大砲

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17世紀カノン砲

大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて大型の弾丸砲弾)を高速で発射し、弾丸の運動量または弾丸自体の化学的な爆発によって敵および構造物を破壊・殺傷する兵器武器)の総称。火砲(かほう)、(ほう)とも称す。

概要

これに分類される火器重火器であり、よりも口径が大きい物とされる。ただし、この銃と砲との境界となる口径のサイズはや時代によって異なる。数える際の単位は挺ではなくである。一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。大砲の弾を砲弾といい、大砲を専門に扱う兵を砲兵、特に発射する人を砲手という。

大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』『貫通力』『砲弾運動エネルギー』『砲弾炸薬(形状含)』『破片殺傷性』の8つである。

なお、火器および漢字漢語が発祥した中国の原義では、「砲」とは投石器の類も含む大質量弾の投射兵器全般を指すものである。これに対し「銃」は金属筒に弾火薬を充填する機械構造を指すものであり、元来、銃と砲は単純にサイズで区別する同列の概念ではない。実際に古来より鉄砲というように、大きければ砲という認識が確固としてあったわけではない。さらに、佐賀藩が大砲製造のため設置した部署は「大製造方」といい、幕末頃まで大砲=大型の銃として「大銃」とも呼んでいた。

銃は手段、砲は目的を指すものともいえる。似たような事が自走砲戦車にも言え、戦車とは戦術目的上の概念であり、その手段として自走砲の形態をとっている。初期の戦車は大砲を備えていないものもあった。

歴史

前史

カタパルトトレビュシェットバリスタのように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。2m近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。

中世

中国では1259年南宋寿春府で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が早い時期の物とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。中央アジア西アジアでもティムール軍がイランイラク地域の征服、オスマン帝国バヤズィト1世ジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。

西洋最古の大砲の記録図, De nobilitatibus sapientii et prudentiis regum, Walter de Milemete, 1326
16世紀描かれている大砲

西欧世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、14世紀 (1326年)[1]イギリススコラ学en:Walter de Milemeteの手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになったという事だ。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために鋳造によって一体成型された大砲が、この時期に作られるようになった[2]

高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。また、百年戦争末期のノルマンディーボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。

大筒は、日本の戦国時代後期から江戸時代にかけての大砲の呼称であり、その一種の事。戦国時代後期より用いられ、攻城戦海戦において構造物破壊に威力を発揮した[3]

百目玉火矢銃と火縄銃百目玉抱え大筒

さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬匹で運搬可能な強力な攻城砲も出現した[4]。ちなみにそれ以前までの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場から200 km強離れた首都エディルネで鋳造されていた。

近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われつづけた。1494年ナポリの王位継承権を争ってフランスシャルル8世イタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった[5]。それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。

一方、初期の大砲は鋳鉄や鍛鉄製であったが、素材の強度が威力向上化に追いつかず、金属文明の定性に逆行し鋳造性の良い青銅製に取って代わった。この名残で青銅は砲金ともいう。連射性、装填作業性を改善する後装式大砲の概念もフランキ砲のように早くから存在したが、増大する発射ガス圧をやはり封止できない問題があり廃れた。ライフリングの発明も15世紀だが、前装式では装填が面倒であることに加え、弾体がライフリングに食い込みながら銃砲身内を進むことで受ける抵抗のため内圧が上昇することで破裂(腔発)を起こす問題を解決できず、これらのアイデアの実用化は鋼鉄製火器の製造が可能になるのを待たねばならなかった。

また、大砲の発達は海上戦闘に対して、地上戦闘とは違った革命的な変化をもたらした。船舶同士の戦いでは衝角を装備しての敵船体への体当たり攻撃および敵船に乗り移っての白兵戦が古来の戦法であったが、これに大砲が加わる事となった。当時の艦載砲の威力では船体を完全破壊する事は不可能であったが、自立航行が不可能になるまで損傷を負わせる事や、白兵戦の前段階として敵艦の兵を死傷させる事は可能であった。16世紀の西地中海においてオスマン帝国が常に制海権を握り続けたのは、船舶の性能差もあるが、それよりも大砲の性能差による部分が大きかったといえる。また1571年レパントの海戦においても、スペインを中心とした連合軍による、地中海の覇者オスマン帝国の撃破には大砲の火力が大きく貢献していた。

