東部戦線 (第一次世界大戦)

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東部戦線

軍議中のヒンデンブルクヴィルヘルム2世ルーデンドルフ(左から)
戦争第一次世界大戦
年月日1914年から1918年
場所中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパ
結果:独墺軍(中央同盟国)の決定的勝利、ブレスト=リトフスク条約,ロシア帝国の崩壊
交戦勢力
ドイツの旗 ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
オスマン帝国の旗 オスマン帝国
ロシア帝国の旗 ロシア帝国(~1917)
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(1917~1918)
指導者・指揮官
ドイツの旗 パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツの旗 エーリヒ・ルーデンドルフ
ロシア帝国の旗 ニコライ2世

東部戦線(とうぶせんせん)とは1914年8月に勃発した第一次世界大戦において、中央ヨーロッパから東部ヨーロッパにかけて構築された戦線をさす。

概要

西部戦線が塹壕線で膠着した一方で、東部戦線の戦況は流動的なままであった。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィアおよびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。この敗北以後、ロシア軍が積極的な攻勢に出ることは少なくなり、独墺軍の優勢のまま戦線は長期化した。

ロシア軍はブルシーロフ攻勢においてオーストリア=ハンガリー帝国軍を相手に勝利を収めるが、他に目立った戦果は挙げられず、軍の近代化の面で一歩先を行くドイツ軍に対し、次第に圧迫されていく。

1917年、戦争による経済疲弊などで国民の不満は高まり、遂にロシア革命が起こる。3月、皇帝ニコライ2世は退位し、10月になってボリシェビキが政権を掌握する。ボリシェビキ政府は即座に中央同盟国側との休戦交渉を開始するが、交渉が停滞するうちに反ボリシェビキのウクライナ人民共和国が同盟国側につき、中央同盟国との戦争は再開され、ボリシェビキ政府は窮地に立たされた。

1918年3月、ボリシェビキ政府と同盟国との間で、中央同盟国への広大な領土を割譲するという厳しい内容のブレスト・リトフスク条約が結ばれ、東部戦線は終結した。

1914年

1914年、東部戦線。両軍の集中。

緒戦、東プロイセン方面

ドイツ軍の考えていたシェリーフェン・プランはロシア軍の動員の遅さを前提としていたが、この予想に反して8月中旬にはロシア軍は動員を完了した。8月17日、ロシア西北正面軍の第1軍はスワルキー地方から独領東プロイセンに進攻し、グンビンネン付近の独軍陣地を攻撃。同第2軍は8月19日ナレウ河谷から東プロイセンに進入し、ドイツ国境守備隊を駆逐しつつ前進していた。

グンビンネンの敗戦により新しく東プロイセン独軍司令官となったヒンデンブルク大将はロシア第1軍、第2軍の不連携に乗じて各個撃破を計画した。すなわちロシア第1軍に対しては後備1個軍団及び騎兵1個師団のみをあてて防御し、グンビンネン付近にいた現役2個軍団を招致して主力をもってロシア第2軍を殲滅しようという案である。

ドイツ軍は2個軍団をもってタンネンベルク付近に陣地を構築し、グンビンネン付近から鉄道で移動した2個軍団を各1個軍団宛陣地の両翼に使用して露第2軍を包囲しようとした。露第2軍は8月26日からタンネンベルク付近の陣地を攻撃していたがドイツ軍に包囲される。30日、ついに湖沼森林地域に追い詰められた露第2軍はほとんど殲滅された。

この間北方にいた露第1軍はアルレ湖畔に停止し、第2軍を救援するという積極的な行動を起こさなかった。ロシア第1軍がなぜ第2軍を助けなかったかについて、ソ連ゼンコウィチは「第1軍が第2軍に協力援助を与えなかった主要な原因は、正面軍司令部の誤った状況判断と時機を逸した命令部署に他ならない。そしてこれらは連絡と敵情偵察が不十分であった結果として起こったものである。」と述べている[1]

独ヒンデンブルク将軍はタンネンベルク勝利後、兵を北方を移動させ露第1軍を殲滅しようと決した。ドイツ軍は不意にロシア軍の左翼に出てこれを包囲しようとしたが、ロシア第1軍は第2軍と同じ失敗を恐れて自国内へと撤退した。

