「日産・プリメーラ」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 初代(P10型・1990 - 1995年) ===
=== 初代 P10系(1990年-1995年) ===
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| 車名=日産・プリメーラ(初代
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| 1枚目画像の説明=欧州仕様
| 1枚目画像の説明=欧州仕様
| 1枚目画像名=Primp10.jpg
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| 同クラス=[[トヨタ・コロナ]]<br />[[トヨタ・カムリ]]<br />[[スバル・レガシィ]]<br />[[ホンダ・アコード]]<br />[[三菱・ギャラン]]<br />[[マツダ・カペラ]]
| 同クラス=[[トヨタ・コロナ]]<br />[[トヨタ・カムリ]]<br />[[スバル・レガシィ]]<br />[[ホンダ・アコード]]<br />[[三菱・ギャラン]]<br />[[マツダ・カペラ]]
}}
}}
* [[1990年]]2月、[[世界戦略車]]としてリリースされていた[[日産・オースター|オースター]]/[[日産・スタンザ|スタンザ]]と日産自動車がライセンス生産し、サニー店(発売当初より)とプリンス店(1987年4月より)で取り扱っていた[[フォルクスワーゲン・サンタナ]]の後継車種として、B13[[日産・サニー|サニー]]のプラットフォームをベースとして登場し、日欧両市場に投入された。
* [[1990年]]2月、[[世界戦略車]]としてリリースされていた[[日産・オースター|オースター]]/[[日産・スタンザ|スタンザ]]と日産自動車がライセンス生産し、サニー店(発売当初より)とプリンス店(1987年4月より)で取り扱っていた[[フォルクスワーゲン・サンタナ]]の後継車種として、B13[[日産・サニー|サニー]]のプラットフォームをベースとして登場し、日欧両市場に投入された。
** ボディタイプは日本国内では4ドアセダンのみ、欧州や台湾市場には5ドアハッチバックも存在し、一部は日本にも[[輸入]]されている。また、[[日産・アベニール|アベニール]]はプリメーラワゴンの名で欧州市場に投入されていた。日本仕様車は1800cc/2000ccの[[日産・SRエンジン|SR型エンジン]]に5速[[マニュアルトランスミッション|MT]]と4速[[オートマチックトランスミッション|AT]]の組み合わせだった。
** ボディタイプは日本国内では4ドアセダンのみ、欧州や台湾市場には5ドアハッチバックも存在し、一部は日本にも[[輸入]]されている。また、[[日産・アベニール|アベニール]]はプリメーラワゴンの名で欧州市場に投入されていた。日本仕様車は1800cc/2000ccの[[日産・SRエンジン|SR型エンジン]]に5速[[マニュアルトランスミッション|MT]]と4速[[オートマチックトランスミッション|AT]]の組み合わせだった。
: ほぼ同時期に発表された日本国内専売車の[[日産・プレセア|プレセア]]とは対照的に、スタイリング、動的性能両面で欧州車を強く意識して開発された。[[901運動]]から生まれたフロント・[[マルチリンク式サスペンション]]によるハンドリングの評価は特に高く、発表当時には「欧州車を超えた」とすら評された。また、「プリメーラパッケージ」と称したその居住性は、コンパクトな車体ながら室内は当時のクラス最大級の広さを誇るものであり、スタイリングも居住性と空力性能をバランスよく両立させ且つ機能的で洗練されたもので、低全高で居住性に劣る[[ハードトップ]]車が主流であった1990年代当時の日本市場では異色の存在であった。
: ほぼ同時期に発表された日本国内専売車の[[日産・プレセア|プレセア]]とは対照的に、スタイリング、動的性能両面で欧州車を強く意識して開発された。[[901運動]]から生まれたフロント・[[マルチリンク式サスペンション]]によるハンドリングの評価は特に高く、発表当時には「欧州車を超えた」とすら評された。また、「プリメーラパッケージ」と称したその居住性は、コンパクトな車体ながら室内は当時のクラス最大級の広さを誇るものであり、スタイリングも居住性と空力性能をバランスよく両立させ且つ機能的で洗練されたもので、低全高で居住性に劣る[[ハードトップ]]車が主流であった1990年代当時の日本市場では異色の存在であった。
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=== 2代目(P11型・1995 - 2001年) ===
=== 2代目 P11系(1995年-2001年) ===
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| 車名=日産・プリメーラ(2代目
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| 1枚目画像の説明=セダン
| 1枚目画像の説明=セダン
| 1枚目画像名=Nissan Primera 24-12-06 1632.jpg
| 1枚目画像名=Nissan Primera 24-12-06 1632.jpg
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| 同クラス=[[トヨタ・コロナ|トヨタ・コロナプレミオ]]<br />[[トヨタ・ビスタ]]<br />[[スバル・レガシィ]]<br />[[ホンダ・アコード]]<br />[[三菱・ギャラン]]<br />[[マツダ・カペラ]]
| 同クラス=[[トヨタ・コロナ|トヨタ・コロナプレミオ]]<br />[[トヨタ・ビスタ]]<br />[[スバル・レガシィ]]<br />[[ホンダ・アコード]]<br />[[三菱・ギャラン]]<br />[[マツダ・カペラ]]
