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「T4作戦」の版間の差分

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'''T4作戦'''(テーフィアさくせん、{{lang-de-short|Aktion T4}})は、[[ナチス・ドイツ]]で精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な[[安楽死]]」([[虐殺]])政策である。
'''T4作戦'''(テーフィアさくせん、{{lang-de-short|Aktion T4}})は、[[ナチス・ドイツ]]で精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な[[安楽死]]」([[虐殺]])政策である。


[[1939年]]10月から開始され、[[1941年]]8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、[[ベルリン]]の「ティーアガルテン通り4番地<ref group="#">{{lang-de-short|'''T'''iergartenstraße '''4'''}}</ref>」(現在同地には[[ベルリン・フィルハーモニー]]がある)を略して<ref name="sawada159">[[#sawada|澤田 2005, p. 159.]]</ref>[[第二次世界大戦]]後に付けられた組織の名称である<ref name="kibata279">[[#kibata|木畑 1989, p. 279.]]</ref>。
[[1939年]]の夏ころから開始され、[[1941年]]8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、[[ベルリン]]の「ティーアガルテン通り4番地<ref group="#">{{lang-de-short|'''T'''iergartenstraße '''4'''}}</ref>」(現在同地には[[ベルリン・フィルハーモニー]]がある)を略して<ref name="sawada159">[[#sawada|澤田 2005, p. 159.]]</ref>[[第二次世界大戦]]後に付けられた組織の名称である<ref name="kibata279">[[#kibata|木畑 1989, p. 279.]]</ref>。


一次資料には{{読み仮名|{{lang|de|'''E-Aktion'''}}|エー・アクツィオーン}}〔E作戦〕、もしくは{{読み仮名|{{lang|de|'''Eu-Aktion'''}}|オイ・アクツィオン}} の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し<ref name="kibata250">[[#kibata|木畑 1989, p. 250.]]</ref>、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている{{sfn|泉彪之助|2003|p=280}}。
一次資料には{{読み仮名|{{lang|de|'''E-Aktion'''}}|エー・アクツィオーン}}〔E作戦〕、もしくは{{読み仮名|{{lang|de|'''Eu-Aktion'''}}|オイ・アクツィオン}} の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し<ref name="kibata250">[[#kibata|木畑 1989, p. 250.]]</ref>、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている{{sfn|泉彪之助|2003|p=280}}。


== 前段階 ==
== 概要 ==
19世紀末にドイツに[[社会的ダーウィニズム]]が流入して以降、経済効率性を最重要視して障害者を殺害することを正当化する思想は[[優生学]]と結合しながら着実に地歩を固めていった。[[ヴァイマル共和政|ヴァイマール共和国]]で社会保障費が増大したこと、特に[[大恐慌]]によってドイツ経済が破綻したことと[[ヒトラー政権]]が[[1933年]]に成立したことは、障害者の殺害が正当化される決定的要因になった。

1939年初頭頃に[[ライプツィヒ]]で起こったある事件をきっかけにして始まった、子どもの障害者を殺害する計画 (「子ども安楽死」) とほぼ同時に、T4作戦も計画が始動した。子ども安楽死その他の計画と同様、T4作戦は極秘裏に進められた障害者殺害計画だったので、文書として残されている資料に乏しく、現在でも不明瞭な点は少なくないが、1939年夏ころに本格的に始まったと考えられている。

1940年になってから、指定された精神病院内に大型の焼却炉や患者殺害用のガス室の設置を整え、組織的な障害者殺害が開始された。極秘裏に殺害を実行するため様々な手段がとられたが、秘密を守ることはできず、殺害用の精神病院周辺の住民や、殺害された障害者の遺族に殺害の事実が知られるようになった。殺害の事実は連合国側にも漏れ、連合国がまいたビラやドイツ向けのプロパガンダのためのラジオ放送を通じて一般のドイツ国民にも知られるようになった。ドイツ国民は、いずれ自分たちも殺害対象にされるのではないかと疑心暗鬼に陥った。

一般国民に不安が広がる中で、1941年8月に[[クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン|ガーレン枢機卿]]はヒトラー政権を公然と非難する説教を公開で行い、これがきっかけとなって、ドイツ国民の間で抗議の声が強まった。当時のドイツは[[バルバロッサ作戦|ソ連侵攻]]の真っ最中であり、国内の不安醸成を嫌った[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]は1941年8月にT4作戦を中止した。

作戦は中止されたが、この段階で既に7万人以上の障害者が殺害されていた。また、政府が直接統率しなくなったというだけの話で、障害者の殺害はその後も続いた。T4作戦中止後、障害者の殺害は各地方で個別に判断され、ガス殺に代わって[[餓死]]や薬物による殺害が中心になった。T4作戦中止後、かえってT4作戦よりも多くの障害者が殺されるようになった。

T4作戦で使われた障害者殺害の手法は、そのまま[[ユダヤ人問題の最終的解決|ユダヤ人の絶滅計画]]にも応用されたので、事実上[[ホロコースト]]のモデルケースとなった。

推計値には幅があるが、ドイツ国内および占領地域での障害者殺害数は約20万から30万人と推定されている。大量の殺人が行われていたにもかかわらず、ドイツ国内でさえこの事実は長年に渡って等閑視されていた。研究は進んでいるが、ホロコースト研究に比べて本格的に始まった時期は大幅に遅い。

== 背景 ==
{{ナチズム}}
{{ナチズム}}
T4作戦に代表されるナチス・ドイツ時代の障害者殺害計画は、ナチスの異常性が顕現化した特殊な事例だと見なされることは現代でも一般的である。しかし、多くの研究で明らかにされているように、このような理解は誤りであって、ドイツではナチスが政権を握るはるか以前から、障害者を殺害することを正当化する思想や論者がはびこっていた。それは既に19世紀末から始まっている。
[[社会ダーウィニズム]]に基づく<!--、今日においては[[疑似科学]]とされる-->[[優生学]]思想は、[[ドイツ]]では[[第一次世界大戦]]以前からすでに広く認知されており、1910年代には「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「[[安楽死]]」の概念が生まれていた<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 248.]]</ref>。1920年には、法学博士で元[[ライプチヒ大学]]学長の[[カール・ビンディング]]と医学博士・[[フライブルク大学]]教授で精神科医の{{仮リンク|アルフレート・ホッヘ|de|Alfred Hoche}}により、重度精神障害者などの安楽死を提唱した「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」が出版されている。1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日には[[プロイセン自由州]]で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出されている<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 249.]]</ref>。
=== 19世紀ドイツ・社会ダーウィニズムの流入 ===
ドイツでは19世紀に入ってから、安楽死に関する議論や、瀕死の重病人や重症者には[[モルヒネ]]などを使って死期を早めるのがよいと主張する医者が現れるようになっていた<ref name="euthanasie102">{{cite book|和書|author=梅原秀元|title=「価値を否定された人々」ナチスドイツの強制断種と「安楽死」|chapter=「安楽死」という名の大量虐殺|publisher=新評論|date=2021-10-10|isbn=|page=102}}</ref>。しかし、他のヨーロッパ諸国の場合と同様、キリスト教の倫理観から否定的な見解が多く、大きな声にはならなかった<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.102-103</ref>。


潮目が変わりだすのは19世紀末から20世紀初頭のことで、ドイツに[[ダーウィニズム]]、とりわけ[[社会的ダーウィニズム]]が流入してからのことだった。当初は重病人の尊厳や同情から始まった安楽死の議論は社会的ダーウィニズムに汚染され、民族や社会といった全体に貢献するか否かという基準で判断されるようになり、全体に対して害悪であると見なされた者は抑圧して構わない、場合によっては殺害してもよい、という考えが次第に広まるようになった<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.104-105.</ref>。そのような思想の好例として[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]が挙げられる。障害者抹殺を論ずる際にニーチェは真っ先に好んで引用される<ref>{{Cite book|和書|author=エルンスト・クレー|translator=松下正明|title=第三帝国と安楽死 生きるに値しない生命の抹殺|publisher=批評社|date=1999-07-10|isbn=4-8265-0259-1|page=12}}</ref>。少なくともドイツにおいては、障害者殺害を正当化する論者に対するニーチェの影響は甚大である。
[[ナチ党の権力掌握]]後、「民族の血を純粋に保つ」という[[ナチズム]]思想に基づいて、[[遺伝病]]や[[精神病]]者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるという[[プロパガンダ]]が開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった<ref name="kibata250"/>。1933年7月14日には「{{仮リンク|遺伝病根絶法|de|Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses}}<ref group="#">{{lang-de-short|Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses}}</ref>」が制定され、断種が法制化された<ref name="kibata278">[[#kibata|木畑 1989, p. 278.]]</ref>。


ニーチェは、病人や弱者は社会を弱体化させる有害な存在であるから、積極的に殺害すべきだと主張した。それゆえニーチェは、人の平等を唱え、弱者に同情を寄せるキリスト教を、ヨーロッパを弱体化させる元凶として攻撃、全否定した。それが最も明白な言葉で書かれているのが、最晩年に書かれた『{{仮リンク|アンチクリスト|de|Der Antichrist}}』である。
1938年から1939年にかけて、重度の[[身体障害]]と[[知的障害]]を持つクナウアーという少年の父親が、少年の「慈悲殺」を[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]に訴えた。この訴えを審議した[[総統官房]]長の[[フィリップ・ボウラー]]と[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]][[軍医]]の[[カール・ブラント]]は、その後の安楽死政策の中心人物となった<ref name="kibata246">[[#kibata|木畑 1989, p. 246.]]</ref>。この訴えは後に「{{仮リンク|私は告発する|de|Ich klage an (1941)}}」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもととなった<ref name="kibata246"/>。

{{gallery
{{Quote|弱者と出来損いは亡びるべし、――これはわれわれの人間愛の第一命題。彼らの滅亡に手を貸すことは、さらにわれわれの義務である。|ニーチェ|『アンチクリスト』二 ([[西尾幹二]]訳)<ref>{{Cite book|和書|author=フリードリヒ・ニーチェ|translator=西尾幹二・生野幸吉|title=ニーチェ全集 第Ⅱ期第4巻|publisher=白水社|isbn=4-560-01964-9|date=1987-02-05}}</ref>}}
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{{Quote|キリスト教はすべての弱者、賤者、出来損いの味方に{{ruby|組|ママ}}し、強い生命が持っている自己保存能力に{{ruby|抗議|﹅﹅}}することを己れの理想として来たのだった。|ニーチェ|『アンチクリスト』五 (西尾訳、傍点は引用文献のまま。)}}
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|File:Karl Binding.jpeg|カール・ビンディング
{{Quote|同情はごく大まかに言って発展の法則を、つまり{{ruby|淘汰|﹅﹅}}の法則を妨げる。同情は没落しかかっているものを保存する。生の廃嫡者、生の犯罪人のために防戦する。同情はありとあらゆる種類の出来損い的人間を生の中に{{ruby|引き留め|﹅﹅﹅﹅}}、そうした人間を夥しく地上に溢れさすことによって、生そのものに陰惨でいかがわしい表情を与える。|ニーチェ|『アンチクリスト』七 (西尾訳、傍点は引用文献のまま。)}}
|File:Alfred Erich Hoche.jpg|アルフレート・ホッヘ

|File:Bundesarchiv Bild 146-1983-094-01, Phillip Bouhler.jpg|フィリップ・ボウラー
消極的優生思想は最晩年に達した境地ではなく、ニーチェはずっと以前から優生思想の支持者だった。寓話の体裁をとったあいまいな解釈を許す表現ではあるが、ニーチェは既に『{{仮リンク|悦ばしき知識|de|Die fröhliche Wissenschaft}}』の中で「聖なる無慈悲」という考えを披露している<ref group="#">以下の引用では『悦ばしき知識』でなく『華やぐ智慧』、「聖なる無慈悲」ではなく「聖なる残酷」と訳されている。</ref>。
|File:Karl Brandt SS-Arzt.jpg|カール・ブラント

{{Quote|{{ruby|聖なる残酷|﹅﹅﹅﹅﹅}}――ある聖者の{{ruby|許|もと}}に、生まれたての子供を抱いた男がやってきた。「この子供をどうしたらいいでしょう?」とかれは言った。「これは見るもあわれで、できそこないで、死ぬだけの生命も持っていないくらいです。」――「殺すのだ」と聖者は恐ろしい声で叫んだ。「殺して、そして、お前の記憶にのこるように三日三晩のあいだ自分の腕に抱いているがいい、――そうすればお前は二度と子供を拵えないだろう、――拵える時が来るまで。」――男はこれを聞いて失望して立ち去った。多くのものは残酷なことをすすめたといって、聖者を非難した。聖者は子供を殺すことをすすめたのだから。「だが子供を生かしておくのは、もっと残酷ではないか?」と聖者は言った。|ニーチェ|『華やぐ智慧』第2書73 (氷上英廣訳<ref>{{Cite book|和書|editor=|translator=氷上英廣|author=フリードリッヒ・ニーチェ|autholink=フリードリヒ・ニーチェ|title=ニーチェ全集第10巻 (第Ⅰ期)|publisher=[[白水社]]|date=1980-09-25|isbn=|pages=134-135}}</ref>、傍点は引用文献のまま。)}}

「聖なる無慈悲」は、「子ども安楽死」(後述) の実行者の1人であるヴェルナー・カーテル (ライプツィヒ大学医学部小児科教授) が短く引用して、「安楽死」の正当化の根拠として利用された<ref>クレー『第三帝国と安楽死』pp.11-12</ref>。「聖なる無慈悲」は障害者「安楽死」を議論するときに例外なく触れられる箇所である<ref>[[#sano1998|佐野 1998, p.8.]]</ref>。

また、『{{仮リンク|偶像の黄昏|de|Götzen-Dämmerung oder Wie man mit dem Hammer philosophirt}}』のなかでニーチェはきわめて直接的な表現によって弱者を貶めた。その中でニーチェは「病人は社会の寄生虫」だと断定している。

{{Quote|{{ruby|医師たちのための道徳|﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅}}――病人は社会の寄生虫です。ある状態に置かれた場合には、生き永らえることが無作法です。生きる意味、生きる{{ruby|権利|﹅﹅}}が失われてしまった後で、医師や病院の処置に女々しく頼って植物人間として生きつづけるのは、社会の側において深い軽蔑を招くことになりかねません。(中略) ――処方箋を示すのではなく、毎日、自分の患者に対する新しい{{ruby|嘔吐|﹅﹅}}の一服を盛るべきでありましょう。|ニーチェ|『偶像の黄昏』ある反時代的人間の逍遥 36 (西尾訳<ref>{{Cite book|和書|author=フリードリヒ・ニーチェ|translator=西尾幹二・生野幸吉|title=ニーチェ全集 第Ⅱ期第4巻|publisher=白水社|date=1987-02-05|isbn=|page=120}}</ref>、傍点は引用文献のまま。)}}

{{Quote|我々の道は上へ行く、種属を越えて超種属へ|}}

[[File:Alfred Ploetz (cropped).jpg|thumb|120px|アルフレート・プレッツ]]
このフレーズは、{{仮リンク|アルフレート・プレッツ|de|Alfred Ploetz}} ([[人種衛生学]]の主唱者、ナチ党員、ドイツにおける優生思想の主たる指導者の1人) が著書『我が人種の有能者と弱者の保護』で引用している<ref name="klee13">クレー『第三帝国と安楽死』p.13.</ref>。プレッツは、貧困は効率的に間引くのに丁度良い、生存競争を妨げるので病人や失業者の保護は必要ないと主張した人物である<ref>クレー『第三帝国と安楽死』p.14.</ref>。

極めて皮肉なことに、「病人は社会の寄生虫である」と書いた4か月後、ニーチェは脳[[梅毒]]により精神に異常をきたし以後の10年余り狂人として家族の世話になって過ごした。エルンスト・クレーが著書『第三帝国と安楽死』の中で書いているように、ニーチェが[[ナチス・ドイツ]]の時代に生きていれば真っ先に殺害対象になっただろうことは疑いようがない<ref>クレー『第三帝国と安楽死』p.13.</ref>。

=== 社会ダーウィニズムの本格的展開・ナチスとの結合 ===
20世紀初頭になるとドイツでは、社会的ダーウィニズムが[[優生学]]と結合し、人間の尊厳や価値を、経済的な生命観によって計ろうとする価値感、全体にとって有害な者を排除・殺害することを正当化する思想として次第に広まりだした。本来、優生学は遺伝や遺伝病を対象とした学問であり、優生学の生粋の専門家は遺伝病に限って断種を容認する議論をしたのに対して、優生学を専門としない論者は、遺伝病かどうかの厳密な区別をすることなしに、社会に対して有害だと恣意的に判断した少数者を社会から排除しようとした。特にドイツでは社会ダーウィニズムが民族主義・国家主義と結合した点が著しい特徴である。

