朝日 (戦艦)
艦歴 | |
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計画 | 1897年度計画 |
建造所 | ジョン・ブラウン社クライド・バンク |
起工 | 1897年8月18日 |
進水 | 1899年3月13日 |
竣工 | 1900年7月31日 |
喪失 | 1942年5月25日戦没 |
除籍 | 1942年6月15日 |
要目 (戦艦時) | |
排水量 | 常備:15,200トン |
全長 | 129.62m (425ft 3in) |
全幅 | 22.92m (75ft 2in1/2) |
吃水 | 8.31m (27ft 3in) |
機関 | ベルビール缶25基 3気筒3段膨張レシプロ2基 2軸、15,000馬力 |
速力 | 18.0ノット |
航続距離 | 不明 |
燃料 | 石炭1,549トン |
乗員 | 836名 |
兵装 | 40口径30.5cm連装砲2基 40口径15.2cm単装砲14基 40口径7.6cm単装砲20基 47mm単装砲12基 45cm水上魚雷発射管4門 |
装甲 | HS(ハーベイ・ニッケル)鋼 舷側:最大9インチ(229mm) 甲板:最大4インチ(102mm) |
朝日(あさひ)は、日本海軍の戦艦。敷島型戦艦の2番艦である。日露戦争、第一次世界大戦では主力艦として参加し、日中戦争、太平洋戦争では工作艦として参加、40年以上に渡り活躍した。
朝日の艦名は、本居宣長の和歌の
敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花
の歌からと思われる。当時大和は既に艦名として使われていたため敷島に続いて朝日が艦名に選ばれたと推測される[1]。
艦歴
戦艦として
1897年(明治30年)度の「第一、二期海軍拡張計画」により第二号甲鉄戦艦としてイギリスのクライド・バンクのジョン・ブラウン社で建造された。公試の帰りに座礁する事故があり、竣工が予定より約3カ月遅れたという[2]。1900年(明治33年)7月31日に竣工し、引き渡し当日にイギリスを出発、同年10月23日に横須賀に到着した。日本海軍としては4隻目の近代的戦艦となった。
1904年(明治37年)からの日露戦争では第一艦隊第一戦隊として旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦、黄海海戦、日本海海戦に参加した。
第一次世界大戦では1918年(大正7年)に第三艦隊第五戦隊の旗艦としてウラジオストック方面の警備に従事した。1921年(大正10年)には海防艦へ類別が変更されている。
練習特務艦として
1923年(大正12年)にワシントン軍縮条約により練習艦として保有が許されたので兵装、装甲を撤去し練習特務艦となった。このころに第70潜(呂31)、第43潜(呂25)と潜水艦事故が続けて起こった為、1925年(大正14年)に潜水艦救難設備を設置した。これは舷側にブラケットを設置し、これを支点として片舷に沈没潜水艦を位置させ、反対舷に廃潜水艦を置いてワイヤで結び、つるべ式に比較的少ない力で沈没潜水艦を浮上させようという原理だった。朝日は呉にあって潜水艦事故に備えていたが後に工作艦に改造される時にこの設備は撤去、使用する機会は起こらなかった。
また、朝日は1928年(昭和3年)には試製呉式一号射出機を仮装備し、日本海軍で初の射出実験を行った。
工作艦として
朝日は1931年(昭和6年)頃に簡単な工作設備を設置した。1937年(昭和12年)には日華事変の勃発により中国での損傷艦が増加、また無条約時代に入っていたので呉海軍工廠で特急工事により工作艦に改造され8月15日に工事完了、8月16日には類別を工作艦に変更し中国へ進出、主に上海方面で修理任務に従事した。やがて朝日工作部は陸上に移り第一海軍工作部と改称したため朝日は日本へ戻り、1940年(昭和15年)11月15日からは連合艦隊付属となった。
要目
朝日の工作艦時の要目は以下の通り。
- 基準排水量:11,141トン
- 垂線間長:122.10m
- 最大幅:22.94m
- 吃水:6.93m
- 機関:ロ号艦本式ボイラー石炭専焼4基、3気筒3段レシプロ2基、2軸、15,000馬力
- 速力:12ノット
- 燃料搭載量:石炭1,722トン
- 計画乗員数:286名
- 兵装:7.6cm単装高角砲2門
喪失
太平洋戦争開戦により、朝日は第2艦隊に配属されカムラン湾に進出、1942年(昭和17年)2月にシンガポールが陥落すると翌月には同地に進出、工作艦明石と共に損傷修理に活躍した。朝日は同年5月22日[3]に自身の修理と北方方面への移動の為にシンガポールを出発し日本へ向かった。しかし、朝日は旧式低速(福井静夫によると当時の速力は8ノット程度[4])の大型艦であったため敵潜水艦の格好の目標となってしまい、5月25日の深夜にカムラン湾南東でアメリカの潜水艦サーモンから雷撃され朝日の左舷に2発の魚雷が命中、朝日は翌26日午前1時過ぎに転覆して沈没した。この時、朝日の乗員の多くは救助されたが戦死者十数名を出した。
行動年表
- 1897年8月18日 イギリスのジョン・ブラウン社で起工される。
- 1899年3月13日 進水。
- 1900年
- 7月31日 竣工、同日イギリスを発。
- 10月23日 横須賀に到着する。
- 1904年 第1艦隊第1戦隊所属で日露戦争に参加。
- 1905年5月27日、28日 日本海海戦に参加。
- 1918年 第一次世界大戦でウラジオストック作戦に参加。
- 1921年9月1日 一等海防艦に類別変更。
- 1923年4月1日 特務艦に編入し、練習特務艦となる。
- 1925年2月-8月 横須賀工廠で潜水艦救難設備を設置。
- 1926年7月-1928年3月 呉工廠で潜水艦救難設備を改造。
- 1937年8月16日 工作艦に類別変更。
- 1940年5月29日から11月7日 上海方面の警備に従事。
- 1941年 カムラン湾に進出、太平洋戦争に参加。
- 1942年
- 3月13日 シンガポールのセレター軍港に入港。
- 5月22日 シンガポールを出港。
- 5月26日 南シナ海で米潜水艦サーモンの雷撃で沈没した。
- 6月15日 除籍
歴代艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
回航委員長
艦長
- 三須宗太郎 大佐:1900年1月12日 - 1901年7月3日
- 橋元正明 大佐:1901年7月3日 - 1902年5月24日
- 小倉鋲一郎 大佐:1902年5月24日 - 1903年11月21日
- 山田彦八 大佐:1903年11月21日 - 1904年6月6日
- 野元綱明 大佐:1904年6月6日 - 1905年12月12日
- 竹内平太郎 大佐:1905年12月12日 - 1906年5月10日
- 滝川具和 大佐:1906年5月10日 - 11月22日
- 土屋保 大佐:1906年11月22日 - 1907年9月28日
- 宮地貞辰 大佐:1907年9月28日 - 1908年4月7日
- 森義太郎 大佐:1908年4月7日 - 9月15日