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* 1995年9月 初の[[モデルチェンジ (自動車)|フルモデルチェンジ]]を受け、P11に移行。初代はB13サニーベースであったが、2代目ではU14[[日産・ブルーバード|ブルーバード]]と基本コンポーネンツを共用する<ref>しかし実質的にはB14サニーのプラットフォームをベースとしている。</ref>こととなった。
* 1995年9月 初の[[モデルチェンジ (自動車)|フルモデルチェンジ]]を受け、P11に移行。初代はB13サニーベースであったが、2代目ではU14[[日産・ブルーバード|ブルーバード]]と基本コンポーネンツを共用する<ref>しかし実質的にはB14サニーのプラットフォームをベースとしている。</ref>こととなった。
** ボディタイプは日本のデビュー当初4ドアセダンのみ。グリル等を変更したサニー店向け姉妹車「プリメーラカミノ」も同時に登場、欧州では5ドアハッチバックもラインナップされ、一部が日本にも輸入された。また、1997年にはワゴンモデルも追加された。プリメーラカミノはやや高級感を強めたフロントフェイスとなっている。
** ボディタイプは日本のデビュー当初4ドアセダンのみ。グリル等を変更したサニー店向け姉妹車「プリメーラカミノ」も同時に登場、欧州では5ドアハッチバックもラインナップされ、一部が日本にも輸入された。また、1997年にはワゴンモデルも追加された。プリメーラカミノはやや高級感を強めたフロントフェイスとなっている。
** 初代に引き続き、欧州へは「プリメーラ」として英国サンダーランド工場生産車が供給された。また、北米市場へは「インフィニティ・G20」としてプリメーラカミノフェイスのモデルが投入された。
** 初代に引き続き、欧州へは「プリメーラ」として英国サンダーランド工場生産車が供給された。また、北米市場へは「インフィニティ・G20」としてプリメーラカミノフェイスのモデルが投入された。
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安全性能をはじめ各部で大幅な改良が行われた一方で、リア[[サスペンション]]が、初代の[[独立懸架]]・[[マルチリンク式サスペンション|マルチリンク式]]から、[[車軸懸架]]・マルチリンクビーム式に変更されるなど、各所でコストダウンの影も見られる。4WD車のリアサスペンションはストラット式を採用する。
安全性能をはじめ各部で大幅な改良が行われた一方で、リア[[サスペンション]]が、初代の[[独立懸架]]・[[マルチリンク式サスペンション|マルチリンク式]]から、[[車軸懸架]]・マルチリンクビーム式に変更されるなど、各所でコストダウンの影も見られる。4WD車のリアサスペンションはストラット式を採用する。
■コメント■P10のリアサスはパラレルリンク式ストラットサスペンションです。
■コメント■P10のリアサスはパラレルリンク式ストラットサスペンションです。
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'''年表'''(※特記以外、日本国内での出来事)
'''年表'''(※特記以外、日本国内での出来事)
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* 1998年9月 同月、日産サウスアフリカ会社([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])にて[[ノックダウン生産]]を開始し、10月より南アフリカで発売開始。部品供給は英国から受けていた。
* 1998年9月 同月、日産サウスアフリカ会社([[南アフリカ共和国|南アフリカ]])にて[[ノックダウン生産]]を開始し、10月より南アフリカで発売開始。部品供給は英国から受けていた。
* [[1999年]]4月 日産販売店の再編により、プリメーラを扱う[[レッドステージ|プリンス店]]、プリメーラカミノを扱う[[レッドステージ|サニー店]]の取扱車種が共通化されたため、プリメーラカミノはモデル廃止され、プリメーラに一本化された。
* [[1999年]]4月 日産販売店の再編により、プリメーラを扱う[[レッドステージ|プリンス店]]、プリメーラカミノを扱う[[レッドステージ|サニー店]]の取扱車種が共通化されたため、プリメーラカミノはモデル廃止され、プリメーラに一本化された。
** 欧州仕様モデル(英国日産・サンダーランド工場製)は日本向けがP12に切り替わった2001年まで、2000年にフェイスリフトを受けたP11-144型を生産・販売していた。
** 欧州仕様モデル(英国日産・サンダーランド工場製)は日本向けがP12に切り替わった2001年まで、2000年にフェイスリフトを受けたP11-144型を生産・販売していた。
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Image:2002G20(7).JPG|プリメーラカミノ(インフィニティG20)
Image:2002G20(7).JPG|プリメーラカミノ(インフィニティG20)
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=== 3代目(P12型・2001-2008年) ===
=== 3代目 P12系(2001年-2008年) ===
{{Template:Infobox 自動車のスペック表
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| 車名=日産・プリメーラ(3代目
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| 1枚目画像の説明=セダン
| 1枚目画像の説明=セダン
| 1枚目画像名=Nissan Primera Sedan 2001.jpg
