三千院

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三千院
Sanzen'in 01.JPG
往生極楽院(重要文化財)
所在地 京都府京都市左京区大原来迎院町540
山号 魚山(ぎょざん)
宗派 天台宗
本尊 薬師如来
創建年 延暦年間(782年 - 806年
開基 最澄
別称 三千院門跡、梶井門跡、梨本門跡
札所等 西国薬師四十九霊場第45番
近畿三十六不動尊霊場第16番
文化財 阿弥陀三尊坐像(国宝)
往生極楽院阿弥陀堂、木造救世観音半跏像ほか(重要文化財)
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三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。三千院門跡とも称する。山号は、魚山(ぎょざん)、本尊薬師如来開基最澄である。

京都市街の北東に位置する山中、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。青蓮院妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院の1つに数えられている。

歴史[編集]

三千院と往生極楽院[編集]

三千院は8世紀最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本(現・大津市)に移され、たび重なる移転の後、1871年(明治4年)に現在地に移ったものである[1]。「三千院」あるいは「三千院門跡」という寺名は1871年以降使われるようになったもので、それ以前は「円融院(円融房)」「円徳院」「梨本門跡」「梶井宮」「梶井門跡」などと呼ばれた[2]。一方、往生極楽院(旧称・極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転してきてから、その境内に取り込まれたものである。

境内には往生極楽院のほか、宸殿、客殿などの建物がある。このうち、境内南側の庭園内にある往生極楽院は12世紀に建てられた阿弥陀堂で、内部には国宝の阿弥陀如来及両脇侍像(阿弥陀三尊像)を安置している(三千院と往生極楽院は元来は別々の寺院であった)。

天台門跡としての三千院[編集]

三千院は天台三門跡の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦年間(782 - 806年)、比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷(比叡山内の地区名)の梨の大木の傍に一宇を構え、「円融房」と称したのがその起源という(梨本門跡の名はこれに由来する)[3] [4]

その地に貞観2年(860年)、承雲和尚が最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、円融院と称した。承雲はまた、比叡山の山麓の東坂本(現・大津市坂本)の梶井に円融院の里坊(山寺の僧が山下の人里に設ける住まい)を設けた。応徳3年(1086年)には梶井里に本拠を移し円徳院と称した[5]。梶井の地名と、加持密教の修法)に用いる井戸加持井)があったことから、後に寺を「梶井宮」と称するようになったという。

元永元年(1118年)、堀河天皇第三皇子(第四皇子とも)の最雲法親王が入寺したのが、当寺に皇室子弟が入寺した初めである。最雲法親王は大治5年(1130年)、第14世梶井門跡となった。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺し、歴史上名高い護良親王(尊雲法親王)も入寺したことがある[6]。最雲法親王は保元元年(1156年)、天台座主(天台宗の最高の地位)に任命されたが、同じ年、比叡山の西麓の大原に梶井門跡の政所(まんどころ)が設置された。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院勝林院などの寺院を管理するために設置されたものである[7]

隠棲、融通念仏、天台声明の場・大原[編集]

大原は古くから貴人や念仏修行者が都の喧騒を離れて隠棲する場として知られていた。文徳天皇の第一皇子である惟喬親王844年 - 897年)が大原に隠棲したことはよく知られ、『伊勢物語』にも言及されている。藤原氏の権力が絶大であった当時、本来なら皇位を継ぐべき第一皇子である惟喬親王は、権力者藤原良房の娘・藤原明子が産んだ清和天皇に位を譲り、自らは出家して隠棲したのであった。大原はまた、融通念仏天台声明(しょうみょう、仏教声楽)が盛んに行われた場所として知られ、天台声明を大成した聖応大師良忍1073年 - 1132年)も大原に住んだ[8]

移転と改称[編集]

坂本の梶井門跡は貞永元年(1232年)の火災をきっかけに今の京都市内に移転した。洛中東山の各地を転々とした後、元弘元年(1331年)に洛北船岡山の東麓の寺地に落ち着いた[9][10]。この地は淳和天皇の離宮雲林院があったところと推定され、現在の京都市北区紫野、大徳寺の南方に当たる。船岡山東麓の梶井門跡は応仁の乱1467年-1477年)で焼失し、以後、大原の政所が本坊となった[11]元禄11年(1698年)、江戸幕府将軍徳川綱吉は当時の門跡の入道慈胤親王(後陽成天皇皇子)に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えた。このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。寺地は現在の京都市上京区梶井町で、跡地には京都府立医科大学と附属病院が建っている[12]

