シュナイダー潤之介
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名前 | ||||||
愛称 | シュナ、シュナ潤、潤之介 | |||||
カタカナ | シュナイダー ジュンノスケ | |||||
ラテン文字 | SCHNEIDER Junnosuke | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1977年5月22日(47歳) | |||||
出身地 | 東京都新宿区 | |||||
身長 | 185cm | |||||
体重 | 82kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 横浜FC | |||||
ポジション | GK | |||||
背番号 | 1 | |||||
利き足 | 右 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
2000 2001-2006 2007-2008 2009 2010- |
群馬FCフォルトナ サガン鳥栖 ベガルタ仙台 ガイナーレ鳥取 横浜FC |
-(-) 131(0) 18(0) 34(0) 17(0) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。2010年12月4日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
シュナイダー 潤之介(しゅないだー じゅんのすけ、1977年5月22日 - )は東京都新宿区出身でJ2・横浜FC所属のサッカー選手。ポジションはGK。
来歴
明星高2年時にDFからGKに転向。明星大を経て、2000年に群馬FCフォルトナ(現・アルテ高崎)に入団。翌2001年にサガン鳥栖へ移籍(セレクションで合格して入団)。2002年にレギュラーを獲得し、2005年には主将も務めた。
仙台への移籍
2006年11月末、サガン鳥栖は、年俸など契約条件を提示し交渉を進めていたが、シュナイダーがJ1チームへの移籍を希望していたため、契約更新に至らなかった。「レベルの高いところからオファーがあれば、それは本人のために、本人の意志に任せる」というのがクラブの方針の鳥栖は、翌2007年1月に他クラブとの交渉が自由にできる移籍リストに登録し、J1チームからのオファーを待った。鹿島アントラーズなど具体的なチーム名がいくつか挙がっていたが、同時にJ2・ベガルタ仙台からもオファーがあった。J1チームへの移籍を希望していたため、仙台への移籍はないだろうと思われていたが、最終的にシュナイダーは仙台を移籍先として選択(2006年のJ2での順位は鳥栖が4位で仙台は5位であった)。
仙台移籍1年目の2007年は小針清允からレギュラーを奪い、ゴールを守り続けていたが、6月6日の練習中に右手を骨折。全治3ヶ月と診断された。これにより戦線離脱を余儀なくされるとともに、開幕戦から続いていたスタメン・フル出場が途切れてしまった。チームはその後、コンサドーレ札幌から林卓人をレンタル移籍で獲得し、彼を正GKとして起用するようになる。負傷完治後も林から正GKの座を奪い返すことはできず、2008年もチームは移籍期間を延長した林を正GKとして起用。シュナイダーはレギュラーはおろか前述の入団当初は第3GK扱いで未だ公式戦出場がなかった萩原達郎に控えの座まで脅かされる始末であった。結局、天皇杯や入れ替え戦を含め、1試合も公式戦に出場することはなく、同年を以って戦力外となりチームを去った。
JFL・鳥取への移籍
2009年1月9日、JFLのガイナーレ鳥取への完全移籍が発表された。鳥取はJリーグ準加盟クラブとしての認可を受けているため、JFLで4位以内に入れば翌年のJリーグ参入が可能であった。移籍後は井上敦史からポジションを奪いリーグ戦全34試合にフル出場したものの、この年の鳥取は惜しくも5位に終わりJリーグ参入が見送られた。シーズン終了後、「家族のそばでプレーしたい」という本人の意向もあり、同年限りで鳥取を退団した[1]。
J2・横浜FCへの加入
2010年1月6日、鳥栖時代の恩師である岸野靖之が新監督に就任した横浜FCへの加入を発表。岩丸史也・大久保択生・ベガルタ時代のチームメイトでもある関憲太郎と正GKを争い、リーグ戦17試合に出場した。
所属クラブ
ユース経歴
プロ経歴
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | 群馬 | 群馬県2部 | - | 1 | 0 | 1 | 0 | ||||