| 1枚目画像名=Nissan Primera Sedan 2001.jpg
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== モータースポーツ ==
== モータースポーツ ==
=== 初代(P10) ===
=== 初代(P10) ===
* [[1993年]] [[英国ツーリングカー選手権]] ([[英国ツーリングカー選手権|BTCC]]) に[[ヤン・レーシング]]から2台がシーズン通して参戦。メインスポンサーは[[カストロール]]、ボディカラーはブラック、タイヤは[[横浜ゴム|ヨコハマタイヤ]]。ドライバーは[[キース・オードア]]と[[ウィン・パーシー]]だった。
* [[1993年]] [[英国ツーリングカー選手権]] ([[英国ツーリングカー選手権|BTCC]]) に[[ヤン・レーシング]]から2台がシーズン通して参戦。メインスポンサーは[[カストロール]]、ボディカラーはブラック、タイヤは[[横浜ゴム|ヨコハマタイヤ]]。ドライバーは[[キース・オードア]]と[[ウィン・パーシー]]だった。
** 当初は[[プライベーター]]としての参戦だったが、シーズン中盤の第8戦[[ペンブレイ]]では追浜の日産自動車スポーツ車両開発センターが仕立てた3台目のプリメーラが参戦。以後、ヤン・レーシングには日産からの技術協力が行われ、戦闘力の強化されたマシンは第9戦[[シルバーストーン]]では1-2フィニッシュを遂げている。
** 当初は[[プライベーター]]としての参戦だったが、シーズン中盤の第8戦[[ペンブレイ]]では追浜の日産自動車スポーツ車両開発センターが仕立てた3台目のプリメーラが参戦。以後、ヤン・レーシングには日産からの技術協力が行われ、戦闘力の強化されたマシンは第9戦[[シルバーストーン]]では1-2フィニッシュを遂げている。
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* この年、BTCCへの参戦は一時休止し、代わりにドイツツーリングカー選手権(クラス2ツーリングの[[スーパーツーリンワーゲンカップ|STWカップ]])に参戦。ボディカラーはブルー。ドライバーはキース・オードア、イヴァン・カペリ、[[サシャ・マーセン]]の3人。エースのオードアが、終盤の[[アヴス]]の第1レースで初優勝を飾るが、続く第2レースで壁に激突。さらに後続車が運転席側に突っ込む大惨事が発生してしまい、死亡してしまう。その後行われた最終戦、チームは欠場している。
* この年、BTCCへの参戦は一時休止し、代わりにドイツツーリングカー選手権(クラス2ツーリングの[[スーパーツーリンワーゲンカップ|STWカップ]])に参戦。ボディカラーはブルー。ドライバーはキース・オードア、イヴァン・カペリ、[[サシャ・マーセン]]の3人。エースのオードアが、終盤の[[アヴス]]の第1レースで初優勝を飾るが、続く第2レースで壁に激突。さらに後続車が運転席側に突っ込む大惨事が発生してしまい、死亡してしまう。その後行われた最終戦、チームは欠場している。
* [[1996年]] 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) に復帰。P10型2台がシーズン通して参戦。チーム体制は元ツーリングカーレーサーの[[アンディ・ロウズ]]率いる[[ロウズ・スポーツ]] ([[ロウズ・スポーツ|ROUSE SPORT]]) がプライベーターとして参戦した。ボディカラーは青、タイヤは当初[[横浜ゴム|ヨコハマタイヤ]]だったが、シーズン途中でタイヤは[[ミシュラン]]に変更された。後半戦からリバース・ヘッドタイプのSR20DEを搭載しており、マシンとしての戦闘力がアップしていた。ドライバーは[[ゲリー・アイレス]]と[[オーウェン・マッコリー]]だった。
* [[1996年]] 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) に復帰。P10型2台がシーズン通して参戦。チーム体制は元ツーリングカーレーサーの[[アンディ・ロウズ]]率いる[[ロウズ・スポーツ]] ([[ロウズ・スポーツ|ROUSE SPORT]]) がプライベーターとして参戦した。ボディカラーは青、タイヤは当初[[横浜ゴム|ヨコハマタイヤ]]だったが、シーズン途中でタイヤは[[ミシュラン]]に変更された。後半戦からリバース・ヘッドタイプのSR20DEを搭載しており、マシンとしての戦闘力がアップしていた。ドライバーは[[ゲリー・アイレス]]と[[オーウェン・マッコリー]]だった。
** ちなみに、このロウズ・スポーツチームのP10プリメーラは同年、富士スピードウェイで行われたJTCC最終戦・インターTECに試験的にエントリーした。ドライバーは1994年のJTCCでチャンピオン争いをした[[アンソニー・レイド]]で、不調気味だったJTCC仕様P11をさておいて終始優勝争いを演じている。この結果を重く見たNISMOが、翌[[1997年]]型JTCC用マシンへのリバース・ヘッドタイプエンジンの採用を決めたと言われている。
** ちなみに、このロウズ・スポーツチームのP10プリメーラは同年、富士スピードウェイで行われたJTCC最終戦・インターTECに試験的にエントリーした。ドライバーは1994年のJTCCでチャンピオン争いをした[[アンソニー・レイド]]で、不調気味だったJTCC仕様P11をさておいて終始優勝争いを演じている。この結果を重く見たNISMOが、翌[[1997年]]型JTCC用マシンへのリバース・ヘッドタイプエンジンの採用を決めたと言われている。
*またこの年は、前年に続きSTWカップに参戦。ドライバーはカペリ、マーセンの二人が継続。そして亡くなったオードアに代え、アンソニー・レイドが参戦した。しかし成績はパッとしなかった。
*またこの年は、前年に続きSTWカップに参戦。ドライバーはカペリ、マーセンの二人が継続。そして亡くなったオードアに代え、アンソニー・レイドが参戦した。しかし成績はパッとしなかった。


