南京事件
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南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の投降した便衣兵、一般市民などを殺した事件。「南京大虐殺」とも呼ばれ、その期間や規模などが論議されている(南京大虐殺論争を参照)。
名称の種類と変遷
南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー(家永三郎、洞富雄ら[1]」「南京大残虐事件(洞富雄[2])」など、多様な表記と呼称がある。呼称の種類および変遷について、以下概説する。
歴史学の研究書では「南京事件」と表記されるもの(秦郁彦[3]、笠原十九司[4]ら)、「南京大虐殺」と表記するもの、「南京虐殺事件」など使用状況は同様に多様である。なお笠原十九司は「南京事件は南京大虐殺事件の略称」としたことがあるが[5]、笠原は著書名としては「南京事件」を多用している[6]。
- 東京裁判
- 1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)[7]・殺戮と記述されている[8]。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawflly killed and murdered とされている[9]。開廷後の一週間後の同年5月10日の朝日新聞記事では「南京大虐殺事件」という呼称がみられ[10]、同年10月9日の貴族院第90回帝国議会において星島二郎が「南京事件」という呼称を使用している。
- 1948年(昭和23年)2月19日の検察側最終論告では「南京残虐事件」、2月25日の検察側最終論告では「南京における残虐行為」「南京事件」「南京強姦」、4月9日の弁護側最終弁論では「南京略奪暴行事件」、不提出書類のタイトルでは「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺死難者埋葬処ノ撮影」、1948年(昭和23年)11月4日の判決では和文「南京暴虐事件」[11]英文「THE RAPE OF NANKING」[12]などと表記されている[13]。
- 戦後の教科書における表記
- 敗戦直後、教科書はいわゆる「墨塗り教科書」であったが、1946年に文部省著作による小学校用教科書「くにのあゆみ下」と中学校用教科書「日本の歴史」が刊行され、事件について記述がなされた(事件名は表記なし)[14]。1947年に学校教育法で教科書検定制度が導入されてからは1949年から検定教科書が使用される。
- 1952年に刊行された実業之日本社による高校用教科書「現代日本のなりたち 下」では「南京暴行事件」と表記された[15]。
- 55年体制から1960年代まで
- 1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを刊行し、「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書攻撃が起こる[16]。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった[17]。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記されており[18]、1965年から家永教科書裁判が開始されている。
- 1966年には毎日新聞記者五島広作と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述した[22]。
- 1971年8月末から朝日新聞で連載を開始した本多勝一「中国の旅」(1972年刊行)が反響を呼び、南京事件について多数の記事が執筆される[24]。なお当時記事タイトルにおいて「南京大虐殺」を使用したものには「潮」1971年8月号「隠されつづけた南京大虐殺」がある[25]。
- 1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し、広範囲にわたる南京大虐殺論争が開始されるともに、「南京大虐殺」についてマスコミで報道されるようになる。例えば、同年11月には三留理男「中国レポート(最終回) 冷酷な皆殺し作戦 南京大虐殺」『サンデー毎日』(72年11月19日号)などがある[26]。鈴木は1973年に文芸春秋社から同題で単行本を刊行する。
- 歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』[27]を刊行した後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』[28]を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する[29]。また洞が編集した『日中戦争史資料 8 南京事件』[30]は、1973年の版では「南京事件」という呼称を著書名において使用していたが、1985年に同書が青木書店より再刊された際には『日中戦争 南京大残虐事件資料集』と改題された[31]。一方で藤原彰や本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用している[32]。
- 1978年の東京書籍の教科書では「南京虐殺」として記載されるなど、事件についての記述がなされるようになる[33]。
- 第一次教科書問題と1980〜1990年代
- 1980年には自民党が機関紙『自由新報』で「いま教科書は」 を連載、国語・社会科教科書を批判するという第二次教科書攻撃が起きる[34]。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたことが報道され、中国との間で外交問題に発展した第一次教科書問題が起きた。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。その後1984年の東京書籍教科書では「ナンキン大虐殺」と表記される。1987年の大阪書籍と教育出版の教科書では「南京虐殺事件」と表記され、1995年の実教出版の高校教科書「日本史B」では「南京大虐殺」というコラムが記載された。
- アイリス・チャンが1997年に著したThe Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II が話題をあつめ、「ザ・レイプ・オブ・南京」という日本語呼称が注目された。
- 近年の動向