明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王還俗(仏門を離れる)して新たに梨本宮家を起こし、公家町京都御所周辺の寺町広小路)の寺院内にあった仏像仏具類は大原の政所に送られた。1871年(明治4年)、大原の政所を本坊と定め「三千院」と改称した。「三千院」は梶井門跡の持仏堂の名称「一念三千院」から取ったものである(「一念三千」については当該項目を参照)[13]

極楽院[編集]

冒頭の説明のように、極楽院(現・往生極楽院)は元来、天台の門跡とは無関係であった。寺伝では恵心僧都源信942年-1017年)の妹、安養尼985年寛和元年)に建てたものと伝えられてきたが、実際はもう少し時代が下った12世紀末に、高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼が、亡き夫の菩提のために建立したものである[14]。この史実は、彼女の甥にあたる吉田経房の日記「吉記」の記述により明らかとなっている。1871年明治4年)に三千院の本坊が洛中から移転してきてからは、その境内に取り込まれた[15]。極楽院を「往生極楽院」と改称したのは1885年(明治18年)のことである。

宮中御懴法講[編集]

宮中御懴法講(きゅうちゅうおせんぼうこう)とは、保元2年(1157年)後白河天皇が宮中の仁寿殿にて初めて行った宮中の仏事で、法華経を読誦し、悪行を懺悔し、罪障消滅を祈る法要である。代々、梶井門跡の門主がこの法要の導師を務めることが慣例になっていた。明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶えたが、その後1898年(明治31年)に大原の地で復活した。1979年(昭和54年)に明治天皇70回忌法要を三千院で行ってからは毎年5月30日、三千院宸殿で御懴法講が行われている[16] [17][18]

伽藍[編集]

三千院の境内は境内南を流れる呂川(りょせん)と北を流れる律川(りつせん)という2つの川に挟まれている。呂川・律川の名は声明(仏教声楽)の音律の「呂」と「律」に由来する[19]。境内南側には往生極楽院の正門にあたる朱雀門、西側には御殿門があるが、拝観入口は後者である。御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である政所の入口にふさわしい重厚な門構えである。前述の石垣は築城で名高い近江坂本の穴太衆の築いたものである[20][21]

門を入り、大玄関から拝観順路に沿って進むと、客殿、宸殿、これらを囲む庭園があり、庭園内に往生極楽院が建つ。そこからさらに石段を上って奥の院へ進むと金色不動堂、さらに上ると観音堂がある。このほか、御殿門を入った南側には写経場の円融房と収蔵庫兼展示施設の円融蔵がある[22]

  • 客殿 - 慶長年間(17世紀初)に建て替えられた旧御所の旧材を用いたものである。障壁画は1906年(明治39年)に完成したもので、望月玉泉今尾景年鈴木松年竹内栖鳳菊池芳文など、当時の京都画壇の画家たちが分担制作している(障壁画は保存のため円融蔵に移動)[23][24]
  • 宸殿 - 1926年大正15年)の建築。宮中の紫宸殿を模して宮殿風に造られた建物で、宮中仏事を引き継ぐ行事である5月30日の御懴法講はここで行われる[25]。中の間には本尊秘仏薬師如来像を安置する。東側の玉座の間には下村観山の障壁画がある[26]。本尊薬師如来像は非公開だが、2002年9月8日~10月8日に開扉されたことがある[27]。西の間に安置されていた木造救世観音半跏像(重文)、木造不動明王立像(重文)は円融蔵に移された。
  • 往生極楽院(重文) - 入母屋造、杮(こけら)葺き、妻入(屋根側面が三角形に見える側を正面とする)。内部は船底天井[28]として、中尊の像高2.3メートルの阿弥陀三尊像を堂内の空間一杯に安置する。平安時代末期、12世紀の創建だが、江戸時代の1616年元和2年)に大幅な修理を受けており、建物の外回りはほとんど江戸時代のものに変わってしまっている。
  • 庭園 - 客殿周囲の庭は池泉観賞式庭園で聚碧園(しゅうへきえん)と称する。金森宗和の作庭と伝えるが確証はない。一方、宸殿前から往生極楽院にかけて広がる庭は池泉回遊式庭園で有清園と称する。有清園の名称は中国南朝・宋の詩人謝霊運の「山水有清音」という句に由来する。両庭園の境は生垣と石垣で区切られている[29][30][31]
  • 金色不動堂 - 1989年の建立。
  • 円融蔵 - 2006年に完成した収蔵庫兼展示施設。三千院に伝わる仏像、仏画、障壁画、典籍文書類などを収蔵展示するほか、往生極楽院の天井画と壁画(オリジナルの絵画は剥落・褪色が著しい)の復元画がある[32]

