李相慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 相慶(イ・サンギョン、朝鮮語: 이상경1902年6月7日[1] - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮官僚水利組合理事、大韓民国政治家。第2代韓国国会議員[2]

父は中枢院賛議を務めた李恩雨朝鮮語版[3]

経歴[編集]

本籍は慶尚南道河東郡明治大学法学部[2]日本大学[3]。日本統治時代の朝鮮では官僚を経て、郷里で蟾津江水利組合理事を務めた[3]。光復後は大韓独立促成国民会河東郡支部長などを経て、1950年の第2代総選挙に国民会の公認で立候補して当選し、国会議員となった[2]朝鮮戦争の際、孝子洞で身を隠していたところ北朝鮮に拉致された。1956年7月、在北平和統一促進協議会中央委員に就任[4]。以降の動向や活動ついての詳細は不明。2005年7月20日から25日までに、『在北人士の墓』が公開されたことにより墓所が明らかとなった[5]

脚注[編集]

  1. ^ 87.이상경 - 6·25전쟁납북인사가족협의회”. www.kwafu.org. 2023年8月30日閲覧。
  2. ^ a b c 대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年8月30日閲覧。
  3. ^ a b c 公益心豊富(공익심풍부)한 水組理事(수조이사) 李相慶氏(이상경씨)”. NAVER Newslibrary. 동아일보 (1939年9月8日). 2023年8月30日閲覧。
  4. ^ 霞関会 編『現代朝鮮人名辞典 1962年版』世界ジャーナル社、1962年8月1日、252頁。NDLJP:2973328/186 
  5. ^ 北, 납북-월북 62人 평양묘역 공개” (朝鮮語). 동아일보 (2005年7月27日). 2023年8月30日閲覧。