石井菊次郎

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石井 菊次郎

石井 菊次郎(いしい きくじろう、1866年4月24日慶応2年3月10日) - 1945年昭和20年)5月25日)は、戦前日本外交官外務大臣の一人。石井・ランシング協定にその名を残す。

子爵。親米・親英仏派と言われた。枢密院会議では日独伊三国軍事同盟に反対した[1]

経歴

1917年石井・ランシング協定締結時のワシントンにおける石井菊次郎とロバート・ランシングによる記念写真
ワシントンで沿道の市民に会釈する石井 (1917)

著書に『外交余録』がある。

イタリア大使を務め戦後A級戦犯となった白鳥敏夫は甥に当たる。また親戚に詩人西條八十、外交官久保田貫一郎、医学者樫村清徳、俳人正岡子規などがいる。

  1. ^ "ドイツとの同盟で得をするのはドイツだけである。かつてビスマルクは国際間の同盟関係には騎手とロバが必要であり,ドイツは常に騎手でなければならないと語ったではないか。"


先代
大隈重信
外務大臣
第30代:1915 - 1916
次代
寺内正毅