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2012年9月2日 (日) 09:40時点における版

允恭天皇

先代 反正天皇
次代 安康天皇

誕生 376年?
崩御 453年2月8日
陵所 恵我長野北陵
父親 仁徳天皇
母親 磐之媛命
皇后 忍坂大中姫
子女 木梨軽皇子
名形大娘皇女
境黒彦皇子
安康天皇
軽大娘皇女
八釣白彦皇子
雄略天皇
但馬橘大娘皇女
酒見皇女
皇居 遠飛鳥宮
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天皇系図 15~26代

允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年(376年)? - 允恭天皇42年1月14日453年2月8日))は、第19代天皇(在位:允恭天皇元年(412年12月 - 同42年(453年1月14日)。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。

系譜

仁徳天皇の第四皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)であり、履中天皇反正天皇の同母弟である。

皇居

都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや、現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥か)。飛鳥の地に宮を設けた初めての天皇が允恭であった。

略歴

以下の略歴は、『日本書紀』に拠る。

反正天皇5年(410年)1月、反正天皇皇太子を定めずして崩御したため、群臣達が相談して雄朝津間稚子宿禰尊を天皇(大王)に推挙する。尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、允恭天皇元年(412年)12月、忍坂大中姫の強い要請を受け即位。

3年(413年)8月、新羅から医者を招聘、天皇の病気を治療する。

4年(415年)9月、諸氏族のの乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち)を実施する。

5年(416年)7月、玉田宿禰葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。

7年(418年)12月、皇后の妹・衣通郎姫を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。

8年(419年)2月、衣通郎姫が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に行幸を続けたが、10年(421年)皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。

24年(435年)6月、皇太子木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女近親相姦が発覚。軽大娘皇女を伊予に配流(→衣通姫伝説)。

42年(453年)1月、崩御。新羅王はこれを悲しみ、弔使を送る。『古事記』『旧事紀』に78歳、『愚管抄』『神皇正統記』に80歳、北野本『日本書紀』に81歳(一本68歳)とする。

陵墓・霊廟

恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)に葬られた。同陵は、大阪府藤井寺市国府一丁目にある国府市野山古墳前方後円墳・全長228m)に比定されている。

在位年と西暦との対照表

脚注

  1. ^ 『古事記』では藤原琴節郎女(ふじわらのことふしのいらつめ)と同一人物とされる。

関連項目