スコーピオンズ

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スコーピオンズ
スコーピオンズ(2005年)
スコーピオンズ(2005年)
基本情報
出身地 ドイツ ハノーファー
ジャンル ハードロック
ヘヴィメタル
クラウト・ロック
活動期間 1965年~現在
レーベル ライノ
RCA
マーキュリー
EMI
アトランティック
ワーナー
BMG
公式サイト the-scorpions.com
メンバー
クラウス・マイネ
マティアス・ヤプス
ルドルフ・シェンカー
ジェイムス・コタック
パウエル・マキオダ
旧メンバー
マイケル・シェンカー
ウリ・ジョン・ロート
フランシス・ブーフホルツ
ユルゲン・ローゼンタール
ハーマン・ラレベル
ラルフ・リッカーマン
  

スコーピオンズ(Scorpions)は1965年に結成されたドイツを代表するハードロックヘヴィメタルバンド。1972年デビュー。ロシアで親善大使として迎え入れられていることで有名である。

 本国ドイツはもとより、アルバム『蠍魔宮~ブラックアウト - Blackout - 』以降、世界的な人気を得、日本では英米のバンドと同等の影響力がある。だが、スコーピオンズ登場前のドイツはロック不毛の地と呼ばれるほど、スター・アーティスト不在の状況であった。スコーピオンズはドイツのミュージック・ビジネスを活性化した原動力であり、HR/HMのカテゴリーを超えたジャーマン・ロックの始祖とも言える存在。

目次

[編集] 略歴

1965年にルドルフ・シェンカー(1948年8月31日、ハイルドシェイム生まれ)がバンドを結成。メンバーはルドルフ・シェンカー(vo.g.)、カール・ハインツ・ヴォルマー(g.)、ウォルフガング・ズィオニー(ds.)、アチィム・カーチョフ(b.)の4人組。

1971年初頭に、解散したバンド、コペルニクスのマイケル・シェンカー(g.)とクラウス・マイネ(vo.)を加え、アチィム(b.)と交代したローザー・ハインベルグ(b.)での、6人構成となる第1期スコーピオンズのラインナップで、ドイツのメトロノーム傘下のブレイン・レーベルと契約。

1972年にコニー・プランクのプロデュースで、デビュー・アルバム『恐怖の蠍団 - Lonesome Crow - 』を発売。プログレッシヴ的なサウンドの作品でありハード・ロックとは言えない作りはプロデューサーの志向だと思われる。同年ユーライア・ヒープロリー・ギャラガーUFOなどのサポーティング・アクトとして西ドイツ国内ツアーを行う。サーキット中にUFOのミック・ボルトンが失踪し、急遽代役ギタリストを務めたマイケル(g.)がUFOに移籍。

1973年6月、ローザー(b.)とウォルフガング(ds.)が脱退。一時活動停止を余儀なくされる。

1974年、オーディションによりウルリッヒ・ロート(g.)、フランシス・ブッホルツ(b.)、ヨルゲン・ローゼンタル(ds.)がメンバーに決定。RCAレコードと新たに契約し、11月に移籍第1弾としてアルバム『電撃の蠍団 - Fly To The Rainbow - 』を発表。バンド自らがプロデュースした本作は、ウルリッヒのギターをフィーチャーしたハード・ロック色が濃く、以降のサウンドの基礎となる作品となった。1年半ぶりのツアーで夏のドイツ国内をサーキット中にヨルゲンが脱退。ルディ・レナーズ(ds.)を加えて、ベルギーとフランスで国外ツアーを行う。その後、スウィートのサポーティング・アクトで北欧をツアー。この時、後に6人目のメンバーと呼ばれ、長年作品を手掛けることになるプロデューサー、ディーター・ダークスが自らプロデュースを申し出て、新作のレコーディングに着手する。

1975年、アルバム『復讐の蠍団 - In Trance - 』を発売。プロモーションの一貫としてロンドンのマーキー・クラブでイギリスでのデビュー・コンサートを成功させる。キッスのサポーティング・アクトとして西ドイツ国内ツアーを行う。ドイツの音楽誌での人気投票でグループ部門3位を獲得。

