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「欠史八代」の版間の差分

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[[画像:Emperor family tree1-10.png|thumb|天皇系図 初代 - 10代]]
[[画像:Emperor family tree1-10.png|thumb|天皇系図 初代 - 10代]]
'''欠史八代'''(けっしはちだい、'''闕史八代'''、'''缺史八代''')とは、第2代[[綏靖天皇]]から第9代[[開化天皇]]までの8代の[[天皇]]を指す、[[歴史学]]の用語。『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる<ref name="吉村2020p85">[[#吉村 2020|吉村 2020]], p. 85</ref>。


== 概要 ==
'''欠史八代'''(けっしはちだい、かつては'''闕史八代'''または'''缺史八代'''とも書いた)とは、『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』において系譜([[帝紀]])は存在するが、その事績([[旧辞]])が記されない第2代[[綏靖天皇]]から第9代[[開化天皇]]までの8人の[[天皇]]、あるいはその時代を指す。
古代の天皇の系譜は『[[古事記]]』、『[[日本書紀]]』(『記紀』)によって伝えられているが、初期の天皇の系譜の中には、後世に創作されたと見られるものが多数存在する<ref name="木下1993p263">[[#木下 1993|木下 1993]], p. 263</ref>。その中でも第一に挙げられるのが欠史八代と呼ばれる、以下に赤色で示す8名の天皇である<ref name="木下1993p263"/>。


{| class="wikitable" style="text-align:center"
現代の{{いつ|date=2021年8月}}歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが<ref name="木下1993p263">[[#木下 1993|木下 1993]], p. 263</ref>、八代全部の実在を肯定する研究者や、八代の全てが創作ではないとみる「一部肯定説」的な研究者も複数いる<ref name="maenoI">{{Harvnb|前之園|1983|pp=1-4}}</ref>{{refnest|group="注"|例えば八代全部の実在を肯定する研究者では、[[坂本太郎]]や<ref name="坂本1970p93">[[#坂本 1970|坂本 1970]]<, p. 93</ref>、[[鳥越憲三郎]]、[[林屋辰三郎]]、[[田中卓]]などがおり<ref name="maenoI"/>、一部を肯定する研究者には、[[上田正昭]]、[[黛弘道]]などがいる<ref name="maenoI"/>。}}。
|+'''欠史八代と前後の天皇'''
! 代 !! 漢風諡号 !! 和風諡号<ref group="注釈">複数の異名や訓み方があるが、表記は[[#直木 2005|直木 2005]] 掲載の表に依った</ref> !! 没年齢 !! 后妃の氏姓(古事記<ref group="注釈">后妃のまとめは[[#直木 1964|直木 1964]], p. 219掲載の表に依った。括弧書きしてあるものは「氏姓であることの明確でないもの、または神を示す。」</ref>) !! 后妃の氏姓(日本書紀本文) !! 后妃の氏姓(日本書紀一書)
|-
|1|| [[神武天皇|神武]] ||| カミヤマトイハレヒコホホデミ || 記:127歳、紀:137歳 || || ||
|-style="background:#fdd"
|2|| [[綏靖天皇|綏靖]] ||| カミヌナカハミミ || 記:45歳、紀:84歳 || 師木県主 || (事代主神) || 磯城県主、春日県主
|-style="background:#fdd"
|3|| [[安寧天皇|安寧]] ||| シキツヒコタマテミ || 記:49歳、紀:57歳 || 師木県主 || (事代主神) || 磯城県主、大間宿祢
|-style="background:#fdd"
|4|| [[懿徳天皇|懿徳]] ||| オホヤマトヒコスキトモ || 記:45歳、紀:77歳 || 師木県主 || (息石耳命) || 磯城県主、磯城県主
|-style="background:#fdd"
|5|| [[孝昭天皇|孝昭]] ||| ミマツヒコカエシネ || 記:93歳、紀:114歳 || 尾張連 || 尾張連 || 磯城県主、(倭国豊秋狭太雄)
|-style="background:#fdd"
|6|| [[孝安天皇|孝安]] ||| オホヤマトタラシヒコクニオシヒト || 記:123歳、紀:137歳 || (姪) || (姪) || 磯城県主、十市県主
|-style="background:#fdd"
|7|| [[孝霊天皇|孝霊]] ||| オホヤマトネコヒコフトニ || 記:106歳、紀:128歳 || 十市県主、春日、(意富夜麻登)、(意富夜麻登<ref group="注釈">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 219 掲載の表に(意富夜麻登)が2列並べられていることからそれに従っている。</ref>) || 磯城県主 || 春日、十市県主
|-style="background:#fdd"
|8|| [[孝元天皇|孝元]] ||| オホヤマトネコヒコクニクル || 記:57歳、紀:116歳 || 穂積臣、穂積臣、(河内) || 穂積臣 || -
|-style="background:#fdd"
|9|| [[開化天皇|開化]] ||| ワカヤマトネコヒコオホヒヒ || 記:63歳、紀:115歳 || 旦波之大県主、穂積臣、丸邇臣、葛城 || 物部 || -
|-
|10||[[崇神天皇|崇神]] ||| ミマキイリヒコイニエ || 記:168歳、紀:120歳 || || ||
|}