=== 2代目(P11) ===
=== 2代目(P11) ===
[[Image:Nissan Primera BTCC.JPG|thumb|200px|プリメーラGT<br/>英国ツーリングカー選手権 出場車]]
[[Image:Nissan Primera BTCC.JPG|thumb|200px|プリメーラGT<br/>英国ツーリングカー選手権 出場車]]
* [[1996年]] [[全日本ツーリングカー選手権 (1994年-1998年)|全日本ツーリングカー選手権]] (JTCC) に2台がフル参戦。NISMOからエントリーのユニシアジェックス・プリメーラカミノ(ボディカラーはホワイト/オレンジ)を[[影山正彦]]が、チーム・[[インパル]]からエントリーのカルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。また、シーズン途中でNISMOからエントリーの[[ザナヴィ]]・サニーの[[本山哲]]がマシンをプリメーラカミノにスイッチ。ザナヴィ・プリメーラカミノ(ボディカラーはシルバー/ブルー)としてシーズン終了まで参戦した。タイヤは影山、星野がブリヂストン、本山がミシュラン。
* [[1996年]] [[全日本ツーリングカー選手権 (1994年-1998年)|全日本ツーリングカー選手権]] (JTCC) に2台がフル参戦。NISMOからエントリーのユニシアジェックス・プリメーラカミノ(ボディカラーはホワイト/オレンジ)を[[影山正彦]]が、チーム・[[インパル]]からエントリーのカルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。また、シーズン途中でNISMOからエントリーの[[ザナヴィ]]・サニーの[[本山哲]]がマシンをプリメーラカミノにスイッチ。ザナヴィ・プリメーラカミノ(ボディカラーはシルバー/ブルー)としてシーズン終了まで参戦した。タイヤは影山、星野がブリヂストン、本山がミシュラン。
** 1996年7月 第4戦美称スーパーツーリングカー・ラウンド7にて優勝。
** 1996年7月 第4戦美称スーパーツーリングカー・ラウンド7にて優勝。
** ちなみに、同年のJTCC仕様ユニシアジェックス・プリメーラカミノはその後某所にて保管され、現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
** ちなみに、同年のJTCC仕様ユニシアジェックス・プリメーラカミノはその後某所にて保管され、現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
* [[1997年]] 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にNME/RMLのエントリーで2台がフル参戦。BTCC用マシンはこの年からP11にスイッチした。チーム体制は[[ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ]] ([[ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ|NME]]) と[[レイ・マロック・リミテッド]] ([[レイ・マロック・リミテッド|RML]]) がジョイントしたものに変更。エンジン開発を[[ジャッド]]が行った。メインスポンサーは[[ボーダフォン]]。シーズン前半までは大文字Vのロゴに大文字でVODAFONEと書かれていたが、シーズン途中のノックヒルから日本でもお馴染のロゴになった。ボディカラーはその後1999年まで続くホワイトにヘルメットをイメージしたスプラッシュが入ったもの(この年は、青、赤の他に黄、緑のスプラッシュがペイントされていた)。タイヤは[[ミシュラン]]。ドライバーは[[アンソニー・レイド]]と[[デイビッド・レズリー]]を起用した。
* [[1997年]] 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にNME/RMLのエントリーで2台がフル参戦。BTCC用マシンはこの年からP11にスイッチした。チーム体制は[[ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ]] ([[ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ|NME]]) と[[レイ・マロック・リミテッド]] ([[レイ・マロック・リミテッド|RML]]) がジョイントしたものに変更。エンジン開発を[[ジャッド]]が行った。メインスポンサーは[[ボーダフォン]]。シーズン前半までは大文字Vのロゴに大文字でVODAFONEと書かれていたが、シーズン途中のノックヒルから日本でもお馴染のロゴになった。ボディカラーはその後1999年まで続くホワイトにヘルメットをイメージしたスプラッシュが入ったもの(この年は、青、赤の他に黄、緑のスプラッシュがペイントされていた)。タイヤは[[ミシュラン]]。ドライバーは[[アンソニー・レイド]]と[[デイビッド・レズリー]]を起用した。
* この年の全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) には2台がフル参戦。NISMOからエントリーのザナヴィ・プリメーラカミノ(ボディカラーはシルバー/ブルー)を本山哲が、チーム・インパルからエントリーのカルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。タイヤは2台ともブリヂストン。ちなみに、この年JTCCは車両規定が変わり、オーバーフェンダー装着が可能となるなど、BTCCマシンとは異なるモディファイが施された。
* この年の全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) には2台がフル参戦。NISMOからエントリーのザナヴィ・プリメーラカミノ(ボディカラーはシルバー/ブルー)を本山哲が、チーム・インパルからエントリーのカルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。タイヤは2台ともブリヂストン。ちなみに、この年JTCCは車両規定が変わり、オーバーフェンダー装着が可能となるなど、BTCCマシンとは異なるモディファイが施された。
** 1997年5月 第3戦菅生スーパーツーリングカー ラウンド6にて優勝。
** 1997年5月 第3戦菅生スーパーツーリングカー ラウンド6にて優勝。
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* 同年、BTCC仕様のレースカーが東南アジア・ツーリングカー・ゾーン・チャレンジ (SEATCZC) に地元チームの手で参戦し、年間ドライバーズランキング2位を獲得。また、マカオ・ギア・レースとの混走となった最終戦では総合4位完走を果たした。
* 同年、BTCC仕様のレースカーが東南アジア・ツーリングカー・ゾーン・チャレンジ (SEATCZC) に地元チームの手で参戦し、年間ドライバーズランキング2位を獲得。また、マカオ・ギア・レースとの混走となった最終戦では総合4位完走を果たした。
** このマシンはのちに日本に戻り、現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
** このマシンはのちに日本に戻り、現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
* 同年、STWカップにチーム・ロズベルグからフル参戦した。青ベースのBTCCとは逆のカラーリングとなった。第3戦のニュルブルクリンクでローランド・アッシュが95年以来の優勝を遂げている。
* 同年、STWカップにチーム・ロズベルグからフル参戦した。青ベースのBTCCとは逆のカラーリングとなった。第3戦のニュルブルクリンクでローランド・アッシュが1995年以来の優勝を遂げている。
* 同年、[[スウェーデンツーリングカー選手権]] ([[STCC]]) にフル参戦した。マシンはP10
* 同年、[[スウェーデンツーリングカー選手権]] ([[STCC]]) にフル参戦した。マシンはP10系。
* [[1999年]] 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にNME/RMLのエントリーでフル参戦。メインスポンサーはボーダフォン、タイヤはミシュラン。ドライバーは「優勝請負人」[[ローレン・アイエロ]]と残留したデイビッド・レズリー。この年のBTCC仕様プリメーラの強さは際立っており、最終戦シルバーストーンまでアイエロとレズリーでドライバーズタイトルを争うことになった。結果アイエロがドライバーズを制し、最終的にはドライバー、チーム、マニュファクチャラーズの3タイトルを獲得。また、前年型をドライブしたチーム・ダイナミクスの[[マット・ニール]]もベストプライベーターに選ばれインディペンデント・クラスを制覇し、BTCCのタイトルを総なめするに至った。NMEワークスとしてはBTCCはこの年で撤退した。
* [[1999年]] 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にNME/RMLのエントリーでフル参戦。メインスポンサーはボーダフォン、タイヤはミシュラン。ドライバーは「優勝請負人」[[ローレン・アイエロ]]と残留したデイビッド・レズリー。この年のBTCC仕様プリメーラの強さは際立っており、最終戦シルバーストーンまでアイエロとレズリーでドライバーズタイトルを争うことになった。結果アイエロがドライバーズを制し、最終的にはドライバー、チーム、マニュファクチャラーズの3タイトルを獲得。また、前年型をドライブしたチーム・ダイナミクスの[[マット・ニール]]もベストプライベーターに選ばれインディペンデント・クラスを制覇し、BTCCのタイトルを総なめするに至った。NMEワークスとしてはBTCCはこの年で撤退した。
** ちなみに、このマシンはのちに日本に渡り、ニスモ・フェスティバルにて模擬レースに出走している。現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている(1999のタイトルを獲得した実車ではないと思われるレプリカ。実車は現在もイギリスに有り、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに毎年出場している。カラーリングもリアのスポンサーロゴの配置やサイドのチャンピオンの文字などからこちらが実車だと分かる。)。
** ちなみに、このマシンはのちに日本に渡り、ニスモ・フェスティバルにて模擬レースに出走している。現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている(1999のタイトルを獲得した実車ではないと思われるレプリカ。実車は現在もイギリスに有り、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに毎年出場している。カラーリングもリアのスポンサーロゴの配置やサイドのチャンピオンの文字などからこちらが実車だと分かる。)。