[[File:Schallmayer.gif|thumb|120px|ヴィルヘルム・シャルマイヤー]]
ドイツにおける優生思想はアメリカのそれとは性格が異なり、[[ドイツ帝国]]の時代から既に優生思想が経済性や財政効率性と強く結びついており、国家主義的傾向と密接に関係していた<ref name="evans103">{{cite book|和書|author=スザンヌ・E・エヴァンス|title=障害者の安楽死計画とホロコースト ナチスの忘れ去られた犯罪|publisher=クリエイツかもがわ|year=2017|isbn=978-4-86342-229-2|page=103}}</ref>。当時経済大国になりかけていたアメリカは、適者生存という観点から優生思想を楽観主義的に理解した。一方、ドイツの優生思想支持者は正反対で、衰退を避け自分が生き残るために邪魔者を犠牲にするという否定的な観点から優生思想を理解していた<ref name="evans103"/>。

例えば1900年、[[フリードリヒ・アルフレート・クルップ]]が「我々は血統理論の原理から何を学び得ることができるのか、国家の内政発展と立法に関連させて述べよ」というテーマで懸賞論文を募った<ref name="klee14">クレー『第三帝国と安楽死』p.14.</ref>。このクルップの懸賞論文は優生思想が社会にどれほど強く影響を与えたかを示す例として有名である。

第1位に入選したのは、{{仮リンク|ヴィルヘルム・シャルマイヤー|de|Wilhelm Schallmayer}}の『民族歴史上の遺伝と選択、新しい生物学に基づく国家学的研究』である<ref name="klee14"/>。シャルマイヤーはプレッツとは違い人種差別思想とは無縁だったため、ナチスが力を増すにつれ影響力はなくなっていったが、[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]時代までは人種衛生学の主要な指導者の1人だった。

20世紀初頭に1度広まりかけた社会的ダーウィニズムは、1910年代になってからは、「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「[[安楽死]]」の概念に発展<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 248.]]</ref>、更に1920年代になって再び社会にはびこるようになった<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.102.</ref>。
{{Multiple image
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|caption1=カール・ビンディング
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|caption2=アルフレート・ホッヘ
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}}
1920年代に出版されて社会に大きな影響を与えた優生思想の著作として、[[カール・ビンディング]] (法学博士・元[[ライプチヒ大学]]学長) と{{仮リンク|アルフレート・ホッヘ|de|Alfred Hoche}} (医学博士・[[フライブルク大学]]教授・精神科医) の共著による『[[生きるに値しない命|生きるに値しない生命]]の根絶の解禁』(1920年刊) <ref group="#">和訳は必ずしも定訳があるわけではない。『生きるに値しない生命の殺害の解禁』『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と訳す例もある。</ref>とエルヴィン・バウアー、オイゲン・フィッシャー、フリッツ・レンツの共著による『人類遺伝学と民族衛生学の概説』(1923年改訂増補版) が挙げられる。

『人類遺伝学と民族衛生学の概説』は、[[ミュンヘン一揆]]の失敗によって有罪判決を受け[[ランツベルク刑務所|ランツベルク要塞]]に収監されていた時期に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が読んで『[[我が闘争]]』に利用したと言われている著作である<ref name="sano1998-15">[[#sano1998|佐野 1998、p.15.]]</ref>。同書が『我が闘争』に影響を与えたことは、共著者の1人{{仮リンク|フリッツ・レンツ|de|Fritz Lenz}}が認めている<ref name="sano1998-15"/>。レンツは後にナチスに入党することからもわかるように、ナチスの思想に近い学者だった。

また、ビンディングとホッヘによる『生きるに値しない生命の根絶の解禁』は、重度精神障害者などの安楽死を提唱した著作である。

1920年代末には、ドイツの一般大衆は、障害を持つことは恥だとの認識を持つようになっていた<ref name="Gallagher89">{{cite book|和書|translator=長瀬修|author=ヒュー G.ギャラファー|title=ナチスドイツと障害者「安楽死」計画|publisher=[[現代書館]]|date=1996-08-25|isbn=4-7684-6687-7|page=89}}</ref>。また、障害者は生きるに値しないと見なされた<ref name="Gallagher89"/>。

1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日には[[プロイセン自由州]]で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出された<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 249.]]</ref>。この法案は、[[フランツ・フォン・パーペン|パーペン]]首相が画策した[[プロイセン・クーデター]]の混乱のために成立こそしなかったが<ref>{{Cite book|和書|author=市野川容孝|chapter=第二章 ドイツ―優生学はナチズムか|title=優生学と人間社会 生命科学の世紀はどこへ向かうのか|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社現代新書]]|date=2000-07|isbn=4-06-149511-9|page=90}}</ref>、1933年7月の[[遺伝病子孫防止法|遺伝子性疾患子孫予防法]]<ref group="#">{{lang-de-short|Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses}}</ref>の原型になった点で大きな画期となった<ref>エヴァンス『第三帝国と安楽死』p.113</ref>。

[[ナチ党の権力掌握]]後、「民族の血を純粋に保つ」という[[ナチズム]]思想に基づいて、[[遺伝病]]や[[精神病]]者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるという[[プロパガンダ]]が開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった<ref name="kibata250"/>。例えば、1935年から1937年にかけて、ナチス人種政治局は精神障害者の「安楽死」を準備するため、プロパガンダ用のサイレント映画を5本製作、ドイツ国内の映画館で上映し、大衆に精神障害者に対する恐怖心を植え付けるとともに、障害者を「社会の屑」として描くことを目論んだ<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>。

1933年7月14日には遺伝子性疾患子孫予防法 (断種法と通称されている) が制定され、断種が法制化された<ref name="kibata278">[[#kibata|木畑 1989, p. 278.]]</ref>。1933年の断種法は世界的にも関心を呼び、世界の医学界はこの法律を支持した<ref>ギャラファー『障害者「安楽死」計画』p.90.</ref>。同法は1935年6月に改正され、母体保護を目的とした中絶を合法化すると同時に、優生学的な理由による中絶も併せて合法化された<ref>市野川「第二章 ドイツ―優生学はナチズムか」p.93.</ref>。

=== T4作戦以前の障害者殺害 ===
ナチス時代のドイツで実行された障害者殺害計画の中で最も著名なのがT4作戦だが、それ以前にも障害者の殺害が実施されていたことは見逃されがちである。

意図したものだったのかどうかは議論の余地があるが、既に[[第1次世界大戦]]中にドイツで精神病患者が大量に餓死していたことはほとんど知られていない。第1次世界大戦中に公立病院で餓死した精神病患者は約7万人で<ref>市野川「第二章 ドイツ―優生学はナチズムか」pp.103-104.</ref>、これはT4作戦で殺害されたと推測されている精神病患者の数にほぼ等しい<ref>市野川「第二章 ドイツ―優生学はナチズムか」p.104.</ref>。

ヒトラー政権に入ってからは、遅くとも1936年には精神障害者の餓死による殺害が実施されている。国家主導による殺害ではなかったが、ラントや個別の病院のレベルではT4作戦以前に既に精神病患者の「安楽死」政策は進んでいた<ref name="umehara150-151">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.150-151.</ref>。1936年にはザクセン州のピルナ=ゾンネンシュタイン精神病院で、「生産性のない」精神病患者に貧栄養食を与える施策が進められていた<ref name="umehara150-151"/>。これは、精神科医で同病院長だった{{仮リンク|ヘルマン・パウル・ニチェ|de|Paul Nitsche}}{{Refnest|group="#"|T4作戦で中心的な役割を果たした人物の1人。[[ニュルンベルク継続裁判]]で死刑判決を受け、[[1948年]]3月25日に[[ドレスデン]]で処刑された<ref>エヴァンス『安楽死』p.165.</ref><ref>中野他『「価値を否定された人々」』p.330.</ref>。}}が初めて導入したものである<ref name="umehara150-151"/>。公立病院の支出を抑制するというのが導入の理由だったが、精神病院では飢餓が日常化し死亡率も上昇した<ref name="umehara150-151"/>。同精神病院では、T4作戦の中で殺害専門の精神病院として多くの障害者が殺された。

その他、ザクセン州では定員を越える精神病患者を収容しなければならない事態に直面しており、そのため患者のケアはおざなりになりがちだった上、ナチ党員で[[親衛隊_(ナチス)|親衛隊]]員でもあった精神科医{{仮リンク|アルフレート・フェルンホルツ|de|Alfred Fernholz}}が1938年にザクセン内務省民族保護課長になってからは更に状況は悪化した<ref name="umehara150-151"/>。フェルンホルツは州内の公立の精神病院に対して、同様に、働くことのできない患者には栄養のない食事を与えるように指示を出したためである<ref name="umehara150-151"/>。

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}}
その後の障害者「安楽死」計画で重要なものとして「子ども安楽死」の名前で知られる殺害計画が挙げられる。「子ども安楽死」は障害者の組織的で大規模な殺害計画としては最初のものである。

「子ども安楽死」が始まるきっかけになったのは、[[1938年]]から[[1939年]]頃に[[ライプツィヒ]]で起きたある事件である。この事件がきっかけで「子ども安楽死」と呼ばれる、身体障害者の子どもを対象とした「安楽死」が実行されるようになったと言われている<ref name="Euthanasie115">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.115.</ref>。「子ども安楽死」はT4作戦の直接的な祖先である。

ライプツィヒの事件の概要は次のようなものだった。

1938年末か1939年の初めころにある人物が依頼を持って、[[ライプツィヒ大学]]医学部小児科教授の{{仮リンク|ヴェルナー・カーテル|de|Werner Catel}}を訪問してきた<ref name="Euthanasie115"/>。依頼の内容は、その人物の子供かもしくは親戚の子供が重い障害を持っていて、将来生きていくことができないと思い、「安楽死」させてもらいたいというものだった<ref name="Euthanasie115"/>{{Refnest|group="#"|従来、[[1946年]]の[[ニュルンベルク裁判]]での証言を根拠にして、ライプツィヒでの事件の子供の名前は「クナウアー」だとされていたが、近年の研究では、子供の本名は特定し難いことが明らかにされている<ref name="umehara165">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.165.</ref>。そのため、現在では「クナウアー」の代わりに「子ども K」(Kind K.) と呼ぶことが一般的になっている<ref name="umehara165"/>。}}。もちろん、そのようなことは殺人罪につながるためカーテルは依頼を断ったが、この人物は今度はヒトラーに直訴した<ref name="Euthanasie115"/>。この嘆願を受けて、障害児の「安楽死」計画がただちに始まった<ref name="Euthanasie115"/>。

ヒトラーは自分の侍医だった[[カール・ブラント]]([[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]][[軍医]])をライプツィヒに派遣してカーテルらと協議させる一方、精神障害や身体障害を持つ子供の「安楽死」の実施のためにブラントと[[総統官房]]長の[[フィリップ・ボウラー]]に対し、個別の案件について障害児を「安楽死」させるための権限を与えた<ref name="Euthanasie116">中野他『「価値を否定された人々」』p.116</ref>。権限は法律的な裏付けのない超法規的なものである<ref name="Euthanasie116"/>。ヒトラーは命令を書面ではなく口頭で行うことを好んだので、権限の委譲はこの時も口頭によるものである<ref name="Euthanasie116"/><ref>{{cite book|和書|author=芝健介|authorlink=芝健介|title=ホロコースト|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-101943-1|date=2008-04-25}}</ref>。訴えを審議したボウラーとブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった<ref name="kibata246">[[#kibata|木畑 1989, p. 246.]]</ref>。

ライプツィヒの事件は後に「{{仮リンク|私は告発する|de|Ich klage an (1941)}}」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもとになった<ref name="kibata246"/>{{Refnest|group="#"|映画はヘルムート・ウンガーの小説『使命と良心』(1936年) を基にしている<ref name="Euthanasie116"/><ref>{{cite book|和書|author=エルンスト・クレー|translator=松下正明|title=第三帝国と安楽死 生きるに値しない生命の抹殺|publisher=批評社|date=1999-07-10|isbn=4-8265-0259-1|pages=93-94}}</ref>。映画はウンガ―の小説すべてを利用しているわけではないが、いくつかのモティーフは『使命と良心』からとられている。}}。


== 「T4」による安楽死政策 ==
== 「T4」による安楽死政策 ==
{{Multiple image
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|direction=vertical
|width=200px
|image1=Alkoven Schloss Hartheim 2005-08-18 3589.jpg
|caption1=安楽死施設のあったハルトハイム城
|image2=Schloss Hartheim Gaskammer 201809-01.jpg
|caption2=ハルトハイム城1階のガス室
|image3=Schloss Hartheim Leichenraum 201702.jpg
|caption3=ハルトハイム城1階の死体置き場
}}
T4作戦の必要性をヒトラーに認識させたのは、[[アルベルト・ボルマン]]とその上司だった[[フィリップ・ボウラー]]の2人だったと言って過言ではない<ref name="shiba2021-306">{{Cite book|和書|author=芝健介|authorlink=芝健介|title=ヒトラー―虚像の独裁者|publisher=岩波書店|series=岩波新書|isbn=978-4-00-431895-8|date=2021-09-17|page=306}}</ref>。ボルマンはヒトラーの副官で、同じくヒトラーの副官だった[[マルティン・ボルマン]]の弟である<ref name="shiba2021-306"/>。アルベルトは、ヒトラーに送られてくるファンレター・投書・陳情書を扱っていたため世論の動向に詳しく、ヒトラーに対して一定の影響力を持っていた<ref name="shiba2021-306"/>。
T4作戦の必要性をヒトラーに認識させたのは、[[アルベルト・ボルマン]]とその上司だった[[フィリップ・ボウラー]]の2人だったと言って過言ではない<ref name="shiba2021-306">{{Cite book|和書|author=芝健介|authorlink=芝健介|title=ヒトラー―虚像の独裁者|publisher=岩波書店|series=岩波新書|isbn=978-4-00-431895-8|date=2021-09-17|page=306}}</ref>。ボルマンはヒトラーの副官で、同じくヒトラーの副官だった[[マルティン・ボルマン]]の弟である<ref name="shiba2021-306"/>。アルベルトは、ヒトラーに送られてくるファンレター・投書・陳情書を扱っていたため世論の動向に詳しく、ヒトラーに対して一定の影響力を持っていた<ref name="shiba2021-306"/>。


後述のように、T4作戦の正式な発令はまだ先の話になるが、同作戦の準備が始まるのは「子ども安楽死」の開始時期とほとんど同時である。{{仮リンク|ヴェルナー・ハイデ|de|Werner Heyde}} (安楽死中央機関医療部長、元[[ヴュルツブルク大学]]教授) が[[1961年]]10月25日に行った供述によると、ヒトラーは遅くとも[[遺伝病子孫防止法|遺伝子性疾患子孫予防法]] (1933年7月成立) の頃から、精神病患者の殺害について繰り返し計画を練っており、1939年7月の時点で既に厖大な準備がなされていると、ボウラーが語ったという<ref>クレー『第三帝国と安楽死』pp.98-99.</ref>。また、[[医者裁判]]の中でカール・ブラントも、遅くとも1933年以降、ヒトラーは非自発的な「安楽死」を志向していたことで知られていた、と証言している<ref name="Kershow-Hitler2-6-3">{{Cite book|author=Ian Kershaw|title=Hitler 1936-45:Nemesis|chapter=6 Licensing Barbarism Ⅲ|isbn=978-0-14-192581-3|publisher=Penguin Books|year=2001}}</ref>。ラマースもまた、1933年に遺伝子性疾患子孫予防法が議論されていた時期、ヒトラーは精神病患者の殺害について考えていたと回想している<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>。
[[ファイル:Erlass von Hitler - Nürnberger Dokument PS-630 - datiert 1. September 1939.jpg|250px|right|thumb|1939年に明文化されたT4作戦の命令書。“[[全国指導者|党指導者]]ボウラー氏と医師ブラント博士に、病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える。―アドルフ・ヒトラー”]]

