青木一男
青木 一男 あおき かずお |
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青木 一男(あおき かずお、1889年(明治22年)11月28日 - 1982年(昭和57年)6月25日)は、日本の政治家、官僚。
参議院議員(4期)。大蔵大臣、大東亜大臣を歴任。勲一等旭日大綬章。
娘婿に加藤一郎(元東大総長)。小宮山洋子は孫(加藤一郎の娘)。
来歴・人物
長野県更級郡牧郷村(現・長野市)の農家に生まれる。高等小学校卒業後は農業に従事して母と祖母の手助けをするつもりでいたが、出奔していた父親から「学資を送るので進学せよ」との手紙が届き、長野中学校(現・長野県立長野高等学校)に進学する。のち第一高等学校を経て、1916年に東京帝国大学法学部を卒業し、大蔵省に入省する。
入省後、預金部運用課長、蔵相秘書官兼秘書課長、理財局国庫課長に就任。高橋是清蔵相時代にあたる国庫課長時に、迫水久常を甲府税務署長から呼び寄せ外国為替管理法案を策定。1933年春に法案は国会を通過し、同年5月1日に施行された。同年月日に青木も初代外国為替管理部長に就いた。当時、総合的な外為の国家管理を実施していた国はなく、外為法は米穀統制法(1933年公布)と共に、石油業法(1934年公布)などの各業法や、のちの国家総動員法など、我が国における真の意味における経済統制法の嚆矢だとされている[1][2]。1934年、理財局長となる。
賀屋興宣・石渡荘太郎とともに「大蔵省の三羽烏」と謳われたが、廣田内閣の馬場鍈一蔵相、長沼弘毅蔵相秘書官による“刷新人事”により対満事務局次長に転出を余儀なくされる。1937年近衛文麿首相の要請により、企画院の創設に携わり次長に就任、1939年には総裁となる。同年貴族院議員に勅選される。
1939年、阿部内閣にて大蔵大臣兼企画院総裁として初入閣する。その後汪兆銘政権への特派大使顧問として南京に赴任し、経済政策を指導する。1942年には東條内閣にて初代大東亜大臣に就任し、大東亜会議等の施策に携わる。
戦後はA級戦犯容疑者として収容されるも、1948年釈放される。その後は弁護士を務める。追放解除後の1953年、第3回参議院議員通常選挙に自由党から全国区にて立候補し当選する。以後当選4回。
保守合同を経て自由民主党に移り、石井派に属した。参院予算、大蔵、内閣各委員長や、自由民主党参院議員会長を歴任。1960年には千葉三郎・木村篤太郎らと右派グループ「素心会」を結成、親台湾派の立場から日中国交回復に激しく反発した。また高速道路網の構築に情熱を傾け、特に中央自動車道の建設実現に貢献した。1963年には「中央自動車道建設推進委員会」の委員長として、それまでは中央道富士吉田線を延長する南アルプス経由で決まっていたルートを、甲府・諏訪を経由する現在の迂回ルートに変更する際に主導的役割を果たした。
追放解除後は信越放送の顧問を務めていたが1968年に長野県第二の民間放送会社長野放送が設立されると初代の会長に就任。1980年の引退まで務めている。翌1981年秋に回顧録『わが九十年の生涯を顧みて』(講談社)を刊行している。
脚注
- ^ この外国為替管理法は、典型的な委任立法の先駆けであり、実行行為者のほか、業務主体たる法人や本人にも罰金刑を科す両罰規定は、刑事立法の新例を開いたものである。『青木一男 その信念と行動』(青木一男後援会、1970年6月30日) P21~P22、『昭和大蔵外史 上巻』(昭和大蔵省外史刊行会、財経詳社、1967年) P446 などを参照。
- ^ この外為法は、当時いずれの国もドル不足に悩んでいたことから、わが国でも1931年の金解禁停止に対応して外貨管理上必要な措置であったが、これによって輸入は政府の外貨割り当てをうけねばならなかった。但し、役人は優先分野を特定した「必要な輸入」を機械的に考えるため、のちの素材生産や兵器生産の深刻な立ち遅れにつながったと指摘されている(重要産業統制法も参照)。『帝国陸軍の栄光と転落』(別宮暖朗、文春新書、2010年4月20日) P219 ~ P220
外部リンク
議会 | ||
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