2008年5月13日 (火) 14:27時点における版

日産・プリメーラ (PRIMERA) は、日産自動車が生産していた乗用車である。かつては日欧両地域で生産・販売されていたが、日本では2005年に生産・販売が終了している。

概要

ボディタイプはセダンステーションワゴン、5ドアハッチバックの3種類を持つ。日本市場ではミドルクラスに、欧州市場ではDセグメントに属し、一貫して欧州車を強く意識した卓越したハンドリング性能と洗練されたスタイリングを特徴としている。

歴史

初代 P10系(1990年-1995年)

日産・プリメーラ(P10系)
欧州仕様
インフィニティ・G20(前期型)
インフィニティ・G20(前期型・リア)
ボディ
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドア セダン
5ドア ハッチバック(欧州生産車・日本にも逆輸入)
パワートレイン
エンジン 1.8L直4DOHC SR18Di型・110PS(前期型)
1.8L直4DOHC SR18DE型・125PS(後期型)
2.0L直4DOHC SR20DE型・150PS
変速機 5MT/4AT
車両寸法
ホイールベース 2550mm
全長 セダン:4400mm
全幅 セダン:1695mm
全高 セダン:1385mm
車両重量 1080 - 1360kg
系譜
先代 日産・オースター
日産・スタンザ
フォルクスワーゲン・サンタナ(事実上[1]
テンプレートを表示
  • 1990年2月、世界戦略車としてリリースされていたオースター/スタンザと日産自動車がライセンス生産し、サニー店(発売当初より)とプリンス店(1987年4月より)で取り扱っていたフォルクスワーゲン・サンタナの後継車種として、B13系サニーのプラットフォームをベースとして登場し、日欧両市場に投入された。
    • ボディタイプは日本国内では4ドアセダンのみ、欧州や台湾市場には5ドアハッチバックも存在し、一部は日本にも輸入されている。また、アベニールはプリメーラワゴンの名で欧州市場に投入されていた。日本仕様車は1800cc/2000ccのSR型エンジンに5速MTと4速ATの組み合わせだった。
ほぼ同時期に発表された日本国内専売車のプレセアとは対照的に、スタイリング、動的性能両面で欧州車を強く意識して開発された。901運動から生まれたフロント・マルチリンク式サスペンションによるハンドリングの評価は特に高く、発表当時には「欧州車を超えた」とすら評された。また、「プリメーラパッケージ」と称したその居住性は、コンパクトな車体ながら室内は当時のクラス最大級の広さを誇るものであり、スタイリングも居住性と空力性能をバランスよく両立させ且つ機能的で洗練されたもので、低全高で居住性に劣るハードトップ車が主流であった1990年代当時の日本市場では異色の存在であった。
    • 日本市場ではバブル崩壊に伴うユーザーのベーシック志向への回帰と相まって、モデル末期まで堅調な販売実績を誇った。一方で、当時の日本のミドルクラスのファミリーセダンとしては足回りが固く、乗り心地には若干の難があった(ただし、1992年9月のマイナーチェンジ以降からダンパー、ブッシュ等のセッティングを見直しある程度乗り心地を改善させている)が、欧州車の足回りに近いと好意的に解釈されることも多かった。また、欧州車と対等に渡り合える初の日本車として、欧州車から乗り換えるユーザーも見られた。欧州市場でも、欧州カー・オブ・ザ・イヤーで日本車初の2位を獲得するなど、その評価は日本車としては異例なほど高かった。北米市場にもインフィニティチャンネルからインフィニティ・G20として投入された。

年表(※特記以外、日本国内での出来事)

  • 1989年10月 第28回東京モーターショーコンセプトカー「PRIMERA-X」を出品。尚、この車両はフランクフルトショーにおいては「UV-X」として出品された。
  • 1990年2月 スタンザ/オースターの後継車種としてデビュー。
  • 1990年7月 北米でインフィニティ・G20を発表。
  • 1990年秋 英国サンダーランド工場で現地生産開始。
  • 1990年10月 SR20DE型エンジン搭載モデルに4WD車を追加。
  • 1991年5月 ヨーロッパ各賞受賞記念車として「Te-r」を7月までの期間限定で発売。
  • 1991年10月 英国生産の5ドアハッチバックが日本へ輸入開始。4ドアセダン一部改良。安全装備として前後サイドドアビームの追加やハイマウントストップランプの標準化など。
  • 1992年9月 4ドアセダンがマイナーチェンジ、1800ccエンジンがEGI化され、SR18Di型からSR18DE型に変更。(110PS→125PS) 2000cc車に電子制御ATを採用。2000ccの一部グレードにフルフレックスショックアブソーバーの採用。フロントターンシグナルランプのアンバー色化、ライセンスプレート取付面の黒色化など外装に若干の変更を受ける。内装はブラウンとブルーが廃止され、オフブラックに統一される。助手席パワーウインドウスイッチをドアにも設置。従来は4WD車のみに設定されていたトランクスルー、リアアームレスト、リアヘッドレストを2WDの一部グレードに拡大採用。Tm、CiグレードにLセレクション仕様車の追加。運転席エアバッグをOP設定など。
  • 1993年1月 日産自動車60周年記念限定車としてCi-Sを発売。
  • 1993年5月 エアコンを新冷媒に変更。可変コンプレッサーの廃止。60周年記念限定車として、Ci-S2、Tm-Fを発売。
  • 1993年8月 一部改良。サイドシル部分のブラックアウト塗装の廃止など。
  • 1993年11月 60周年記念限定車として、Ci-S3、Tm-F2を発売。
  • 1994年1月 Ciクルーズ、Tmクルーズを発売。
  • 1994年2月 5ドアハッチバックがマイナーチェンジ。エアコンを新冷媒に変更。一部装備の簡略化。ハイマウントストップランプ、電子制御AT、EGIを採用。助手席パワーウインドウスイッチをドアにも設置。運転席エアバッグをOP設定など。
  • 1994年9月 4ドアセダンがマイナーチェンジ。全車、ホイールを14インチ化。運転席エアバッグを標準装備。助手席エアバッグをOP設定。内外装を一部コストダウン。灰皿照明、グローブボックス照明、パワーウインドウ照明を廃止。オーテックバージョンと同仕様のスポーツスポイラーをTeにOP設定。Tm-Sセレクション、Ciクルーズ仕様車の追加。5ドアハッチバックの運転席エアバッグOP設定を廃止など。
  • 1994年11月 オーテックジャパンより「オーテックバージョン」発売。
  • 1995年1月 5ドアハッチバックがマイナーチェンジ。灰皿照明、グローブボックス照明、フロントパワーウインドウ照明を廃止。運転席エアバッグを標準装備。eGTの助手席にシートバックポケットを装備。5ドアハッチバック2.0SLX、4ドアセダン1.8SVが追加。
  • 1995年6月 円高差益還元で5ドアハッチバックの価格を10万円値下げ。


2代目 P11系(1995年-2001年)