緒戦、ガリツィア方面

対ロシア作戦のため使用されるオーストリア=ハンガリー帝国軍は8月20日おおむね動員を完了し、墺第3軍及びケーベス兵団もって東方のロシア第3軍、第8軍にあてて主力はルブリンホルム方面から南下するロシア第5軍、第4軍に向かって前進した。一方のロシア軍は主力が第3軍、第8軍で、リヴィウ[2]を目指して前進した。墺露軍の間で遭遇戦が惹起したが、リヴィウ東方のオーストリア軍は優勢なロシア軍によって漸次西方に圧迫された。9月2日、オーストリア軍はついにガリツィアの首府レンベルクを放棄した。このため北方オーストリア軍は主力方面から逐次兵力を東方に転用しなければならない状況に陥る。オーストリア軍の兵力は広正面に分散し、いたるところ脆弱となって漸次西方に向かって退却した。

これより先セルビア戦線から招致した2個軍団の到着を待ってオーストリア軍は、9月8日リヴィウ方面で攻勢に出た。激戦となったがオーストリア軍はロシア軍に右翼を包囲され、9月10日サン河の線に向かって退却した。ロシア軍は各方面からこれを追撃するとともにワイクゼル河畔に集中していた第9軍をもってサン川両岸地区を南下し、オーストリア軍の左翼を衝こうとした。このためオーストリア軍はサン川の線にも停止することができず、多大な損害を被ってプシェムィシル要塞に約5万の兵を残して退却した。

ロシア軍はこれを追撃して8月22日約5個軍団をもってプシェムィシル要塞を包囲し、さらに要塞南北の地域からサン川西方に進出した。この追撃途中、ロシア軍はドイツ軍がポーランド方面に兵力集結中であるのを知り、同24日第4軍を北方イヴァンゴロド方面に転用した。

10月以後

ロシア軍はガリツィアにおいてオーストリア軍主力を撃破して追撃中、ドイツ軍は9月中旬以後鉄道網を利用して大部隊をシュレジェン州に集中しようとしていた。ロシア軍はこれを察知して露第4軍をイヴァンゴロド方面の露第2軍左翼に転進させ、西南方面軍主力はサン川左岸に進出した。 一方ドイツ軍は他方面から増援を得て東ポーランド方面で攻勢を計画。28日より行動を開始しピリッツァ河以南地区でロシア軍を突破しようとした。オーストリア軍も10月4日頃よりワイクゼル上流右岸地区で前進を開始した。

ロシア軍はポーランド方面のドイツ軍に対し攻勢を決したが、作戦は進展しなかった。ロシア軍はガリツィア方面の諸軍をサン川右岸に後退してプシェムィシル要塞の包囲を解き、露第5軍をルブリン付近に集結してワルシャワ方面からドイツ軍左翼に向かって攻勢に転じた。そのため独墺軍は左翼を包囲されて国境線に向かって退却。プシェムィシル要塞はまたもロシア軍に包囲された。

10月下旬、ドイツ軍は他方面より兵を招致し、追撃前進中の露軍右翼に対し攻勢をとることに決した。ロシア軍はドイツ軍の退却に乗じて西方と南方で追撃していたが、露右翼軍がワルタ河の線に達するやドイツ軍は西部戦線からの増援を待たずしてトルン付近に集結していた兵力で攻勢に転じた。ドイツ軍はロシア軍の右翼を圧迫してロッヅ付近で露約4コ軍団を包囲したが、露増援軍に反対に包囲された。包囲されたドイツ軍は11月24日東方に向かってロシア軍戦線を突破して友軍に収容された。

ドイツ軍はロッヅ会戦が失敗に帰するや中央方面でロシア軍配備が薄くなっていることに乗じて、チェンストホーフ方面よりカーリッシュ付近に集結した約6個師団と西部戦線からトルン付近に輸送された約9個師団を加えて11月下旬からロシア軍を攻撃して、これを撃退した。


1915年

1915年、ゴルリッツ突破作戦。

マズール湖の戦い

ドイツ軍は新たに第8軍と第10軍を編成し、これをもって東プロイセン奪還を計画した。作戦に先立ち、ドイツ軍最初の大規模毒ガス放射がボリモウ(Bolimow)付近で行われている。2月7日、独第8軍が前進を開始し、次いで独第12軍が8日より露第10軍を包囲するように前進した。悪天候を期して行われた攻勢はロシア軍の不意を突いた。ドイツ軍は露第10軍の第20軍団をアウグストウ(Augustow)大森林内に追い詰めて、22日これを降伏させた。ロシア軍は兵5万以上と火砲185門を失った。