2001 | 鳥栖 | 21 | J2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
2002 | 24 | 0 | - | 1 | 0 | 25 | 0 | ||||
2003 | 14 | 10 | 0 | - | 0 | 0 | 10 | 0 | |||
2004 | 26 | 0 | - | 2 | 0 | 28 | 0 | ||||
2005 | 40 | 0 | - | 2 | 0 | 42 | 0 | ||||
2006 | 1 | 31 | 0 | - | 2 | 0 | 33 | 0 | |||
2007 | 仙台 | 22 | 18 | 0 | - | 0 | 0 | 18 | 0 | ||
2008 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
2009 | 鳥取 | 15 | JFL | 34 | 0 | - | 1 | 0 | 35 | 0 | |
2010 | 横浜FC | 21 | J2 | 17 | 0 | - | 1 | 0 | 18 | 0 | |
2011 | 1 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
2012 | - | ||||||||||
通算 | 日本 | J2 | 166 | 0 | 0 | 0 | 8 | 0 | 174 | 0 | |
日本 | JFL | 34 | 0 | - | 1 | 0 | 35 | 0 | |||
日本 | 群馬県2部 | - | 1 | 0 | |||||||
総通算 | 200 | 0 | 0 | 0 | 10 | 0 | 210 | 0 |
エピソード
- 子供の頃からの広島東洋カープファンである。ベガルタ仙台時代には、仙台市を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスの試合を観戦しているところを時々目撃されている。なぜイーグルス戦を観戦したかというと、対戦相手が広島カープだったからである。
- ガイナーレ鳥取時代に着用していた背番号15は、元・広島カープ投手の黒田博樹が広島時代に着用していた背番号に由来する[2]。
シュナイダー劇場
ベガルタ仙台でシュナイダーが行ったパフォーマンス。ホームゲームで勝った場合、ゴール裏でパフォーマンスを行う。サポーターと自身の応援歌を歌い、最後の締めにスライディング(でんぐり返しなど他にもある)してはじける。サポーターから絶大な人気を誇るシュナイダーのパフォーマンスは「シュナイダー劇場」と呼ばれるようになり地元マスメディアにも取り上げられた[3]。しかし、試合終了後に数十分のパフォーマンスが観客とともに行われることから、観客の安全確保のために警察が行っていた歩行者天国の時間を延長せざるを得なくなり、この件に関してクラブが地元警察から相談を受けるに至った[4]。このパフォーマンスはサポーターの応援歌に手拍子で称えたり、一緒に歌って盛り上げる貴重な存在だったが、対モンテディオ山形戦を最後に「シュナイダー劇場」は行われることはなかった。
その後、シュナイダー劇場はガイナーレ鳥取に於いて、その日の出場全選手及び出場機会がなかったサブ登録選手(故障の治療等により出てこられない選手を除く)を交えて、シュナイダーが音頭を取ってその試合で最も活躍した選手を選出して行うというように、若干形を変えて復活した。勝ち試合後の名物として定着し、鳥取県内のメディアからは「ガイナーレ劇場」と呼ばれていた[2]。またシュナイダーは同名のチーム応援番組にもレギュラーとして出演していた。しかし、当のシュナイダー自身が1年限りでガイナーレを去り、音頭取りが岡野雅行に交代して翌シーズンも継続して行われたものの、2011年は以前ほど派手なことは行われなくなった。
なお、現在在籍している横浜FCでも同様のことを行っているかどうかは不明。
関連情報
テレビ・ラジオ番組
- 2009年 BSSテレビ Road to J ガイナーレ劇場(レギュラー)
関連項目
脚注
- ^ ガイナーレ鳥取公式サイト 「シュナイダー潤之介選手 退団のお知らせ」 2010年1月6日掲載
- ^ a b 日本海新聞 「頑固一蹴 ガイナ戦士 人生すべて懸ける GKシュナイダー潤之介(背番号15) 」2009年5月13日掲載
- ^ :仙台シュナイダー、J2の新庄氏になる! - ベガルタニュース : nikkansports.com 2007年4月18日
- ^ :シュナイダー劇場閉鎖危機 - ベガルタニュース : nikkansports.com 2007年5月9日
外部リンク