富田浜

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富田浜
徳島大正銀行
日本
都道府県 徳島県
市町村 徳島市
地区 東富田地区
人口
2011年(平成23年)6月徳島市の調査より
 • 合計 84人
等時帯 UTC+9 (JST)
郵便番号
770-0931

富田浜(とみだはま)は、徳島県徳島市町名東富田地区に属している。富田浜1丁目から富田浜4丁目まである。郵便番号は〒770-0931。

人口[編集]

2011年6月。徳島市の調査より[1][2]

世帯数 人口
1丁目 64 128
2丁目 15 029
3丁目 04 010
4丁目 01 001
84 168

地理[編集]

徳島市の中央部、都心地域(中心市街地)南部の東富田地区北縁に位置する。西に流れる新町川の南岸で東西に伸び、川沿いの通りの南側(一部で両側)に広がる。

西から1~4丁目。この丁番は、南の仲之町 (徳島市)南仲之町の1~4丁目と東西の位置が揃っている。

北は西流する新町川に面し、対岸の南内町と、町内ないしすぐ傍の橋で結ばれる。南は仲之町の商店街に接す。南北は一部を除き、平行する裏通が町境となっている。南からは、南北に伸びる伊月町(富田浜1・2丁目間)・富田橋(富田浜2・3丁目間)も伸びている。富田橋との町境は込み入っているが、おそらく富田橋は途切れずに富田浜2丁目と3丁目を分断して新町川まで達している[3]

東端では、南北に走るJR牟岐線が町境である。道はアンダーパスで線路の下をくぐり国道55号十字路をなす。西は両国橋公園を隔てて両国橋に接する。

隣接する町[編集]

地形[編集]

歴史[編集]

江戸時代には武家町で、富田浜側あるいは単に浜側と呼ばれた。東端から富田東御屋敷・西御屋敷・中老蜂須賀伊豆の屋敷などが並んだ。中央で渡場通(現 富田橋通り)が南から丁字路で接続して、現在の富田橋の位置から新町川に渡し舟が出ていた。

1889年の徳島市市制施行前は、名東郡富田浦町だった。市制により徳島市の大字となった。

1885年、県立徳島中学校(徳中、現 徳島県立城南高等学校)が現在の市役所の位置から西御屋敷跡に移転して来た。東隣の東御屋敷跡は徳中の運動場となった[4]

徳中西隣の蜂須賀伊豆屋敷跡は県公会堂となり、のちに徳島公園内に移築され、武徳殿(のちの旧武道館)となった。跡地は県庁となった[4](現在の県庁所在地とは異なる)。

もとは富田のちに富田浦町(江戸時代には富田、明治初期までに名東郡富田浦町、1889年の徳島市市制から徳島市の大字の富田浦町)の一部だったが、1941年に独立した町となった。町名の由来は、富田北東部が新町川の川沿いに面したことによる。1942年船場町の一部を編入。1975年に両国橋の一部を編入。

1945年7月4日徳島大空襲では、著しい戦火を受けた。

施設[編集]

三河家住宅

交通[編集]

町内に国道・県道・鉄道・バス停なし。

橋梁[編集]

河川 富田浜側 対岸 道路 備考
新町川 1丁目 南内町 閉鎖中の歩行者専用水道橋
富田橋 新町川 2丁目 南内町 富田浜に位置するか不明瞭[5]

参考文献[編集]

  1. ^ 徳島市:人口・世帯数 Archived 2007年8月19日, at the Wayback Machine. - 徳島市情報推進課
  2. ^ この調査では世帯数3以下の町丁のデータは発表されないが地区ごとの合計には計上される。東富田地区では富田浜4丁目のみ発表されていないので、富田浜4丁目のデータは引き算で算出できる。
  3. ^ マピオンによる。ただしマピオンに地図を提供しているゼンリンは町割の正しさを保障していない。
  4. ^ a b 河野幸夫『徳島 城と町まちの歴史』1982年 聚海書院
  5. ^ 町境が入り組んでいる。マピオンは富田浜2丁目・富田橋1丁目境とする。

外部リンク[編集]