- 近年の教科書表記では、山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」[35][36]、帝国書院が「南京大虐殺」[37]、清水書院が「南京大虐殺事件」[38]、山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」[39][40]と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている。
- 2010年に報告書が公開された外務省日中歴史共同研究日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。
海外での表記
中国または中華民国[41]ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The rape of Nanking」「Nanking(Nanjing) Massacre」などと呼ばれるが論者により一定しない。
- Nanking Incident表記に関する海外での議論
- アメリカのジャーナリストポール・グリーンバーグはアーカンソー・デモクラット=ガゼット紙2007年3月7日付「否認の魅力」記事において、"the Nanking Incident"(南京事件)という言い方はありふれた婉曲表現であり、ドイツの教科書においてホロコーストをthe Auschwitz Incident(アウシュビッツ事件)と称するようなものだとして批判した[42]。
論争
この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。近代史における日中関係を考える上でデリケートな問題であり、2010年の日中歴史共同研究公表[43]に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言からも伺えるように、論点とすべき歴史的資料が十分に得られない研究実体を前提として特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない政治的要素が含まれる[44]。
また検証において、事実存否や規模、行為者、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、作戦指導の妥当性、死傷者数、方法に諸説あり、これらを巡って今なお議論が続けられている。
事件の概要と経緯
南京攻略戦
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中国軍は撤退を始め、逃げる行きずりに堅壁清野作戦と称して、民家に押し入り、めぼしいものを略奪したうえで火を放ち、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍の追撃を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。蒋介石は12月7日に南京を脱出し、後を任された唐生智も12月12日に逃亡した。その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊を置いていった[45]。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は12月10日より総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。
南京入城までの両軍の動向
- 日本側
1937年11月、第二次上海事変に投入された上海派遣軍と第10軍は、軍中央の方針を無視して首都 南京に攻め上った。12月1日、軍中央は、現地軍の方針を追認する形で、新たに両軍の上位に編成した中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達した。12月8日、中支那方面軍は南京を包囲、12月9日、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃を開始し、12月13日に南京城に入城した。
- 中国(中華民国)側
1937年11月5日、中国軍は、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した。11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。
11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れた。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令した。一方、唐は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出した。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、中国軍は総崩れとなった。
一般市民への被害
日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本人留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた。
日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われ、南京周辺の町村において、被害の報告が挙げられている。また、1937年12月13日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)[46]。 市民への暴行・殺傷行為を直接指示する命令書は確認できていないが、南京攻防戦では、民間人と便衣兵の区別がつかないこと、共産党の支持が多い地域であること、戦闘行動をとることに男女幼長の違いがなかったことなどから、少なくない兵士が立地上危険な家屋を焼却する命令、怪しい行動を取る民間人と兵士を殺害をする命令を受けたと証言している[47]。中国人側からは、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたとの証言が出ている[48]。
当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残している。一方で、ドイツ大使館やイギリス大使館など、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がまちまちであり、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人は一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある[49]。
投降者の殺害
中国軍は南京陥落後に撤退命令を出したが、南京城内外に残された大量の中国軍兵士を撤退させる方法が無く、指揮命令系統の崩壊により組織だった降伏も困難であった。そのため、正規兵も軍服を脱いで便衣兵となり逃走をはかったものがあった。