1939年9月1日、ヒトラーは日付の記されていない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死<ref group="#">{{lang-de-short|Gnadentod}}</ref>」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者<ref group="#">{{lang-de-short|Führerbevollmächtigter}}</ref>」としての地位をボウラーとブラントに与えた<ref name="kibata246"/><ref>[[#miyano|宮野 1968, pp. 128-129.]]</ref>。ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している<ref> ([[#miyano|宮野 1968, pp. 128-129]])</ref>。命令書に書かれている9月1日の日付は後からさかのぼって書かれたものだと考えられている<ref name="umehara122">{{Cite book|和書|author=梅原秀元|chapter=「安楽死」という名の大量虐殺―その始まりと展開|title=「価値を否定された人々」ナチス・ドイツの強制断種と「安楽死」|publisher=新評論|isbn=978-4-7948-1192-9|date=2021-10-10|page=122}}</ref>。なぜ日にちをさかのぼらねばならなかったのかその理由は現在もわかっていない<ref name="umehara122"/>。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった<ref>[[#miyano|宮野 1968, p. 131.]]</ref>。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「[[生きるに値しない命]]の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが<ref>[[#sano1998|佐野 1998, pp. 23-24.]]</ref>、いずれもヒトラーによって拒否された<ref>[[#sano1998|佐野 1998, p. 24.]]</ref>。
1939年2月17日には、[[リンツ]]近郊にあるハルトハイム療養所がナチスによって接収された<ref name="klee97">クレー『第三帝国と安楽死』p.97.</ref>。同療養所は1889年にカミロ・ハインリッヒ・シュタルヘムベルク侯爵により、貧しい「精神薄弱者と白痴」のための病院として寄贈された病院である<ref name="klee97"/>。この療養所はT4作戦において、6か所あった精神病患者を殺害する施設の1つとして稼働することになる。T4作戦の殺害精神病院として{{仮リンク|ハダマー殺害精神病院|de|Tötungsanstalt Hadamar}}が頻繁に紹介されるが、精神病患者の大部分はハルトハイム殺害精神病院で殺されている<ref>クレー『第三帝国と安楽死』p.473.</ref>。同年5月24日には、ミュンジンゲン郡グラーフェネックの身体障害者施設 (シュトゥットガルト慈善協会所属) の見分が実施されている<ref name="klee97"/>。この施設もT4作戦において、殺害精神病院として稼働する。

[[ファイル:Erlass von Hitler - Nürnberger Dokument PS-630 - datiert 1. September 1939.jpg|200px|left|thumb|1939年に明文化されたT4作戦の命令書。“[[全国指導者|党指導者]]ボウラー氏と医師ブラント博士に、病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える。―アドルフ・ヒトラー”]]
1939年9月1日、ヒトラーは日付の記されていない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死<ref group="#">{{lang-de-short|Gnadentod}}</ref>」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者<ref group="#">{{lang-de-short|Führerbevollmächtigter}}</ref>」としての地位をボウラーとブラントに与えた<ref name="kibata246"/><ref name="miyano128-129">[[#miyano|宮野 1968, pp. 128-129.]]</ref>。ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している<ref name="miyano128-129"/>。命令書に書かれている9月1日の日付は後からさかのぼって書かれたものだと考えられている<ref name="umehara122">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.122.</ref>。なぜ日にちをさかのぼらねばならなかったのかその理由は現在もわかっていない<ref name="umehara122"/>。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった<ref>[[#miyano|宮野 1968, p. 131.]]</ref>。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「[[生きるに値しない命]]の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが<ref>[[#sano1998|佐野 1998, pp. 23-24.]]</ref>、いずれもヒトラーによって拒否された<ref>[[#sano1998|佐野 1998, p. 24.]]</ref>。

従来はこの書面を根拠にして、ヒトラーからの権限移譲は10月末のことだと考えられてきたがその後の研究の進展により、実際にはもっと早くに行われており、遅くとも同年8月には、ヒトラーはボウラーとブラントに対して権限移譲したことが明らかにされている<ref>芝『ホロコースト』p.76.</ref>。当然、T4作戦の実際の開始時期も10月以前であり、本格的に動き出すのは、遅くとも1939年7月のことである<ref name="klee98">クレー『第三帝国と安楽死』p.98.</ref>。この頃、ヒトラーは次官の{{仮リンク|レオナルド・コンティ|de|Leonardo Conti (Mediziner)}}、マルティン・ボルマン、[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]を呼び、精神障害者の「安楽死」を依頼している<ref name="klee98"/>。この時のヒトラーの発言からは、9月1日に始まるポーランド戦の準備の一環として、病院や医師、看護師の効率利用のために精神病患者の殺害に踏み切ったことが読み取れる<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>。1935年にヒトラーは、{{仮リンク|ゲルハルト・ワーグナー|de|Gerhard Wagner (Mediziner)}} (ナチス医師同盟総統・帝国医師総統)<ref>米本他『優生学』p.93-94.</ref> に対して、戦争を利用すれば精神病患者の「安楽死」がスムーズに進むだけでなく、キリスト教会からの反対の声も弱まるだろうと語ったと伝えられており<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>、[[第2次世界大戦]]を障害者殺害の好機ととらえたらしい。

こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や殺害精神病院で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった<ref group="#">この政府高官「N」は精神分裂病患者の息子がおり、息子が死ぬような事態があれば事実を公表すると記している ([[#sano1998|佐野 1998, p. 21]])。</ref>。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官{{仮リンク|ロタール・クライシヒ|de|Lothar Kreyssig}}らの努力はあったが、結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった<ref name="kibata278"/>。

=== 「中央機関」 ===
[[File:No-nb bldsa 6b001.jpg|thumb|200px|ティアガルテン通り4番地にあった邸宅。T4作戦の中央機関がここに置かれた。元はユダヤ人所有の建物だったと言われている<ref>{{Cite book|和書|author=小俣和一郎|authorlink=小俣和一郎|title=ナチス もう一つの大罪 「安楽死」とドイツ精神医学|publisher=[[人文書院]]|date=1995-08-10|isbn=4-409-51037-1|pages=79, 227}}</ref>。]]
T4作戦は「子ども安楽死」の時と同様に極秘裏に進められた<ref name="umehara123">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.123.</ref>。理由は、患者殺害に反対する官庁の影響を排除するため、前線と国内に不安を醸成させないため、敵国の反独プロパガンダを誘わないため、キリスト教会の反対を避けるためなどだった<ref name="umehara123"/>。T4作戦の準備は総統官房第Ⅱ局が行いブラントとボウラーが監督、帝国内務省第Ⅳ局の{{仮リンク|ヘルベルト・リンデン|de|Herbert Linden}}が協力した<ref name="umehara123"/>。しかし、総統官房が安楽死作戦の作戦司令部であることが発覚することを恐れたため、作戦本部は1940年4月頃にベルリン市のティアガルテン通り4番地の邸宅に移され、「中央機関」と名付けられた<ref name="umehara123"/>。後に、この障害者「安楽死」作戦がT4作戦と呼ばれるようになった由来である<ref name="umehara123"/>。

「中央機関」は次の4部署から構成されていた<ref name="umehara124">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.124.</ref>。

#帝国精神病院事業団体(RAG)
#公益患者輸送有限会社({{仮リンク|GEKRAT|de|Gemeinnützige Krankentransportgesellschaft}}、〈ゲクラート〉)
#公益保護施設財団
#精神病院中央清算事業団

このうち、財団と事業団が財政部門に相当、有限会社は移送部門、事業団体が実施部門に当たる<ref name="umehara124"/><ref name="sawada159"/>。財団は、T4作戦の資金や物資 (消毒薬や殺害用の鎮静剤など) の調達、患者殺害後の金歯・装飾品などの管理・利用、会計検査、事業団は会計監査が担当だった<ref name="umehara124"/>。RAGは殺害対象患者の把握、「中央機関」の医療・医学関連の業務全般を、GEKRATは、各地の精神病院から中継精神病院 (世間から患者殺害を把握させないようにするために、殺害精神病院へ移送する前にいったん患者を収容した精神病院) や殺害精神病院へ殺害対象者を移送するスケジュールの調整・手段の確保・維持を担当した<ref name="umehara124"/>。周辺住民から「{{仮リンク|灰色のバス|de|Denkmal der Grauen Busse}}」と呼ばれるようになる、殺害患者移送用のバスの管理はGEKRATが実施していた<ref name="umehara124"/>。「中央機関」は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており<ref name="kibata280">[[#kibata|木畑 1989, p. 280.]]</ref>、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた<ref name="kibata279"/>。

後述のように、T4作戦自体はヒトラーの命令で1941年8月24日に中止される。しかし、中止されたのはT4作戦だけであり、「中央機関」はその後も存続し、T4作戦とは別形式で精神病患者や障害者の大量殺害は続けられた<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.123-125</ref>。前述の「子ども安楽死」もT4作戦中・停止後も続けられた<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.139.</ref>。

殺害対象者は全般に「精神薄弱」、[[統合失調症]]患者や[[てんかん]]患者が多かったが<ref name="umehara126">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.126.</ref>、それ以外に、労働能力の欠如、[[夜尿症]]、脱走や反抗、不潔、[[同性愛者]]なども含まれていた<ref name="kibata259">[[#kibata|木畑 1989, p. 259.]]</ref>。T4作戦で「中央機関」が対象者把握のために調査したデータを見ても、[[遺伝病子孫予防法|遺伝子性疾患子孫予防法]]で遺伝性とされた病の患者で、長期入院している者を殺害候補としていたことが推測できる<ref name="umehara126"/>。

T4組織の鑑定人だったヴェルナー・ハイデとニチェらは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した<ref name="sawada159"/><ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 258.]]</ref>。殺害対象の鑑別には、40人余りの医師が「中央機関」の協力者としてかかわった<ref name="umehara125">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.125.</ref>。ただし、鑑別は直接患者を診察したのではなく、「中央機関」が集めた書類上のデータだけを見て判断した<ref name="umehara127-128">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.127-128.</ref>。当事者の証言によれば、1日当たり100人のオーダーで処理しており、殺害対象の判断は形がい化していたことが見て取れる<ref name="umehara127-128"/>。「処分者」は、「灰色のバス」([[郵政省]]から譲られた灰色に再塗装された[[バス (交通機関)|バス]]) に乗せられ、'''「処分場」'''と呼ばれる施設に運搬された。

== 障害者殺害の開始 ==
古い研究では、ナチスによる障害者殺害はポーランド侵攻 (1939年9月1日) 後にドイツ本国で始まったと考えられていて、障害者殺害の実験は1940年1月半ばにブランデンブルクの旧監獄施設を使い、一酸化炭素を用いたと説明されてきた<ref name="shiba-holocaust77">芝『ホロコースト』p.77.</ref>。が、その後の研究により、実際にはもっと早くから本格的に実施されていただけでなく、実施場所も国外のポーランド領内の[[ポズナニ]]だったことが明らかにされている<ref name="shiba-holocaust76">{{Cite book|和書|author=芝健介|authorlink=芝健介|title=ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=|date=2008-04-25|page=76}}</ref>。ポーランド侵攻後ドイツによる占領行政が始まり、障害者施設の管理者や施設ベッドを「替える」のに合わせて障害者が銃殺された<ref name="shiba-holocaust76"/>。その後もポ-ランド領内で精神病患者の殺害は続く。

9月29日からはブロンベルク近郊のコツボロフ精神病院で2342名が殺害された他、9月から10月の間にブロンベルク郡のスヴィッチェで1350人の患者が射殺された<ref>クレー『第三帝国と安楽死』p.106.</ref>。同年10月には同様に、ポズナニ近郊の要塞を使って、[[一酸化炭素]]と[[チクロンB]]を併用した患者殺害の実験が実施されたこともわかっている<ref name="shiba-holocaust77"/>。実験を実施したのは[[アインザッツグルッペン]]である<ref name="shiba-holocaust77"/>。1939年末には、[[ヘルベルト・ランゲ]]指揮下にあった通称「ランゲ{{ruby|特別部隊|ゾンダーコマンド}}」<ref group="#">{{ruby|特別部隊|ゾンダーコマンド}}は個々のアインザッツグルッペンに従属する下部組織の部隊</ref>が移動式の殺害用トラックを開発、1940年初めにはトラックの排気ガスを使った精神病患者の殺害が始まった<ref name="shiba-holocaust77"/>。T4作戦初期に使用されたトラックの排気ガスによる患者殺害の手法は、後にユダヤ人の抹殺に応用されていく。


T4作戦が開始されてからの障害者のガス殺は1939年から翌1940年にかけての冬に始まり、まずポーランドで1万から1万5千人にのぼる障害者が殺害された<ref name="shiba-holocaust77"/>。ドイツ国内では1940年4月15日に障害者の大量処刑が始まった<ref>芝『ホロコースト』p.78.</ref>。この時の犠牲者は[[ユダヤ人]]だった<ref name="shiba-holocaust78"/>。同年6月からは徹底的な殺害が始まる<ref name="shiba-holocaust78"/>。ハダマー殺害精神病院には、トービアス芸術映画会社が入り込み殺害前のユダヤ人障害者を撮影、この時のフィルムには「人間の屑」というタイトルが付された<ref name="shiba-holocaust78"/>。
こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や安楽死施設で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった<ref group="#">この政府高官「N」は精神分裂病患者の息子がおり、息子が死ぬような事態があれば事実を公表すると記している ([[#sano1998|佐野 1998, p. 21]])。</ref>。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官{{仮リンク|ロタール・クライシヒ|de|Lothar Kreyssig}}も法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省に事態の調査を求めていた<ref name="sano1998_21">[[#sano1998|佐野 1998, p. 21.]]</ref>。法務大臣[[フランツ・ギュルトナー]]は調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった<ref name="sano1998_21"/>。ギュルトナーは首相官房長[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]と会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った<ref name="sano1998_21"/>。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった<ref name="sano1998_22">[[#sano1998|佐野 1998, p. 22.]]</ref>。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す[[民族法廷]]の裁判長[[ローラント・フライスラー]]の支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した<ref name="sano1998_22"/>。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された<ref name="sano1998_22"/>。結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった<ref name="kibata278"/>。


殺害対象は、精神病罹患や身体障害者という観点だけから選別されたわけではない。働けるか働けないか、家族との関係が希薄かどうか、医師や看護婦にとって「面倒な」患者かどうか、身の周りのことを自分でできるか、といった項目も調査対象になり、また働けても単純労働しかできないのであれば低評価され殺害される可能性が高まった<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.126-127.</ref>。殊にナチスの優生思想が極端に経済コストの観点から判断されていたことはよく知られている。ナチス時代の医師や官僚・政治家が、すぐにコスト計算に訴えて病人や障害者を厄介者扱いする例には事欠かない。
T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(秘匿名「公益患者輸送会社」、ドイツ語略称ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた<ref name="sawada159"/>。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており<ref name="kibata280">[[#kibata|木畑 1989, p. 280.]]</ref>、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた<ref name="kibata279"/>。


殺害対象に指定された者は、各地の精神病院から一旦中継精神病院へ移送され、そこにしばらくの間入院させられた。中継精神病院に入院させたのは、殺害場所である殺害精神病院へ直接移送することを避けることで、政府が障害者を殺害していることを知られにくくするためだった。
処分されるべきと考えられた対象には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、[[夜尿症]]、脱走や反抗、不潔、[[同性愛者]]なども含まれていた<ref name="kibata259">[[#kibata|木畑 1989, p. 259.]]</ref>。T4組織の鑑定人、[[精神科医]]の{{仮リンク|ヴェルナー・ハイデ|de|Werner Heyde}}と{{仮リンク|パウル・ニッチェ|de|Paul Nitsche}}らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した<ref name="sawada159"/><ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 258.]]</ref>。「処分者」は、[[郵政省]]から譲られた灰色に再塗装された[[バス (交通機関)|バス]]に乗せられ、'''「処分場」'''と呼ばれる施設に運搬された。


