千駄ヶ谷町
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千駄ヶ谷町
- 1932年(昭和7年)まで東京府豊多摩郡に存在した自治体名。本項で詳述。
- 1879年(明治12年)まで四谷区に存在した町名。1872年(明治5年)に改称して千駄ヶ谷町一丁目-三丁目が誕生。1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行で四谷区となるが、1879年(明治12年)に南豊島郡千駄ヶ谷村(1.の前身)に編入された際に消滅した。現在の新宿区霞ヶ丘町、渋谷区千駄ヶ谷一-四丁目の区域に当たる。
せんだがやまち 千駄ヶ谷町 | |
---|---|
廃止日 | 1932年(昭和7年)10月1日 |
廃止理由 |
編入合併 渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町→東京市渋谷区 |
現在の自治体 | 渋谷区 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 東京府 |
郡 | 豊多摩郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 2.45 km2. |
総人口 |
40,900人 (国勢調査、1930年(昭和5年)10月1日) |
隣接自治体 | 東京市赤坂区、四谷区、豊多摩郡淀橋町、代々幡町、渋谷町 |
千駄ヶ谷町役場 | |
所在地 | 東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字八幡前569番地 |
座標 | 北緯35度40分41秒 東経139度42分36秒 / 北緯35.678056度 東経139.71度座標: 北緯35度40分41秒 東経139度42分36秒 / 北緯35.678056度 東経139.71度 |
ウィキプロジェクト |
千駄ヶ谷町(せんだがやまち、せんだがやちょう)は、かつての東京府豊多摩郡に存在した町のひとつである。
地理
[編集]町域のほぼ中央を渋谷川が南北に流れるが、町域の大半は武蔵野台地上となる。
歴史
[編集]- 1889年(明治22年)5月1日 - 町村制施行。千駄ヶ谷村[1]および原宿村[2]、穏田村が合併し、南豊島郡千駄ヶ谷村が発足
- 1896年(明治29年)4月1日 - 南豊島郡は東多摩郡と合併、豊多摩郡となる
- 1907年(明治40年)4月1日 - 町制施行により千駄ヶ谷町となる
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 東京市に編入され消滅、千駄ヶ谷町及び渋谷町・代々幡町の区域をもって渋谷区となる
人口
[編集]- 1920年 36,374
- 1925年 39,997
- 1930年 40,900
地域
[編集]交通
[編集]鉄道
[編集]教育機関
[編集]- 千駄ヶ谷町青年訓練所
- 千駄ヶ谷尋常高等小学校
- 千駄ヶ谷第二尋常小学校 - 1941年から仰徳国民学校と改称。1945年5月24日、東京大空襲で校舎全焼。戦後の1946年3月、鳩森小学校に統合された[3]。
- 千駄ヶ谷第三尋常小学校
- 穏原尋常小学校
- 千駄ヶ谷第五尋常小学校
- 第一早蕨幼稚園
- 原宿幼稚園
- 東京市民幼稚園
出身・ゆかりのある人物
[編集]- 岡村輝彦 - 弁護士、中央大学学長。1910年(明治43年)に千駄ヶ谷町大字穏田字源氏山173番地に居住
- 倉敷福太郎 - 学習院教授[4]。住所が千駄ヶ谷町[4]
- 山本五十六 - 軍人、聯合艦隊司令長官。千駄ヶ谷町居住
- 山本義正 - 著述家、山本五十六の長子。千駄ヶ谷町生まれ
- 戸塚道太郎 - 軍人、横須賀鎮守府司令長官。千駄ヶ谷村生まれ
- 辻新次 - 官僚、初代文部次官。千駄ヶ谷町で死去
- 天璋院(篤姫) - 元第13代将軍徳川家定御台所。千駄ヶ谷村の徳川宗家屋敷で死去
- 徳川家達 - 徳川宗家16代目。千駄ヶ谷村以来から居住
- 徳川家正 - 同17代目。千駄ヶ谷村生まれ
- 徳川達孝 - 田安徳川家第9代当主、家達の弟。家達邸宅に居住
- 与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻 - 歌人。麹町、渋谷道玄坂と経て1904年(明治37年) - 1909年(明治42年)1月の間、文芸誌『明星』を発行した与謝野夫妻の「新詩社」が千駄ヶ谷村(その間、千駄ヶ谷町に)にあった。そこは明治書院の貸家で、また居住した。後に神田区駿河台東紅梅町へ移転。
- 北原白秋 - 詩人、作家。1910年(明治43年)9月に牛込区新小川町から、与謝野夫妻の新詩社と縁がある千駄ヶ谷町の大字原宿(現在の神宮前)に転居。隣家松下俊子と親しくなり、のちに姦通罪で告訴される。
- 千田是也 - 演出家、俳優、俳優座結成者の一人。芸名が千駄ヶ谷に由来
- 関根潤三 - プロ野球選手
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
関連書籍
[編集]- 東京市臨時市域擴張部 『豊多摩郡千駄ヶ谷町現状調査』 1931年
関連項目
[編集]淀橋町 | 四谷区 | |||
代々幡町 | 赤坂区 | |||
千駄ヶ谷町 | ||||
渋谷町 |