こういった兵器は仕組みは原始的だが、敵に対して心理的にもダメージを与える事が出来る事を、古代や中世の砲兵達は十分に知っていた。その凄まじい威力のために、その砲火にさらされた兵士達は敗北を予測してしまい、精神面で負けて絶望感を抱いた。精神的にダメージを負った兵士にとって弾が飛んでくる音は恐怖の象徴であり、それは古代の石も現代の砲弾も同じであった。狙われたら抵抗する術が無く、正に最強の兵器と想像せざるを得ない状況にもなり、勇敢な兵士達の気力を抉いて戦うことを諦めさせてしまう、大砲にはそれほどまでに恐ろしい破壊的な威力があった。

近世

近世では大砲は野戦での活用も行なわれるようになる。性能を敢えて抑えるという設計指針に基いて砲身の軽量化や砲架の改良がなされ、また榴弾ぶどう弾といった軟目標に有効な砲弾も用いられ始めた。なにより中央集権化による富と権力の集中は、それまで高価で数を揃えられなかった大砲の配備数を大きく増やすことに繋がり、大砲は戦場における重要な地位を占めることになる。18世紀にはグリボーバル・システムにより、大砲の規格化と工業化が更に推し進められた。

近代

ベトナムヴィンロンに設置されていた木製大砲(1862年)
大日本帝国陸軍1882年(明治15年)当時の砲兵下士卒の軍装

近代に入り、産業革命が起こる。製鉄技術の向上によって、鋳鉄製大砲の出現や、砲身のライフル穿孔、後装式の実用化が行なわれた。

近代以前の大砲は、砲撃を行なう度に反動によって砲全体が後退してしまうために、再び狙いをつけて砲撃するためには元の位置へ戻す必要があり、そのため連続した砲撃を行うことができなかった。また大砲自体が動いてしまっては精度は保証されず、いくら狙いを定めても砲弾は別の場所へ飛んでしまう、といった欠点も長らく存在していた。ところが、1840年代ごろから研究され実用化された駐退機の登場によって、砲身だけを後退させることによって発射の反動を吸収し、砲自体の位置を後退させずに済むようになり、砲撃のプロセスをより高速に遂行可能になった。また銃の精度を高める技術の進歩には、銃身のライフリング技術が大きな転機となった。銃身内部に施された螺旋状の溝に沿って銃弾が回転することにより発射後の軌道は格段に安定した。この原理は大砲にも用いられ、砲身にライフリングを施すことで精度、速度、射程は飛躍的に向上した。こういったタイプの大砲が戦場に登場したのは南北戦争からであった。産業革命がもたらした革新的技術を引っさげた大砲は、それまでのものとは比べものにならない位の精度を見せ、敵を駆逐した。

その後ライフリングを施した大砲が大量生産された。大量に生産された鋼の兵器は以前のカスタムメイドのものとは違い規格が統一されている事も大きな特徴で、その分砲兵の腕前への依存度は減り、大砲の精度も高まった事で集中的な攻撃もより安易に可能となった。

また以前の前装式に代わって、後装式の大砲が実用化された事によって、装填する為の時間が短縮された。火薬→砲弾と分けて装填せず、それらを一気に装填することが可能となった為、後装式大砲の装填速度は前装式のそれとは比較にならないものだ。実は後装式は新しい発明ではなく、15世紀には既に登場していた。問題は当時の後装砲の砲尾は気密性に欠けていた。初期の後装砲は砲尾で燃焼ガスが漏れて砲兵の傍で爆発する事があった。

後装式の大砲が登場したのは、南北戦争の頃で、主流はイギリス製のホイットワース砲である。ホイットワースのデザインは素晴らしく、前装式でも後装式でも使用に耐えうるデザインだった。砕いて言えば、砲身の後部にスクリューがあり、それを回して砲尾を開け、装填し、スクリューを逆に回して閉める、といった仕組みである。改良された後装砲によって安全性が向上した。その後様々なデザインが考案され後装砲が次々に世に出されることとなる。ガス漏れ対策も確立され、砲兵は以前よりよっぽど安全な物となった。

