりも劇場の維持発展を専一に考えていた。松尾は大劇で行われていた人気歌手や映画俳優の実演に目を付け、彼らを座長に据えた演劇興行で観客動員に成功したため、歌舞伎・新国劇・新派を順次排除して行き、映画・演劇界のスター中心の「座長芝居」と「歌手芝居」を月替わりで上演して業績を安定させた。とりわけ人気歌手を舞台に上げて演劇を行わせる「歌手芝居」の興行スタイルを確立して成功を収めた。しかし、このことはまた、この劇場が「歌舞伎をやらない新歌舞伎座」と揶揄され続け、実演主体であった大劇の寿命を縮めるという、「負」の結果をも生んだのである。

とはいえ、自身役者の経験もある松尾國三と「市松延見子」の芸名で達者な女役者として知られていたその妻松尾波儔江は歌舞伎にも愛着があり、その在世中は最低でも1年に1ヶ月は歌舞伎興行を行っていた。しかし、1988年ダイエーが経営の主導権を握ると市川猿之助一座以外の歌舞伎は舞台に上げられなくなり、1993年に日本ドリーム観光がダイエーに吸収合併されて2年後の1995年2月の猿之助歌舞伎を最後に1カ月単位の歌舞伎公演はまったく行われなくなった。一方、座長芝居と歌手芝居のうちでは開場以来約50年の間にしだいに歌手芝居が優勢になり、さらに晩年では、川中美幸中村美律子天童よしみといった大阪に縁の深い女性演歌歌手中心の興行を展開していた。

大阪新歌舞伎座は建物の老朽化のため、2009年6月30日をもって閉館。運営会社の株式会社新歌舞伎座では、近畿日本鉄道が上本町に建設中の商業ビルの上層階へ移転の上再開場すると案内している。

映画館[編集]

  • 大阪劇場 (千日前) - 通称・大劇。OSKと同時に松竹映画を併映。一時洋画ロードショー封切館になる。
  • 大劇シネマ(千日前) - 大劇の5階に設置。大劇閉鎖後も存置され、成人映画館になる。
  • 大劇名画座(千日前) - 大劇閉鎖・改装後に開館。名前の通り名画座。大劇ビル4階に設けられたが、解体と共に閉鎖。跡地はなんばオリエンタルホテルが建つ。
  • 歌舞伎地下劇場(千日前) - 大阪歌舞伎座地階にあった映画館。演芸場に改装後閉館。
  • 歌舞伎映画劇場(千日前) - 大阪歌舞伎座5階にあった映画館。元は大食堂。のちキャバレー「ユメノクニ」に改装。
  • アシベ劇場(千日前) - 大阪歌舞伎座向かいにあった映画館。元は芦邊倶楽部と称した3棟の演芸場と映画館、娯楽場。1914年に映画館に転換する際に松下幸之助が屋外電飾工事の総指揮を執った劇場でもある。のちに新興演芸演芸場になり、戦時中には松竹の実演劇場となるが、その後大映封切館になる。1952年に改築。1970年7月27日をもって映画興行を打ち切り、改装の上翌8月1日より再度実演劇場「芸能実験劇場アシベ」に転換するも、ほどなく劇場を閉鎖してパチンコ店他になる。現在は解体され、跡地にアムザ2000が建つ。
  • アシベ小劇場(千日前) - アシベ劇場裏手に併設された劇場。ストリップと演芸を上演。1952年の改築時に閉鎖。
  • 戎橋松竹(難波) - 戦時中までは映画館。戦後演芸場に転換。(戎橋松竹を参照のこと。)
  • なんば大映(難波) - 南海電車難波駅前に立地。のちの新歌舞伎座敷地。
  • 大阪ニュースハウス(難波) - 戦前期に経営していた小規模のニュース映画館。
  • 戎橋劇場(道頓堀) - 戎橋小劇場とも称した。1958年5月(株)歌舞伎座に譲渡。1986年3月閉館。
  • 新橋松竹(大阪南船場) - 現存せず。
  • 松映(新世界) - 元々は大阪相撲の常打として建設された、大阪国技館。大阪相撲協会が東京の大日本相撲協会に統合された後、映画館に転向。以降は大劇の姉妹館としてOSSK公演を中心に興行を行っていた。1945年大阪大空襲で焼失。戦後は再建されずそのまま閉鎖されるが、運営会社の株式会社国技館が千土地興行に吸収合併された。現在のフェスティバルゲート北隣に位置していた。
  • 尼崎松竹(尼崎市杭瀬) - 現存せず。
  • 神戸八千代劇場(神戸楠公前) - 戦時中は演劇も上演。1954年閉鎖。
  • 京極松竹(京都新京極) - のち京極大映に改称。ストリップ小屋になるが、東宝へ譲渡。隣接する京極東宝の改築時にその敷地の一部になり、京極東宝閉館後現在は「スーパーホテル京都・四条河原町」。
  • 文化映画劇場(京都河原町蛸薬師) - 通称・文映。洋画を上映。のちキャバレー「クラブ香港」とドリームパチンコに転換。
  • 京洛劇場(河原町六角) - 戦前はニュース映画館の京洛映画劇場。戦後演芸場になり、再び映画館に戻り、アルバイトサロンを経て現在は「ベストウエスタンホテル京都」。
  • 京都劇場(河原町三条) - 通称・京劇。現在の同名劇場とは全くの別物。洋画封切(松竹洋画系)から東映封切館へ。戦前はアイススケートリンクで、現在はボウリング場・カラオケ他。
  • 京劇名画座(河原町三条) - 京劇に併設。京洛劇場閉鎖後は洋画封切館になる。1969年京劇ビル改築のため閉鎖。
  • 八千代館(新京極) - 昭和40年代初頭から成人映画を上映。全盛時には幕間に出演俳優が舞台にてストリップを行っていた。日本ドリーム観光のダイエー系列入り後に分離独立した。2007年12月28日をもって閉館。建物は現在古着店「WEGO」が改装の上そのまま使用している。
  • 烏丸松竹(京都四条烏丸) - 現存せず。
  • ドリーム名画座(横浜ドリームランド) - 松竹系。現存せず。
  • MOVIX横浜(横浜ドリームランド) - 松竹系のドライブインシアター。昼間は駐車場。夢のホテルの跡地。現在は横浜薬科大学敷地。

