森健兒

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森 健兒(もり けんじ、1937年8月13日 - )は、広島県福山市生まれ、広島市育ちの元サッカー選手[1][2]木之本興三と共にJリーグを創設した最大の功労者である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]

Jリーグ専務理事、前日本サッカー協会専務理事、前日本体育協会理事。現日本サッカー協会特別顧問。森孝慈は実弟。元スポーツキャスターの森陽詩夏は実娘。

経歴[編集]

生い立ちから三菱重工時代[編集]

両親とも教師[11]。父・芳磨は広島県庁の体育主事で、日本体育協会の仕事もしていた[1]。また、産業報国会のメンバーでもあり1945年太平洋戦争末期に単身広島市へ転勤の後、原爆投下の1ヶ月前に産業報国会の東京本部に転勤[12]、このため被爆を免れた[12]。県庁の同僚はほとんどが亡くなった。父親はこれを「自分は生かされた」運命と信じ、終戦後街をうろつく原爆孤児を引き取り、広島湾似島似島学園を設立した[2][8][11]。森兄弟もこれに伴い似島で育った[13]。兄弟で子供の頃からサッカーに熱中し、修道中学、修道高校と進んだ。健兒は、1953年広島修道高校1年の時、国体韮崎高校を自身の決勝ゴールで降し優勝[1]。ハードタックルで有名で、小さな選手を三回転させて吹っ飛ばしたという逸話が残っている。翌年1954年、同大会準優勝。1956年慶應義塾大学経済学部進学。慶應義塾大学ソッカー部で1年時に天皇杯優勝、2年時準優勝に貢献。4年時には主将を務めた[9]

1960年卒業後、慶應の1学年上の二宮寛に特別枠で三菱重工業に誘われたが断り、経済学部推薦で三菱入社。まだ社員の同好会だった三菱重工業サッカー部(現浦和レッドダイヤモンズ)に入部はするが籍を置いただけ。産業エンジンの営業の社業を主とした。ところが1965年日本サッカーリーグ(JSL)創設で部員が足らず、無理やり選手登録された。この頃の三菱サッカー部の年間部費は10万8000円。サッカーボールを30個買ったら底をついた。このため選手としてよりサッカー部の環境改善に奔走。1967年二年で現役を引退した後は社業と並行し、二宮寛監督を支えるサッカー部コーチと自らマネージャーを買って出て、他チームに先んじて練習環境の改善、練習時間の確保、後援会作りなどに奔走した[2][9][14][15][16]。これらはアマチュアリズム全盛時代に於いて画期的であり、その成果は、弟・孝慈、杉山隆一横山謙三片山洋落合弘らを擁し1971年天皇杯初優勝、1973年JSL・天皇杯二冠獲得で結実した[2][17]

1974年、三菱操業100周年の記念事業の命をうけ、三菱養和会の総合スポーツクラブ(巣鴨)を建設[2][9][14][18][19]。「地域密着型総合スポーツクラブ」を32億円をかけて造るという、当時としては非常に先駆的な施設で、森はここを三菱グループ社員だけの福利厚生施設にせず、地域住民にも門戸を開いて少年サッカー教室、水泳教室、体操教室などをスタートさせた[14]。また、ここで現在のなでしこジャパンの源流とも言える第1回全日本女子サッカー選手権が開催された他、全国ミニサッカー選手権(現・日本フットサル連盟)や全国中学生選抜サッカー大会など多くのサッカー大会が開催され、またここから多くのJリーガーを生んだ[14]。後年、Jリーグの目指した地域に密着した総合スポーツクラブを巣鴨の地で、Jリーグが発足する20年近く前に立ち上げた[14]

JSL常任運営委員[編集]