当時の国際法の観点では、便衣兵は正規の軍人としての交戦権を有しておらず、投降しても捕虜の待遇を受ける資格はなかった。また、捕虜の待遇についても、俘虜の待遇に関する条約(ジュネーブ条約)について、中国は1929年7月27日に署名、1935年11月19日に批准していた[50]が、日本は署名のみで批准しておらず[51]、日中双方に捕虜の取り扱いに対する人道上における個別の合意もなかった。ただしこの場合でも批准のあるハーグ陸戦条約の定める捕虜に対する一般的な取り扱いに適法であったかが問われるが、捕虜に認定されるには、正規の軍人である必要があり、便衣兵は投降したゲリラとなり、その取り扱いは当事国の立法(直接には軍令)に従うことになる。これに対して、朝香宮鳩彦王の南京城入場を安全に完遂する目的で捕虜を殺害したという歴史的検証もある。さらに事例の中で検証可能な数万人の殺害については当時の国際法や条約に照らしても不法殺害であるとする説[52]や、あるいは仮に不法殺害に該当しないとしても非難・糾弾されるに値する行為であったとの主張もある[53]。
日本軍は投降捕虜の安全について明確な軍令を出してはいないが、殺害を事実上黙認していたかのように読める命令を発していたという指摘がある[54]。
第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの投降者が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が投降者約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いているが、最終的な殺害と数字については疑問視されている[55]。南京北部の下関では、投降者が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報と言われているものによれば、旅団命令によって投降者を殺害したことが記録されている[46]。
外国メディアによる報道
この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている(前者の代表例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表例としては外務省欧亜局長 石射猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)。軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。
アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨーク・タイムズ』、中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍が行ったとされる殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出後、船舶無線を使って報道をおこなった[46]。
一方で、これらの報道にも反論がある。東中野らは虚偽報告がおこなわれた要因として、当時の中国政府からの多額の献金により買収された可能性を主張している[49]。
渡部昇一は、欧米人は便衣兵や攪乱兵の存在を知らず、それらの掃討を市民の殺害と誤認した可能性があると主張している[56]。また当時『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている[49]。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある[49]。また、内地への手紙についても正確性や信憑性に疑問が呈されている(例えば、虐殺行為を手紙で内地へで伝えたとしても検閲で落とされるため)[49]。
『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、『文藝春秋』(1989年10月号)のインタビュー記事にて、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)それはありませんでした。」とし、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった」「上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。」としつつ、伝聞等による推定の数として南京では数千の民間人の殺害があったと述べた。また南京の『安全地区』には10万人ほどおり、そこに日本軍が入ってきたが、中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが民間人が殺害された原因であるとしている。またニューヨーク・タイムズは「安全区に侵入した中国便衣兵が乱暴狼藉を働いて日本軍のせいにした」とも報道した[57]。
被害者数と事実在否について
2010年1月公表にされた日中歴史共同研究によれば、中国側は南京戦犯裁判の30万人説や東京裁判の20万人説と、いずれも戦後行われた裁判の判決に依った犠牲者数を主張している[58]。
日本国内においては20万人説、数万人説、数千人説、否定説などが存在する。
事件の背景について
南京事件以前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への暴行・殺傷・略奪を続けていたとされ、日本軍将兵の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている[46]。一方で、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京大虐殺論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人への暴行・殺傷、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある[49]。また兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある[59]。上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していた『ニューヨーク・タイムズ』のティルマン・ダーディン通信員は、上海から南京へ向かう途中に日本軍による捕虜や民間人の殺害や略奪を目撃したことはないし、聞いたこともないという証言をしている[60]。
中支那方面軍の編成
中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。