1976年11月に『狂熱の蠍団~ヴァージン・キラー - Virgin Killer - 』を発売。メロディ・ラインに哀愁を帯びハード・ロックの様式美を前面に出した作品で、バンドの代表作となった。

1977年の全英ツアーは規模を拡大し、ホール・クラスでのバンドに昇格するがルディが心臓病を患い脱退。4代目ドラマーとしてハーマン・ラレベルが参加し、5作目のアルバム『暴虐の蠍団 - Taken By Force - 』を発売。

1978年に日本ツアーを行う。4月25日の東京から26日の大阪まで、5回の公演は全てソールド・アウトを記録、日本での人気の高さが確認された。 東京、中野サンプラザでの2ステージをレコーディング、同年8月に初のライヴ・アルバム『蠍団爆発 - Tokyo Tapes - 』として発売される。この後、ウルリッヒはバンドがコマーシャルな方向に向かっていることを理由にバンドを脱退。バンドは、イギリスの音楽誌メロディ・メイカー紙に募集告知を掲載し約140名をオーディションするが、後任は見つからなかった。改めてドイツ国内でメンバーを探し、地元ハノーファーでマティアス・ヤブス(g.)を3代目ギタリストに決定

1978年9月、新ギタリスト披露のため、ドイツで開催の「サマータイム・オープン・エアー・フェスティバル」出演。ニューアルバムのレコーディング直前、アルコールとドラッグの併用で精神的な支障をきたしUFOから失踪・脱退していたマイケル・シェンカー(g.)を、ルドルフとクラウスが迎え、レコーディングに参加。

1979年4月、6人編成で制作されたアルバム『ラヴドライヴ - Lovedrive - 』を発売。同編成で3月23日のマルセイユから開始したヨーロッパ・ツアーは好評を博し、マイケルの完全復帰を思わせたが、ケルン公演直前にマイケルが倒れ、バンドから離脱。日本で2度目の来日公演が決定していたがマイケルの登場はなかった。6月3日からジャパン・ツアー。8月にテッド・ニュージェントのサポーティング・アクトとして初の全米ツアー。同8月にイギリスのレディング・フェスティバルシン・リジィの代替でヘッドライナーとして出演。同12月、RCA時代4枚のアルバムの中から11曲をセレクトし初のベスト・アルバム『蠍団伝説~スコーピオンズ・ベスト - BEST OF SCORPIONS - 』を発売。

1980年、5月に『電獣~アニマル・マグネティズム - Animal Magnetism - 』を発売。イギリスでのNWOBHMムーヴメントを契機とした、ヘヴィメタルシーン活性化を受け、レインボージューダス・プリーストなどと共に第1回モンスターズ・オブ・ロックに参加。前年の続編となるベスト・アルバム『蠍団帝国~スコーピオンズ・ベストII - SCORPIONS BEST2 - 』を発売。

1981年クラウス(vo.)が声帯を痛め医師に1年間の静養を言い渡された。バンドは一部録り終えていたレコーディング作業を一時中止し静養期間とした。休止期間にはハーマン(ds.)がソロ・デビュー・アルバム『奇襲攻撃 - Nip In The Bud - 』を製作している。

1982年、3月に『蠍魔宮~ブラックアウト - Blackout - 』を発売。2年振りのこのアルバムは全英11位、全米10位の売り上げとなり、最強のライヴ・バンドと評されながらセールスが反映されなかったアメリカ・マーケットで初のビッグ・ヒットを記録。4月に同アルバムのプロモーション・ツアーをイギリスからスタート、アメリカ、日本などをサーキットする。

1983年5月にアメリカのサン・バーナディーノで開催されたUSフェスティヴァル、同年12月に本国ドイツのロック・ポップ・ヘヴィ・メタル・スペシャルに出演。同年10月にイギリスのロンドン・ハマースミスオデオン劇場で行われたマイケル・シェンカー・グループのライヴにルドルフとクラウスが飛び入り参加しファンを沸かせた。(このライヴの模様を収めたライヴアルバムとライヴビデオが翌年にM.S.G側から発売されている)