安楽死専用の施設は、[[ハルトハイム安楽死施設]]、{{仮リンク|グラーフェネック安楽死施設|de|Tötungsanstalt Grafeneck}}、{{仮リンク|ブランデンブルク安楽死施設|de|Tötungsanstalt Brandenburg}}、{{仮リンク|ベルンブルク安楽死施設|de|Tötungsanstalt Bernburg}}、{{仮リンク|ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設|de|Tötungsanstalt Pirna-Sonnenstein}}、{{仮リンク|ハダマー安楽死施設|de|Tötungsanstalt Hadamar}}の6つがあった<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.129.</ref>。このうちハルトハイムとグラーフェネックは元は障害者のための施設、ブランデンブルクは監獄、ベルンブルク、ピルナ=ゾンネンシュタイン、ハダマーは精神病院で、いずれも1940年になってからガス室や大型で強力な焼却炉が設置され、殺害専門の精神病院として稼働し始めた<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.129-130.</ref>。ハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した<ref name="kibata278"/>。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた<ref name="kibata280"/><ref name="umehara132">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.132.</ref>。また、ドイツ人の拒否反応は、公然と行われていたユダヤ人に対する迫害に対するものよりもはるかに大きかった<ref name="umehara132"/>。理由は、殺害されている対象がドイツ人だったので、いずれ自分たちにも危害が及ぶのではないかと危ぶんだからである<ref name="umehara132"/>。対象が拡大されて、例えば第1次、2次世界大戦の傷病兵や高齢者の施設収容者もいずれ殺害されるのではないかと疑われ、不安が広がった<ref name="umehara132"/>。
専門の安楽死施設は、[[ハルトハイム安楽死施設]]、{{仮リンク|ブランデンブルク安楽死施設|de|Tötungsanstalt Brandenburg}}、{{仮リンク|ベレンブルク安楽死施設|de|Tötungsanstalt Bernburg}}
、{{仮リンク|ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設|de|Tötungsanstalt Pirna-Sonnenstein}}
、{{仮リンク|ハダマー安楽死施設|de|Tötungsanstalt Hadamar}}の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した<ref name="kibata278"/>。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた<ref name="kibata280"/>。
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|File:Hadamar_012.JPG|ハダマー殺害精神病院の「シャワー室」(ガス室)
|ファイル:Alkoven Schloss Hartheim 2005-08-18 3589.jpg|安楽死施設のあったハルトハイム城
|File:20151109 Pirna Sonnenstein 04.jpg|ピルナ<nowiki>=</nowiki>ゾンネンシュタイン殺害精神病院の死体焼却炉跡
|File:Hadamar_012.JPG|ハダマー安楽死施設の「シャワー室」(ガス室)
|ファイル:Aktion T4 (Diakonie Neuendettelsau).jpg|バスで移送される障害者
|ファイル:Aktion T4 (Diakonie Neuendettelsau).jpg|バスで移送される障害者
}}
}}
移送された者は[[ガス室]]に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の[[排気ガス]]をホースで引き、その[[一酸化炭素中毒]]効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かい[[コーヒー]]や[[サンドイッチ]]がふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、[[フェノバルビタール]]注射による殺害<ref group="#">この方式はニッチェ方式と呼ばれた ([[#sawada|澤田 2005, p. 161]])。</ref>、飢餓による殺害も含まれている<ref name="kibata259"/>。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。
移送された者は[[ガス室]]に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の[[排気ガス]]をホースで引き、その[[一酸化炭素中毒]]効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かい[[コーヒー]]や[[サンドイッチ]]がふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、[[フェノバルビタール]]注射による殺害<ref group="#">この方式はニッチェ方式と呼ばれた ([[#sawada|澤田 2005, p. 161]])。</ref>、飢餓による殺害も含まれている<ref name="kibata259"/>。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。


=== 安楽死政策への反発 ===
== 安楽死政策への反発 ==
T4作戦で殺害された精神病患者は、焼却処分されたあと骨壺に入れられ適当な死因をつけて遺族に返却されたが、返却処理や死因がいい加減だったため、遺族から疑いの目で見られるようになった。たとえば、遺族のもとに骨壺が2個送られてきた、10年以上前に[[虫垂炎]]の手術を受けて[[虫垂]]を切除されているのに虫垂炎が死亡理由として通知された、わずか8日前に面会したばかりなのに[[脊髄炎]]で死亡したと通知された、死亡通知を受け取ったその日に実際には患者はまだ生きていたと、奇怪な事例が続出した<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.136-137.</ref>。
[[ファイル:CAvGalenBAMS200612.jpg|サムネイル|フォン・ガーレン司教]]

この計画についてはキリスト教会の一部、特に[[ローマ教皇庁]]から強い反対があった<ref>[[#miyano|宮野 1968, pp. 129-130.]]</ref>。またミュンスターの司教[[クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン]]は1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し<ref>[[#sano1999|佐野 1999, p. 20.]]</ref>、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]にも知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も行っている<ref>[[#sano1998|佐野 1998, p. 6.]]</ref>。一部のナチ党幹部はガーレンを死刑にするよう求めたが、ミュンスター市民への影響を考慮した[[ヨーゼフ・ゲッベルス]]は慎重論を主張し、ヒトラーもそれに応じた{{sfn|泉彪之助|2003|p=283}}。しかし連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、[[教皇]][[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]がその決定を広く公布するよう命じた<ref name="miyano130">[[#miyano|宮野 1968, p. 130.]]</ref>。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。
精神病院の医師や病院長の一部は、裁判に訴えて殺害を阻止しようとしたが初期段階で挫折してしまい失敗した<ref>クレー『第三帝国と安楽死』p.272.</ref>。また、裁判官や検事は「安楽死」が行われていることを知りながらもほとんどが沈黙を守った<ref name="klee274">クレー『第三帝国と安楽死』p.274.</ref>。例外は、前述のロタール・クライシヒ博士や[[ヴュルテンベルク州]]最高宗務会議委員のラインホルト・ザウターらである<ref name="klee274"/><ref name="shiba-holocaust78">芝『ホロコースト』p.78.</ref>。

クライシヒは法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、1940年7月8日、帝国法務大臣[[フランツ・ギュルトナー]]に宛てて長文の手紙を書き、「安楽死」は不法殺人だと抗議した<ref name="sano1998_21">[[#sano1998|佐野 1998, p. 21.]]</ref><ref name="klee274"/><ref name="shiba-holocaust78"/>。ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった<ref name="sano1998_21"/>。ギュルトナーは首相官房長[[ハンス・ハインリヒ・ラマース]]と会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った<ref name="sano1998_21"/>。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった<ref name="sano1998_22">[[#sano1998|佐野 1998, p. 22.]]</ref>。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す[[民族法廷]]の裁判長[[ローラント・フライスラー]]の支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した<ref name="sano1998_22"/>。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された<ref name="sano1998_22"/>。

ザウターや匿名の人物も同日に、上級職や法務大臣あてに抗議文を送っている<ref>クレー『第三帝国と安楽死』p.275.</ref>。しかし、これは少数事例にすぎない。強い抗議の声があがったのは、むしろ一般の住民や殺害された患者の遺族からで、1940年になってからのことである<ref name="shiba-holocaust78"/>。

一方、[[1940年]]夏頃にはキリスト教会 (プロテスタント・カトリックともに) は「安楽死」が行われていることを知っており、同年秋以降になると詳細な情報が入ってくるようになった<ref name="umehara137">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.137.</ref>。しかし、個別の牧師や司祭がミサや説教で話すことはあっても、組織としての教会が抗議の声をあげることはなかった<ref name="umehara137"/>。1940年に[[ローマ教皇庁]]は、国家の負担になるからという理由で障害者を国家機関が殺害することを否定する声明を出しているが<ref>[[#miyano|宮野 1968, pp. 129-130.]]</ref>、T4作戦中止に影響を与えなかった。カトリック教会の複数の司祭が公の席で批判するようになったのは1941年6月になってからのことだが、依然として抽象的な議論に終始しており、同様に「安楽死」中止への影響力はなかった<ref name="umehara137"/>。

やがて、T4作戦によって障害者の大量虐殺が行われていることは国外にも洩れ、アメリカの[[CBS]]が報道を始めたり、1941年の夏には[[BBC]]がドイツ国防軍向けに放送していたラジオ内でも言及されるに至った<ref name="shiba-holocaust78"/><ref>クレー『第三帝国と安楽死』pp.447-448.</ref>。

このように政権側にとって状況が悪化していく中、1941年8月3日ミュンスター市のランベルティ教会で[[クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン]]司教が行った説教は政権への具体的な批判だったため、大きな反響を呼び結果的にT4作戦の中止に発展した<ref name="umehara137"/><ref>[[#sano1999|佐野 1999, p. 20.]]</ref>。

ガーレン自身の価値観は、当時の国家社会主義のそれから大きく離れていたわけではない<ref name="klee448-449">クレー『第三帝国と安楽死』pp.448-449.</ref>。1930年代、教会サークルの一部からはナチスのシンパと見なされていたほどガーレンは保守的だった上に、1941年6月に[[バルバロッサ作戦]]が始まると独ソ戦を歓迎する祈りをささげるほどの政権寄りの人物だったが、同年7月にミュンスターがイギリス軍の爆撃に曝されたことで態度を豹変させ、説教の中で、[[ゲシュタポ]]が聖職者を抑圧していると露骨に非難し始めるようになった<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>。

ガーレンは7月13日から8月3日にかけて政府を批判する説教を3回行い<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>、特に8月3日の「生きるに値しない生命の抹殺」を批判した説教<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>はT4作戦関連の文献では有名である。

[[ファイル:CAvGalenBAMS200612.jpg|thumb|200px|フォン・ガーレン司教]]
ガーレンは説教の中で以下のように述べた<ref>クレー『第三帝国と安楽死』p.449.</ref>{{Refnest|group="#"|8月3日の説教の全文 (日本語訳) は、{{sfn|泉彪之助|2003|p=}}の付録、あるいは、{{cite book|和書|translator=長瀬修|author=ヒュー G.ギャラファー|title=ナチスドイツと障害者「安楽死」計画|publisher=[[現代書館]]|date=1996-08-25|isbn=4-7684-6687-7}}の付録Cを参照せよ。}}。
{{Quote|(前略) 哀れな、守る術なき患者が遅かれ早かれ殺されるという事を予期することである。何故なら、彼らは「生きる価値がなくなった」と担当の役所や委員会が判定しているからである。そして彼らは、この判定によれば「非生産的国民」だからなのである。……君も私も、私たちが生産的である間だけ、生産的であると他者から認められる間だけ生きる権利があるというのであろうか? もし「非生産的な」人間は殺してもよいという原則がたてられ使われるとすれば、年とった者、老衰した者すべては何と痛ましいことになることか! もし非生産的人間を殺してもいいなら、生産過程において力を尽くして働いた結果、犠牲になった病弱者は何と痛ましいことか。もし非生産的同胞を暴力で排除してよいものなら、戦争負傷者、身体不自由者、傷病兵として故郷へ帰ろうとする私たちの勇敢な兵士たちは何と痛ましいことか。もしひとたび、人間が「非生産的な」同胞を殺す権利を持ったら――たとえまず哀れな守る術なき精神病者に関してだけであろうと――、そうすれば原則的にはあらゆる非生産的な人間への殺人、すなわち不治の患者、労働と戦争の負傷者の殺人、そしてもし私たちが年をとり老衰し、非生産的になる時には私たちすべての者の殺人が自由に許されることになるのだ。|フォン・ガーレン|クレー『第三帝国と安楽死』p.449. (引用文献の原文では「原則的には」の箇所に傍点が付いている。)}}

{{Quote|この犯罪が実際に容認され、罰せられないままであるなら、私たちの創造主である神が稲妻と雷の轟く[[シナイ山]]で「汝、殺すべからず」と宣言し、人類の良心に最初に刻みこんだ神の聖なる戒めを破壊するだけでなく、そのことは人類にとっての災い、ドイツ国民にとっての災いそのものです。|フォン・ガーレン|{{Cite book|和書|author=スザンヌ・E・エヴァンス|translator=平沼博正・一井崇・野村実・岡花祈一郎・小西豊|title=障害者の安楽死計画とホロコースト|publisher=クリエイツかもがわ|isbn=978-4-86342-229-2|date=2017-12-31|page=68}}}}

ガーレンは刑法190条による告発も行った<ref>[[#sano1998|佐野 1998, p. 6.]]</ref>。注意すべき点は、ガーレンの「安楽死」政策への批判の直接的原因が、政府による障害者の殺害に対する怒りにあったわけではないことである<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>。ガーレンの政府批判は直接的には、聖職者に対するゲシュタポの介入、特にミュンスターで起こった修道院の閉鎖がゲシュタポによるものだったことにある<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>。「安楽死」政策への批判は、ゲシュタポを擁護する政府への批判材料の1つとして行われたのであり、ガーレンにとって最優先課題だったわけではない<ref name="Kershow-Hitler2-6-3"/>。

とは言え、教会の指導者がはっきりとナチスに反旗を翻した事実は大きかった<ref name="klee448-449"/>。この説教がきっかけで複数の司教が「安楽死」に対して個別に抗議の声をあげ始めたが、当初ヒトラー政権は説教を途中で切り上げさせたうえで逮捕したり、[[ゲシュタポ]]を使って逮捕するなどして取り締まろうとした<ref name="evans69">エヴァンス『安楽死計画』p.69.</ref>。

ガーレンの説教は、[[謄写版]]で何千部と印刷され人から人へと渡っていった<ref name="klee449">クレー『第三帝国と安楽死』p.449.</ref>。連合国側にもその内容が知られ、イギリスが飛行機でドイツ人向けにビラを撒くまでになった<ref name="klee449"/>。{{仮リンク|ヴァルター・ティースラー|de|Walter Tießler}} (国家社会主義の宣伝および国民啓蒙のための帝国同盟指導者) はマルティン・ボルマンに対し、 ガーレンを絞首刑にするよう提案したが、ヒトラーは同意しないだろうとの理由で却下された<ref name="klee450">クレー『第三帝国と安楽死』p.450.</ref>。ティースラーは[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]にも同様の提案をしたが、教区内の住民の反発を恐れたためやはり却下された<ref name="klee450"/>。1941年夏の終わりまでには、多くのドイツ国民が「安楽死」計画に不安を覚えるようになっており、[[ハインリヒ・ヒムラー|ヒムラー]]でさえヒトラーに対してT4作戦の中止を勧めている<ref name="evans69"/>。

ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、[[教皇]][[ピウス12世 (ローマ教皇)|ピウス12世]]がその決定を広く公布するよう命じた<ref name="miyano130">[[#miyano|宮野 1968, p. 130.]]</ref>。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。


==「T4」中止後の安楽死政策 ==
==「T4」中止後の安楽死政策 ==
[[File:Hadamer killing center in 1941.png|thumb|180px|ハダマー殺害精神病院 (1941年)]]
T4作戦への批判が高まったことから、1941年8月24日<ref name="kibata276">[[#kibata|木畑 1989, p. 276.]]</ref>にヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した<ref name="miyano130"/>。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの<ref name="kibata276"/>、実際にはハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみに過ぎなかった。それ以外の精神病患者の収容施設では[[医師]]・[[看護師]]による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「'''野生化した安楽死'''」と呼ばれた<ref name="#1">[[#kibata|木畑 1989, pp. 257-258.]]</ref>。また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる[[絶滅収容所]]に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術が[[ホロコースト]]に利用された<ref name="#1"/>。
T4作戦への批判が高まったことから1941年8月24日、ヒトラーは安楽死の中止を口頭で命令した<ref name="umehara138">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.138.</ref><ref group="#">[[#miyano|宮野 1968, p. 130]]ではボウラーに対して中止命令を出したことになっているが、エヴァンス『障害者の安楽死計画とホロコースト』pp.69-70ではブラントに中止命令を出したと書かれている。</ref>。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの<ref name="kibata276">[[#kibata|木畑 1989, p. 276.]]</ref>、対象は6か所あった殺害精神病院での殺害の停止とガス殺の禁止だけだった<ref>エヴァンス『安楽死計画』p.70.</ref>。更に、実際に障害者の殺害が中止されたのはハダマー殺害精神病院1か所だけで、ドイツ人の障害者はガス殺されなかったものの、残りの殺害精神病院ではユダヤ人の障害者を対象にしてその後も殺害し続けた<ref>小俣『大罪』p.119.</ref>。ピルナ=ゾンネンシュタインおよびベルンベルク殺害精神病院のガス室が稼働停止するのは1943年春のことで、14f13作戦が中止になったのと同時期である<ref name="omata120">小俣『大罪』p.120.</ref>。ハルトハイム殺害精神病院の停止は更に遅く、1944年末まで[[マウトハウゼン強制収容所]]の附属ガス室として稼働、それまで障害者を殺害し続けた<ref name="omata120"/>。

[[File:Viktor Brack Nürnberg 2.jpg|thumb|180px|left|ヴィクトール・ブラック]]
それ以外の精神病患者の収容施設では[[医師]]・[[看護師]]による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「'''野生化した安楽死'''」と呼ばれた<ref name="#1">[[#kibata|木畑 1989, pp. 257-258.]]</ref>。「野生化した安楽死」あるいは「野蛮な安楽死」という用語は、1946年のニュルンベルク医師裁判で裁かれた{{仮リンク|ヴィクトール・ブラック|de|Viktor Brack}}が最初に用いたと言われている<ref name="umehara141">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.141.</ref>。ブラックはT4作戦で重要な役割を担っていたので、T4作戦後の「安楽死」を「野蛮」と呼ぶことで、T4作戦の重大性を軽く見せようとして用いたのだと言われている<ref name="umehara141"/>。かつては「野蛮な安楽死」が普通に使われていたが、研究が進んだ1990年代になってからは、より実態に即した「地域の安楽死」「地域化した安楽死」「分散した安楽死」という言い方が使われるようになっている<ref name="umehara141"/>。

