館林藩

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館林藩(たてばやしはん)は、上野国邑楽郡に存在した徳川家と深い関わりの徳川綱吉徳川徳松の時代には25万石であった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。

概要と藩史

小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政に館林10万石を与えた。これが館林藩の立藩である。康政は検地や館林城の拡張工事、さらに城下町の整備や治水工事、日光脇往還などの街道新設などに尽力し、藩政の基礎を固めた。康政は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い徳川秀忠軍に属して真田昌幸と戦った。戦後、康政は加増移封の話もあったが、館林は江戸に近くて何かと都合が良いという理由から、これを断っている。康政の死後、後を継いだ榊原康勝大坂の陣において戦功を挙げたが、直後の元和元年(1615年)5月27日、嗣子無くして死去した。このため、榊原氏は断絶の危機に立たされたが、幕府は由緒ある榊原氏の家名が絶えることを惜しんで、康政の孫で大須賀氏を継いでいた大須賀忠次を康勝の養嗣子として後を継がせた。忠次は元和2年(1616年)1月、家康から終身松平の称号を許されたため、松平忠次とも呼ばれ、寛永2年(1625年)12月11日には1万石の加増を受けた。寛永20年(1643年)7月4日、忠次は陸奥国白河藩に移され、館林藩は廃藩・天領となった。

翌年2月28日、遠州浜松藩から松平乗寿が6万石で入り、再び館林藩を立藩した。承応3年(1654年)1月26日、乗寿は死去して子の松平乗久が後を継ぐ。このとき、乗久は弟の松平乗政に5000石を分与したため、5万5000石となった。そして寛文元年(1661年)閏8月3日、乗久は下総国佐倉藩へ移され、代わって第4代将軍・徳川家綱の弟・徳川綱吉が25万石で入った。綱吉は延宝8年(1680年)、兄が嗣子無くして死去したため、その後を継いで第5代将軍となった。このため、館林藩の家督は綱吉の子・徳川徳松が将軍世子の身分のまま同藩を継いだが、徳松は天和3年(1683年)閏5月28日、わずか4歳で夭折したため、館林藩は再び廃藩、所領は天領となり、館林城は破却された。

宝永4年(1707年)1月11日、徳川綱重の次男・松平清武が2万4000石で入部する。その後、宝永7年と正徳2年の2度にわたって加増を受け、5万4000石の大名となった。第3代藩主・松平武元の代である享保13年(1728年)9月、陸奥棚倉藩へ移された。入れ替わりで若年寄太田資晴が5万石で入るが、享保19年9月に大坂城代となったため、所領を大坂周辺に移さざるを得なくなり、再び館林藩は廃藩となった。元文5年(1740年)5月、資晴の子・太田資俊が5万石で入って再び館林藩が立藩されたが、延享3年(1746年)9月25日に遠州掛川藩に移され、代わって西の丸老中となっていた武元が5万4000石で再び入った。翌年、武元は本丸老中に栄進し、明和6年(1769年)12月1日には7000石の加増を受けて、6万1000石の所領を領することとなった。第3代藩主・松平斉厚の代である天保7年(1836年)3月、松平(越智)氏は石見国浜田藩へ移された。

代わって棚倉より井上正春が6万石で入る。しかし弘化2年(1845年)11月、遠州浜松藩へ移され、代わって出羽国山形藩から秋元志朝が6万石で入った。志朝は民政に力を注ぎ、文武奨励などを行なって藩政改革に成功を収めた。また、長州藩とも縁戚関係にあったため、水戸藩と共に関東における尊皇攘夷派の急先鋒となった。ところが長州藩と親しかったことが幕府からの嫌疑を招き、元治元年(1864年)7月の禁門の変で志朝は同年10月27日、家督を養嗣子の秋元礼朝に譲って強制隠居処分となった。

明治元年(1868年)の戊辰戦争では、遅参したことを咎められたが金2万両を献上したことによりこれを許され、政府軍の一員として奥羽征伐で軍功を挙げた。これにより翌年、1万石の加増を受ける。なお、礼朝は同年の版籍奉還で藩知事となり、明治4年の廃藩置県で館林藩は廃藩となって館林県栃木県を経た明治9年、群馬県に編入されたのである。

榊原家や綱吉公といった徳川家と深い関係を持った藩でありながら、藩主の長期による支配が無く天領や廃藩になることも少なくない比較的不安定な藩といえる。

歴代藩主

榊原(さかきばら)家

譜代。10万石→11万石。

  1. 榊原康政(やすまさ)<正四位。式部大輔>
  2. 榊原康勝(やすかつ)<従五位下。遠江守>
  3. 榊原忠次(ただつぐ)<従四位下。式部大輔。侍従>

松平(大給)(まつだいら(おぎゅう))家

6万石→5万5000石。譜代。

  1. 松平乗寿(のりなが)<従五位下。和泉守>
  2. 松平乗久(のりひさ)<従五位下。和泉守>

徳川(とくがわ)家

25万石。親藩

  1. 徳川綱吉(つなよし)<従四位下。右馬頭。参議>
  2. 徳川徳松(とくまつ)<なし>

天領(てんりょう)

松平(越智)(まつだいら(おち))家

2万4000石→3万4000石→5万4000石。

  1. 松平清武(きよたけ)<従四位下。右近将監>
  2. 松平武雅(たけまさ)<従五位下。肥後守>
  3. 松平武元(たけちか)<従四位下。右近将監。侍従>

太田(おおた)家

5万石。譜代。

  1. 太田資晴(すけはる)<従四位下。備中守>

天領(てんりょう)

太田(おおた)家

5万石。譜代。

  1. 太田資俊(すけとし)<従五位下。摂津守>

松平(越智)(まつだいら(おち))家

5万4000石→6万1000石。親藩。

  1. 松平武元(たけちか)
  2. 松平武寛(たけひろ)<右近将監>
  3. 松平斉厚(なりあつ)<従四位上。右近将監。少将>

井上(いのうえ)家

6万石。譜代。

  1. 井上正春(まさはる)<従四位下。河内守。侍従>

秋元(あきもと)家

6万石→7万石。譜代。

  1. 秋元志朝(ゆきとも)<従四位下。但馬守>
  2. 秋元礼朝(ひろとも)<従五位下。但馬守>

幕末の領地

明治維新後に新田郡10村(旧岩鼻県6村、旧旗本領4村)、山田郡16村(旧岩鼻県15村、旧旗本領2村、旧佐野藩領1村)、邑楽郡57村(旧岩鼻県50村、旧前橋藩領9村)、梁田郡28村(旧旗本領26村、旧高富藩領5村、旧古河藩領3村、旧足利藩領2村)、丹南郡1村(旧旗本領)が加わった。なお相給があるため村数の合計は一致しない。

関連項目

先代
上野国
行政区の変遷
1707年 - 1871年
(館林藩→館林県)
次代
栃木県