第一次世界大戦~第二次世界大戦

第一次世界大戦イギリス軍砲「QF 4.5インチ榴弾砲」Mk.1P
列車砲「クルップK5」(復元、アバディーン戦車博物館
主砲を斉射するアイオワ(モスボール解除後の1984年)
大日本帝国陸軍自走砲一式十糎自走砲(ホニII)

第一次世界大戦の犠牲者のおよそ7割は大砲による死者であった。この大戦中大砲は更に破壊力を増していく。大砲は第一次世界大戦で必要不可欠なものとなった。第一次世界大戦では塹壕戦が中心であり、従来の戦法、即ち生身の兵士による突撃は、意味をなさなくなった。塹壕の前に築かれた鉄条網により進行を阻まれたところを、機関銃で殲滅されてしまうからである。ここで大砲が大きく活躍することになる。即ち、兵士が突撃する前に、攻撃目標を文字通り三日三晩大砲で塹壕を砲撃し続け、進軍を阻む鉄条網、機関銃陣地等を、すべて破壊し尽くすのである。これは事前に攻撃目標が敵に伝わってしまうという欠点もあったが、第一次世界大戦時では辿り着けた唯一の正解であった。そして第二次世界大戦でも、よりスマートにはなるが、同じ戦法が使われていく。太平洋戦争における、米軍の「鉄の嵐」と言われる苛烈な砲撃はその一例といえる。

速射砲が用いられたのはこの頃でM1897 75mm野砲18ポンド野砲、77mm野砲等が開発された。特にM1897 75mm野砲はその誕生以来全ての大砲のデザインに影響を与え続けた。

第一次世界大戦の泥沼の膠着戦が続く中、圧倒的な火力が何よりも求められていた。75mm野砲も他の速射砲も、抜きん出た決定力とはならなかった。強迫観念の様に、とにかく大砲は大きくなっていった。やがて軍艦に16インチ砲が搭載されるようになっていく。包囲戦ではとにかく、ただひたすら敵への攻撃を続けなければならない。相手が音を上げれば勝利できるからだ。相手を凌ぐには大きな大砲が必要だった。より大きな榴弾砲は包囲戦でも強力な火力をもたらした。榴弾砲はより高い位置から、より鋭い角度で敵地に砲弾を落とすことが出来た。容赦ない攻撃を受ける中、兵士たちの心にも疲れが見え始める。イギリス人は戦闘ストレス反応(シェルショック=砲弾によるショック)という言葉で表した。近くで砲弾が破裂したからだ、と信じているからだ。心理的ダメージかなり大きく激しい砲撃を受けたのが原因で、シェルショックはその体験の現れだった。

第二次世界大戦では砲撃はさらに激しさを増し、そして動きが圧倒的に早くなっていく。第一次世界大戦式の長い砲撃では、事前に攻撃地点が敵に伝わってしまうという欠点がある。それを回避するため、攻撃地点に火力を集中させ、短時間で圧倒的な砲弾を送り込むように戦術は変化していった。ここで重要なのは「火力の集中」という言葉である。それは大砲の高火力化のみならず、機動力の獲得も必要としたのである。

大砲はタイヤ付きとなり、精度も、速度も増した。大きさを増した大砲の反動にも対応した。

第一次世界大戦のフランスの大砲をベースに米軍も強力な大砲を開発、155mmカノン砲M2である。

これらの兵器が直面したのは、常に戦況が変わっていく中でどの様に対応していくか、という問題だった。この大戦では機動力が重要だった。有名なドイツ軍電撃戦もそうであるし、連合国の火力戦においても、火力の集中が重要な課題となった。第二次世界大戦の開戦時、大砲の多くは牽引車で運ばれていた。その際、車輪が付けられているものは、戦場でも楽に移動ができた。しかし状況が目まぐるしく変わる戦場に、牽引による移動では限界がある。そこで高い機動性を実現した大砲が登場した。自走式の大砲である。第二次世界大戦の象徴となるものであり、その先駆けとなるものは第一次世界大戦末期に少数ながら登場していた。それまで牽引していた大砲がエンジンが付いた車体に乗せられて独力で移動するようになった。これで機動性が高くなり、戦車にも追いつくので機動戦にも十分対応出来る様になった。代表的な自走砲米国M7自走砲(プリースト)や英国のセクストン自走砲がある。