また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる[[絶滅収容所]]に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術が[[ホロコースト]]に利用された<ref name="#1"/>。


1941年10月23日、内務大臣[[ヴィルヘルム・フリック]]は医療・養護施設の受託者として保険局参事官の{{仮リンク|ヘルベルト・リンデン|de|Herbert Linden}}を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害する{{仮リンク|ブラント作戦|de|Aktion Brandt}}が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 260.]]</ref><ref>[[#kibata|木畑 1989, pp. 258-259.]]</ref>。
1941年10月23日、内務大臣[[ヴィルヘルム・フリック]]は医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデンを任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害する{{仮リンク|ブラント作戦|de|Aktion Brandt}}が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 260.]]</ref><ref>[[#kibata|木畑 1989, pp. 258-259.]]</ref>。


また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー([[シンティ・ロマ人]])、[[精神病質]]者などがその対象となった<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 266.]]</ref>。1942年9月18日には[[オットー・ゲオルク・ティーラック]]法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けた[[ドイツ人]]や[[チェコ人]]、[[予防拘禁]]者、3年以上の刑を受けた[[劣等人種]]とされた人々([[ジプシー]]、[[ロシア人]]、[[ウクライナ人]]、[[ポーランド人]])は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には[[登校拒否]]児童、[[てんかん]]患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている<ref name="kibata270">[[#kibata|木畑 1989, p. 270.]]</ref>。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた<ref name="kibata270"/>。
また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー([[シンティ・ロマ人]])、[[精神病質]]者などがその対象となった<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 266.]]</ref>。1942年9月18日には[[オットー・ゲオルク・ティーラック]]法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けた[[ドイツ人]]や[[チェコ人]]、[[予防拘禁]]者、3年以上の刑を受けた[[劣等人種]]とされた人々([[ジプシー]]、[[ロシア人]]、[[ウクライナ人]]、[[ポーランド人]])は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には[[登校拒否]]児童、[[てんかん]]患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている<ref name="kibata270">[[#kibata|木畑 1989, p. 270.]]</ref>。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた<ref name="kibata270"/>。
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== 14f13作戦 ==
== 14f13作戦 ==
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{{main|{{仮リンク|14f13作戦|de|Aktion 14f13}}}}
[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]においては、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]がボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物<ref group="#">{{lang-de-short|Ballastexistenz}}</ref>」を排除する「{{仮リンク|14f13作戦|de|Aktion 14f13}}」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった<ref name="kibata262">[[#kibata|木畑 1989, p. 262.]]</ref>。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の[[近視]]を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心であった<ref name="kibata262"/>。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、[[エホバの証人]]の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 265.]]</ref>。
[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]においては、[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]がボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物<ref group="#">{{lang-de-short|Ballastexistenz}}</ref>」を排除する「{{仮リンク|14f13作戦|de|Aktion 14f13}}」が行われた{{Refnest|group="#"|「特別処置14f13」とも呼ばれた<ref>梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.140.</ref>。14f13とは、強制収容所の監督官のために使われた略称だったが、後に「病気の囚人」の死を意味するコードネームになった<ref name="evans77">エヴァンス『安楽死計画』p.77.</ref>。}}。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものった<ref name="kibata262">[[#kibata|木畑 1989, p. 262.]]</ref>。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の[[近視]]を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心った<ref name="kibata262"/>。14f13作戦は[[ザクセンハウゼン強制収容所]]から始まり、[[ブーヘンヴァルト強制収容所|ブッヘンヴァルト]]、[[アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所|アウシュヴィッツ]]、[[マウトハウゼン強制収容所|マウトハウゼン]]へと移された<ref name="evans77"/>。また、医師たちが、[[ダッハウ強制収容所|ダッハウ]]、[[ラーフェンスブリュック強制収容所|ラーフェンスブリュック]]、[[フロッセンビュルク強制収容所|フロッセンヴァク]]、[[ノイエンガンメ強制収容所|ノイエンガメ]]の各強制収容所を回って、1万2千人以上の「病的」または「反社会的」囚人を殺害した<ref name="evans77"/>。14f13作戦では当初は精神障害者だけでなく身体障害者も殺されていたが、1942年3月になると労働生産性を理由にした見直しが行われ、軍事産業を助け、燃料を節約する必要から身体障害者を除き、精神障害者だけを殺害するように変わった<ref name="evans77"/>。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、[[エホバの証人]]の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 265.]]</ref>。


== 犠牲者数 ==
== 犠牲者数 ==
部分的にしか資料が残されていないため、T4作戦やその他の「安楽死」計画による殺害者数の正確な数字はわからない。そのため推計に頼らざるを得ず、推計値にも幅がある。
これらの政策により、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1,000人、乳幼児が5,000人から8,000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となった。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 254.]]</ref>。占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 274.]]</ref>。

木畑の論文では、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1,000人、乳幼児が5,000人から8,000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となったと推定している。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも推測している<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 254.]]</ref>。占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた<ref>[[#kibata|木畑 1989, p. 274.]]</ref>。

一方、歴史家の{{仮リンク|ハインツ・ファウルシュティヒ|de|Heinz Faulstich}}は調査により、ナチスがドイツを支配していた1939年から1945年までの間に殺害された患者や障害者の総数を約30万人と推計している<ref name="Euthanasie">梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.113-114.</ref>。「安楽死」作戦の中でも最も知られているT4作戦による殺害者数は、そのうちの4分の1にも満たない。

T4作戦による殺害者数は約7万人と非常に多いが、精神病院における餓死・薬物による殺害者数はそれを上回り約8万7千人に及んでいる (表1参照)<ref name="Euthanasie"/>。また、ドイツ本国以外の占領地区における殺害者数もT4作戦の数を上回っている<ref name="Euthanasie"/>。精神障害者を対象とした殺害もT4作戦が最初ではなく、[[ポメラニア|ポメルン]]、[[西プロイセン]]、[[東プロイセン]]の精神病院において[[ナチス親衛隊]]が実行したものの方が先行していることもわかっている<ref name="Euthanasie"/>。

<table border="1" style="border-collapse: collapse;margin: auto;">
<caption style="caption-side: bottom;">'''表1''' - 1939年から1945年の間にナチス支配地域で「安楽死」させられた人の数 (ファウルシュティヒによる推計値)</caption>
<tr>
<th colspan="2"></th>
</tr>
<tr>
<th colspan="2">ドイツ国内</th>
</tr>
<tr>
<th colspan="2"></th>
</tr>
<tr>
<th>子供安楽死 (1939年-1945年) </th><th>5千人</th>
</tr>
<tr>
<th>ポメルンでのナチス親衛隊による患者射殺 (1939年11月)</th><th>1千3百人</th>
</tr>
<tr>
<th>T4作戦</th><th>7万人</th>
</tr>
<tr>
<th>ユダヤ人患者に対する安楽死</th><th>1千人</th>
</tr>
<tr>
<th>東プロイセンにおけるランゲ司令官による安楽死</th><th>1千5百人</th>
</tr>
<tr>
<th>14f13作戦</th><th>2万人</th>
</tr>
<tr>
<th>労働による虐殺</th><th>1千人</th>
</tr>
<tr>
<th>「東部」に移送されたドイツ人患者</th><th>3千人</th>
</tr>
<tr>
<th>オーストリアにおける安楽死</th><th>6千人</th>
</tr>
<tr>
<th>宗派、民間および精神病院における安楽死</th><th>2万人</th>
</tr>
<tr>
<th>精神病院における栄養失調・供給不足、薬物による殺害</th><th>8万7千4百人</th>
</tr>
<tr>
<th>小計</th><th>21万6千2百人</th>
</tr>
<tr>
<th colspan="2"></th>
</tr>
<tr>
<th colspan="2">ドイツ占領下の国外地域</th>
</tr>
<tr>
<th colspan="2"></th>
</tr>
<tr>
<th>フランス</th><th>4万人</th>
</tr>
<tr>
<th>ポーランド</th><th>2万人</th>
<tr>
<th>ソ連</th><th>2万人</th>
</tr>
<tr>
<th>小計</th><th>8万人</th>
</tr>
<tr>
<th colspan="2"></th>
</tr>
<tr>
<th>総計</th><th>29万6千2百人</th>
</tr>
</table>


== 戦後 ==
== 戦後 ==
終戦後、関係者は[[ニュルンベルク継続裁判]]の[[医者裁判]]などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの[[1959年]]に自首し、自らの裁判が始まる[[1963年]]に自殺した。
終戦後、関係者は[[ニュルンベルク継続裁判]]の[[医者裁判]]などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの[[1959年]]に自首し、自らの裁判が始まる[[1963年]]に自殺した。

医者裁判において、検察側の追及で圧倒的に大きな比重を占めたのは強制収容所における[[人体実験]]に関してである<ref name="kino241">{{Cite book|和書|author=紀愛子|chapter=第4章「強制断種・「安楽死」の過去と戦後ドイツ」|title=「価値を否定された人々」ナチス・ドイツの強制断種と「安楽死」|publisher=新評論||date=|isbn=|page=241}}</ref>。T4作戦に代表される「安楽死」も起訴状の訴追要因にあげられてはいたが、その比重はごくわずかだった<ref name="kino241"/>。訴追前に検察側は、遺伝性子孫疾患予防法に基づく強制断種についても調査を行ったが最終的には訴因から外された<ref name="kino243">紀「戦後ドイツ」p.243.</ref>。

ニュルンベルク継続裁判で裁かれたのは、命令系統の上層部にいた一部の医師だったが、それよりも川下にいて患者の殺害に関わった医師や看護師は、連合国ではなくドイツの裁判所でドイツ人によって裁かれた<ref>紀「戦後ドイツ」pp.243-244.</ref>。

初期の裁判では被告人に厳しい判決が出されたが<ref>紀「戦後ドイツ」pp.244-246.</ref>、すぐに寛大な判決に変わり多くは無罪宣告されている<ref>紀「戦後ドイツ」p.247.</ref>。この背景には、当時の[[アデナウアー]]政権が元ナチ党員を積極的に免罪する政策をとったことがあった<ref name="kino248">紀「戦後ドイツ」p.248.</ref>。また、時間の経過と共に[[時効]]の壁が立ちはだかるようになった他に、訴追されても、被告人が自殺した、病気や高齢で裁判に耐えられない、といった要因で裁判が中止される例が増えていった<ref name="kino248"/>。

T4作戦に関係した医師、看護師は非常に多く、また実際に訴追された者も少なくなかったが、多くは罪を免れた<ref name="evans158">エヴァンス『安楽死』p.158.</ref>。訴追前に自殺した医師も少なくなかったが、逃亡した者も多かった<ref name="evans158"/>。ドイツの人種差別的な優生政策で重要な主導者だった{{仮リンク|エルンスト・リュディン|de|Ernst Rüdin}}は裁判にかけられず罪を償うことのなかった大物医師の代表である<ref name="evans164-165">エヴァンス『安楽死』pp.164-165.</ref>。同僚の犯罪を証言する証人を探すのは困難だったため訴追しても有罪に持ち込めないことが多かったことも、被告人には有利に働いた<ref>エヴァンス『安楽死』p.160.</ref>。


2010年、ドイツの精神医学会は、障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪した。
2010年、ドイツの精神医学会は、障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪した。
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* {{Cite journal|和書|author= [[佐野誠]] |title=ナチス「安楽死計画」への一法律家の抵抗:ロタール・クライシヒの場合|date=1999|publisher=浜松医科大学 |journal=浜松医科大学紀要. 一般教育|volume=13|naid=110000494925|pages=13-42 |ref=sano1999}}
* {{Cite journal|和書|author= [[佐野誠]] |title=ナチス「安楽死計画」への一法律家の抵抗:ロタール・クライシヒの場合|date=1999|publisher=浜松医科大学 |journal=浜松医科大学紀要. 一般教育|volume=13|naid=110000494925|pages=13-42 |ref=sano1999}}
*{{Cite book|和書|author=木畑和子|authorlink=木畑和子|others = [[井上茂子]]、木畑和子、[[芝健介]]、[[矢野久]]、[[永岑三千輝]]著|date= 1989|title= 1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦|publisher =同文舘出版|chapter=第2次世界大戦下のドイツにおける「安楽死」問題|isbn= 978-4495853914|ref=kibata}}
*{{Cite book|和書|author=木畑和子|authorlink=木畑和子|others = [[井上茂子]]、木畑和子、[[芝健介]]、[[矢野久]]、[[永岑三千輝]]著|date= 1989|title= 1939―ドイツ第三帝国と第二次世界大戦|publisher =同文舘出版|chapter=第2次世界大戦下のドイツにおける「安楽死」問題|isbn= 978-4495853914|ref=kibata}}
* {{Cite journal|和書|author= [[泉彪之助]] |title=精神疾患患者・遺伝性疾患患者に対するナチスの「安楽死」作戦とミュンスター司教フォン・ガーレン|date=2003-06-20||publisher=日本医史学会 |journal=日本医史学雑誌|volume=49(2)|naid=10011152509|pages=277-319|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author= [[泉彪之助]] |title=精神疾患患者・遺伝性疾患患者に対するナチスの「安楽死」作戦とミュンスター司教フォン・ガーレン|date=2003-06-20||publisher=日本医史学会 |journal=日本医史学雑誌|volume=49(2)|url=http://jsmh.umin.jp/journal/49-2/277-319.pdf|format=pdf|naid=10011152509|pages=277-319|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=小俣和一郎 |year=1995 |title=ナチスもう一つの大罪 - 「安楽死」とドイツ精神医学 |publisher=人文書院 |isbn=4-409-51037-1}}
*{{Cite book|和書|author=ヒュー・グレゴリー・ギャラファー |others=長瀬修訳 |year=1996 |title=ナチスドイツと障害者「安楽死」計画 |publisher=現代書館 |isbn=4-7684-6687-7}}
== 関連文献 ==
== 関連文献 ==
*{{Cite book|和書|author=フランツ・ルツィウス |others=[[山下公子]]訳 |year=1991 |title=灰色のバスがやってきた - ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置 |publisher=草思社 |isbn=4-7942-0445-0}}
*{{Cite book|和書|author=フランツ・ルツィウス |others=[[山下公子]]訳 |year=1991 |title=灰色のバスがやってきた - ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置 |publisher=草思社 |isbn=4-7942-0445-0}}
*{{Cite book|和書|author=小俣和一郎 |year=1995 |title=ナチスもう一つの大罪 - 「安楽死」とドイツ精神医学 |publisher=人文書院 |isbn=4-409-51037-1}}
*{{Cite book|和書|author=ヒュー・グレゴリー・ギャラファー |others=長瀬修訳 |year=1996 |title=ナチスドイツと障害者「安楽死」計画 |publisher=現代書館 |isbn=4-7684-6687-7}}
*{{Cite book|和書|author=小俣和一郎 |year=1997 |title=精神医学とナチズム - 裁かれるユング、ハイデガー |publisher=講談社 |isbn=4-06-149363-9}}
*{{Cite book|和書|author=小俣和一郎 |year=1997 |title=精神医学とナチズム - 裁かれるユング、ハイデガー |publisher=講談社 |isbn=4-06-149363-9}}
*{{Cite book|和書|author=カール=ビンディング/アルフレート=ホッヘ |coauthors=森下直貴/佐野誠訳著 |year=2001 |title=「生きるに値しない命」とは誰のことか - ナチス安楽死思想の原典を読む |publisher=窓社 |isbn=978-4896250367}}
*{{Cite book|和書|author=カール=ビンディング/アルフレート=ホッヘ |coauthors=森下直貴/佐野誠訳著 |year=2001 |title=「生きるに値しない命」とは誰のことか - ナチス安楽死思想の原典を読む |publisher=窓社 |isbn=978-4896250367}} (のち、『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』〈中央公論新社〉2020年、{{ISBN2|978-4-12-110111-2}})
*{{Cite book|和書|author=ジョルジュ・ベンスサン |others=吉田恒雄訳 |year=2013 |title=ショアーの歴史 - ユダヤ民族排斥の計画と実行 |publisher=[[白水社]] |series=[[クセジュ|文庫クセジュ]] |isbn=978-4-560-50982-1}}
*{{Cite book|和書|author=ジョルジュ・ベンスサン |others=吉田恒雄訳 |year=2013 |title=ショアーの歴史 - ユダヤ民族排斥の計画と実行 |publisher=[[白水社]] |series=[[クセジュ|文庫クセジュ]] |isbn=978-4-560-50982-1}}