キャバレー[編集]

  • ユメノクニ
    1950年千日前・大阪歌舞伎座5階に開店したアルバイトサロン。元々は歌舞伎座観客用の大食堂。終戦直後の1945年10月、6階のアイススケート場が占領軍向けの慰安所に改装された。慰安所とはキャバレーの事であり、内務省の通達で「占領軍向け慰安施設の設置」が出されて、全国各地でこのような施設が設置された。大阪でも特殊慰安所施設協会が設立され、会長に松竹・千土地副社長の白井信太郎が就任したため、大阪歌舞伎座に白羽の矢が立ったのである。この慰安所は「ドリームランド」と名付けられ、朝鮮戦争勃発まで営業された。
    この慰安所の閉鎖と前後して、慰安所と同じ大阪歌舞伎座の5階に開業したのが「ユメノクニ」であった。同店は一説にはアルバイトサロンの嚆矢とされている。なお、アルバイトサロンとは酒場であり、飲食店の一種で、現在のキャバクラに相当。一般的にはアルサロと略された。ホステスはアルバイトで公募していたため、学生や会社員、人妻が多かった。(他説によればアルサロの第一号は「大劇サロン」(大阪劇場地下遊技場跡)とも言われる。いずれにしても千土地の経営であることに変わりはない。)
    チップ制の廃止や明朗会計等クリーンなイメージを打ち出した反面、暗い照明で怪しげな雰囲気も醸し出していた。これは顧客を失望させない演出でもあったが、ホステスの中には会社員も多く、バレないための工夫だったとも言える。
    歌舞伎座改装時に向かいのアシベ劇場内に移転。1990年アシベ劇場取り壊しのため閉鎖された。接客用のキャッチコピー(表看板や新聞広告などで発表)が独特であった。これらのコピーは支配人を務めた磯田敏夫(織田作之助の門人で作家でもあった。)のアイデアだった。