1984年3月に『禁断の刺青 - Love at First Sting - 』を発売。8月に日本で初のヘヴィ・メタルのビッグ・イベント「スーパー・ロック '84 イン・ジャパン」にホワイトスネイクマイケル・シェンカー・グループボン・ジョヴィなどと共に出演。

1985年1月に初の武道館公演を果たし同年のジャパン・ツアーと6月のイギリスのネブワース公演後、2枚目のライヴ・アルバム『ワールド・ワイド・ライヴ - World Wide Live - 』を発売。若干の充電期間と発表し、しばらくの間表立った活動を停止する。

1988年5月に4年ぶりのスタジオ録音アルバム『サヴェイジ・アミューズメント - Savage Amusement - 』を発売。ペレストロイカ最中のソビエト・レニングラード(現ロシア連邦サンクトペテルブルク)でコンサートを行う。

1989年8月、前年のコンサートが契機となり、歴史的イヴェントとなったモスクワ・ミュージック・ピース・フェスティヴァルが開催。ボン・ジョヴィをメイン・アクトに、スコーピオンズ、オジー・オズボーンモトリー・クルーなどが参加した。付随したチャリティー企画でアンチ・ドラッグ/アルコール・キャンペーンのオムニバス・アルバム『メイク・ア・ディファレンス - Make A Difference - 』が発売され、スコーピオンズはザ・フーのカヴァー「アイ・キャント・エクスプレイン - I Can't Explain - 」が収録された。

1990年ベルリンの壁崩壊」の年7月に、そのベルリンの壁の前で行なわれた元ピンク・フロイドロジャー・ウォーターズ主宰による「ザ・ウォール・ライヴ」に参加。演奏は、『ザ・ウォール ライヴ・イン・ベルリン - The Wall Live In Berlin - 』として発売された。 11月にアルバム『クレイジー・ワールド - Crazy World - 』を発売。このアルバムは長年のプロデューサーであるディーター・ダークスに代わりキース・オールセンがプロデュースを務めている。「ウィンド・オブ・チェインジ - Wind of Change - 」がシングル・カットされ、全米第4位、全英第2位を記録するビッグ・ヒットとなった。その後、印税のトラブルからベーシストのフランシス・ブッホルツ(b.)が脱退する結果となる。

1992年の活動は無く1993年にはラルフ・リーカーマン(b.)を迎え9月にアルバム『フェイス・ザ・ヒート - Face the Heat - 』を発売。

1994年1月の来日公演は、 M.S.G.(マイケル・シェンカー・グループ)に終止符を打ったマイケル・シェンカーがスペシャル・ゲストで参加し、アコースティックで夢の共演を実現させた。しかし、この時期に70年代からのメンバー、ハーマン・ラレベル(Ds.)が脱退。ライヴでは、カート・クレスやピティ・ヘチットがドラマーとして参加、ルーク・ヘルゾッグやコーエン・ヴァン・ベイルといったキーボード奏者も参加していた。

1995年ライヴ・アルバム『ライヴ・バイツ - Live Bites - 』を発売。

1996年デビュー25年を迎えイースト・ウエスト・ジャーマニーと契約。5月にレーベル移籍第1弾アルバム『ピュア・インスティンクト~蠍の本能 - Pure Instinct - 』を発売し活動を再開。

1997年にベスト・アルバム『蠍の刻印~マーキュリー・イヤーズ:ベスト・オブ・スコーピオンズ - DEADLY STING:The Mercury Years - 』を発売。

1999年4月、3年ぶりスタジオ録音アルバム『アイ・トゥ・アイ - Eye II Eye - 』発売。オーストリア人ピーター・ウルフ(ジェファーソン・スターシップハートのプロデューサーとして知られる)プロデュースで制作されたこのアルバムは、コンピューターを導入し、ハードロックやヘヴィメタルの枠を超越したアプローチを展開。同アルバムのレコーディング中にラルフ(b.)が脱退。ジェイムス・コタック(Ds.)が一時参加で製作されている。

2000年ドイツ、ハノーヴァーで開催されたEXPO2000のテーマ曲を担当し、「モーメント・オブ・グローリー」を発表。同年夏にその曲も含みベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演によるアルバム『栄光の蠍団~モーメント・オブ・グローリー~ - Moment of Glory - 』を発売。