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*{{仮リンク|ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死|en|Child euthanasia in Nazi Germany}}
*{{仮リンク|ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死|en|Child euthanasia in Nazi Germany}}
* [[非倫理的な人体実験]]
* [[非倫理的な人体実験]]
*[[精神医学]]
*[[精神科医]]
*[[生きるに値しない命]]
*[[生きるに値しない命]]
*[[障害者]] - [[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律|障害者差別禁止法]] - [[障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律|障害者虐待防止法]]
*[[障害者]] - [[障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律|障害者差別禁止法]] - [[障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律|障害者虐待防止法]]
*[[AB行動]]
*[[タンネンベルク作戦]]
*[[安楽死]]
*[[安楽死]]
*[[医者裁判]]
*[[医者裁判]]
*[[ホロコースト]]
*[[ホロコースト]]
*[[相模原障害者施設殺傷事件]]
*[[相模原障害者施設殺傷事件]]
*[[オーランド銃乱射事件]]
*[[カブラの冬]] - 第一次世界大戦においてドイツで発生した食糧不足。T4作戦に匹敵する数の社会的弱者が、戦争中に「餓死」している。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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[[Category:ナチス・ドイツの大量虐殺]]
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2023年5月27日 (土) 01:29時点における版

ティーアガルテン通り4番地に建つ、T4作戦の歴史案内板。ベルリン・フィルハーモニーの所在地でもある。

T4作戦(テーフィアさくせん、: Aktion T4)は、ナチス・ドイツで精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な安楽死」(虐殺)政策である。

1939年の夏ころから開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を略して[1]第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]

一次資料にはE-Aktionエー・アクツィオーン〔E作戦〕、もしくはEu-Aktionオイ・アクツィオン の名称が残されている。この作戦の期間中の犠牲者は、公式な資料に残されているだけでも7万273人に達し[3]、その後も継続された安楽死政策により、後述の「野生化した安楽死」や14f13作戦によるものも含めると15万人から20万人以上が犠牲になったと見積もられている[4]

概要

19世紀末にドイツに社会的ダーウィニズムが流入して以降、経済効率性を最重要視して障害者を殺害することを正当化する思想は優生学と結合しながら着実に地歩を固めていった。ヴァイマール共和国で社会保障費が増大したこと、特に大恐慌によってドイツ経済が破綻したこととヒトラー政権1933年に成立したことは、障害者の殺害が正当化される決定的要因になった。

1939年初頭頃にライプツィヒで起こったある事件をきっかけにして始まった、子どもの障害者を殺害する計画 (「子ども安楽死」) とほぼ同時に、T4作戦も計画が始動した。子ども安楽死その他の計画と同様、T4作戦は極秘裏に進められた障害者殺害計画だったので、文書として残されている資料に乏しく、現在でも不明瞭な点は少なくないが、1939年夏ころに本格的に始まったと考えられている。

1940年になってから、指定された精神病院内に大型の焼却炉や患者殺害用のガス室の設置を整え、組織的な障害者殺害が開始された。極秘裏に殺害を実行するため様々な手段がとられたが、秘密を守ることはできず、殺害用の精神病院周辺の住民や、殺害された障害者の遺族に殺害の事実が知られるようになった。殺害の事実は連合国側にも漏れ、連合国がまいたビラやドイツ向けのプロパガンダのためのラジオ放送を通じて一般のドイツ国民にも知られるようになった。ドイツ国民は、いずれ自分たちも殺害対象にされるのではないかと疑心暗鬼に陥った。

一般国民に不安が広がる中で、1941年8月にガーレン枢機卿はヒトラー政権を公然と非難する説教を公開で行い、これがきっかけとなって、ドイツ国民の間で抗議の声が強まった。当時のドイツはソ連侵攻の真っ最中であり、国内の不安醸成を嫌ったヒトラーは1941年8月にT4作戦を中止した。

作戦は中止されたが、この段階で既に7万人以上の障害者が殺害されていた。また、政府が直接統率しなくなったというだけの話で、障害者の殺害はその後も続いた。T4作戦中止後、障害者の殺害は各地方で個別に判断され、ガス殺に代わって餓死や薬物による殺害が中心になった。T4作戦中止後、かえってT4作戦よりも多くの障害者が殺されるようになった。

T4作戦で使われた障害者殺害の手法は、そのままユダヤ人の絶滅計画にも応用されたので、事実上ホロコーストのモデルケースとなった。

推計値には幅があるが、ドイツ国内および占領地域での障害者殺害数は約20万から30万人と推定されている。大量の殺人が行われていたにもかかわらず、ドイツ国内でさえこの事実は長年に渡って等閑視されていた。研究は進んでいるが、ホロコースト研究に比べて本格的に始まった時期は大幅に遅い。

背景

T4作戦に代表されるナチス・ドイツ時代の障害者殺害計画は、ナチスの異常性が顕現化した特殊な事例だと見なされることは現代でも一般的である。しかし、多くの研究で明らかにされているように、このような理解は誤りであって、ドイツではナチスが政権を握るはるか以前から、障害者を殺害することを正当化する思想や論者がはびこっていた。それは既に19世紀末から始まっている。

19世紀ドイツ・社会ダーウィニズムの流入

ドイツでは19世紀に入ってから、安楽死に関する議論や、瀕死の重病人や重症者にはモルヒネなどを使って死期を早めるのがよいと主張する医者が現れるようになっていた[5]。しかし、他のヨーロッパ諸国の場合と同様、キリスト教の倫理観から否定的な見解が多く、大きな声にはならなかった[6]

潮目が変わりだすのは19世紀末から20世紀初頭のことで、ドイツにダーウィニズム、とりわけ社会的ダーウィニズムが流入してからのことだった。当初は重病人の尊厳や同情から始まった安楽死の議論は社会的ダーウィニズムに汚染され、民族や社会といった全体に貢献するか否かという基準で判断されるようになり、全体に対して害悪であると見なされた者は抑圧して構わない、場合によっては殺害してもよい、という考えが次第に広まるようになった[7]。そのような思想の好例としてニーチェが挙げられる。障害者抹殺を論ずる際にニーチェは真っ先に好んで引用される[8]。少なくともドイツにおいては、障害者殺害を正当化する論者に対するニーチェの影響は甚大である。

ニーチェは、病人や弱者は社会を弱体化させる有害な存在であるから、積極的に殺害すべきだと主張した。それゆえニーチェは、人の平等を唱え、弱者に同情を寄せるキリスト教を、ヨーロッパを弱体化させる元凶として攻撃、全否定した。それが最も明白な言葉で書かれているのが、最晩年に書かれた『アンチクリストドイツ語版』である。

弱者と出来損いは亡びるべし、――これはわれわれの人間愛の第一命題。彼らの滅亡に手を貸すことは、さらにわれわれの義務である。
ニーチェ、『アンチクリスト』二 (西尾幹二訳)[9]
キリスト教はすべての弱者、賤者、出来損いの味方にママし、強い生命が持っている自己保存能力に抗議﹅﹅することを己れの理想として来たのだった。
ニーチェ、『アンチクリスト』五 (西尾訳、傍点は引用文献のまま。)
同情はごく大まかに言って発展の法則を、つまり淘汰﹅﹅の法則を妨げる。同情は没落しかかっているものを保存する。生の廃嫡者、生の犯罪人のために防戦する。同情はありとあらゆる種類の出来損い的人間を生の中に引き留め﹅﹅﹅﹅、そうした人間を夥しく地上に溢れさすことによって、生そのものに陰惨でいかがわしい表情を与える。
ニーチェ、『アンチクリスト』七 (西尾訳、傍点は引用文献のまま。)

消極的優生思想は最晩年に達した境地ではなく、ニーチェはずっと以前から優生思想の支持者だった。寓話の体裁をとったあいまいな解釈を許す表現ではあるが、ニーチェは既に『悦ばしき知識ドイツ語版』の中で「聖なる無慈悲」という考えを披露している[# 2]

聖なる残酷﹅﹅﹅﹅﹅――ある聖者のもとに、生まれたての子供を抱いた男がやってきた。「この子供をどうしたらいいでしょう?」とかれは言った。「これは見るもあわれで、できそこないで、死ぬだけの生命も持っていないくらいです。」――「殺すのだ」と聖者は恐ろしい声で叫んだ。「殺して、そして、お前の記憶にのこるように三日三晩のあいだ自分の腕に抱いているがいい、――そうすればお前は二度と子供を拵えないだろう、――拵える時が来るまで。」――男はこれを聞いて失望して立ち去った。多くのものは残酷なことをすすめたといって、聖者を非難した。聖者は子供を殺すことをすすめたのだから。「だが子供を生かしておくのは、もっと残酷ではないか?」と聖者は言った。
ニーチェ、『華やぐ智慧』第2書73 (氷上英廣訳[10]、傍点は引用文献のまま。)

「聖なる無慈悲」は、「子ども安楽死」(後述) の実行者の1人であるヴェルナー・カーテル (ライプツィヒ大学医学部小児科教授) が短く引用して、「安楽死」の正当化の根拠として利用された[11]。「聖なる無慈悲」は障害者「安楽死」を議論するときに例外なく触れられる箇所である[12]

また、『偶像の黄昏ドイツ語版』のなかでニーチェはきわめて直接的な表現によって弱者を貶めた。その中でニーチェは「病人は社会の寄生虫」だと断定している。

医師たちのための道徳﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅――病人は社会の寄生虫です。ある状態に置かれた場合には、生き永らえることが無作法です。生きる意味、生きる権利﹅﹅が失われてしまった後で、医師や病院の処置に女々しく頼って植物人間として生きつづけるのは、社会の側において深い軽蔑を招くことになりかねません。(中略) ――処方箋を示すのではなく、毎日、自分の患者に対する新しい嘔吐﹅﹅の一服を盛るべきでありましょう。
ニーチェ、『偶像の黄昏』ある反時代的人間の逍遥 36 (西尾訳[13]、傍点は引用文献のまま。)
我々の道は上へ行く、種属を越えて超種属へ
アルフレート・プレッツ

このフレーズは、アルフレート・プレッツドイツ語版 (人種衛生学の主唱者、ナチ党員、ドイツにおける優生思想の主たる指導者の1人) が著書『我が人種の有能者と弱者の保護』で引用している[14]。プレッツは、貧困は効率的に間引くのに丁度良い、生存競争を妨げるので病人や失業者の保護は必要ないと主張した人物である[15]

極めて皮肉なことに、「病人は社会の寄生虫である」と書いた4か月後、ニーチェは脳梅毒により精神に異常をきたし以後の10年余り狂人として家族の世話になって過ごした。エルンスト・クレーが著書『第三帝国と安楽死』の中で書いているように、ニーチェがナチス・ドイツの時代に生きていれば真っ先に殺害対象になっただろうことは疑いようがない[16]

社会ダーウィニズムの本格的展開・ナチスとの結合

20世紀初頭になるとドイツでは、社会的ダーウィニズムが優生学と結合し、人間の尊厳や価値を、経済的な生命観によって計ろうとする価値感、全体にとって有害な者を排除・殺害することを正当化する思想として次第に広まりだした。本来、優生学は遺伝や遺伝病を対象とした学問であり、優生学の生粋の専門家は遺伝病に限って断種を容認する議論をしたのに対して、優生学を専門としない論者は、遺伝病かどうかの厳密な区別をすることなしに、社会に対して有害だと恣意的に判断した少数者を社会から排除しようとした。特にドイツでは社会ダーウィニズムが民族主義・国家主義と結合した点が著しい特徴である。

ヴィルヘルム・シャルマイヤー

ドイツにおける優生思想はアメリカのそれとは性格が異なり、ドイツ帝国の時代から既に優生思想が経済性や財政効率性と強く結びついており、国家主義的傾向と密接に関係していた[17]。当時経済大国になりかけていたアメリカは、適者生存という観点から優生思想を楽観主義的に理解した。一方、ドイツの優生思想支持者は正反対で、衰退を避け自分が生き残るために邪魔者を犠牲にするという否定的な観点から優生思想を理解していた[17]

例えば1900年、フリードリヒ・アルフレート・クルップが「我々は血統理論の原理から何を学び得ることができるのか、国家の内政発展と立法に関連させて述べよ」というテーマで懸賞論文を募った[18]。このクルップの懸賞論文は優生思想が社会にどれほど強く影響を与えたかを示す例として有名である。

第1位に入選したのは、ヴィルヘルム・シャルマイヤードイツ語版の『民族歴史上の遺伝と選択、新しい生物学に基づく国家学的研究』である[18]。シャルマイヤーはプレッツとは違い人種差別思想とは無縁だったため、ナチスが力を増すにつれ影響力はなくなっていったが、ヴァイマル共和国時代までは人種衛生学の主要な指導者の1人だった。

20世紀初頭に1度広まりかけた社会的ダーウィニズムは、1910年代になってからは、「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念に発展[19]、更に1920年代になって再び社会にはびこるようになった[20]

カール・ビンディング
アルフレート・ホッヘ

1920年代に出版されて社会に大きな影響を与えた優生思想の著作として、カール・ビンディング (法学博士・元ライプチヒ大学学長) とアルフレート・ホッヘドイツ語版 (医学博士・フライブルク大学教授・精神科医) の共著による『生きるに値しない生命の根絶の解禁』(1920年刊) [# 3]とエルヴィン・バウアー、オイゲン・フィッシャー、フリッツ・レンツの共著による『人類遺伝学と民族衛生学の概説』(1923年改訂増補版) が挙げられる。

『人類遺伝学と民族衛生学の概説』は、ミュンヘン一揆の失敗によって有罪判決を受けランツベルク要塞に収監されていた時期にヒトラーが読んで『我が闘争』に利用したと言われている著作である[21]。同書が『我が闘争』に影響を与えたことは、共著者の1人フリッツ・レンツドイツ語版が認めている[21]。レンツは後にナチスに入党することからもわかるように、ナチスの思想に近い学者だった。

また、ビンディングとホッヘによる『生きるに値しない生命の根絶の解禁』は、重度精神障害者などの安楽死を提唱した著作である。

1920年代末には、ドイツの一般大衆は、障害を持つことは恥だとの認識を持つようになっていた[22]。また、障害者は生きるに値しないと見なされた[22]

1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン自由州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出された[23]。この法案は、パーペン首相が画策したプロイセン・クーデターの混乱のために成立こそしなかったが[24]、1933年7月の遺伝子性疾患子孫予防法[# 4]の原型になった点で大きな画期となった[25]

ナチ党の権力掌握後、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に基づいて、遺伝病精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった[3]。例えば、1935年から1937年にかけて、ナチス人種政治局は精神障害者の「安楽死」を準備するため、プロパガンダ用のサイレント映画を5本製作、ドイツ国内の映画館で上映し、大衆に精神障害者に対する恐怖心を植え付けるとともに、障害者を「社会の屑」として描くことを目論んだ[26]

1933年7月14日には遺伝子性疾患子孫予防法 (断種法と通称されている) が制定され、断種が法制化された[27]。1933年の断種法は世界的にも関心を呼び、世界の医学界はこの法律を支持した[28]。同法は1935年6月に改正され、母体保護を目的とした中絶を合法化すると同時に、優生学的な理由による中絶も併せて合法化された[29]

T4作戦以前の障害者殺害

ナチス時代のドイツで実行された障害者殺害計画の中で最も著名なのがT4作戦だが、それ以前にも障害者の殺害が実施されていたことは見逃されがちである。

意図したものだったのかどうかは議論の余地があるが、既に第1次世界大戦中にドイツで精神病患者が大量に餓死していたことはほとんど知られていない。第1次世界大戦中に公立病院で餓死した精神病患者は約7万人で[30]、これはT4作戦で殺害されたと推測されている精神病患者の数にほぼ等しい[31]

ヒトラー政権に入ってからは、遅くとも1936年には精神障害者の餓死による殺害が実施されている。国家主導による殺害ではなかったが、ラントや個別の病院のレベルではT4作戦以前に既に精神病患者の「安楽死」政策は進んでいた[32]。1936年にはザクセン州のピルナ=ゾンネンシュタイン精神病院で、「生産性のない」精神病患者に貧栄養食を与える施策が進められていた[32]。これは、精神科医で同病院長だったヘルマン・パウル・ニチェドイツ語版[# 5]が初めて導入したものである[32]。公立病院の支出を抑制するというのが導入の理由だったが、精神病院では飢餓が日常化し死亡率も上昇した[32]。同精神病院では、T4作戦の中で殺害専門の精神病院として多くの障害者が殺された。