商業ビル[編集]

  • 千日デパートビル
    1958年大阪歌舞伎座を改装の上開業した商業ビル。詳細は千日デパート火災を参照のこと。

事件[編集]

人権争議

1954年12月、千土地興行労組はストライキを決行。折しも大阪歌舞伎座で公演中であった新国劇の芝居の途中で突然労組委員長が花道に現れ、スト決行を宣言すると緞帳ならぬ防火シャッターが下りて、芝居は中断されたまま打ち切りとなった。怒った観客は猛抗議をするも、新国劇島田正吾も「こちらもやりたいが、幕が開かねば芝居が出来ぬ」と陳謝。労組の行き過ぎた手法に批判が高まり、激怒した観客の手によって労組委員長は花道から引きずり下ろされた。
事の発端は一部職員の雇用条件格差解消を求めた事にあり、特に劣悪な条件で従事していた劇場庶務の一般職の待遇改善を強く求めたことにある。これに、業績悪化に伴う低賃金解消の要求を併せて組合側は労使交渉に及び、加えて越年資金を確保せんと奮闘した。代表取締役に就任したばかりの松尾國三はこの要求を呑んだものの、労組は第一組合と第二組合に分かれており、相互にいがみ合っている関係であったが、松尾は交渉の場に双方の同席を求めた。しかしながら第一組合は第二組合の解散を強く要求し、かつ松尾側が要求した「年末年始は争議交渉を行わない」を一蹴。これを受けて松尾は先の交渉を白紙撤回すると通告したため、遂にストに突入した。
松尾としては、大阪総評産別会議が後ろ盾になり、かつ組合専従者が共産党員であるなど急進的といわれた千土地労組の要求を呑むことは経営危機に繋がると考え、頑として撥ね付けた。組合側は大阪歌舞伎座の前に「松尾國三の墓」「松尾國三の棺桶」を設置して連日シュプレヒコールを上げていたが、松尾も交渉の場で「諸君達は『生活が苦しいから給料を上げろ』と言っているが、見たところきちんとした身なりをしているではないか。私など本当に困窮したときは、足に墨を塗って靴を履いているように見せかけ、誤魔化したものだ。それに比べれば諸君達は相当文化的な生活をしており、本当に生活に困っているのかどうか疑問である。」と応戦した。自身の旅役者時代の苦労話を元にした、半ば屁理屈とも言えるこの回答には労組側も呆気にとられたという。
千日前商店街の営業妨害にもなっていたこのストを解決すべく、大阪府知事や大阪府警本部長のほか、松尾の興行人脈より田岡一雄らの親分衆や笹川良一等が調停を買って出たが松尾はいずれも断った。労組内部でもやがて、ストを巡って従業員間でも意見が対立し、第二組合、第三組合、OSKの組合の間で事態は混迷を極めたが、このスト中に会社側は管理職を動員してアシベ劇場にて江利チエミの実演興行を強行した事で紛糾。1955年1月5日に漸く組合側が調停を受諾して解決した。