第二次世界大戦開戦当時、ドイツの大砲を引いていたのは馬だった。戦車に追いつけないのは言うまでもない。ドイツは自走式の大砲が必要と考え、実際に造ってみた。フランスの戦車に、ロシアの大砲を付けてみるというアイデアがそこで生まれた。つまり改造して自走砲を造っていた。無謀なようであるが、これが結構うまくいった。1.5cm程の装甲板を繋ぎ合わせ、囲いを作った。砲兵を保護するためである。溶接は大雑把で、見た目はそれほど重視していない。前の部分はボルトで締めてある。作るのは比較的簡単だったのであろう。即席で作られた自走砲だが、ノルマンディー上陸作戦後のフランスでの戦いに使われていた。

また第一次大戦当時、特に緊要な箇所では塹壕線はコンクリートで強化された地下に居住区をも擁する要塞化し、遠距離砲撃では事実上破壊不可能となった。攻略の部隊を前進させるため砲弾の雨が止むのを合図に、守備兵は即座に地上で位置につき、迫る敵を機関銃や砲でなぎ倒すことの繰り返しで膨大な犠牲を積み上げた。これを制圧するために、攻撃側も装甲で守られた砲座や機銃座そのものを車両化して前進させ、守備側の迎撃に耐えつつ銃座や砲座を近距離から狙い撃ちして無力化させるアイデアを具現化した。戦車の誕生である。

また移動においても陸上を進むだけではなく、空を行くことも可能になった。大砲は空輸が可能となり、敵地に乗り込む空挺部隊で運用されるようになる。大砲は応用の利く兵器で、第二次世界大戦でも時代の要請に応えた。1944年ノルマンディー上陸作戦マーケットガーデン作戦を通して、連合軍の空挺部隊は敵陣へと空から降り立った。輸送機で空挺部隊を空へ運ぶことが出来るのだから、大砲も輸送機で運べる大きさにすれば良い。必要な場所に直接送る方法を採用した。6ポンド砲、17ポンド砲、40mm対空機関砲、更に75mm榴弾砲も送った。これらの大砲は敵地で孤立している空挺部隊にとって心強い味方となった。敵に囲まれた空挺部隊の為、あらゆる種類の大砲が必要な場所に送られた。また、少数だが航空機に大砲を装着するようになった。大砲の重量や反動に耐えうる、かつ照準のための機動性を確保しうるB-25四式重爆撃機キ109)のような中型爆撃機クラスが選ばれることが多かったが、比較的軽量の攻撃機であるHs 129に75mm対戦車砲を搭載した例もある。

戦艦の艦砲射撃は海での戦いを制するために発達してきた。第二次世界大戦までに海に浮かぶ火力として戦艦用の大砲の数々が無数の砲弾を発射、強烈な攻撃を繰り返しその強さを見せつけていた。海における砲撃は陸での砲撃とは異なっていた。陸より海での砲撃が複雑な問題を抱えている。発射台自体が動いている戦艦であり、標的も常に動いていて照準が定めにくい。また、何もない大海原では敵との位置関係が把握しづらいのだ。第二次世界大戦期、アイオワ級戦艦による攻撃は群を抜いて激しいものだった。アイオワ級戦艦の中で武勲誉れ高いのは戦艦ニュージャージーだ。大きな艦砲が付けられたのは第一次世界大戦の頃からで、水平線の敵も攻撃できるようになり、標的を見定め、狙いを付け、弾着点を見極めることが生死を決する。遥か彼方の敵を見定めるため、兵士たちは時に高性能の測定器を使い、時に航空機を使う。観測用の航空機を利用することでより正確な砲撃を行えた。強烈な破壊力をもつ艦砲は、戦いの行方を十分左右するものだった。大和型戦艦の象徴でもある45口径46cm3連装砲は、専用の運搬船「樫野」を建造するほど巨大なものとなった。