その他、ザクセン州では定員を越える精神病患者を収容しなければならない事態に直面しており、そのため患者のケアはおざなりになりがちだった上、ナチ党員で親衛隊員でもあった精神科医アルフレート・フェルンホルツドイツ語版が1938年にザクセン内務省民族保護課長になってからは更に状況は悪化した[32]。フェルンホルツは州内の公立の精神病院に対して、同様に、働くことのできない患者には栄養のない食事を与えるように指示を出したためである[32]

フィリップ・ボウラー
カール・ブラント

その後の障害者「安楽死」計画で重要なものとして「子ども安楽死」の名前で知られる殺害計画が挙げられる。「子ども安楽死」は障害者の組織的で大規模な殺害計画としては最初のものである。

「子ども安楽死」が始まるきっかけになったのは、1938年から1939年頃にライプツィヒで起きたある事件である。この事件がきっかけで「子ども安楽死」と呼ばれる、身体障害者の子どもを対象とした「安楽死」が実行されるようになったと言われている[35]。「子ども安楽死」はT4作戦の直接的な祖先である。

ライプツィヒの事件の概要は次のようなものだった。

1938年末か1939年の初めころにある人物が依頼を持って、ライプツィヒ大学医学部小児科教授のヴェルナー・カーテルドイツ語版を訪問してきた[35]。依頼の内容は、その人物の子供かもしくは親戚の子供が重い障害を持っていて、将来生きていくことができないと思い、「安楽死」させてもらいたいというものだった[35][# 6]。もちろん、そのようなことは殺人罪につながるためカーテルは依頼を断ったが、この人物は今度はヒトラーに直訴した[35]。この嘆願を受けて、障害児の「安楽死」計画がただちに始まった[35]

ヒトラーは自分の侍医だったカール・ブラント親衛隊軍医)をライプツィヒに派遣してカーテルらと協議させる一方、精神障害や身体障害を持つ子供の「安楽死」の実施のためにブラントと総統官房長のフィリップ・ボウラーに対し、個別の案件について障害児を「安楽死」させるための権限を与えた[37]。権限は法律的な裏付けのない超法規的なものである[37]。ヒトラーは命令を書面ではなく口頭で行うことを好んだので、権限の委譲はこの時も口頭によるものである[37][38]。訴えを審議したボウラーとブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[39]

ライプツィヒの事件は後に「私は告発するドイツ語版」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもとになった[39][# 7]

「T4」による安楽死政策

安楽死施設のあったハルトハイム城
ハルトハイム城1階のガス室
ハルトハイム城1階の死体置き場

T4作戦の必要性をヒトラーに認識させたのは、アルベルト・ボルマンとその上司だったフィリップ・ボウラーの2人だったと言って過言ではない[41]。ボルマンはヒトラーの副官で、同じくヒトラーの副官だったマルティン・ボルマンの弟である[41]。アルベルトは、ヒトラーに送られてくるファンレター・投書・陳情書を扱っていたため世論の動向に詳しく、ヒトラーに対して一定の影響力を持っていた[41]

後述のように、T4作戦の正式な発令はまだ先の話になるが、同作戦の準備が始まるのは「子ども安楽死」の開始時期とほとんど同時である。ヴェルナー・ハイデドイツ語版 (安楽死中央機関医療部長、元ヴュルツブルク大学教授) が1961年10月25日に行った供述によると、ヒトラーは遅くとも遺伝子性疾患子孫予防法 (1933年7月成立) の頃から、精神病患者の殺害について繰り返し計画を練っており、1939年7月の時点で既に厖大な準備がなされていると、ボウラーが語ったという[42]。また、医者裁判の中でカール・ブラントも、遅くとも1933年以降、ヒトラーは非自発的な「安楽死」を志向していたことで知られていた、と証言している[26]。ラマースもまた、1933年に遺伝子性疾患子孫予防法が議論されていた時期、ヒトラーは精神病患者の殺害について考えていたと回想している[26]

1939年2月17日には、リンツ近郊にあるハルトハイム療養所がナチスによって接収された[43]。同療養所は1889年にカミロ・ハインリッヒ・シュタルヘムベルク侯爵により、貧しい「精神薄弱者と白痴」のための病院として寄贈された病院である[43]。この療養所はT4作戦において、6か所あった精神病患者を殺害する施設の1つとして稼働することになる。T4作戦の殺害精神病院としてハダマー殺害精神病院ドイツ語版が頻繁に紹介されるが、精神病患者の大部分はハルトハイム殺害精神病院で殺されている[44]。同年5月24日には、ミュンジンゲン郡グラーフェネックの身体障害者施設 (シュトゥットガルト慈善協会所属) の見分が実施されている[43]。この施設もT4作戦において、殺害精神病院として稼働する。

1939年に明文化されたT4作戦の命令書。“党指導者ボウラー氏と医師ブラント博士に、病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える。―アドルフ・ヒトラー”

1939年9月1日、ヒトラーは日付の記されていない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死[# 8]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[# 9]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[39][45]。ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している[45]。命令書に書かれている9月1日の日付は後からさかのぼって書かれたものだと考えられている[46]。なぜ日にちをさかのぼらねばならなかったのかその理由は現在もわかっていない[46]。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった[47]。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが[48]、いずれもヒトラーによって拒否された[49]

従来はこの書面を根拠にして、ヒトラーからの権限移譲は10月末のことだと考えられてきたがその後の研究の進展により、実際にはもっと早くに行われており、遅くとも同年8月には、ヒトラーはボウラーとブラントに対して権限移譲したことが明らかにされている[50]。当然、T4作戦の実際の開始時期も10月以前であり、本格的に動き出すのは、遅くとも1939年7月のことである[51]。この頃、ヒトラーは次官のレオナルド・コンティドイツ語版、マルティン・ボルマン、ハンス・ハインリヒ・ラマースを呼び、精神障害者の「安楽死」を依頼している[51]。この時のヒトラーの発言からは、9月1日に始まるポーランド戦の準備の一環として、病院や医師、看護師の効率利用のために精神病患者の殺害に踏み切ったことが読み取れる[26]。1935年にヒトラーは、ゲルハルト・ワーグナードイツ語版 (ナチス医師同盟総統・帝国医師総統)[52] に対して、戦争を利用すれば精神病患者の「安楽死」がスムーズに進むだけでなく、キリスト教会からの反対の声も弱まるだろうと語ったと伝えられており[26]第2次世界大戦を障害者殺害の好機ととらえたらしい。

こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や殺害精神病院で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった[# 10]。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒドイツ語版らの努力はあったが、結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった[27]

「中央機関」

ティアガルテン通り4番地にあった邸宅。T4作戦の中央機関がここに置かれた。元はユダヤ人所有の建物だったと言われている[53]

T4作戦は「子ども安楽死」の時と同様に極秘裏に進められた[54]。理由は、患者殺害に反対する官庁の影響を排除するため、前線と国内に不安を醸成させないため、敵国の反独プロパガンダを誘わないため、キリスト教会の反対を避けるためなどだった[54]。T4作戦の準備は総統官房第Ⅱ局が行いブラントとボウラーが監督、帝国内務省第Ⅳ局のヘルベルト・リンデンドイツ語版が協力した[54]。しかし、総統官房が安楽死作戦の作戦司令部であることが発覚することを恐れたため、作戦本部は1940年4月頃にベルリン市のティアガルテン通り4番地の邸宅に移され、「中央機関」と名付けられた[54]。後に、この障害者「安楽死」作戦がT4作戦と呼ばれるようになった由来である[54]

「中央機関」は次の4部署から構成されていた[55]

  1. 帝国精神病院事業団体(RAG)
  2. 公益患者輸送有限会社(GEKRATドイツ語版、〈ゲクラート〉)
  3. 公益保護施設財団
  4. 精神病院中央清算事業団

このうち、財団と事業団が財政部門に相当、有限会社は移送部門、事業団体が実施部門に当たる[55][1]。財団は、T4作戦の資金や物資 (消毒薬や殺害用の鎮静剤など) の調達、患者殺害後の金歯・装飾品などの管理・利用、会計検査、事業団は会計監査が担当だった[55]。RAGは殺害対象患者の把握、「中央機関」の医療・医学関連の業務全般を、GEKRATは、各地の精神病院から中継精神病院 (世間から患者殺害を把握させないようにするために、殺害精神病院へ移送する前にいったん患者を収容した精神病院) や殺害精神病院へ殺害対象者を移送するスケジュールの調整・手段の確保・維持を担当した[55]。周辺住民から「灰色のバスドイツ語版」と呼ばれるようになる、殺害患者移送用のバスの管理はGEKRATが実施していた[55]。「中央機関」は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[56]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[2]

後述のように、T4作戦自体はヒトラーの命令で1941年8月24日に中止される。しかし、中止されたのはT4作戦だけであり、「中央機関」はその後も存続し、T4作戦とは別形式で精神病患者や障害者の大量殺害は続けられた[57]。前述の「子ども安楽死」もT4作戦中・停止後も続けられた[58]

殺害対象者は全般に「精神薄弱」、統合失調症患者やてんかん患者が多かったが[59]、それ以外に、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[60]。T4作戦で「中央機関」が対象者把握のために調査したデータを見ても、遺伝子性疾患子孫予防法で遺伝性とされた病の患者で、長期入院している者を殺害候補としていたことが推測できる[59]

T4組織の鑑定人だったヴェルナー・ハイデとニチェらは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した[1][61]。殺害対象の鑑別には、40人余りの医師が「中央機関」の協力者としてかかわった[62]。ただし、鑑別は直接患者を診察したのではなく、「中央機関」が集めた書類上のデータだけを見て判断した[63]。当事者の証言によれば、1日当たり100人のオーダーで処理しており、殺害対象の判断は形がい化していたことが見て取れる[63]。「処分者」は、「灰色のバス」(郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバス) に乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。

障害者殺害の開始

古い研究では、ナチスによる障害者殺害はポーランド侵攻 (1939年9月1日) 後にドイツ本国で始まったと考えられていて、障害者殺害の実験は1940年1月半ばにブランデンブルクの旧監獄施設を使い、一酸化炭素を用いたと説明されてきた[64]。が、その後の研究により、実際にはもっと早くから本格的に実施されていただけでなく、実施場所も国外のポーランド領内のポズナニだったことが明らかにされている[65]。ポーランド侵攻後ドイツによる占領行政が始まり、障害者施設の管理者や施設ベッドを「替える」のに合わせて障害者が銃殺された[65]。その後もポ-ランド領内で精神病患者の殺害は続く。

9月29日からはブロンベルク近郊のコツボロフ精神病院で2342名が殺害された他、9月から10月の間にブロンベルク郡のスヴィッチェで1350人の患者が射殺された[66]。同年10月には同様に、ポズナニ近郊の要塞を使って、一酸化炭素チクロンBを併用した患者殺害の実験が実施されたこともわかっている[64]。実験を実施したのはアインザッツグルッペンである[64]。1939年末には、ヘルベルト・ランゲ指揮下にあった通称「ランゲ特別部隊ゾンダーコマンド[# 11]が移動式の殺害用トラックを開発、1940年初めにはトラックの排気ガスを使った精神病患者の殺害が始まった[64]。T4作戦初期に使用されたトラックの排気ガスによる患者殺害の手法は、後にユダヤ人の抹殺に応用されていく。

T4作戦が開始されてからの障害者のガス殺は1939年から翌1940年にかけての冬に始まり、まずポーランドで1万から1万5千人にのぼる障害者が殺害された[64]。ドイツ国内では1940年4月15日に障害者の大量処刑が始まった[67]。この時の犠牲者はユダヤ人だった[68]。同年6月からは徹底的な殺害が始まる[68]。ハダマー殺害精神病院には、トービアス芸術映画会社が入り込み殺害前のユダヤ人障害者を撮影、この時のフィルムには「人間の屑」というタイトルが付された[68]

殺害対象は、精神病罹患や身体障害者という観点だけから選別されたわけではない。働けるか働けないか、家族との関係が希薄かどうか、医師や看護婦にとって「面倒な」患者かどうか、身の周りのことを自分でできるか、といった項目も調査対象になり、また働けても単純労働しかできないのであれば低評価され殺害される可能性が高まった[69]。殊にナチスの優生思想が極端に経済コストの観点から判断されていたことはよく知られている。ナチス時代の医師や官僚・政治家が、すぐにコスト計算に訴えて病人や障害者を厄介者扱いする例には事欠かない。

殺害対象に指定された者は、各地の精神病院から一旦中継精神病院へ移送され、そこにしばらくの間入院させられた。中継精神病院に入院させたのは、殺害場所である殺害精神病院へ直接移送することを避けることで、政府が障害者を殺害していることを知られにくくするためだった。

安楽死専用の施設は、ハルトハイム安楽死施設グラーフェネック安楽死施設ドイツ語版ブランデンブルク安楽死施設ドイツ語版ベルンブルク安楽死施設ドイツ語版ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設ドイツ語版ハダマー安楽死施設ドイツ語版の6つがあった[70]。このうちハルトハイムとグラーフェネックは元は障害者のための施設、ブランデンブルクは監獄、ベルンブルク、ピルナ=ゾンネンシュタイン、ハダマーは精神病院で、いずれも1940年になってからガス室や大型で強力な焼却炉が設置され、殺害専門の精神病院として稼働し始めた[71]。ハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[27]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[56][72]。また、ドイツ人の拒否反応は、公然と行われていたユダヤ人に対する迫害に対するものよりもはるかに大きかった[72]。理由は、殺害されている対象がドイツ人だったので、いずれ自分たちにも危害が及ぶのではないかと危ぶんだからである[72]。対象が拡大されて、例えば第1次、2次世界大戦の傷病兵や高齢者の施設収容者もいずれ殺害されるのではないかと疑われ、不安が広がった[72]

移送された者はガス室に入れられて処分された。建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[# 12]、飢餓による殺害も含まれている[60]。また、作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。

安楽死政策への反発

T4作戦で殺害された精神病患者は、焼却処分されたあと骨壺に入れられ適当な死因をつけて遺族に返却されたが、返却処理や死因がいい加減だったため、遺族から疑いの目で見られるようになった。たとえば、遺族のもとに骨壺が2個送られてきた、10年以上前に虫垂炎の手術を受けて虫垂を切除されているのに虫垂炎が死亡理由として通知された、わずか8日前に面会したばかりなのに脊髄炎で死亡したと通知された、死亡通知を受け取ったその日に実際には患者はまだ生きていたと、奇怪な事例が続出した[73]

精神病院の医師や病院長の一部は、裁判に訴えて殺害を阻止しようとしたが初期段階で挫折してしまい失敗した[74]。また、裁判官や検事は「安楽死」が行われていることを知りながらもほとんどが沈黙を守った[75]。例外は、前述のロタール・クライシヒ博士やヴュルテンベルク州最高宗務会議委員のラインホルト・ザウターらである[75][68]

クライシヒは法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、1940年7月8日、帝国法務大臣フランツ・ギュルトナーに宛てて長文の手紙を書き、「安楽死」は不法殺人だと抗議した[76][75][68]。ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志であることを知ることになった[76]。ギュルトナーは首相官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った[76]。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省は何の措置もとることができなかった[77]。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した[77]。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された[77]

ザウターや匿名の人物も同日に、上級職や法務大臣あてに抗議文を送っている[78]。しかし、これは少数事例にすぎない。強い抗議の声があがったのは、むしろ一般の住民や殺害された患者の遺族からで、1940年になってからのことである[68]

一方、1940年夏頃にはキリスト教会 (プロテスタント・カトリックともに) は「安楽死」が行われていることを知っており、同年秋以降になると詳細な情報が入ってくるようになった[79]。しかし、個別の牧師や司祭がミサや説教で話すことはあっても、組織としての教会が抗議の声をあげることはなかった[79]。1940年にローマ教皇庁は、国家の負担になるからという理由で障害者を国家機関が殺害することを否定する声明を出しているが[80]、T4作戦中止に影響を与えなかった。カトリック教会の複数の司祭が公の席で批判するようになったのは1941年6月になってからのことだが、依然として抽象的な議論に終始しており、同様に「安楽死」中止への影響力はなかった[79]

やがて、T4作戦によって障害者の大量虐殺が行われていることは国外にも洩れ、アメリカのCBSが報道を始めたり、1941年の夏にはBBCがドイツ国防軍向けに放送していたラジオ内でも言及されるに至った[68][81]