プシェムィシル要塞戦

1914年11月のロシア軍第2回攻囲以来プシェムィシル要塞はオーストリア軍が数回出撃したが成功せず。3月22日、守城4か月にしてついに開城のやむなきに至った。10万以上のオーストリア兵が捕虜となり、多数の火砲が失われた。ロシア軍は攻城軍の第11軍をカルパティア方面に転用した。

カルパティア方面

1月上旬ブコヴィナ方面では、ロシア軍は約3個歩兵師団と2個騎兵師団をもってトランシルヴァニアに進攻したが墺第7軍によって撃退された。

カルパティア山脈方面では1月下旬より独墺軍は攻勢を開始し、2月上旬カルパティア主山脈を奪取して同月中旬主山脈の北方に進出した。この方面から突破しようとしたがロシア軍は頑強に抵抗し、プシェムィシル要塞の開城による浮いた兵力をカルパティア方面に増加することによってロシア軍は攻勢に転じた。同盟軍は墺第2軍を増加してこれに対抗したが、4月初めには主山系の大半をロシア軍に占領されてしまう。同盟軍はますます兵力を増加して4月中旬ドウクラ峠方面で攻勢に転じたが不成功に終わった。この間プランツェル軍はブコビナ方面で攻撃を継続して露軍左翼を脅威していたが、5月マッケンゼンのゴルリッツ突破作戦によってカルパティアの形勢は一変することとなった。

ゴルリッツ突破作戦

ドイツ軍は行き詰った西部戦線から東部戦線に目を向け、ロシア軍に一大打撃を与えようと攻勢を計画した。このためドイツ軍は西部ガリツィアに精鋭10個師団、重軽砲450門を集中し、5月1日よりロシア第3軍正面のゴルリッツ付近に攻撃を開始。4日、ロシア軍第3線陣地帯を突破したのでカルパティア方面のロシア第8軍は側背を脅威されて露第3軍と共にサン川の線に向かって退却した。独墺軍はこれを急追してロシア軍に大損害を与え、14日サン河左岸の線に達し、19日までにプシェムィシル以北ラジムノ・シーニャワ間約30kmの正面においてサン右岸に前進した。ロシア軍は他方面から約17個師団の増援を得てサン下流地区より墺第4軍に向かって攻勢に転じたが成功しなかった。独墺軍は一時攻撃を中止して次回の攻撃を準備するにいたった。

イタリアが5月23日協商側に立って参戦した結果、独墺軍は時機を遷延すれば挽回できない状況に陥ると察し、ガリツィア方面の戦勝に乗じて作戦初期の目的であるロシア軍へ一大打撃を与えようと行動を起こした。独墺軍は6月2日プシェムィシル要塞を奪取し、19日リヴィウ付近のロシア軍を撃破して北方と東方の二方面に分断して追撃した。

ナレウ正面ドイツ軍約14個師団は7月13日よりロシア軍を攻撃してプルツスク・ロザン二橋頭陣地を奪取。南方のマッケンゼン軍と共にワルシャワの背後に迫らんとし、ポーランド方面のドイツ軍もまた正面から前進した。 このため8月1日ロシア軍は全線をコウノ・フロドナブレスト・リトウスクの要塞線に後退させた。ワルシャワ、イヴァンゴロドの二要塞は5日ドイツ軍によって占領された。

またクールラント方面では、4月下旬よりゴルリッツ作戦の陽動のため独ベロウ軍がクールラントに進攻。ダウガヴァ川の線にロシア軍を圧迫した。これらロシア軍の大撤退によって1915年の作戦は一段落を告げることとなった。

1916年

ロシア軍の大攻勢

3月12日の連合軍軍事会議において、ヴェルダンでフランス軍と激戦を繰り広げているドイツ軍に対してイギリス軍とロシア軍が牽制攻撃することが決定される。ロシア軍は5月15日頃攻撃に出ることとなった。仏ジョフル将軍の要請により3月以降66個歩兵師団、9個騎兵師団半をもってリガ方面で牽制的攻勢を実施したが、思うような戦果を得ることができなかった。さらにロシア南西方面軍は6月4日ガリツィアにおいて、ロシア西方正面軍は6月18日ピンスク北方地域において一大攻勢を実施した[3]