戦後の軍事裁判における扱い
この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判と南京軍事法廷で審判された。
極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。
南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅と向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。
「人道に対する罪」と訴因
ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[61]。
東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[62]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[63]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[64]。
このような起訴方針についてオランダ、フィリピン、中国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた。
東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[65]。
脚注
- ^ 家永三郎『新日本史』(三省堂,1962年)や洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年)
- ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店,1985年。
- ^ a b 『南京事件―「虐殺」の構造 」』(秦郁彦、中公新書、1986年)
- ^ 『南京事件』(笠原十九司、岩波新書、1997年
- ^ 『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社新書, 2007年)同書p12,p208.また「歴史学事典 7 戦争と外交」(弘文堂、2009年)笠原執筆記事においても同様の見解が記載
- ^ 笠原十九司参照
- ^ みなごろしにすること
- ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴[1]日本語 レファレンスコード A08071274100 で閲覧可能
- ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴[2]英文 A08071243700 で閲覧可能
- ^ 「磯谷、谷両氏南京へ」南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される(以下略)。
- ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴[3] A08071307600 P.170
- ^ A級極東国際軍事裁判記録アジ歴[4]A08071272300 P.174
- ^ 『日中戦争史資料 8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社 昭和48年11月25日初版発行
- ^ 俵義文「南京大虐殺事件と歴史教科書問題」藤原彰『南京事件をどうみるか 日・中・米研究者による検証』(青木書店、1998)所収、118頁
- ^ 俵前掲論文。[5]も参照。開隆堂の教科書「歴史的内容を主としたもの 下」1954では「(日本)軍が(南京)市民にひどい暴行を加えた」と記述。
- ^ 笠原十九司『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社新書, 2007年),101-103頁
- ^ 俵前掲論文。[6]。笠原十九司『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社新書, 2007年),101-103頁
- ^ 『家永教科書裁判』日本評論社、1998年、167頁
- ^ 全10巻、平凡社,1956
- ^ (全10巻、平凡社,1961)
- ^ 『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社新書, 2007年,pp102-3も参照
- ^ 笠原十九司『南京事件論争史 日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社新書、2007年、p103
- ^ 第066回国会 外務委員会 第1号 昭和四十六年七月二十三日(金曜日)午後三時十五分開会 「南京虐殺事件」(2回)、「南京大虐殺事件」(1回)
- ^ 本多は南京事件、南京大虐殺、南京大暴虐事件と様々な呼称を使用している。「南京への道」他
- ^ 笠原同書p109
- ^ 笠原同書p109
- ^ 新人物往来社。1967年の洞富雄『近代戦史の謎』を増補したもの。
- ^ 現代史出版会、1975年
- ^ 『決定版・南京大虐殺』徳間書店ほか
- ^ I,II.日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社 ,1973年
- ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店,1985年。笠原十九司『南京事件論争史』前掲書も参照。
- ^ 『南京事件を考える』大月書店、1987年
- ^ 堀尾輝久「教科書問題―家永訴訟に託すもの―」岩波書店、1992
- ^ 俵前掲論文。
- ^ 石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか『詳説日本史』山川出版社 2004年(高等学校地理歴史科用、2002年文部科学省検定済)p.330
- ^ 東京書籍2006年p.188
- ^ 帝国書院2006年
- ^ 清水書院2006年
- ^ 江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治ほか『詳説世界史・改訂版』山川出版社 2001年(高等学校地理歴史科用、1997年文部科学省検定済)p.310
- ^ 日本文教出版2006年
- ^ 台北市にある国軍歴史文物館の展示による
- ^ The charms of denial。同記事は[7]でも閲覧可能。2011年10月22日閲覧。
- ^ "日中歴史共同研究(概要)" (Press release). 外務省. 2010-01. 2010-07-28閲覧。
