石井菊次郎
石井 菊次郎(いしい きくじろう、1866年4月24日(慶応2年3月10日) - 1945年(昭和20年)5月25日)は、戦前日本の外交官、外務大臣の一人。石井・ランシング協定にその名を残す。
子爵。親米・親英仏派と言われた。枢密院会議では日独伊三国軍事同盟に反対した[1]。
経歴
- 上総国長柄郡真名村(のち千葉県茂原市)に生まれる。旧姓は大和久。千葉中学、大学予備門、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。
- 1890年8月 外務省入省。
- 1891年 石井邦猷の養子となる。
- 1891年11月 パリ公使館赴任
- 1896年 仁川領事任命。
- 1897年 清国公使館駐在。
- 1900年 北京で義和団の乱に遭遇する。
- 1908年(明治41年) 第1次西園寺内閣、第2次桂内閣の外務次官。
- 1911年(明治44年)6月13日 勲一等瑞宝章受章。
- 1911年(明治44年)8月24日 男爵受爵。
- 1912年 駐フランス特命全権大使。第一次世界大戦が勃発した際の大使として第一報を送ったとされる。
- 1915年10月13日(大正4年)に第2次大隈内閣の外務大臣就任。次官は幣原喜重郎。日露協約の締結に尽力。
- 1916年(大正5年) 子爵受爵。貴族院議員に勅選(昭和4年辞職)
- 1917年(大正6年)8月 アメリカ特派大使として渡米。石井・ランシング協定を結ぶ。
- 1918年2月 駐米特命全権大使を拝命。(1919年に離任)
- 1920年(大正9年)駐仏特命全権大使、国際連盟日本代表。国際連盟の議長や、ジュネーブ海軍軍縮会議の日本全権。
- 1927年12月(昭和2年)退官。
- 1929年(昭和4年)枢密顧問官
- 1933年(昭和8年) 世界経済会議日本代表
- 1945年(昭和20年)5月25日の東京空襲の際に明治神宮で行方不明となり、死去したと考えられている。外交関係者では織田萬(おだ よろず)博士夫妻も落命している。
著書に『外交余録』がある。
イタリア大使を務め戦後A級戦犯となった白鳥敏夫は甥に当たる。また親戚に詩人西條八十、外交官久保田貫一郎、医学者樫村清徳、俳人正岡子規などがいる。
註
- ^ "ドイツとの同盟で得をするのはドイツだけである。かつてビスマルクは国際間の同盟関係には騎手とロバが必要であり,ドイツは常に騎手でなければならないと語ったではないか。"
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