一方陸で使用される巨砲には問題があった。第一次世界大戦では鉄道を利用した巨大な列車砲がぶつかり合った。考え方としては理解できる。より大きな大砲を使えば、膠着状態の打破が期待できるからだ。ドイツ軍が作った当時最大の長距離砲「パリ砲」効果はさほどではなく、「恐怖の象徴」ともいうべきだった。第二次世界大戦でも巨砲は進化し続けていた。ヒトラーとその側近たちは、政治的宣伝効果を重視してどこまでも巨大な大砲のデザインを追求していった。その極限がクルップK5 80cm列車砲(名称:ドーラ/グスタフ)であり、史上最大・最強にして最後の列車砲となった。

ベトナム戦争

ケサンの戦いにおいて、友軍を支援するアメリカ陸軍M107

ベトナム戦争でも大砲を運ぶことが望まれ、ヘリコプターの開発が進むと、従来では運搬が困難だった場所も運べるようになった。この時も大砲と砲兵のチームが、激戦地で戦う兵士たちの支援戦闘のため、空から降り立った。ケサンの戦いにおいても、正確な対砲兵射撃を行い味方の部隊を守る活躍をみせる。敵から味方を守る「鉄の壁」を作ってくれたのは大砲だった。こういった大砲を時に大陸を越えてまで戦場へ輸送出来るか否かは、今日の戦闘においても勝敗に大きな影響を与える。こうしたニーズから、プリミティブな形態の牽引砲もM777 155mm榴弾砲のように最新技術を駆使してより軽量な砲を開発する試みがたゆまず続けられている。また、戦闘機や中距離以上の対空ミサイルを持たない敵対勢力相手に限定されるものの、長大な滞空時間により低コストで持続的な対地支援を行いうる、特にゲリラ掃討戦に向いた航空攻撃手段として、大砲を備える航空機、ガンシップが一定の価値を認められた。

冷戦以後

第二次大戦当時から、火力投射手段としてあまりにも肥大化し過ぎた巨砲は、急激に発展した航空機による爆撃(空爆)により淘汰されていった。加えて、大戦末期に萌芽が現れたミサイルが大砲の領分に進出してくる。大砲が口径に比例して甚だしく増大する重量と射撃時の反動に耐える必要があるのに比べ、ミサイルを含むロケット兵器は歩兵携行あるいはトラックなど、はるかに軽便な発射母体から運用可能であること、何より射撃後に誘導修正することによる長射程と高い命中精度のメリットがある。列車砲、戦艦主砲から対艦ミサイル対戦車砲から対戦車ミサイルのように、完全にミサイルに駆逐されて土台となる兵器ごと消滅してしまった例もある。冷戦中期までに弾道ミサイル巡航ミサイルは大陸レベルの射程を誇り大砲の次元をはるかに超えた兵器へと進化を遂げた。戦闘機から機関砲を撤廃したり、ミサイル戦車あるいは戦車無用論が喧伝されたこともあった。しかしその後の戦訓により、地形等の理由によりミサイルは常に射程の長さを活かせるとは限らない、威力射程が同程度の砲弾に比べ高価な上に大きくかさばるため戦闘で携行可能な弾数でも兵站レベルでの補給可能量においても継戦能力が劣る、砲のように標的の性質に応じて弾種を選択できない、砲弾よりずっと初速が遅く母機から誘導し続けなければならない場合があり特に近距離戦で重要な即時性を欠く。航空爆弾も航空機の高コストと滞空時間の限界から一過性に留まり大砲の遍在性と即応性を具備し得ないことなどの問題が明らかとなり、21世紀現在に到っても砲はミサイルや航空爆弾と各々異なる価値を持つ兵器として共存し続けている。ガンランチャー誘導砲弾など、砲とミサイルの美点を融合させる試みも実用段階に達してきている。また、中世以来の火薬力による砲から、電気的エネルギー(ローレンツ力)を利用するレールガンなど、まったく新たな射出原理に基づく砲の研究開発も続けられている。

日本での歴史

幕末期、外国勢を迎え撃つために、品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(口径250mm、砲身長3830mm)