このように政権側にとって状況が悪化していく中、1941年8月3日ミュンスター市のランベルティ教会でクレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン司教が行った説教は政権への具体的な批判だったため、大きな反響を呼び結果的にT4作戦の中止に発展した[79][82]

ガーレン自身の価値観は、当時の国家社会主義のそれから大きく離れていたわけではない[83]。1930年代、教会サークルの一部からはナチスのシンパと見なされていたほどガーレンは保守的だった上に、1941年6月にバルバロッサ作戦が始まると独ソ戦を歓迎する祈りをささげるほどの政権寄りの人物だったが、同年7月にミュンスターがイギリス軍の爆撃に曝されたことで態度を豹変させ、説教の中で、ゲシュタポが聖職者を抑圧していると露骨に非難し始めるようになった[26]

ガーレンは7月13日から8月3日にかけて政府を批判する説教を3回行い[26]、特に8月3日の「生きるに値しない生命の抹殺」を批判した説教[26]はT4作戦関連の文献では有名である。

フォン・ガーレン司教

ガーレンは説教の中で以下のように述べた[84][# 13]

(前略) 哀れな、守る術なき患者が遅かれ早かれ殺されるという事を予期することである。何故なら、彼らは「生きる価値がなくなった」と担当の役所や委員会が判定しているからである。そして彼らは、この判定によれば「非生産的国民」だからなのである。……君も私も、私たちが生産的である間だけ、生産的であると他者から認められる間だけ生きる権利があるというのであろうか? もし「非生産的な」人間は殺してもよいという原則がたてられ使われるとすれば、年とった者、老衰した者すべては何と痛ましいことになることか! もし非生産的人間を殺してもいいなら、生産過程において力を尽くして働いた結果、犠牲になった病弱者は何と痛ましいことか。もし非生産的同胞を暴力で排除してよいものなら、戦争負傷者、身体不自由者、傷病兵として故郷へ帰ろうとする私たちの勇敢な兵士たちは何と痛ましいことか。もしひとたび、人間が「非生産的な」同胞を殺す権利を持ったら――たとえまず哀れな守る術なき精神病者に関してだけであろうと――、そうすれば原則的にはあらゆる非生産的な人間への殺人、すなわち不治の患者、労働と戦争の負傷者の殺人、そしてもし私たちが年をとり老衰し、非生産的になる時には私たちすべての者の殺人が自由に許されることになるのだ。
フォン・ガーレン、クレー『第三帝国と安楽死』p.449. (引用文献の原文では「原則的には」の箇所に傍点が付いている。)
この犯罪が実際に容認され、罰せられないままであるなら、私たちの創造主である神が稲妻と雷の轟くシナイ山で「汝、殺すべからず」と宣言し、人類の良心に最初に刻みこんだ神の聖なる戒めを破壊するだけでなく、そのことは人類にとっての災い、ドイツ国民にとっての災いそのものです。
フォン・ガーレン、スザンヌ・E・エヴァンス 著、平沼博正・一井崇・野村実・岡花祈一郎・小西豊 訳『障害者の安楽死計画とホロコースト』クリエイツかもがわ、2017年12月31日、68頁。ISBN 978-4-86342-229-2 

ガーレンは刑法190条による告発も行った[86]。注意すべき点は、ガーレンの「安楽死」政策への批判の直接的原因が、政府による障害者の殺害に対する怒りにあったわけではないことである[26]。ガーレンの政府批判は直接的には、聖職者に対するゲシュタポの介入、特にミュンスターで起こった修道院の閉鎖がゲシュタポによるものだったことにある[26]。「安楽死」政策への批判は、ゲシュタポを擁護する政府への批判材料の1つとして行われたのであり、ガーレンにとって最優先課題だったわけではない[26]

とは言え、教会の指導者がはっきりとナチスに反旗を翻した事実は大きかった[83]。この説教がきっかけで複数の司教が「安楽死」に対して個別に抗議の声をあげ始めたが、当初ヒトラー政権は説教を途中で切り上げさせたうえで逮捕したり、ゲシュタポを使って逮捕するなどして取り締まろうとした[87]

ガーレンの説教は、謄写版で何千部と印刷され人から人へと渡っていった[88]。連合国側にもその内容が知られ、イギリスが飛行機でドイツ人向けにビラを撒くまでになった[88]ヴァルター・ティースラードイツ語版 (国家社会主義の宣伝および国民啓蒙のための帝国同盟指導者) はマルティン・ボルマンに対し、 ガーレンを絞首刑にするよう提案したが、ヒトラーは同意しないだろうとの理由で却下された[89]。ティースラーはゲッベルスにも同様の提案をしたが、教区内の住民の反発を恐れたためやはり却下された[89]。1941年夏の終わりまでには、多くのドイツ国民が「安楽死」計画に不安を覚えるようになっており、ヒムラーでさえヒトラーに対してT4作戦の中止を勧めている[87]

ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[90]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。

「T4」中止後の安楽死政策

ハダマー殺害精神病院 (1941年)

T4作戦への批判が高まったことから1941年8月24日、ヒトラーは安楽死の中止を口頭で命令した[91][# 14]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[92]、対象は6か所あった殺害精神病院での殺害の停止とガス殺の禁止だけだった[93]。更に、実際に障害者の殺害が中止されたのはハダマー殺害精神病院1か所だけで、ドイツ人の障害者はガス殺されなかったものの、残りの殺害精神病院ではユダヤ人の障害者を対象にしてその後も殺害し続けた[94]。ピルナ=ゾンネンシュタインおよびベルンベルク殺害精神病院のガス室が稼働停止するのは1943年春のことで、14f13作戦が中止になったのと同時期である[95]。ハルトハイム殺害精神病院の停止は更に遅く、1944年末までマウトハウゼン強制収容所の附属ガス室として稼働、それまで障害者を殺害し続けた[95]

ヴィクトール・ブラック

それ以外の精神病患者の収容施設では医師看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[96]。「野生化した安楽死」あるいは「野蛮な安楽死」という用語は、1946年のニュルンベルク医師裁判で裁かれたヴィクトール・ブラックドイツ語版が最初に用いたと言われている[97]。ブラックはT4作戦で重要な役割を担っていたので、T4作戦後の「安楽死」を「野蛮」と呼ぶことで、T4作戦の重大性を軽く見せようとして用いたのだと言われている[97]。かつては「野蛮な安楽死」が普通に使われていたが、研究が進んだ1990年代になってからは、より実態に即した「地域の安楽死」「地域化した安楽死」「分散した安楽死」という言い方が使われるようになっている[97]

また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[96]

1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデンを任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦ドイツ語版が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された[98][99]

また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象となった[100]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人チェコ人予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種とされた人々(ジプシーロシア人ウクライナ人ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[101]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[101]

これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[102]。1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[103]

乳幼児の安楽死

障害のある子どもたちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子どもを対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[104]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった[2]

14f13作戦

強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[# 15]」を排除する「14f13作戦ドイツ語版」が行われた[# 16]。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものだった[107]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなんでおり、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などが挙げられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心だった[107]。14f13作戦はザクセンハウゼン強制収容所から始まり、ブッヘンヴァルトアウシュヴィッツマウトハウゼンへと移された[106]。また、医師たちが、ダッハウラーフェンスブリュックフロッセンヴァクノイエンガメの各強制収容所を回って、1万2千人以上の「病的」または「反社会的」囚人を殺害した[106]。14f13作戦では当初は精神障害者だけでなく身体障害者も殺されていたが、1942年3月になると労働生産性を理由にした見直しが行われ、軍事産業を助け、燃料を節約する必要から身体障害者を除き、精神障害者だけを殺害するように変わった[106]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[108]

犠牲者数

部分的にしか資料が残されていないため、T4作戦やその他の「安楽死」計画による殺害者数の正確な数字はわからない。そのため推計に頼らざるを得ず、推計値にも幅がある。

木畑の論文では、精神病患者などがおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1,000人、乳幼児が5,000人から8,000人、労働不能になったロシア系などを含む強制収容者の1万人から2万人が犠牲となったと推定している。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも推測している[109]。占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死などの手段が主にとられた[110]

一方、歴史家のハインツ・ファウルシュティヒドイツ語版は調査により、ナチスがドイツを支配していた1939年から1945年までの間に殺害された患者や障害者の総数を約30万人と推計している[111]。「安楽死」作戦の中でも最も知られているT4作戦による殺害者数は、そのうちの4分の1にも満たない。

T4作戦による殺害者数は約7万人と非常に多いが、精神病院における餓死・薬物による殺害者数はそれを上回り約8万7千人に及んでいる (表1参照)[111]。また、ドイツ本国以外の占領地区における殺害者数もT4作戦の数を上回っている[111]。精神障害者を対象とした殺害もT4作戦が最初ではなく、ポメルン西プロイセン東プロイセンの精神病院においてナチス親衛隊が実行したものの方が先行していることもわかっている[111]

表1 - 1939年から1945年の間にナチス支配地域で「安楽死」させられた人の数 (ファウルシュティヒによる推計値)
ドイツ国内
子供安楽死 (1939年-1945年) 5千人
ポメルンでのナチス親衛隊による患者射殺 (1939年11月)1千3百人
T4作戦7万人
ユダヤ人患者に対する安楽死1千人
東プロイセンにおけるランゲ司令官による安楽死1千5百人
14f13作戦2万人
労働による虐殺1千人
「東部」に移送されたドイツ人患者3千人
オーストリアにおける安楽死6千人
宗派、民間および精神病院における安楽死2万人
精神病院における栄養失調・供給不足、薬物による殺害8万7千4百人
小計21万6千2百人
ドイツ占領下の国外地域
フランス4万人
ポーランド2万人
ソ連2万人
小計8万人
総計29万6千2百人

戦後

終戦後、関係者はニュルンベルク継続裁判医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年に自殺した。

医者裁判において、検察側の追及で圧倒的に大きな比重を占めたのは強制収容所における人体実験に関してである[112]。T4作戦に代表される「安楽死」も起訴状の訴追要因にあげられてはいたが、その比重はごくわずかだった[112]。訴追前に検察側は、遺伝性子孫疾患予防法に基づく強制断種についても調査を行ったが最終的には訴因から外された[113]

ニュルンベルク継続裁判で裁かれたのは、命令系統の上層部にいた一部の医師だったが、それよりも川下にいて患者の殺害に関わった医師や看護師は、連合国ではなくドイツの裁判所でドイツ人によって裁かれた[114]

初期の裁判では被告人に厳しい判決が出されたが[115]、すぐに寛大な判決に変わり多くは無罪宣告されている[116]。この背景には、当時のアデナウアー政権が元ナチ党員を積極的に免罪する政策をとったことがあった[117]。また、時間の経過と共に時効の壁が立ちはだかるようになった他に、訴追されても、被告人が自殺した、病気や高齢で裁判に耐えられない、といった要因で裁判が中止される例が増えていった[117]

T4作戦に関係した医師、看護師は非常に多く、また実際に訴追された者も少なくなかったが、多くは罪を免れた[118]。訴追前に自殺した医師も少なくなかったが、逃亡した者も多かった[118]。ドイツの人種差別的な優生政策で重要な主導者だったエルンスト・リュディンドイツ語版は裁判にかけられず罪を償うことのなかった大物医師の代表である[119]。同僚の犯罪を証言する証人を探すのは困難だったため訴追しても有罪に持ち込めないことが多かったことも、被告人には有利に働いた[120]

2010年、ドイツの精神医学会は、障害者の殺害に加担した事を正式に認め、謝罪した。

脚注

注釈

  1. ^ : Tiergartenstraße 4
  2. ^ 以下の引用では『悦ばしき知識』でなく『華やぐ智慧』、「聖なる無慈悲」ではなく「聖なる残酷」と訳されている。
  3. ^ 和訳は必ずしも定訳があるわけではない。『生きるに値しない生命の殺害の解禁』『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と訳す例もある。
  4. ^ : Gesetz zur Verhütung erbkranken Nachwuchses
  5. ^ T4作戦で中心的な役割を果たした人物の1人。ニュルンベルク継続裁判で死刑判決を受け、1948年3月25日にドレスデンで処刑された[33][34]
  6. ^ 従来、1946年ニュルンベルク裁判での証言を根拠にして、ライプツィヒでの事件の子供の名前は「クナウアー」だとされていたが、近年の研究では、子供の本名は特定し難いことが明らかにされている[36]。そのため、現在では「クナウアー」の代わりに「子ども K」(Kind K.) と呼ぶことが一般的になっている[36]
  7. ^ 映画はヘルムート・ウンガーの小説『使命と良心』(1936年) を基にしている[37][40]。映画はウンガ―の小説すべてを利用しているわけではないが、いくつかのモティーフは『使命と良心』からとられている。
  8. ^ : Gnadentod
  9. ^ : Führerbevollmächtigter
  10. ^ この政府高官「N」は精神分裂病患者の息子がおり、息子が死ぬような事態があれば事実を公表すると記している (佐野 1998, p. 21)。
  11. ^ 特別部隊ゾンダーコマンドは個々のアインザッツグルッペンに従属する下部組織の部隊
  12. ^ この方式はニッチェ方式と呼ばれた (澤田 2005, p. 161)。
  13. ^ 8月3日の説教の全文 (日本語訳) は、[85]の付録、あるいは、ヒュー G.ギャラファー 著、長瀬修 訳『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』現代書館、1996年8月25日。ISBN 4-7684-6687-7 の付録Cを参照せよ。
  14. ^ 宮野 1968, p. 130ではボウラーに対して中止命令を出したことになっているが、エヴァンス『障害者の安楽死計画とホロコースト』pp.69-70ではブラントに中止命令を出したと書かれている。
  15. ^ : Ballastexistenz
  16. ^ 「特別処置14f13」とも呼ばれた[105]。14f13とは、強制収容所の監督官のために使われた略称だったが、後に「病気の囚人」の死を意味するコードネームになった[106]

出典

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  6. ^ 梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.102-103
  7. ^ 梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.104-105.
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  10. ^ フリードリッヒ・ニーチェ 著、氷上英廣 訳『ニーチェ全集第10巻 (第Ⅰ期)』白水社、1980年9月25日、134-135頁。 
  11. ^ クレー『第三帝国と安楽死』pp.11-12
  12. ^ 佐野 1998, p.8.
  13. ^ フリードリヒ・ニーチェ 著、西尾幹二・生野幸吉 訳『ニーチェ全集 第Ⅱ期第4巻』白水社、1987年2月5日、120頁。 
  14. ^ クレー『第三帝国と安楽死』p.13.
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  30. ^ 市野川「第二章 ドイツ―優生学はナチズムか」pp.103-104.
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  105. ^ 梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」p.140.
  106. ^ a b c d エヴァンス『安楽死計画』p.77.
  107. ^ a b 木畑 1989, p. 262.
  108. ^ 木畑 1989, p. 265.
  109. ^ 木畑 1989, p. 254.
  110. ^ 木畑 1989, p. 274.
  111. ^ a b c d 梅原「「安楽死」という名の大量虐殺」pp.113-114.
  112. ^ a b 紀愛子「第4章「強制断種・「安楽死」の過去と戦後ドイツ」」『「価値を否定された人々」ナチス・ドイツの強制断種と「安楽死」』新評論、241頁。 
  113. ^ 紀「戦後ドイツ」p.243.
  114. ^ 紀「戦後ドイツ」pp.243-244.
  115. ^ 紀「戦後ドイツ」pp.244-246.
  116. ^ 紀「戦後ドイツ」p.247.
  117. ^ a b 紀「戦後ドイツ」p.248.
  118. ^ a b エヴァンス『安楽死』p.158.
  119. ^ エヴァンス『安楽死』pp.164-165.
  120. ^ エヴァンス『安楽死』p.160.

参考文献

関連文献

  • フランツ・ルツィウス『灰色のバスがやってきた - ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置』山下公子訳、草思社、1991年。ISBN 4-7942-0445-0 
  • 小俣和一郎『精神医学とナチズム - 裁かれるユング、ハイデガー』講談社、1997年。ISBN 4-06-149363-9 
  • カール=ビンディング/アルフレート=ホッヘ、森下直貴/佐野誠訳著『「生きるに値しない命」とは誰のことか - ナチス安楽死思想の原典を読む』窓社、2001年。ISBN 978-4896250367  (のち、『新版「生きるに値しない命」とは誰のことか ナチス安楽死思想の原典からの考察』〈中央公論新社〉2020年、ISBN 978-4-12-110111-2)
  • ジョルジュ・ベンスサン『ショアーの歴史 - ユダヤ民族排斥の計画と実行』吉田恒雄訳、白水社文庫クセジュ〉、2013年。ISBN 978-4-560-50982-1 

関連項目

外部リンク