宗教哲学

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宗教哲学(しゅうきょうてつがく、英語:philosophy of religion)とは、宗教の存在意義や本質を究明する哲学の一分野である。18世紀末ごろにヨーロッパにおいて成立した。特定宗教の信仰内容を学問的に基礎づけることを目的とする神学や、もろもろの宗教現象を学際的な方法によって実証的に研究する宗教学とも異なり、宗教一般の本質ないし、あるべき姿を探求するとともに、宗教を理性にとって納得のゆくものとして理解することを目的とする。

宗教哲学の具体例

様々な方向性をもった考察がある。以下にいくつか挙げる。

宗教の定義について

宗教の成立について

  • 人には宗教的欲求がありそれが宗教を成立させているのだろう、といった方向での考察。人間にはを求める欲求があるように、宗教的なものを求める欲求があり、これが宗教を成立させる、とする。有限な(すべき運命の)人間無限を希求するのだ、とする観点。(宗教を持つ立場からは、宗教を十分に理解していない、と見なされることもある考察)
  • 啓示によって宗教は成立している、とする考察。 宗教は超越的な存在から人間に与えられることによって成立したものであるとする。(宗教を持たない立場からは、しばしば護教的と見なされる考察)
  • 人間が捉える不可知な事象や存在に対して抱く畏れ、畏敬といったものへの感情を理由付ける概念として、人間は『神』を創造したと考える。例えば、雷や風、その他災い、病気、苦しみの感情などあらゆる自然現象を起こす源として、それらは『神の技』として位置付けることが出来る。これを『神』として畏れ、祭壇を作り、対話を行うとそれらは、やがて形式化された『宗教』の発生へと繋がるものと考えられる。やがて、生存環境が与える人間の苦悩から、如何に救われ得るかを説く者が現れ、そこに『思想』、『教義』が生まれ、人々を導く者が出現する。人間が抱く人生での苦痛や苦悩、嘗て人間が抱いた自然環境への脅威、不可知なものへの畏怖に対し『自然科学』の発展に伴い、従来の『神』が『科学』という新たな拠を見出だした人類は、『神』と『科学』は相容れないものと考える傾向がある。しかし、そもそも『神』とは「無限性」や「永遠性」といった人間の持つ特有の『概念』を指すものである。『宗教』とはこうした「無限性」や「不可知」な領域を含め、人生を取り巻くあらゆる環境の中で如何に在るべきかを説く『学問』であると言える。

宗教哲学の来歴

成立

宗教哲学の課題は、古代ギリシアやそれ以外のところで哲学が誕生したとき、哲学が担ったのと同じ課題を近代において引き継いだものとも言いうる。哲学の誕生は伝統的宗教に対する懐疑の発生と結びついており、そこでは哲学は理性によって宗教の内部を解釈し、捉え直すという課題を背負った。

近世のヨーロッパにおいて生じた理性の啓蒙は、それまでの伝統的な信仰や神学の立場を哲学の立場から批判的に見る見方を開き、それは一方では宗教を理性によって否定しようという方向、他方では理性を破って信仰の立場を確立しようという方向を生んだ。それに対して、理性の立場を媒介として、信仰の内容を新しく解釈しなおそうという立場を自覚的にとるところに「宗教哲学」は誕生した。この立場を確立したのがカントである。

展開

カントは「単なる理性の限界内での宗教」において、キリスト教の信仰の内容を道徳という実践理性の立場から解釈して、キリスト教の持つ真理を人間の普遍的な真理として明らかにしようとした。 ここにおいてカントは、特定宗教の内容を理性の深みにおいて出会われる事柄として理解することにより、人間における宗教の普遍的意味の解明を目指す宗教哲学への道を開いた。

次いで、フィヒテフリードリヒ・シュライアマハーヘーゲルなどによって宗教の哲学的理解の道はさらに推し進められたが、宗教哲学の展開において、シュライアマハーは決定的に重要である。

カントにおいて宗教はなお道徳に還元される傾向にあったが、シュライアマハーは宗教は人間の経験の中で道徳とも形而上学とも異なった独自の領域を持つことを主張し、宗教は絶対的なものに身を任せて、その働きかけをそのままに受け取ることであるとして、「宇宙の直観」、「絶対依存の感情」に宗教の固有性を据えた。