日産・プリメーラ(P11系)
セダン
ワゴン
ハッチバック(欧州仕様・後期型)
ボディ
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドアセダン
5ドアハッチバック(欧州生産・プリメーラUKとして日本にも輸入)
5ドアステーションワゴン
駆動方式 FF/4WD
パワートレイン
エンジン 1.8L直4DOHC SR18DE型・125PS(中期型まで)
2.0L直4DOHC SR20DE型・150PS
2.0L直4DOHC SR20VE型・190PS(中期型以降)
1.8L直4DOHC QG18DD型直噴・130PS(後期型のみ)
1.8L直4DOHC QG18DE型・125PS(後期型のみ)
変速機 5MT/4AT/Hyper CVT
車両寸法
ホイールベース 2600mm
全長 セダン:4430mm
ワゴン:4515mm
全幅 1695mm
全高 セダン:1400mm
ワゴン:1450mm
車両重量 1140 - 1460kg
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  • 1995年9月 初のフルモデルチェンジを受け、P11系に移行。初代はB13系サニーベースであったが、2代目ではU14系ブルーバードと基本コンポーネンツを共用する[2]こととなった。
    • ボディタイプは日本のデビュー当初4ドアセダンのみ。グリル等を変更したサニー店向け姉妹車「プリメーラカミノ」も同時に登場、欧州では5ドアハッチバックもラインナップされ、一部が日本にも輸入された。また、1997年にはワゴンモデルも追加された。プリメーラカミノはやや高級感を強めたフロントフェイスとなっている。
    • 初代に引き続き、欧州へは「プリメーラ」として英国サンダーランド工場生産車が供給された。また、北米市場へは「インフィニティ・G20」としてプリメーラカミノフェイスのモデルが投入された。
    • 初代の成功を踏まえ、基本的にはキープコンセプトでのモデルチェンジとなった。初代の弱点の1つであった固めたサスペンションによる乗り心地の悪さは、2代目では若干ソフトな方向に変更された。新開発の車軸懸架・マルチリンクビーム式リアサスペンションが採用されたこともあり、乗り心地は大幅に改善されたものの、「硬いがよく動く」という欧州車的な乗り味を求めるユーザーには不評を買うこととなった。とはいえ当時の日本車の水準と比較すれば「しっかりした足」は健在であると言える。
    • 日本仕様車の場合、エンジントランスミッションは初代からのキャリーオーバーであるが、エンジンは1800cc、2000cc共に若干リファインされて搭載されている。2代目プリメーラは、日本国内でセダン離れ(特に1800cc~2000ccのミドルクラス・ファミリーセダン)の兆候が見え始めたことやライバル車種が増えたこと、日産自身の経営危機などの要因から、初代ほどの成功を収めるには至らなかった。

年表(※特記以外、日本国内での出来事)

  • 1995年9月 フルモデルチェンジ。姉妹車プリメーラカミノも同時に登場。
  • 1996年8月 デュアルエアバッグとABSが全車標準装備となる。
  • 1997年2月 英国生産の5ドアハッチバック(プリメーラUK)を日本で発売
  • 1997年9月 マイナーチェンジ。プリメーラワゴン/カミノワゴンが登場。可変バルブタイミング機構を備え、190PSを発揮する可変バルブ機能「NEO VVL」採用のSR20VE型エンジンとHyper CVTを組み合わせたスポーツモデル「Te-V」がラインナップに加わる。
  • 1998年4月 ニューヨーク・オートショーにて、カミノをベースとする2代目「インフィニティ・G20」を発表。
  • 1998年9月 QG18DD直噴エンジン搭載車を設定。これに伴い1800cc標準モデルのエンジンがこれまでのSR18DEからQG18DEに差し替えとなる。
  • 1998年9月 同月、日産サウスアフリカ会社(南アフリカ)にてノックダウン生産を開始し、10月より南アフリカで発売開始。部品供給は英国から受けていた。
  • 1999年4月 日産販売店の再編により、プリメーラを扱うプリンス店、プリメーラカミノを扱うサニー店の取扱車種が共通化されたため、プリメーラカミノはモデル廃止され、プリメーラに一本化された。
    • 欧州仕様モデル(英国日産・サンダーランド工場製)は日本向けがP12系に切り替わった2001年まで、2000年にフェイスリフトを受けたP11-144型を生産・販売していた。


3代目 P12系(2001年-2008年)

日産・プリメーラ(P12系)
セダン
ワゴン
ハッチバック(欧州仕様)
ボディ
乗車定員 5人
ボディタイプ 4ドアセダン
5ドアハッチバック(欧州のみ)
5ドアステーションワゴン
駆動方式 FF/4WD
パワートレイン
エンジン 2.0L直4DOHC QR20DE型・150PS
2.5L直4DOHC QR25DD型直噴・170PS
2.0L直4DOHC SR20VE型・204PS
1.8L直4DOHC QG18DE型・125PS
変速機 4AT/CVT/6MT
車両寸法
ホイールベース 2680mm
全長 セダン:4565mm
ワゴン:4675mm
全幅 1760mm
全高 セダン:1480mm
ワゴン:1495mm
車両重量 1270kg - 1410kg
系譜
後継 セダン:日産・ブルーバードシルフィに統合
ワゴン:なし(モデル廃止)
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  • 2001年1月30日、フルモデルチェンジ、3ナンバーの専用ボディとなる。初代、2代目に引き続き日欧をメイン市場として開発された。ボディタイプは4ドアセダンとワゴン、5ドアハッチバック(欧州のみ)と変化はない。ただし、3代目では英国製ハッチバックモデルの日本への輸入は行われていない。また、初代・2代目はG20として北米市場で販売されていたが、後継車のG35セダン(日本名・スカイライン)が発売されたのに伴い、北米市場からは撤退することとなった。
    • デビュー直後の日本仕様車では、2500cc直噴と2000ccのQR型エンジンにそれぞれHyper CVTと4速ATが組み合わされていた。欧州仕様車には2200ccのYD22DTI型、1800ccのルノー製F9Q型のターボディーゼルエンジンが搭載されているほか、廉価機種には1600ccガソリンエンジンも存在する。
    • 3代目を最も特徴付けるのはその先進的なデザインである。セダンは欧州のデザインスタジオの手によるもので、前進させたカウルと極めて短いリアデッキをアーチ型のラインで結んだモノフォルムに近い造形が特徴である。5ドアハッチバックでは更にモノフォルム感が強調されている。特にセダンのスタイリングに対する専門家筋の評価は高く、経済産業省グッドデザイン賞「金賞」やドイツ・レッドドットデザイン賞など、数々のデザイン賞を獲得している。しかし、先進的なスタイルの代償として、前後見切りは「極めて」悪い。
    • その一方、プリメーラのアイデンティティの一つとも言える動的性能面では特筆すべきトピックは少ない。前期モデルでは可変バルブタイミング機構「NEO VVL」付きのSR20VE型エンジン+6速MT搭載のスポーツモデルの20Vも追加発売されたが、マイナーチェンジを機に消滅した。この20Vは堺自動車教習所富田林モータースクール(共に日産プリンス系)で、珍しくスポーツセダンベースの教習車として使われている。

また、ボディの3ナンバー化やセンターメーターの採用も、初代・2代目で培ってきたスポーツセダン/ワゴンとしてのプリメーラのイメージや性格を大幅に薄めてしまう結果となり、日本市場では既存のユーザーの支持を集めることができなかった。折からのセダン・ワゴン離れの傾向と同じ3ナンバーV6エンジンのティアナ登場も追い討ちをかけ、4気筒エンジンを搭載する性格が中途半端な3代目プリメーラは日本市場では商業的に失敗に終わった。