『記紀』の原史料として重要なものとして『[[帝紀]]』や『[[旧辞]]』がある。これらの内容は古くに佚失し伝存していないが、前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所<ref name="坂本1970pp68_70">[[#坂本 1970|坂本 1970]], pp. 68-70</ref>、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている<ref name="坂本1970p70">[[#坂本 1970|坂本 1970]], p. 70</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、『帝紀』を系譜、『旧辞』を物語とする通説は現在では見直されつつある。遠藤慶太によれば『[[上宮聖徳法王帝説]]』など古史料のなかには『帝紀』を引く形で具体的な歴史的事件の記録を伝えているものがあり、『帝紀』の内容が系譜情報のみに留まるものではないことは明らかであるという<ref name="遠藤2018p120">[[#遠藤 2018|遠藤 2018]], p. 120</ref>。}}。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないことによる<ref name="直木2005p3">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 3</ref>。このため、この八代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった<ref name="直木2005p3"/>。
== 概要 ==
古代の天皇の実在を疑問視する説を初めて提唱したのは、歴史学者の[[津田左右吉]]([[1873年]] - [[1961年]])である。津田の初期の説では欠史八代に加えて、それに次ぐ[[崇神天皇]]・[[垂仁天皇]]・[[景行天皇]]・[[成務天皇]]・[[仲哀天皇]]及びその后である[[神功皇后]]も存在を疑問視して「欠史十三代」を主張していた。津田のこの説は戦前では[[不敬罪]]に当たるとして提訴されて[[1942年]]に有罪判決を受けたものの、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後には古代史学の主流になった。特に第2代[[綏靖天皇]]から第9代[[開化天皇]]までの8代が後世に造作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説として受け入れられている<ref name="木下1993p263"/><ref name="直木2015p9">[[#直木 2015|直木 2015]], p. 9</ref>。この見解は主要史料である『[[日本書紀]]』と『[[古事記]]』においてこの8人の天皇が系譜情報のみで具体的な事績の記録を持たないこと、明確に後世に造作されたと見なされる和風諡号が与えられていること、氏族始祖系譜に関わる研究などからもたらされている<ref name="木下1993p263"/><ref name="直木2015p9"/>。系譜上の造作が行われた年代は概ね[[天武天皇|天武朝]]、即ち8世紀頃のことと考えられている<ref name="木下1993p263"/><ref name="直木2015p9"/>。


欠史八代の議論が本格化するのは[[第二次世界大戦]]終結後である。[[戦前]]、『記紀』の研究には[[皇統]]や[[国体]]といった概念への一定の配慮が必要であり、特に1930年代以降にその傾向は強まった<ref name="直木2005p3"/><ref name="遠藤2015p14">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 14</ref>。初期の天皇の名前が美称尊称が重ねられていて実名とは考えられないことを論じた歴史学者[[津田左右吉]]は、『記紀』の研究を巡って[[原理日本社]]から攻撃を受け[[出版法]]違反容疑によって逮捕された(津田事件)<ref name="遠藤2015p14"/>。こうした世相のため『記紀』の史実性に疑義を挟むような研究成果を文章として公表することには研究者側に自主規制が働いた<ref name="直木2005p3"/><ref name="遠藤2015p15">[[#遠藤 2015|遠藤 2015]], p. 15</ref>。日本古代史の研究者[[直木孝次郎]]は伝聞情報として「[[京都大学]]在学中(一九四一 - 一九四三年)に、かつて[[喜田貞吉]]教授が授業の際、欠史八代の信じ難いことを口にされたと、先輩から聞いたことが思い出される」と振り返っているが、公刊されたものは少なかったであろうとしている<ref name="直木2005p3"/>{{refnest|group="注釈"|直木孝次郎によれば、公刊された限りでは[[肥後和男]]「大和闕史時代の一考察」(1935)が欠史八代の実在の問題について戦前に論じた数少ないものの1つである。ただし、直木孝次郎は欠史八代の研究史について網羅的な調査を行ったわけではないことを断っている<ref name="直木2005p3"/>。}}。[[日本の降伏|日本の敗戦]]によって、天皇の歴史に関わる研究へのタブーや政治的制限が緩やかなものとなり<ref name="遠藤2015p15"/>、欠史八代についての議論も本格化した。これが後世に創作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説となっており、その系譜が形成された年代は、複数の論点に基づいて概ね[[天武天皇|天武朝]]、即ち[[7世紀]]末頃のことと考えられている<ref name="木下1993p263"/><ref name="直木2015p9">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 9</ref>。さらに欠史八代の系譜に見られる様々な特徴が、現在にいたるまで議論の対象となっている。