社業と平行し同年4月から日本リーグ(JSL)の常任運営委員となり、リーグ全体の運営に携わる。JSLの運営は実質的に森、石井義信ら、5名程度の常任運営委員からなる常任運営委員会が司っていた[20]。トップの総務主事(現在のJリーグチェアマンにあたる[2])は日立(現柏レイソル)の名将として知られた高橋英辰だったが、当時、三菱重工の広報課課長で、運営に精通した森がリーダー格となり改革を進めた[2][21][22]。また、森は日頃から大手広告代理店とも付き合いがあり、広告宣伝というものは何か、代理店と一緒に仕事をするということはどういうことなのか、を誰よりも知悉していた[23]1977年日本サッカー協会傘下にできた日本ミニサッカー連盟(現・日本フットサル連盟)の発足で岡野俊一郎平木隆三らと共に設立発起人、初代理事長(会長・竹腰重丸[24]1979年3月、日本女子サッカー連盟(現在はサッカー協会内委員会)設立で同じく初代理事長、黎明期のサッカー日本女子代表(現・なでしこジャパン)を支える[25]。日本女子代表初の専任監督・鈴木良平から頼まれ三菱自動車社長から強化費捻出の仲介をした[26]1983年、JSLの活性化には、どうしてもプロ化が必要と提唱。この頃、日本サッカー協会の事務局内にあったJSL事務所を強引に引っ越す[27][28]。当時のサッカー協会は狭く整理されていない書類の山から長沼健が「おー森ケン来たか」と顔を出すようなところで、こんなところではいい知恵が出ないと考えた[8]。また同部屋だと何かと都合の悪い事も多かった。この後この場所でプロ化に向けての活発な議論が度々行われたため、結果的に大きな出来事だったと言われている[29]。同年12月、当時、古河電工(現ジェフ千葉)のJSL運営委員だった木之本興三を事務所に専従の事務局長に抜擢[2][3][8][21][29][30]。これはJSL発足に尽力した長沼健平木隆三西村章一の強い推薦によるものだった[8][9][31]1982年スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度の導入を申請し、日本体育協会を説いてプロプレーヤーを認知させた[1][2][5][14][32][33][34]。日本体育協会は「アマチュアスポーツの統括団体」を謳っており、日本体育協会の加盟団体である日本サッカー協会に所属した選手たちがプロだなんてとんでもない、と大変な抵抗を受けたが[8]、以来、アマ規定がスポーツ憲章となり、競技団体によってはアマチェアリズムが崩れる先鞭となったので、これも大きな業績だった[8]。この頃、アマチェア規定で、スポーツを職業とする事は禁じられていたが、外国人選手を含め実際はプロプレーヤーがおり大きな問題となっていた。

JSL総務主事[編集]

1985年、日本リーグ(JSL)の総責任者・総務主事(現在のJリーグチェアマン[2])、日本サッカー協会理事となり、協会にプロ化の案件を提出[14][35]。日本のサッカーはJリーグが始まる七年前、1986年から正式に選手のプロ化が始まり、Jリーグ誕生前には日本のトップリーグは選手のプロ化を完了していた[2]。森は「JSLができてもう20年以上経っているのにずっと成果が出ていなかった。それはサッカーだけじゃなくて日本のスポーツ界全体の問題でした。日本独特のアマチュアリズムという空気があって、それを錦の御旗に掲げながらわずかしかいないメダリストたち自分たちのプレゼンスを誇示して役職を行き来しているだけです。そのくせ文部省にゴマばかりすって。そういう状況でそっちからの改革は絶対にできっこない。プロ化は選手からやらなきゃダメだと考えていました。それにはまずプロ化ということを平気で論じられる空気にすることが大事だったんです」と話している[9]。後のJリーグの構想は「もうプロ化するしかない」と森が発言を始めたところから動き出したものである[8]