1576年(天正4年)、大友宗麟ポルトガル宣教師より石火矢フランキ砲)を入手し「国崩し」と名付けたのが日本における最初の大砲とされる[注 1]。以後、石火矢は火縄銃を大型化した大筒大鉄砲)と共に海戦・攻城戦において構造物破壊に用いられる。なお日本では快速機動の重視や起伏の多い地形の為、重量がかさばる大砲の野戦における運用は殆どなされていない。

日本では1590年代から大砲生産が盛んになり、1614年(慶長19年)には大坂の陣に備えて、徳川家康イギリスオランダより大口径の前装式青銅砲カルバリン砲等)を購入している。これらは後に国産化され、和製大砲となる。[7]

1639年(寛永16年)には江戸幕府が前年の島原の乱における戦訓から、榴弾とそれを運用する臼砲の供与をオランダ商館に求める。ハンス・ヴォルフガング・ブラウンが平戸で臼砲を製造して江戸にて試射を行っている。1650年(慶安3年)にもユリアン・スヘーデルによる臼砲射撃が江戸で行なわれている。

これ以降、日本では大規模な戦乱がなくなり、大砲の発展も停滞する。

1841年には高島秋帆徳丸ヶ原(現高島平)で日本最初の近代砲術訓練を行い、西洋式の大砲と和製大砲の技術差を露呈した。1850年代に次々と外国軍艦が来航し、国防のため江戸幕府は寺の梵鐘を溶かして大砲を鋳造するよう命じる毀鐘鋳砲の勅諚を発令。諸藩は韮山反射炉等の反射炉を建設して大砲を鋳造するなど新技術の導入に力を入れたが、1862年薩英戦争1864年下関戦争で欧米との技術差は実戦により明らかとなる。特に下関戦争では、長州藩の日本製32ポンド砲などによる砲台は四国艦隊の艦載110ポンドアームストロング砲などにまったく太刀打ちできず敗北した。

これらの戦闘の後、薩摩藩や長州藩は主にイギリスから兵器の輸入を進める一方、幕府もフランスの援助を受けて軍の近代化を進めた結果、両者が衝突した第二次長州征伐戊辰戦争では各地で近代的な大砲による野戦や攻城戦が繰り広げられた。フランスで開発された四斤山砲は第二次長州征伐で幕府軍が使用して以降、輸入やコピーが進み、一連の戦争を通じて両者の主力野戦砲となった。この頃には諸藩の技術も向上し、上野戦争では新政府側の佐賀藩が製造したアームストロング砲が投入され、会津戦争では新政府軍が焼玉式焼夷弾会津若松城攻撃に用いた。旧幕府方の長岡藩北越戦争でアームストロング砲やガトリング砲を使用して新政府軍を苦しめている。

明治維新後は大砲の国産化が進んだ。(大日本帝国陸軍兵器一覧#火砲・投擲器を参照)

中国での歴史

火薬、およびその燃焼ガス圧により物体を投射する火器ならびにロケットの概念も中国圏で発明されたものだが、その後の科学技術発展は停滞し、逆に西洋側からの知見や現物の輸入に頼るようになった。 中国における西洋式大砲の輸入は15世紀初め、成祖の交趾征伐時であり[8]、ポルトガルから輸入した「紅夷砲」が後金に対して使用された[9]。明では「神機砲」と呼び、「神機営」という砲兵隊が設けられたが、主に爆音で相手を驚かせる用途で、あまり改良はされなかった[8]。その後、1621年にポルトガル宣教師を火砲に従軍させたり、ドイツ宣教師が砲術を伝えたが[10]、中国人は製造・砲術の基礎となる自然科学精神の理解が乏しかったため、火砲を中心とした近代攻城戦・野戦の戦術を採用する姿勢がなく[11]、製造した大砲に「安国全軍平遼靖膚将軍」の号を与え、あつく祭祀する有り様だった[11]

大砲の分類

大砲はその形状・構造や用途・歴史的経緯等によって様々な分類がある。なお、やや銃との口径の差異が不明確な機関銃でも「砲」と名の付く種類の物も、他の大口径の機関砲に分類される事もあるため便宜的に記載する。