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:|date=
の日付が不正です。 (説明) - ^ “日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア”. サーチナ. (2010年2月1日) 2010年7月28日閲覧。
- ^ 高山正之『白い人が仕掛けた黒い罠』
- ^ a b c d 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房
- ^ 例えば松岡環編著『南京戦-閉ざされた記憶を尋ねて』社会評論社、2002年、56-57頁、69頁、77頁、95頁、116頁、135頁、159-160頁、173頁、188頁、208頁、251頁、271頁、302頁、312-314頁、325頁、343-344頁。『南京事件資料集』「虐殺」命令
- ^ 新路口事件。夏淑琴氏の名誉毀損の裁判
- ^ a b c d e f 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』
- ^ Convention relative to the Treatment of Prisoners of War. Geneva, 27 July 1929.[8]
- ^ Convention relative to the Treatment of Prisoners of War. Geneva, 27 July 1929.[9]
- ^ (レジュメ)「いわゆる「南京事件」」原剛(大阪教育大学 社会教育学研究第15号2009.1)※本文[10]※紹介(山田正行)[11]
- ^ 「一五年戦争史研究と戦争責任問題」吉田裕(一橋論叢1987.2.1)[12]
- ^ 例えば海軍省軍務局長・軍令部第一部長が陸軍中央部と協議のうえ第三艦隊参謀長宛に発した通牒(1937年10月15日付軍務一機密第40号)「我権内に入りたる支那兵の取扱に関しては対外関係を考慮し不法苛酷の口実を与へざる様特に留意し【少なくとも俘虜として収容するものについては国際法規に照らし】我公明正大なる態度を内外に示すこと肝要なるに付き現地の事情之を許す限り概ね左記に依り処理せらるる様致度」のうち、【】部分をもって「現地で」「俘虜にしないかぎり」殺害しても良いとのニュアンスが読み取れたと指摘する。「一五年戦争史研究と戦争責任問題」吉田裕(一橋論叢1987.2.1)[13]脚注45.P.214(PDF-P.20)
- ^ 証言による「南京戦史」[リンク切れ]
- ^ 渡部昇一『昭和史』[要ページ番号]
- ^ 1938.1.4 NYタイムス「<元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに>南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのもであると自白した。この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。この元将校たちは戒厳令に照らして罰せられるだろう。」
- ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 「日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」波多野澄雄 庄司潤一郎 p.7
- ^ 大井満「仕組まれた“南京大虐殺”」
- ^ 1989年10月号の『文藝春秋』
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,26頁,118頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,113頁
- ^ 日暮吉延,113頁
- ^ 日暮吉延,113頁
- ^ 日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年,116頁、同『東京裁判の国際関係』(木鐸社、2002年)
文献情報
- 『南京事件―「虐殺」の構造 」』(秦郁彦、中公新書、1986年)
- 『南京事件』(笠原十九司、岩波新書、1997年)
- 『ザ・レイプ・オブ・南京』(アイリス・チャン、1997年)
- 『南京事件「証拠写真」を検証する』(東中野修道・小林進・福永慎次郎、草思社、2005年)
- 『松井石根と南京事件の真実』(早坂隆、文春新書、2011年)
- 外務省・日中歴史共同研究[14]PDF.P.267~270以降に記述あり
- New York Times :serch "Nanking 1937" 南京事件 (1937年) の新聞
- New York Times :serch "Nanking 1927" 南京事件 (1927年) の新聞(比較検討用に参照)
- (レジュメ)「いわゆる「南京事件」」原剛(大阪教育大学 社会教育学研究第15号2009.1)※本文[15]※紹介(山田正行)[16]
南京事件を扱ったノンフィクション作品
- ドキュメンタリー映画
- 『南京』(米国、2007年)
- 『南京 引き裂かれた記憶』(日本、2007年)
- 漫画
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(小林よしのり、幻冬舎、1998年)
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』(小林よしのり、幻冬舎、2001年)
南京事件を描いたフィクション作品
- 小説
- 映画
- 『戦争と人間 第三部 完結編』(日本、1973年)
- 『ラストエンペラー』(イタリア・イギリス・中国、1987年)
- 『南京1937』(中国・台湾・香港・日本、1995年)
- 『黒い太陽・南京』(香港、2005年)
- 『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(オーストラリア・中国・ドイツ、2008年)
- 『南京の真実』(日本、2008年)
- 『南京!南京!』(中国、2009年)
- 『John Rabe』(ドイツ・フランス・中国、2009年)
- 『金陵十三釵』(中国、2011年)
- 漫画
関連項目
- 南京安全区国際委員会 - 世界紅卍字会
- マイナー・シール・ベイツ - ジョージ・アシュモア・フィッチ - ハロルド・J・ティンパーリ - ジョン・マギー - エドガー・スノー - 夏淑琴
- 南京大虐殺紀念館 - 国軍歴史文物館
- 歴史修正主義 - 自虐史観 - 否認主義
- 日本の戦争犯罪 - 日本の戦争謝罪発言一覧
- 南京 (戦線後方記録映画) - ザ・バトル・オブ・チャイナ - 中国之怒吼
- 通州事件 - 尼港事件 - 済南事件 - 通化事件