1986年、社業で名古屋に転勤。総務主事には留るが、事務局になかなか顔を出せなくなる。また森に次ぐNo2的な石井義信が日本代表監督に抜擢されたことで、森の不在時には木之本がJSL事務局の責任者となり、木之本の立場が必然的に責任の重いものになる[35][36]。選手のプロ化は進んでいったが、日本リーグの人気低迷は続き、日本代表チームも、1985年ワールドカップアジア予選、1987年ソウルオリンピック予選と、連続して「あと一歩」のところまで迫ったが、結局はアジアの予選を突破できず。日本リーグ所属チームの代表者による「実行委員会」や「運営委員会」の議論を聞きながら、森は「機が熟した」と感じ、JSL内に1988年、活性化委員会(プロリーグ化検討委員会)を設置[2][4][6][32][36][37][38][39]、「スペシャル・リーグ」への移行を打ち出す[6]1988年3月17日、JSL内で活性化委員会が開催される。5年後にスタートするJリーグはこの瞬間から生を宿した[1][4][37][40][41]。会議の骨格と人選は森と木之本の間で話し合われたが、会議の趣旨がプロリーグの創設を目指すものであることを対外的には伏せておく必要があった。選手のプロ化のときとは違い、今度はサッカー部の存続に直接関わってくる話であり、企業も協会も神経質になることは間違いない。具体的な提案を出す前に圧力がかかるのを避けるため、会議の名称を「JSL活性化委員会」とした[36][42]。メンバー9名は森と木之本の二人で決めたもの。二人と石井義信森孝慈小倉純二村田忠男浅野誠也杉山隆一佐々木一樹だった[9][36]。委員長にはバランスを重視して小倉を指名した[42][43]。この後このメンバーと後に加わった4人の計13人で討議を重ね細部を決定[43][44]。1988年3月17日に、この会議の第1回会合が行われ、その後約二週間おきに計6回会合が開かれ、同年7月21日に最終報告書をまとめて、サッカー協会の理事会に提出した[36]。この報告書は26頁に過ぎなかったが、1993年に発足したJリーグの基本理念のほとんどは、すでにこの中に盛り込まれていた[36]。川淵が正式に総務主事に就任したのは1988年8月1日で[45]、川淵は「1988年3月の第一次活性化委員会で『スペシャルリーグ』の設立検討が答申され、プロ化の機運は高まっていた」と話している[46]。この年4月に勤務先で部長に昇格していた森は[45]、社業の激務と連携の不便さから5月[45]、4年間サッカーを離れ、サラリーマン生活を送っていた旧知の川淵三郎を後任の総務主事に抜擢した[2][7][47][48][49]。川淵が正式に総務主事に就任したのは1988年8月1日[45]。川淵はたまにテレビ中継の解説で呼ばれるくらいで、サッカーはほとんど見ていなかった[45]。森が川淵を後継者にすることを決意させたのは、強化本部長時代に見せた川淵のリーダーシップだったという[2]。森は「せっかくプロ化の入り口くらいまで進めているのに、上の世代の人たちに従来のやり方でやって欲しくなかった。川淵さんは少し考えさせてくれと言いました」「ただ川淵さんはおそらく古河電工の役員として東京に戻れると思っていたんでしょう。ところが東京に戻ることになったものの、本体の古河電工ではなく系列の古河産業出向だったんです。もしこれが本体の役員だったら彼はそっちに行ってサッカーに関わっていなかったと思いますよ。権力志向の強い人だから。これからどうなるかわからないサッカーより彼はそっちを選んだでしょう」と述べている[9]。川淵は「プロリーグの出発点はJSLが1988年2月に立ち上げた第一次活性化委員会だ」と話しているが[41]、川淵は7回あった「第一次活性化委員会」の会議の間は、サッカーを離れて、まだ名古屋でサラリーマンをしていて一度も出席しておらず、活性化委員会の参加は、この後川淵が正式に総務主事に就任したの直後の1988年10月に[46]、川淵が設置した「第二次活性化委員会」からとなる[41][43][46][50]。「活性化委員会」は、森が総務主事だった時代に開催されたものを後に「第一次活性化委員会」、川淵が総務主事に就任し、森らに倣い再開させたものを「第二次活性化委員会」と呼ぶ[9][38]。この「第二次活性化委員会」が翌1989年6月に解散し、川淵がJFAの副会長になっていた長沼健に要請し、JFA内に「プロリーグ準備検討委員会」が設置され[46]、プロリーグ発足に大きく前進した[9]。この「プロリーグ準備検討委員会」は、委員長が川淵、副委員長が「第一次~第二次活性化委員会」を通して委員長だった小倉純二。森はここで委員11人のメンバの一人として参加した[9]。2007年『日刊ゲンダイ』での森の連載では「プロ化の道筋をつけてから川淵さんにバトンタッチした」と述べている[34]。また、「私自身の生き方が、そのまま日本サッカーの変わり方と一致していた」と森は話している[2]