用途等による分類

M198 155mm榴弾砲 射撃の瞬間
1953年に行われたW9核砲弾の実験。M65 280mmカノン砲で発射。核出力は広島に投下されたのと同じ15kt。
Mk 45 5インチ砲 射撃の瞬間

用途、歴史的分類による種別は以下の通り

射程と弾道による分類

火砲を射程と弾道特性によって大別した模式図
(1)対戦車砲(及び戦車砲)は徹甲弾等によって目標の装甲を貫徹することが主目的で、射角は水平に近く砲弾は低伸弾道をとる。また、(2)対空砲は「より高く」、(5)野砲カノン砲(加農)は「より遠く」へ砲弾を到達させることが求められる。カノン砲や後述する榴弾砲の一般的な弾道は擲射弾道と呼ぶ。
(1)(2)(5)は射角が異なるだけで、いずれも砲弾を高初速で発射する"gun"、つまり広義のカノン砲に含まれ長砲身である。したがって、対戦車戦闘が可能な対空砲やカノン砲も存在し、特に現代の艦砲は遠距離砲戦をはじめ至近での水平射撃から対空戦闘まで幅広くカバーする。
これらと比べ、(3)迫撃砲臼砲)の砲弾は大きく湾曲した曲射弾道を描き、砲口初速を低く抑えているため射程は短い。空気抵抗と安定翼の使用によって着弾時の角度は垂直に近くなる。
狭義の(4)榴弾砲はカノン砲に比べ短砲身・低初速で最大射程も短い。ただし、榴弾砲とカノン砲の定義は曖昧[注 2]で、現代では榴弾砲の長砲身化により野砲・カノン砲は消滅・統合され、(4)(5)ともに"howitzer"と名付けられる例が多い。
なお、対戦車砲・対空砲(機関砲を除く)は現在多くの軍隊でミサイルに代替されている。


構造による分類

ライフル砲
砲身の内側の螺旋条により、砲弾の飛翔時に回転を加えることによって、弾道の安定を図る方式の砲
滑腔砲
砲身の内側が滑らかになっている砲、初速が高いのが特徴
ゲルリッヒ砲
砲尾から砲口にかけて口径が小さくなってゆく砲。口径漸減砲とも呼ばれる
多薬室砲(その形状からムカデ砲とも呼ばれる)
通常は尾栓側に入れられた装薬の力によって砲弾を発射する所を、複数の薬室を設け段階的に加速する事で射程の延長などを目指した砲
液体装薬
発射薬として液体の薬剤を使用する砲
前装式
後装式
嚢砲
砲弾と発射薬が分離している砲
莢砲
金属薬莢式の砲
固定薬莢砲
砲弾と薬莢が固定されている莢砲
分離薬莢砲
砲弾と薬莢が固定されていない莢砲

砲兵

大砲を専門に運用するための軍隊兵科を砲兵と呼ぶ。

砲弾

大砲に使われる弾を砲弾と呼ぶ。砲弾は、発射される際に得た運動エネルギーによって破壊、殺傷効果を及ぼす運動エネルギー弾と、命中時に爆発することで被害をもたらす化学エネルギー弾に大別される。

大砲自体の発展に伴い、砲弾も殺傷力を高めるために進化していく。初期の砲弾は固い石が使われていた。そして徐々に殺傷力を向上させ、金属の砲弾や中に爆薬を仕込んだ砲弾が登場した。1784年イギリスの砲兵ヘンリー・シュラプネルが榴散弾という画期的な砲弾を生み出した。殺傷能力が桁違いでシュラプネルの名が榴散弾の別名になっている程である。更にアルフレッド・ノーベルの爆薬の開発により、砲弾は飛躍的に進化する。これにより砲弾が爆発する際の殺傷能力が高まった。軍でも爆薬の開発に勤しみ、コルダイトなどの爆薬が誕生した。爆発物としての性能が実に高く、破壊力も著しく向上した。

基本用語集

あいうえお順

  • 脚架(きゃっか) 迫撃砲及び無反動砲において,高低装置,脚などで構成され,方向装置を介して砲身部を支える装置
  • 砲口(ほうこう) 砲身の先端
  • 砲尾(ほうび) 砲身部の後端部
  • 砲架(ほうか) 砲身を支持の架台
  • 砲車(ほうしゃ)