- 石田一郎 大佐:1908年9月15日 - 11月20日
- 牛田従三郎 大佐:1908年11月20日 - 1910年12月1日
- 伏見宮博恭王 大佐:1910年12月1日 - 1912年3月1日
- 関野謙吉 大佐:1912年3月1日 - 4月20日
- 中島市太郎 大佐:1912年5月22日 - 12月1日
- 町田駒次郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 浅野正恭 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
- 荒川仲吾 大佐:1914年12月1日 - 1915年12月13日
- 有馬純位 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
- 増田高頼 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 大角岑生 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
- (兼)島内桓太 大佐:1918年12月4日 - 1919年3月27日 (本職:金剛艦長)
- 古川弘 大佐:1919年3月27日 - 6月10日
- 小山武 大佐:1919年6月10日 - 12月1日
- 武光一 大佐:1919年12月1日 - 1920年11月20日
- 上田吉次 大佐:1920年11月20日 - 1921年11月20日
- 石田幸太郎 大佐:1921年11月20日[5] -
- 田中豊一 大佐:不詳 - 1922年11月10日[6]
- 森初次 大佐:1922年11月10日 - 1922年12月1日
- 常松憲三 大佐:1923年1月20日[7] -
特務艦長
- 常松憲三 大佐:不詳 - 1923年11月20日[8]
- 丹生猛彦 大佐:1923年11月20日[8] -
- 徳田伊之助 大佐:1924年6月16日 - 10月20日
- 太田質平 大佐:1924年10月20日 - 1925年7月15日
- 杉浦正雄 少佐:1925年7月15日 - 1926年11月1日
- 今川真金 大佐:1926年11月1日[9] - 1927年12月1日[10]
- 津留信人 大佐:1927年12月1日[10] - 1928年12月10日[11]
- 公家種次 大佐:1928年12月10日[11] - 1929年11月30日[12]
- 合葉庄司 大佐:1929年11月30日[12] - 1930年12月1日[13]
- 蜂屋義尾 大佐:1930年12月1日[13] - 1931年12月1日[14]
- 藤森清一朗 大佐:1931年12月1日 - 1932年5月10日
- (兼)佐倉武夫 大佐:1932年5月10日 - 5月20日 (本職:鬼怒艦長)
- 小橋義亮 中佐:1932年5月20日[15] - 1933年11月15日[16]
- 井上幸吉 大佐:1933年11月15日[16] - 1934年10月22日[17]
- 岡村政夫 中佐:1934年10月22日 - 1935年11月15日
- 殿村千三郎 中佐:1935年11月15日 - 1937年8月16日
- (兼)加藤仁太郎 大佐:1937年8月16日 - 1938年1月8日 (本職:第一港務部長)
- 平岡粂一 大佐:1938年1月8日 - 1938年11月1日[18]
- 龍崎留吉 大佐:1938年11月1日[18] - 1938年12年2日 戦死
- 畠山耕一郎 大佐:1938年12月5日 - 1939年11月15日
- 松山光治 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月15日
- 森野草六郎 大佐:1940年11月15日 - 1941年9月13日
- 田村劉吉 大佐:1941年9月13日 - 1942年6月15日
脚注
- ^ 聯合艦隊軍艦銘銘伝p341。
- ^ 『日本戦艦物語II』p66。
- ^ 『日本戦艦物語II』では5月23日になっているが、それ以外の文献では5月22日となっている。
- ^ 『日本戦艦物語II』p115。
- ^ 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
- ^ 『官報』第3085号、大正11年11月11日。
- ^ 『官報』第3140号、大正12年1月22日。
- ^ a b 『官報』第3375号、大正12年11月21日。
- ^ 『官報』第4258号、大正15年11月2日。
- ^ a b 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
- ^ a b 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
- ^ a b 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
- ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
- ^ 『官報』第1615号、昭和7年5月21日。
- ^ a b 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。
- ^ 『官報』第2344号、昭和9年10月23日。
- ^ a b 「昭和13年11月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 号外 第256号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500
参考文献
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑-日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年。 ISBN 4-87687-221-X
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0463-6
- 『日本海軍士官総覧 【復刻版】』、柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2340-7
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』第3刷、原書房、1981年。 ISBN 4-562-00302-2
- 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社、1992年。 ISBN 4-7698-0607-8
- 福井静夫『福井静夫著作集第2巻 日本戦艦物語II』光人社、1992年。 ISBN 4-7698-0608-6
- 福井静夫『福井静夫著作集第10巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0658-2
- 『官報』