Jリーグ専務理事[編集]

1990年、三菱重工の子会社で、宇宙ロケットの燃料を扱う日本液体水素という関連会社の社長に出向し、四年間にわたった名古屋との二重生活にピリオドを打ち東京に戻る[2]。1993年のプロリーグのスタートへ向け、準備作業に引き出され1991年、Jリーグ専務理事に就任[51]。川淵を補佐する管理本部の統括者となり、Jリーグホームタウン委員長、資格委員会(選手契約担当)委員長などの役職を兼ね、Jリーグ胎動期の実務の多くを取り仕切った[2][18][52]。1991年に初年度からのJリーグ加盟団体を選定する際、清水エスパルスのホームスタジアム・静岡市清水日本平運動公園球技場日本平運動公園球技場の改修を要求した[53]。特筆すべきは、映像及び著作権ビジネスに精通し[23]NHKをパートナーとして取り込んだ点。1993年4月NHKと民放各社と共同で「Jリーグ映像」を設立し代表取締役社長。これにより試合中継映像の品質を確保し放映権販売に寄与[54]。また公式スポンサーの獲得や広告の質の向上などをもたらした。1993年4月、33年間勤務した三菱重工を退社しJリーグ専務理事に専任[2]1997年福島県に開設された日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」の総合企画、施設建設及び運営、事業性の確保など全般にわたり指導性を発揮した[18]1998年、日本サッカー協会専務理事、1999年、日本体育協会理事などの要職を務めたが、2000年トルシエ解任騒動から川淵とギクシャクし始め2002年日韓ワールドカップ終了後に、サッカー協会専務理事、Jリーグ理事、日本体育協会理事を全て退任した[9]。現在は日本サッカー協会特別顧問。何度となく起こった川淵降ろしに、反・川淵グループが対抗馬に担ぎ出そうとしたのがこの森だったが、川淵が余りに太くなった為、実現に至ることはなかった[55]


個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 - 天皇杯 期間通算
1965 三菱 JSL -
1966 三菱 JSL -
通算 日本 JSL 8 0 -
総通算 8 0 -