逸話

  • ガリレオ・ガリレイは、大砲の弾道学を研究した。
  • 世界最初のコンピュータのひとつであるENIACは火砲の弾道計算の目的で製作された。
  • 大砲を製造する技術・資材のない土地では、木砲を製作して利用することがあった。木砲とは、砲身を一つの丸木からくりぬくか、または複数の木材を組み立てて形成し、周囲をのたがやロープで幾重にも巻いて補強したものである。金属製の大砲と比べ使用できる発射薬の量も砲身命数も当然大きく劣る。砲身を英語でと同じbarrelと呼ぶのは、木砲作りに樽作りの技術を応用した名残といわれる。有名な話としては、日露戦争の際旅順の戦いにおいて日本軍は木砲を造り使用したという話も残っている[注 3]
  • 「弾丸(球)を遠くに運ぶ」というイメージから野球において頻繁に本塁打を打つ打者又は強打者のことを表す言葉としても用いられる。日本人の強打者は和製大砲とも呼ばれる。
  • 楽器として用いられることもある。よく知られているものはチャイコフスキー作曲の「序曲1812年」だが[12]、それ以前にベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」にも使われている。どちらの曲にも、楽譜上に“Cannon”等のように楽器指定されている。
陸上自衛隊の音楽隊が観閲式などで「序曲1812年」を演奏する際には、特科部隊が音楽隊へ編入され、本物の大砲により空砲を撃つ。この演奏に使われるのは、旧式のM101 105mm榴弾砲である[13]。2007年の富士総合火力演習では現役装備である155mm口径のFH70を使用したが、発砲音が強力過ぎて演奏者や聴衆の聴覚が麻痺したため、失敗に終わった[14]

比喩

大砲は、その大きさ・威力があることから、それになぞらえてインパクトのある物事を例えることがある。

例として日本銀行の政策を「日銀砲(黒田砲)」と呼ぶなど。

脚注

注釈

  1. ^ 大友興廃記天正4年(1576年)の記述として、南蛮から石火矢を得て悦び、「国崩し」と名付けたと記述があり、天正14年(1586年)の薩摩との戦いにおいて使用され、大きな威力を発揮したとされる。[6]
  2. ^ 砲全般の分類や用語そのものが曖昧で、厳密な分類は非常に困難。同じ用語でも国や時代によって語義やその範囲が異なることもある。また、日本語には紛らわしい和訳や造語が多いので注意を要する。例として、英語の"cannon(キャノン)"は全ての火砲を包括する名詞だが、大日本帝国陸軍において「加農(カノン砲)」とは長砲身砲を指す(帝国陸軍はドイツ式に範をとったため、ドイツ語の"kanone"に由来)。また、「榴弾」は弾種を指す用語でほぼ全ての火砲(砲種)で使用する砲弾だが、「榴弾砲」として砲自体の名称に用いられる。
  3. ^ ただし、製作したものは今日の分類においては迫撃砲に当たる

出典

  1. ^ マクニール 2002, p. 114.
  2. ^ マクニール 2002, p. 117.
  3. ^ 『テーマ展 武装 -大阪城天守閣収蔵武具展-』 大阪城天守閣特別事業委員会 2007年 p.76.城郭や軍船などの構造物を破壊する目的で登場したが、近世江戸期になると砲術家が技能を誇示するために用いた。
  4. ^ マクニール 2002, p. 120.
  5. ^ マクニール 2002, p. 121.
  6. ^ 菊池, 俊彦『図譜 江戸時代の技術 下』恒和出版、1988年、544頁。ISBN 4-87536-060-6 
  7. ^ 『歴史を動かした兵器・武器の凄い話』河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2013年、133頁。ISBN 978-4309498843 
  8. ^ a b 貝塚 1970, p. 50.
  9. ^ 貝塚 1970, p. 49.
  10. ^ 貝塚 1970, p. 51.
  11. ^ a b 貝塚 1970, p. 52.
  12. ^ ダイアプレス 2009, p. 72.
  13. ^ 荒木 2012, p. 79.
  14. ^ ダイアプレス 2009, p. 73.

参考資料

関連項目

外部リンク