  • 2005年12月、ブルーバードシルフィがモデルチェンジし、従来より1クラス上のミドルクラスセダンに格上げされたことにより、プリメーラの日本国内での生産・販売が中止されることとなった[3]

年表(※特記以外、日本国内での出来事)

  • 2001年1月30日 フルモデルチェンジ。新車発表は東京都現代美術館で行われた。4WDモデルはワゴンのみ先行発売。オーテックジャパンから運転補助装置を持つモデル「アンシャンテ」も同時発売された。目標月販台数はセダン2,000台、ワゴン3,000台。
  • 2001年8月28日 セダン/ワゴンに可変バルブタイミング機構「NEO VVL」付SR20VE型エンジン+6速MTを搭載したモデル、「20V/W20V」をそれぞれ追加。セダンに4WD車が加わる。
  • 2001年10月 経済産業省グッドデザイン賞「金賞」受賞(セダン)。
  • 2001年12月 ボディカラーの「ルミナスレッド(ワゴン)」「シリカブレス(セダン)」が2002年度オートカラーアウォードの審査委員特別賞と技術部門賞をそれぞれ受賞。
  • 2001年12月19日 オーテックジャパンからワゴン「ライダー」を追加。
  • 2002年2月6日 セダンにQG18DE型エンジンを搭載する廉価モデル「18C」を追加。
  • 2002年3月 英国生産開始。
  • 2002年5月27日 セダン/ワゴンを一部改良。
  • 2002年7月2日 ドイツ・レッドドットデザイン賞を受賞。
  • 2003年7月8日 セダン/ワゴンをマイナーチェンジ。内外装デザインの一部変更、仕様・装備の見直しが行われた。スポーツモデルの「20V/W20V」が消滅。
  • 2005年12月 日本国内での販売を終了しラインナップから消滅。
    • 尚、欧州では引き続き、英国日産サンダーランド工場にて生産・販売を継続した。
  • 2007年 ドイツでの販売を終了。
  • 2008年 生産・販売終了予定。(en:Nissan Primera)

車名の由来

  • 「第一級の、最高級の」という意のスペイン語に由来する。

キャッチコピー・CM

この車は1~3代目を通してCMキャラクターが無く、あまり印象に残るものではなかったが、欧州車に対抗できる性能を持つ車種であることをアピールするためか、一貫して外国人を起用していた共通点があった。3代目は運転補助装置を操っている西洋人がモチーフとされていた。

初代

  • コンフォート・パッケージセダン

2代目

  • フル・パフォーマンス・パッケージセダン(セダン)
  • サスが、プリメーラ(セダン)
  • Air(カミノ)
  • 英国生まれの5ドア (UK)
  • Primera DRIVING WAGON(ワゴン)

3代目

  • ITドライビング、はじまる。(セダン、ワゴン)
  • 新たに3つの機能を搭載(セダン)
  • PRIVATE PRIMERA(セダン)

モータースポーツ

初代(P10系)

  • 1993年 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にヤン・レーシングから2台がシーズン通して参戦。メインスポンサーはカストロール、ボディカラーはブラック、タイヤはヨコハマタイヤ。ドライバーはキース・オードアウィン・パーシーだった。
  • 1994年 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にヤン・レーシングから3台がシーズン通して参戦。メインスポンサーはオールドスパイス、ボディカラーはレッド、タイヤはダンロップ。ドライバーは元F1ドライバーのエリック・ヴァン・デ・ポール、キース・オードア、ティフ・ニーデルの3人だった。
  • 同年から始まった全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) にNISMOからエントリーの2台がシーズン開幕からフル参戦。カストロール・プリメーラ(ボディカラーはグリーン)を長谷見昌弘が、カルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。タイヤは2台ともブリヂストン
  • 1995年 全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) にNISMOからエントリーの2台が引き続きフル参戦。ユニシアジェックス・プリメーラ(ボディカラーはホワイト/オレンジ)を長谷見昌弘が、カルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。タイヤは2台ともブリヂストン
    • 1995年11月 富士スピードウェイで行われた最終戦インターTECにてカルソニック・プリメーラがラウンド15で2位。ラウンド16で優勝した。
  • この年、BTCCへの参戦は一時休止し、代わりにドイツツーリングカー選手権(クラス2ツーリングのSTWカップ)に参戦。ボディカラーはブルー。ドライバーはキース・オードア、イヴァン・カペリ、サシャ・マーセンの3人。エースのオードアが、終盤のアヴスの第1レースで初優勝を飾るが、続く第2レースで壁に激突。さらに後続車が運転席側に突っ込む大惨事が発生してしまい、死亡してしまう。その後行われた最終戦、チームは欠場している。
  • 1996年 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) に復帰。P10型2台がシーズン通して参戦。チーム体制は元ツーリングカーレーサーのアンディ・ロウズ率いるロウズ・スポーツ (ROUSE SPORT) がプライベーターとして参戦した。ボディカラーは青、タイヤは当初ヨコハマタイヤだったが、シーズン途中でタイヤはミシュランに変更された。後半戦からリバース・ヘッドタイプのSR20DEを搭載しており、マシンとしての戦闘力がアップしていた。ドライバーはゲリー・アイレスオーウェン・マッコリーだった。
    • ちなみに、このロウズ・スポーツチームのP10系プリメーラは同年、富士スピードウェイで行われたJTCC最終戦・インターTECに試験的にエントリーした。ドライバーは1994年のJTCCでチャンピオン争いをしたアンソニー・レイドで、不調気味だったJTCC仕様P11系をさておいて終始優勝争いを演じている。この結果を重く見たNISMOが、翌1997年型JTCC用マシンへのリバース・ヘッドタイプエンジンの採用を決めたと言われている。
  • またこの年は、前年に続きSTWカップに参戦。ドライバーはカペリ、マーセンの二人が継続。そして亡くなったオードアに代え、アンソニー・レイドが参戦した。しかし成績はパッとしなかった。

2代目(P11系)