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f びんご人国記 ふるさと応援団(Internet Archive)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 大住良之 『Jリーグ群像 夢の礎』、p9-37
  3. ^ a b “木之本さん死去を盟友・森健児氏しのぶ「病室でもサッカーの話ばかりだった」”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2017年1月18日). オリジナル2017年6月12日時点によるアーカイブ。. http://archive.fo/YXJpw 2017年6月16日閲覧。 “森健兒氏 「Jリーグをつくった男 木之本興三君を悼む」”. 日刊ゲンダイ (株式会社日刊現代). (2017年1月18日). オリジナル2017年1月30日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170130112359/https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/197663 2017年6月16日閲覧。 
  4. ^ a b c 戦後の学制改革とスポーツ - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評
  5. ^ a b 日本サッカー史研究会を取材。:白髭隆幸の毎日がスポーツ三昧!
  6. ^ a b c #日本サッカー史240-241頁
  7. ^ a b #狂会128-132頁
  8. ^ a b c d e f g h #回想p69-73
  9. ^ a b c d e f g h i j k l 『フットボールサミット第1回』「フットボールサミット」議会 、2010年11月19日発行、カンゼン、p172-179
  10. ^ URAWA MAGAZINE 6.17 (@Uramaga) - Twitter 、『日刊ゲンダイ』「木之本興三・Jリーグへの遺言⑧」、2006年12月1日41面
  11. ^ a b 『日刊ゲンダイ』「いま沈黙を破る⑧」、2007年4月19日31面
  12. ^ a b 「少年の島 =広島県」『新 風土記 五』朝日新聞社、1975年、p152-153
  13. ^ 週刊サッカーマガジン』、2008年12月2日号、ベースボール・マガジン社、p56
  14. ^ a b c d e f g #両足138-145頁
  15. ^ 平塚晶人『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p74-76
  16. ^ 三菱サッカー部後援会は、会社から支給される部の年間予算が10万円程度だった時代に、森が動いて作った組織で、三菱グループの社員から会員を募り、毎月の給料から50円を天引し、選手の交通費や捕食費に当てた。後に会費は100円になり、会員7300人、年間予算2000万円という大きな組織になった(『浦和レッズ10年史』、浦和レッドダイヤモンズ、ベースボール・マガジン社編集、2002年、p167)。
  17. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p74-76
  18. ^ a b c 株式会社フォレサンテ | メンバー紹介(Internet Archive)
  19. ^ 三菱重工業の年表 | あしたね年表
  20. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p33
  21. ^ a b #両足110-112頁
  22. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p61
  23. ^ a b #両足98頁
  24. ^ バサジィ大分VASAGEY OITA-オフィシャルサイト FUTSAL
  25. ^ 女子サッカー連盟創設のころ - 牛木素吉郎のビバ!スポーツ時評サッカー オンラインマガジン 2002world.com 福岡通信 by 中倉一志Talk13 苦しい状況が続いた日本女子サッカー界(女子サッカーとロンドン五輪 第4回)
  26. ^ 日本女子サッカー 「赤貧生活30年」 - ゲンダイネット
  27. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p61-63
  28. ^ #両足125-127頁
  29. ^ a b SOCCER CLICK
  30. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p99
  31. ^ 平塚晶人『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p140、149
  32. ^ a b サッカー (PDF)”. Web Japan. 外務省. pp. 1-4. 2017年6月16日閲覧。
  33. ^ 三田評論 1047, 40-46, 2002-06-01 慶應義塾大学、p40、大住良之『サッカーへの招待』岩波書店、1993年、p19、『空っぽのスタジアムからの挑戦』、pp.128-130
  34. ^ a b 『日刊ゲンダイ』「いま沈黙を破る」(2007年4月10日~4月28日)
  35. ^ a b 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p150
  36. ^ a b c d e f #両足154-158、170、356頁
  37. ^ a b 朝日新聞朝刊、2011年2月18日20面
  38. ^ a b Jリーグ公式サイト:about Jリーグ
  39. ^ 平塚晶人『空っぽのスタジアムからの挑戦』p163、夢があるから強くなる ~日本サッカーの国際化を支えて40年~. 講師: 公益財団法人 日本サッカー協会名誉会長 小倉純二氏
  40. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p172
  41. ^ a b c 私の履歴書 川淵三郎
  42. ^ a b 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p163、164
  43. ^ a b c 夢があるから強くなる ~日本サッカーの国際化を支えて40年~. 講師: 公益財団法人 日本サッカー協会 名誉会長 小倉 純二 氏
  44. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p172-184
  45. ^ a b c d e 『我が道 - 川淵三郎(13)』スポーツニッポン 2014年10月13日付
  46. ^ a b c d 『我が道 - 川淵三郎(14)』スポーツニッポン 2014年10月15日付
  47. ^ #両足159-163頁
  48. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』、p185-187
  49. ^ 『「ダイヤモンド・サッカー」の時代』、エクスナレッジ、2008年、p182-183
  50. ^ 『空っぽのスタジアムからの挑戦』p192
  51. ^ 実行委員選任/参与選任 - Jリーグ:Jリーグニュース
  52. ^ キャプテン川淵のウィークリーコラム(08.01.25) | JFA | JFA
    松原 明、東京中日スポーツ報道部、スポーツアドバンテージ
  53. ^ 大住良之 (2014年2月28日). “順風満帆ではなかったプロサッカーの船出 Jリーグを創った男・佐々木一樹 第2回”. sportsnavi. オリジナル2016年9月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160929064503/https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201206260009-spnavi 2017年6月12日閲覧。 
  54. ^ 株式会社フォレサンテ | メンバー紹介
  55. ^ 「『そして独裁者に誰も逆らえなくなった』の異常事態 川淵キャプテン再選の裏で 『追放』『空手形』『降格』『抜擢』が乱舞」、『週刊ポスト』2006年8月11日号、小学館2006年8月11日、 52-53頁。

参考文献・ウェブサイト[編集]

関連項目[編集]