第2代総選挙 (大韓民国)

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第2代総選
Japanese General Government Building.jpg
朝鮮戦争直前まで国会議事堂[1]として使用されていた旧朝鮮総督府庁舎(現在は解体されて現存しない)。
各種表記
ハングル 제2대 총선
漢字 第二代總選
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第2代総選挙(だい2だいそうせんきょ)は、第一共和国時代の大韓民国国会を構成する国会議員を選挙するため、1950年に行なわれた韓国総選挙である。なお、韓国では選挙の回数を数えるとき「第○回」ではなく「第○代」で数える。また、名称も「総選挙」(총선거)ではなく、「総選」(총선)と明記する。

概要[編集]

前回の初代総選挙は、アメリカ軍政庁統治下で行われた選挙であるが、今回の総選挙は大韓民国政府が主管して行なわれた初めての選挙となった。

1948年5月総選挙で選出された初代国会議員の任期(初代国会議員は任期2年)が1950年5月31日で満了するため、第2代国会議員を選出するための第2代総選挙は、1950年4月12日に公布された選挙法に基づいて同年5月30日に実施されることになっていた。しかし、李承晩大統領は、責任内閣制を含む憲法改正を支持する勢力が多数を占める可能性に危機感を持ち、選挙運動によって、緊急を要する予算案など山積している重大議案を審議する際の国会議員の出席率が悪くなると、いう表向きの理由でもって、11月末まで選挙を延期することを発表した。しかし、選挙延期に対して、国連の臨時朝鮮委員団が選挙延期に反対する通告を、アメリカのアチソン国務長官が「選挙延期をした場合、軍事経済援助は再考せざるを得ない」旨の覚書を送るなど、内外から強い反対があったため、選挙は予定通り5月30日に実施されることになった。

日本の植民地支配時代に日本に協力した「民族反逆者」に対する公訴時効が満了となったため、彼らにも選挙権及び被選挙権が与えられた。また、南朝鮮だけの単独選挙と単独政府に反対し、前回の初代総選挙をボイコットした南北協商派及び中間派がこの総選挙に参加したことで立候補者数は2,000名を超え、激しい選挙戦が展開された。

基礎データ[編集]

選挙結果[編集]

党派別得票と議席数
党派 得票数 得票率 議席数 占有率
無所属
무소속
4,397,287 62.9 126 60.0
大韓国民党
대한국민당
677,173 9.7 24 11.4
民主国民党
민주국민당
683,910 9.7 24 11.4
国民会
국민회
473,153 6.9 14 6.7
大韓青年団
대한청년단
227,537 3.3 10 4.8
大韓労働総連盟
대한노동총연맹
117,939 1.7 3 1.4
社会党
사회당
89,413 1.3 2 1.0
一民倶楽部
일민구락부
71,239 1.0 3 1.4
諸派[3] 75,280 3.6 4 2.0
その他 174,109 2.5 0 0.0
合計 6,987,040 210
出所:中央選擧管理委員會『大韓民國選擧史』(1964年)、397頁の別表4「政黨・團體別 當選比率 得票比率比較狀況」。

解説[編集]

与党系[4]の大韓国民党及び国民会、大韓青年団などは57議席に留まり、過半数を確保することが出来ず、無所属が総議席数の六割を占めた。無所属議員の大部分は議長選挙において野党側の候補に投票するなど、反李承晩の姿勢を明確にし、第二代総選挙では李承晩政府に対する不信任の結果が示される結果となった。しかし、第二代国会が6月19日に開院式を行ない、第八次本会議を終える頃に、朝鮮戦争が勃発したため、国会は政府と共に大田、そして大邱釜山へと避難した。そして臨時首都となった釜山で「釜山政治波動」が起こることになった。

参考文献[編集]

  • 尹景徹『分断後の韓国政治-1945~1986-』木鐸社
  • (韓国)中央選擧管理委員會編『大韓民國選擧史』(中央選擧管理委員會、1964年)

脚注[編集]

  1. ^ 正確には主要政府機関が入る「中央庁」の庁舎で、中央の大ホールを国会の議場として使用していた。
  2. ^ 自治体国際化協会発行のClairreport260号「韓国の国会と第17代総選挙結果分析について」第1章より
  3. ^ 内訳は、民族自主連盟・大韓婦人会・佛教・女子国民党がそれぞれ1議席ずつである。
  4. ^ 超然主義を貫いていた李承晩大統領は政党に所属せず、自前の与党を有していなかった。そのため、ここでは李承晩支持勢力を「与党系」として表記する。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]