6月4日のロシア西南方面軍の作戦がいわゆるブルシーロフ攻勢と呼ばれるものである。ブルシロフ将軍は1916年4月南西正面軍に任命されてガリツィアでの攻勢を計画したが、これまでのロシア軍攻勢の失敗をよく分析して準備した。まずオーストリア軍を混乱させるため攻撃準備射撃は計画的に行う。つまり砲撃はランダムに小休止をませてオーストリア兵が塹壕から出られないようにする。全線でこれと同じ砲撃の方法をとって主攻撃がどこかを悟られないようにして効果的に予備隊を使うのを妨げた。それから多くの線で自軍塹壕を墺軍塹壕から50mあたりまで掘り進め、速やかに前進できるよう前線近くに予備隊が置かれた。またオーストリア軍の塹壕モデルが作られてロシア歩兵はこれによって訓練した。航空写真などによる墺軍砲兵位置の把握などもなされた[4]

6月12日までに捕虜約20万人、火砲216門、機関銃645挺を獲得して大成功をおさめたが、ロシア軍夏季攻勢の主攻撃たる西方正面軍の攻勢は思わしい結果を残せなかった。しかしながらこの攻勢はドイツ軍の予備兵力を吸引することができ、またオーストリア軍のトレンチノ攻勢を一時牽制してイタリア軍の危急を救うことができた。ブルシロフ攻勢については「ブコビナ地方とガリツィア東部を占領して35万の捕虜を得たが、好機を逃したあとのだらだらとした攻勢によって100万兵以上の兵が戦死した。この損失はロシア軍の精神的戦闘力を崩壊させ、その結果として革命と瓦解を招いた」との意見がある[5]

ルーマニアの参戦

第1次世界大戦の勃発以来ルーマニアは中立を守っていたが、中央同盟国協商国との戦いの間で漁夫の利を得ようと参戦の機会を虎視眈々と狙っていた。1916年連合国の夏季攻勢が始まってから、特にブルシーロフ攻勢の戦果はルーマニアを刺激し、これによってルーマニアは協商国側に立って参戦することに決めた。ロシアはこれに喜んだが、ルーマニアの戦備不足は思わぬ結果を残すこととなる[6]

8月27日ルーマニア軍はトランシルヴァニアに進攻したが、オーストリア第1軍はシビウ付近の山系によって防御した。この間に独マッケンゼンの多国籍軍がブルガリア方面よりドブロジャに北進し、またドイツ第9軍がシビウに逐次兵力を集中して反撃を開始した。ドイツ第9軍はシビウ付近山中においてルーマニア第1軍を殲滅して、さらに同第2軍を蹂躙。マッケンゼン軍はこれに呼応してドナウ河を渡河し、12月6日独墺軍はついにルーマニア首都ブカレストを占領した。悪天候とロシア軍の救援によってシトレ河の線でようやく膠着したが、ルーマニア軍は全軍の4分の3を失い、また国土の大半を失うこととなった。この作戦によってルーマニアの豊富な小麦と石油が同盟軍に奪い取られ、参戦に期待をもっていた連合国側は物質上の利点を失うだけでなく心理的にも大きな敗北を喫した[7]

1917年

1917年、ケレンスキー攻勢。

3月革命

ケレンスキー攻勢

三月革命で成立した臨時政府に対し、連合軍は東部戦線における攻勢を要求してきた。臨時政府は勝利後のボスポラス海峡ダーダネルス海峡の割譲を条件に7月攻勢に出ることを連合国に約束した。5月19日、アレクサンドル・ケレンスキーが陸相に就任し、攻勢作戦にでる意欲を固めた。総司令官に帝政時代の将校アレクセイ・ブルシーロフを据えた。ブルシーロフは7月攻勢の目標としてレンベルクを設定し、ブルシーロフ攻勢同様、広正面での浸透をはかる作戦をたてた。

三月革命と前後して前線では脱走兵が急増していたが、それでもなおロシア軍の兵力は650万人と同盟軍を上回っていた。6月18日攻勢は開始され、ロシア軍は東ガリシアで独墺軍の前線を崩壊させた。このまま進撃するかのように思われたが、6月20日以降突如前線兵士とりわけ突撃部隊が前進を拒みはじめた。多くの兵士がこれ以上の戦争継続を望んでいなかったからである。