文化財[編集]

国宝[編集]

阿弥陀如来及両脇侍(阿弥陀三尊)像
  • 木造阿弥陀如来及両脇侍坐像 - 往生極楽院の本尊。脇侍の勢至菩薩像像内の銘文から平安時代末期の1148年久安4年)の作とわかる。阿弥陀如来、観音菩薩(聖観音)、勢至菩薩の三尊が西方極楽浄土から亡者を迎えに来る(来迎)形式の像で、両脇侍が日本式の正座をしている点が特色である。2002年に国宝に指定されている[33]

重要文化財[編集]

  • 往生極楽院阿弥陀堂
  • 木造救世観音半跏像(附:紙本墨書寛元四年中原行範造像願文)
  • 木造不動明王立像
  • 木造不動明王立像(2008年指定)[34]
  • 慈覚大師伝 紙背長承二年(1133年)具中歴
  • 性空上人伝記遺続集
  • 四天王寺縁起残巻 承安三年(1173年)惟宗季重書写
  • 古文孝経 建治三年(1277年)書写奥書
  • 帝王系図
  • 三千院円融蔵典籍文書類8,371点[35]

典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

札所[編集]

交通[編集]

京都バス1016・17・181995系統「大原」バス停より徒歩10分

脚注[編集]

  1. ^ (岩田、2006)、p.118
  2. ^ (杉田、2006)、p.91
  3. ^ (杉田、2006)、p.95
  4. ^ 『古寺巡礼 京都 4 三千院』、p.137
  5. ^ (杉田、2006)、p.95
  6. ^ (杉田、2006)、pp.95, 96
  7. ^ (杉田、2006)、pp.96, 97
  8. ^ (杉田、2006)、pp.91 - 95
  9. ^ (杉田、2006)、p.96
  10. ^ 『古寺巡礼 京都 4 三千院』、p.137
  11. ^ (杉田、2006)、p.97
  12. ^ (杉田、2006)、p.97
  13. ^ (杉田、2006)、p.98
  14. ^ (杉田、2006)、p.102
  15. ^ (白幡、2006)、pp.126, 127
  16. ^ 『古寺巡礼 京都 4 三千院』、p.34
  17. ^ (杉田、2006)、p.101
  18. ^ (岩田、2006)、p.121
  19. ^ (白幡、2006)、p.126
  20. ^ 『古寺巡礼 京都 4 三千院』、pp.17, 19
  21. ^ (杉田、2006)、p.99
  22. ^ (杉田、2006)、pp.101, 103
  23. ^ (杉田、2006)、p.100
  24. ^ (米屋、2006)、p.135
  25. ^ 『古寺巡礼 京都 4 三千院』、p.22
  26. ^ (米屋、2006)、p.135
  27. ^ 「三千院の由来」(寺公式サイト)
  28. ^ 船底のような形状に板を貼り、中央部を高くした天井
  29. ^ 『古寺巡礼 京都 4 三千院』、pp.25, 28
  30. ^ (白幡、2006)、pp.124, 125
  31. ^ 「山水有清音」の由来について、参考文献は謝霊運の詩を出典とするが、実際の出典は左思の「招隠詩」であると思われる。たとえば以下の論文を参照。
    • 安藤信廣「中国文学と自然 謝霊運を中心に」『日本文學』84、東京女子大学、1995(参照:[1]
  32. ^ (杉田、2006)、p.103
  33. ^ 平成14年6月16日文部科学省告示第114号
  34. ^ 平成20年7月10日文部科学省告示第115号
  35. ^ 当初指定時(1988年)の員数は3,021点。2015年に5,350点が追加指定され、計8,371点となった(平成27年9月4日文部科学省告示第145号)

参考文献[編集]

  • 井上靖、塚本善隆監修、瀬戸内寂聴、水谷教章著『古寺巡礼京都17 三千院』、淡交社、1977
  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛北』駸々堂、1982
  • 小堀光詮・黛まどか『古寺巡礼 京都 4 三千院』、淡交社、2006
    • 杉田博明「三千院の歴史」
    • 岩田宗一「大原と天台声明」
    • 白幡洋三郎「三千院の庭園」
    • 米屋優「三千院の文化財」
  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]