日映事件

1957年、大映専務の職にあった曾我正史は、千土地興行社長の松尾國三、京王帝都電鉄社長の三宮四郎と共に、新たな映画製作配給会社・日映株式会社を立ち上げるべく準備を進めていた。曾我はかねてから、大映を割って「第7のメジャー」を設立しようと動いたと言われる。
松尾としても、千土地興行の主業でもある映画興行と関連の深い映画産業を発展させるべく曾我の申し出にに賛同したもので、これには松竹会長で恩人でもある大谷竹次郎の後押しもあった。
一方、京王は戦後、東急から分離独立して出来た会社で、路面電車だった京王線をなんとか通勤電車の水準にまで引き上げる等、戦後復興から漸く一段落したばかりであった。しかしながら、ここで企業発展のために兄弟会社である東急の東映に倣って、京王も映画会社を持つべきだと言う事になり、聖蹟桜ヶ丘に撮影所を持つ事で沿線開発になると目論んだわけである。念のため松尾と曾我は三宮に東急の五島慶太会長の承諾を得たかと問うと、三宮は問題なしと返答。これで新会社設立に向けて動き出した。
3月日映設立が発表され、大映幹部の半数が参加する事となった。ここで東急の五島会長は、京王の映画産業進出は同社の経営危機に繋がると判断し、三宮京王社長に対し断念すべく説得にあたった。五島は三宮のいわば師匠筋に当たる人物であり、自身も東映再建の際手痛い目に遭っている事などから、弟子には同じ目に遭わせたくない一念でこの行動にでたのである。しかしながら、三宮は「彼らに義理がある。」として聞く耳を持たなかった。この態度に五島は憤り、「長年の関係にあるこの自分との義理と、昨日今日との関係である彼らとの義理と、どちらを選ぶのか。」と迫った。これで三宮は折れ、日映から撤退する事を五島に確約した。
日映は千土地と京王が折半して出資し、運転資金も京王が融通する事となっていたが、4月株式払込期日になっても京王は払い込みを実施せず、三宮は曾我と松尾の前から姿を消して失踪。京王も日映に対する融資打ち切りを表明したため、一転して日映設立は頓挫。松尾は大映を飛び出した面々の面倒を見るため、独立プロダクションとして日映株式会社は発足させたものの、僅か2作品を発表しただけで解散した。なお同社作品は大映が配給した。

大劇事件

1956年1月、大阪劇場前で美空ひばりの実演興行に詰めかけた観客で早朝から殺到。出札が始まったものの、切符売り場の窓口が2カ所しか無かったため、購入者の列は遅々として進まなかった。その列に、心無い者の悪戯で蛇の死体が投げ込まれ、これで一時パニックとなり列間に空間が生じ、この隙間を埋めるべく人々が殺到して将棋倒しが発生。1名が圧死し、9名が重軽傷を負う惨事となった。

大劇事故

1963年3月、大阪劇場でOSKが深夜稽古中に舞台装置が転倒。劇団員41人が重軽傷を負う事故が発生。原因は劇場施設の老朽化。日本ドリーム観光はこれを契機に大阪劇場の継続を諦め、総合レジャービルに改装する事を決意。劇場は1967年に閉鎖され、大劇レジャービルとしてボウリング場、飲食店、キャバレー、パチンコ店などが入居した。1991年解体され、跡地にはなんばオリエンタルホテルが建設された。

千日デパート火災

1972年5月に発生。死者118名を数える大規模災害となった(千日デパート火災の項参照)。

コスモポリタン事件

1984年松尾國三死去後、その夫人である松尾波儔江(上述)と経営陣との間に経営権を巡る争いが起こった。経営陣はこのとき仕手集団のコスモポリタンを率いる池田保次と結託して自社株を買い占め、松尾一族の追い出しにかかった。松尾一族もこれに防戦。結局1987年に経営陣が雅叙園観光を、松尾一族が日本ドリーム観光を経営する事となり、両社の提携関係は解消した。しかし、この時までに松尾側には松尾國三の盟友・ダイエーの中内功が後方支援を行い、結局中内が松尾一族から経営を肩代わりする事で日本ドリーム観光はダイエーの傘下に移り、松尾一族とこれら両社の関係は完全に無くなった。以降、松尾一族は松尾芸能振興財団を通じて松尾國三の理念でもあった芸能活動の振興に側面から支援して行く事となる。
一方、雅叙園観光はコスモポリタンの手に落ちたが、このコスモポリタンが実は暴力団系の会社で、1988年仕手戦に敗れて破綻。池田は雅叙園観光の融通手形を乱発して自身の資金繰りに充当するが、結局池田は失踪。その後イトマン事件の主人公である許永中伊藤寿永光といった「闇の紳士」達が経営権を握り、同社の経営は迷走。1992年には決算時に監査法人から不適正意見が出されて上場廃止の危機に追い込まれる。結局1997年雅叙園観光は倒産した(なお、雅叙園観光と目黒雅叙園は全くの別会社であるが、目黒雅叙園も2002年に倒産している)。

脚注[編集]

  1. ^ 雅叙園観光はその後倒産、休眠を経て2010年(平成22年)に「雅叙園観光ホールディングス」を設立して存続会社としている