ヘーゲルは、宗教を道徳から解釈したカントとも、主観的な感情としてとらえたシュライエルマッハ―とも異なったアプローチをとる。ヘーゲルは宗教を[生の根幹]ととらえ、宗教とは生の最高の頂きあるいは生の根源の深みが出現したものとして、人間の生の諸形態が我々を宗教へと導いていく生の発展深化の必然的過程を把握することに宗教哲学の課題をみた。

しかし、宗教は生命の最高の深みの表現とされているにもかかわらず自己の外において表彰される。ヘーゲルは、これを自己のうちに自覚するために、宗教は純粋な思惟としての哲学へと高められなければならない、とした。

ヘーゲルのあとに現れたキルケゴールは、ヘーゲルによって純粋思惟のうちに内化された絶対者は真の超越者ではないとして、ヘーゲルが開示した生の深みをというアイデアは継承しながらも、理性を破ったところに宗教を据えた。

以上のように、宗教哲学は人間と超越者の関係を軸として発展してきた学問であるといえる。ここにあげた以外ではフォイエルバッハニーチェマルティン・ハイデッガーらが重要である。

日本の宗教哲学

日本においても、西田幾多郎(「善の研究」第4編)、田辺元波多野精一(「宗教哲学」)、西谷啓治(「宗教とは何か」1961)をはじめ、宗教哲学の伝統がある。 その成立は、ヨーロッパ近代が移植された明治・大正期のことである。ヨーロッパで成立した宗教哲学がキリスト教の圧倒的な影響下にあったのにたいして、日本の宗教哲学はヨーロッパの宗教哲学を独自に吸収しながら、ヨーロッパとは全く異なった宗教的伝統のもとで展開していった。

アメリカの宗教哲学

特に哲学の分野において、それらの知識は、本来は広く公に、 人々が社会的目的の為に、又個人の幸福の創造の為に実用されることが望ましい筈であるが、哲学の目的が、本質から解離し、学問の為の学問に陥っているとして、本来の哲学の持つ意義は、より多くの人々によって理解され、各々の生活、人生に生かされるとき、その本質的価値をはじめて獲得するとし、一つの実践哲学を唱えたアメリカの作家・冒険家であるL・ロン・ハバードは、1950年、著書『ダイアネティックス:心の健康の為の現代科学』で初めて人間の無意識の構造を解き明かし、人間の振る舞いや思考に関する新たな視点を説明した。また、根源的に全ての生命の活動は、「生存せよ」という唯一の衝動によって促されているとし、存在のダイナミック原則を展開した。それ以後、1954年にはサイエントロジー応用宗教哲学(Scientolgy Application Philosophy of Religion)を創設。サイエントロジー応用宗教哲学は、停滞する現代の哲学、ひいては自然科学に大きな遅れをとったとされる人文科学の分野において、新たな可能性と哲学の在り方を提示した。公に誰もが理解し、適用可能な哲学、更には、自ら実態の本質に到達することを可能とする理論体系は、宗教の持つ本質的役割を内包しながら、学術的展開に終始するのとは異なり、知識の実践的適用を強調した。またサイエントロジーは、『神』を「神、または無限の性質」と定義する。これは、無神論、及びあらゆる信仰とも矛盾しない宗教哲学の特性を示しているが、その前提には、人間個人による自己決定に於ける「同意」が各々の現実世界の実態を創造しているという観点に起因している。更には、個人の観察と体験的な教育方法を通して、その本質的「理解」に到達すると説く。ここでの「理解」とは、現実的存在のみならず、精神的体験に対する個人の観察及び知覚を通じて、最終的に到達する自己決定による結論的理解を指しているが、サイエントロジーの用いる技術的応用はヘーゲルが述べるところの「純粋思惟」の限界、及び実存主義との矛盾を解消し、その他の解釈学の主張を実証する可能性を示すものとされている。こうした個人の主体を通しての実体験を伴った教育が、現代の哲学の新たな潮流として登場している。

主な研究者

日本人研究者

関連項目

関連文献

  • 『宗教哲学研究』京都宗教哲学会、年1回発行、1号(1984年)~27号(2010年)~
  • 量義治『宗教哲学入門』講談社、2008
  • クラウス・リーゼンフーバー『超越に貫かれた人間: 宗教哲学の基礎づけ』創文社、2004 ISBN 4423301180

外部リンク