結局、独墺軍が7月6日に反攻に出たため戦線は再び元の位置に戻ってしまった。ケレンスキーはブルシーロフを解任し、ラーヴル・コルニーロフを据えたが、コルニーロフは戦力の温存を決め、攻勢を中断してしまう。7月19日、ドイツ軍は東部軍参謀長マックス・ホフマンの下、ズロチョフで攻勢に出た。約20Kmに亘りロシア軍の前線が崩壊した。ロシア兵は敗走し壊乱に近い状態となった。ガリシア東部でもオーストリア軍の攻撃が開始され、7月29日タルノボリが占領された。

リガ攻勢

9月1日フォン・フーチェル指揮の独第8軍は各方面から増援を得て、リガを目指して渡河作戦を行った。攻撃部隊の開進は攻撃開始9日前より開始され、第1線の後方約40kmから前方地帯への運動は夜間において実施した。攻撃正面に展開した砲兵の数は157個中隊、迫撃砲520ないし570門であり、攻撃開始前陣地に進出した後所要地点に試射を完了した。優勢な砲兵と毒ガス弾によってロシア軍砲兵は制圧され、ドイツ軍は楽々と渡河できた。4日までにドイツ軍はリガを占領し、ロシア軍に多大な損害を与えることができた。

アルビオン作戦

リガにおけるドイツ軍の勝利もロシア政府を動かすのに十分ではなかったためダメ押しとして作戦が計画された。コードネーム、アルビオン作戦である。目標はリガ湾河口の諸島群。このため10月12日の朝早くに2万人の兵が集められ、これに海軍の艦隊が支援に回った。21日までにドイツ軍は作戦を終了し、何千もの捕虜を獲得した。

10月革命

1918年

終戦

ブレストリトウスク条約によるロシア領の減少範囲


脚注

  1. ^ リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈下〉』pp.342-343
  2. ^ レンベルクとも表記される。
  3. ^ 参謀本部編『大戦間に於ける英仏露連合作戦』pp.156-162
  4. ^ Nik Cornish. The Russian Army 1914-18 p.38
  5. ^ リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈上〉』p.399
  6. ^ Nik Cornish. The Russian Army and the First World War や『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下』には戦備についてこうある。ルーマニア軍は火砲と弾薬の欠乏が甚だしく連合国にこれを注文していた。また重砲編成のためブカレスト要塞の兵備を撤したが、会戦ごとに砲弾の欠乏に見舞われた。機関銃は他国と比べて極めて少なく、砲兵も足りない。飛行隊はないも同然であった。弾薬は6週間分しかなく、国力に見合わぬ大型師団は鈍重だった。
  7. ^ リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈上〉』p.456

参考文献

  • 参謀本部編『千九百十五年「カルパーテン」山地ニ於ケル冬季作戦』偕行社、1918年
  • 参謀本部編『千九百十五年二月 東普「マズール」地方ニ於ケル冬季作戦』偕行社、1918年
  • 参謀本部編『大局ヨリ見タル世界戦史((千九百十四年))』偕行社、1919年
  • 参謀本部編『大局ヨリ見タル世界戦史((千九百十五年))』偕行社、1920年
  • 参謀本部編『大局ヨリ見タル世界戦史((千九百十六年))』偕行社、1920年
  • 参謀本部編『大局ヨリ見タル世界戦史((千九百十七年))』偕行社、1920年
  • 参謀本部編『大局ヨリ見タル世界戦史((千九百十八年))』偕行社、1920年
  • 参謀本部編『大戦間に於ける英仏露連合作戦』偕行社、1925年
  • ジョルジュ・カステラン、萩原直(翻訳)『ルーマニア史』白水社、1993年
  • リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈上〉』中央公論新社、1970=1976年翻訳/2000年、ISBN 978-4120030864
  • リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈下〉』中央公論新社、1970=1976年翻訳/2000年、ISBN 978-4120031007
  • 歴史群像編集部『戦略・戦術・兵器詳解 図説・第一次世界大戦・下 1916-18 総力戦と新兵器』学習研究社、2008年、ISBN 9784056050516
  • Bruce Gudmundsson (1989). Stormtroop Tactics: Innovation in the Germany Army1914-1918. Praeger. ISBN 0275954013 
  • Norman Stone (1975/1998). Eastern Front 1914-1917. Penguin Books. ISBN 0140267255 
  • Nik Cornish (2006). The Russian Army and the First World War. Spellmount. ISBN 1862272883 
  • Nik Cornish (2001). The Russian Army 1914-18. Osprey. ISBN 1841763039 




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