プリメーラGT
英国ツーリングカー選手権 出場車
  • 1996年 全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) に2台がフル参戦。NISMOからエントリーのユニシアジェックス・プリメーラカミノ(ボディカラーはホワイト/オレンジ)を影山正彦が、チーム・インパルからエントリーのカルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。また、シーズン途中でNISMOからエントリーのザナヴィ・サニーの本山哲がマシンをプリメーラカミノにスイッチ。ザナヴィ・プリメーラカミノ(ボディカラーはシルバー/ブルー)としてシーズン終了まで参戦した。タイヤは影山、星野がブリヂストン、本山がミシュラン。
    • 1996年7月 第4戦美称スーパーツーリングカー・ラウンド7にて優勝。
    • ちなみに、同年のJTCC仕様ユニシアジェックス・プリメーラカミノはその後某所にて保管され、現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
  • 1997年 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にNME/RMLのエントリーで2台がフル参戦。BTCC用マシンはこの年からP11系にスイッチした。チーム体制はニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ (NME) とレイ・マロック・リミテッド (RML) がジョイントしたものに変更。エンジン開発をジャッドが行った。メインスポンサーはボーダフォン。シーズン前半までは大文字Vのロゴに大文字でVODAFONEと書かれていたが、シーズン途中のノックヒルから日本でもお馴染のロゴになった。ボディカラーはその後1999年まで続くホワイトにヘルメットをイメージしたスプラッシュが入ったもの(この年は、青、赤の他に黄、緑のスプラッシュがペイントされていた)。タイヤはミシュラン。ドライバーはアンソニー・レイドデイビッド・レズリーを起用した。
  • この年の全日本ツーリングカー選手権 (JTCC) には2台がフル参戦。NISMOからエントリーのザナヴィ・プリメーラカミノ(ボディカラーはシルバー/ブルー)を本山哲が、チーム・インパルからエントリーのカルソニック・プリメーラ(ボディカラーはブルー)を星野一義がそれぞれドライブした。タイヤは2台ともブリヂストン。ちなみに、この年JTCCは車両規定が変わり、オーバーフェンダー装着が可能となるなど、BTCCマシンとは異なるモディファイが施された。
    • 1997年5月 第3戦菅生スーパーツーリングカー ラウンド6にて優勝。
    • 1997年11月 最終戦インターTEC ラウンド16にて優勝。
    • なお、日産はJTCCからはこの年を持って撤退している(JTCCも翌年をもってシリーズが消滅した)。
  • 同年、前年型JTCC仕様のレースカーが東南アジア・ツーリングカー・ゾーン・チャレンジ (SEATCZC) に地元チームの手で参戦した。
    • ちなみに、同年のJTCC仕様ザナヴィ・プリメーラカミノはその後某所にて保管され、現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
  • 1998年 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にNME/RMLのエントリーでフル参戦。メインスポンサーはボーダフォン、タイヤはミシュラン。ドライバーは前年に引き続きアンソニー・レイドとデイビッド・レズリー。シリーズ全26戦中、年間最多勝となる通算9勝、年間最多表彰台(のべ22回)、年間最多ポールポジション(14回)と好成績を残し、最終戦を待たずにBTCC史上初の日本車によるシリーズチャンピオン(チームタイトル)を獲得。最終的にはマニュファクチャラーズと合わせて2冠を達成した(ちなみにドライバーズランキングはリード2位、レズリー6位)。
  • 同年、BTCC仕様のレースカーが東南アジア・ツーリングカー・ゾーン・チャレンジ (SEATCZC) に地元チームの手で参戦し、年間ドライバーズランキング2位を獲得。また、マカオ・ギア・レースとの混走となった最終戦では総合4位完走を果たした。
    • このマシンはのちに日本に戻り、現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。
  • 同年、STWカップにチーム・ロズベルグからフル参戦した。青ベースのBTCCとは逆のカラーリングとなった。第3戦のニュルブルクリンクでローランド・アッシュが1995年以来の優勝を遂げている。
  • 同年、スウェーデンツーリングカー選手権 (STCC) にフル参戦した。マシンはP10系。
  • 1999年 英国ツーリングカー選手権 (BTCC) にNME/RMLのエントリーでフル参戦。メインスポンサーはボーダフォン、タイヤはミシュラン。ドライバーは「優勝請負人」ローレン・アイエロと残留したデイビッド・レズリー。この年のBTCC仕様プリメーラの強さは際立っており、最終戦シルバーストーンまでアイエロとレズリーでドライバーズタイトルを争うことになった。結果アイエロがドライバーズを制し、最終的にはドライバー、チーム、マニュファクチャラーズの3タイトルを獲得。また、前年型をドライブしたチーム・ダイナミクスのマット・ニールもベストプライベーターに選ばれインディペンデント・クラスを制覇し、BTCCのタイトルを総なめするに至った。NMEワークスとしてはBTCCはこの年で撤退した。
    • ちなみに、このマシンはのちに日本に渡り、ニスモ・フェスティバルにて模擬レースに出走している。現在は日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている(1999のタイトルを獲得した実車ではないと思われるレプリカ。実車は現在もイギリスに有り、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに毎年出場している。カラーリングもリアのスポンサーロゴの配置やサイドのチャンピオンの文字などからこちらが実車だと分かる。)。
  • 同年、スウェーデンツーリングカー選手権 (STCC) にフル参戦し、チームタイトルを獲得している。マシンは98年仕様BTCC8号車と南アフリカツーリングカー選手権出場車のリースによるもの。メインスポンサーは、ガレージシャッター会社のCrawford。カラーリングは白をベースにボンネットの両端に赤と青のスプラッシュが控えめにペイントされ、サイドにはBTCCやSTWより小さめにヘルメットをイメージしたスプラッシュが書かれている。
  • 2000年 スウェーデンツーリングカー選手権 (STCC) にフル参戦し、ベースマシーンがP11-144になった。スポンサーはCrawford。去年に引き続きチームタイトル、トミー・ラスタット初のドライバーズタイトルを獲得。
  • 同年、南アフリカツーリングカー選手権に参戦し、ドライバーズタイトル、マニュファクチャラーズタイトルの2冠を達成。
  • 同年、BTCCにはチーム・ダイナミクスのマット・ニールに前年型を供給。継続参戦した。
  • 2001年 スウェーデンツーリングカー選手権 (STCC) にフル参戦。
  • 同年、BTCCにはチーム・ダイナミクスのマット・ニールに1999年型を2001年型にフェイスリフトしたモデル(P11-144)を供給。継続参戦した。
  • 同年、FIAヨーロッパ・ツーリングカー選手権にフル参戦。

関連項目

脚注

  1. ^ 日産がライセンス生産し、サニー店とプリンス店で取り扱っていた。
  2. ^ しかし実質的にはB14系サニーのプラットフォームをベースとしている。
  3. ^ なお、ワゴンには後継車がなく、現在日本での日産のステーションワゴンウイングロードのみとなっている。

外部リンク