2001年2月9日にポルトガル・リスボンでアンプラグド・ライブを行い、7月に『アコースティック・ライヴ - Acoustica - 』として発売。

2004年『反撃の蠍団 - Unbreakable - 』を発売。

2007年『蠍団の警鐘 - HUMANITY HOUR 1 - 』を発売。

[編集] バンドメンバー

[編集] 現在のメンバー

[編集] 過去に在籍していたメンバー

[編集] ディスコグラフィ

[編集] アルバム

初来日公演を収めたライブアルバム GERMANY35位
US55位ゴールド、UK36位、GERMANY11位ゴールド
US52位プラチナム、UK23位、GERMANY12位
US10位プラチナム、UK11位、GERMANY10位
US6位3xプラチナム、UK17位、GERMANY6位ゴールド
ライブアルバム US17位プラチナム、UK18位、GERMANY4位
US5位プラチナム、UK18位、GERMANY4位ゴールド
US21位2xプラチナム、UK27位、GERMANY1位2xプラチナム
US24位、UK51位、GERMANY4位
ライブアルバム GERMANY66位
US99位、GERMANY8位ゴールド
GERMANY6位
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との競演ライブアルバム GERMANY3位
アコースティックアルバム GERMANY13位
GERMANY4位

[編集] アルバムジャケットをめぐる話題

スコーピオンズはそのLPジャケットにスキャンダラスな内容の(特に性的に挑発的な)写真やイラストをよく用い、そのことでたびたび物議をかもしてきたことでも有名である。幾つかのアルバムが、発売前もしくは発売直後に多くの国でジャケットの差し替え措置が取られた。

  • 1975年『復讐の蠍団』(In Trance)は開脚姿勢で屈み込んだ女性がギターを手にし喘ぐ様な表情をしているデザイン。欧米で差し替え処分となったが、日本版ではオリジナルが発売された。
  • 1976年『狂熱の蠍団~ヴァージン・キラー』(Virgin Killer)では、開脚気味に床面に座っている全裸の少女と、ひびの入ったガラスのイメージが重なる(放射線状のひびの中心点が少女の股間付近にあたる)写真が用いられ、児童への性的虐待を連想させるとして多くの国でジャケット写真の差し替え措置が取られた。当時「ヘア」にポルノ規制の主眼が置かれていた日本は、無修正のジャケット写真が一定期間流通した数少ない国のひとつであった。なお、日本では1999年児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律が制定されたが、その後もオリジナル・ジャケット版(1995年の再発盤)が生産・流通されていた事が確認されている。
  • 1977年『暴虐の蠍団』(Taken By Force)では、墓での打ち合いがテロ事件を連想させるとの理由で欧米では差し替え処分となった。日本ではオリジナル・ジャケット発売については話題にもなっていない。
  • 1978年『蠍団爆発~スコーピオンズライヴ』(Tokyo Tapes)は前3作のジャケデザインの評判も踏まえて日本側のスタッフがデザインする事になった。表ジャケは一輪の薔薇の上に小さい蠍が乗っているデザインで何も問題は無さそうに見えるが、裏ジャケは薔薇の中央に日本刀が突き立てられ、刀身には蜜が滴っているというデザイン。日本ではオリジナルデザインで発売された。
  • 1979年『ラヴ・ドライヴ』(Lovedrive)では、男が女のむき出しの乳房にガムのような粘着したものを着けて伸ばしている画が(デザインはヒプノシス)女性蔑視を想起させるとして差し替えとなった。この措置は欧米のみで、日本版ではオリジナルが発売された。
  • 1980年『電獣~アニマル・マグネティズム』(Animal Magnetism)では、犬の頭が男の股間の位置にあるため卑猥だとして、犬の位置を下げられた構図の物に差し替えとなった。日本版ではオリジナルが発売された。

現在発売されているCDは、日本版もふくめジャケット写真が差し替えられている。(蠍団爆発の日本版は蠍の色が黒から白に変わった以外は変更無し)

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