== 欠史八代の天皇 ==
== 名前 ==
欠史八代の各天皇の和風諡号は特徴的なものである。第3代から第5代の[[安寧天皇|安寧]]、[[懿徳天皇|懿徳]]、[[孝昭天皇|孝昭]]の和風諡号の構成要素である「'''ヒコ'''」は、「カミヤマトイワレヒコ([[神武天皇]])」と共通するものであるとともに、[[応神天皇]]以前の皇子で、様々な氏族の始祖とされる人物に良く見られるものであるが、この名を持つ人物で実在が確実なものは非常に少なく、一方で『[[延喜式]]』の神名帳に載せられている神社の祭神には、「ヒコ」を名前語尾に持つものが複数見られる<ref name="直木2015p9"/><ref name="直木2005p5">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 5</ref>。また、第7代から第9代の孝霊、孝元、開化天皇3名の和風諡号の構成要素である「'''ヤマトネコ'''」が第10代[[崇神天皇]]以降の天皇には見られず、7世紀末から8世紀初頭の天皇である[[持統天皇|持統]](オホヤマトネコアメノヒロノヒメ)、[[文武天皇|文武]](ヤマトネコトヨオホチ)、[[元明天皇|元明]](ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ)、[[元正天皇|元正]](ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ)と共通している<ref name="直木2005p3"/>。さらに、第6代[[孝安天皇]]の諡号に含まれる「'''タラシ'''」は、欠史八代と同じく実在が疑問視される[[景行天皇|景行]](オホタラシヒコオシロワケ)、[[成務天皇|成務]](ワカタラシヒコ)と共通する<ref name="直木2015p8">[[#直木 2005|直木 2015]], p. 8</ref>。これらのことから、欠史八代の和風諡号は、遥か後代の史書の編纂時に与えられたものである可能性が高いと見られている<ref name="木下1993p263"/><ref name="井上1973pp269_270">[[#井上 1973|井上 1973]], pp. 269-270</ref>。
<ol start=2>
<li>[[綏靖天皇]] - 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)</li>
<li>[[安寧天皇]] - 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)</li>
<li>[[懿徳天皇]] - 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)</li>
<li>[[孝昭天皇]] - 観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)</li>
<li>[[孝安天皇]] - 日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)</li>
<li>[[孝霊天皇|孝靈天皇]] - 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)</li>
<li>[[孝元天皇]] - 大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)</li>
<li>[[開化天皇]] - 稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)</li>
</ol>


== 非実在説 ==
== 系譜 ==
欠史八代を含む初代神武から第14代成務までの天皇は、全員が父親から息子への直系継承の形をとっている。しかし、後代の天皇の系譜では兄弟間や甥などへの継承が頻繁に見られ、このように整然とした直系継承は現実的なものとは言い難い<ref name="遠藤2018p118">[[#遠藤 2018|遠藤 2018]], p. 118</ref><ref name="直木2005p8">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 8</ref><ref name="若井2010pp58_68">[[#若井 2010|若井 2010]], pp. 58-68</ref>。欠史八代についてはさらに『帝紀』的な系譜情報以外の記録がほとんどないことから、後世に創作されたことが疑われた<ref name="直木2005p5"/>。しかし、欠史八代の系譜が史実をそのまま記録したものではあり得ないとしても、どのようにしてその系譜が作られ、またなぜ今日見られる形に出来上がったのかということは古代日本史の理解に関わるものとして現在も研究されている。
欠史八代の天皇を非実在と考える代表的な根拠は以下の通り。


=== 古代日本の系譜と天皇系譜 ===
これらの八代の天皇は古代[[中国]]の革命思想である[[辛酉革命]]に合わせることで、[[皇室]]の起源の古さと権威を示すために偽作したという推測がある。「辛酉」とは[[干支]]のひとつで中国では[[革命]]の年と考えられ、古来より21回目の辛酉の年には大革命が起きる([[讖緯]]説)とされてきた。この見解は[[江戸時代]]に[[国学者]][[伴信友]]によって指摘され<ref name="大津2017p117">[[#大津 2017|大津 2017]], p. 117</ref>、明治期に[[[[那珂通世]]によって通説として打ち立てられた<ref name="大津2017p117"/>。那珂通世の結論は、推古天皇9年(601年)、辛酉の年を起点として、一蔀遡った前660年、辛酉の年が神武天皇元年として設定されたというものである<ref name="遠藤2012pp63_64">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], pp. 63-64</ref><ref name="大津2017p117"/> 2 - 9代に限らず古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、このことは創生期の天皇の非実在性を強く示唆するものである。これは、後述する[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]発見の[[稲荷山古墳出土鉄剣|金錯銘鉄剣]]に記された銘文などから、古代日本の系譜情報は元来直系継承の形式をとっていたと見られ、『日本書紀』編纂時に紀年を設定するよりも先に系譜が成立していたことから、それと整合させるためにそのようにせざるを得なかったとも考えられる<ref name="関根2020p193">[[#関根 2020|関根 2020]], p. 193</ref>。
古代の天皇系譜について論じる際に考慮しなければならないこととして、古代日本における系譜には複数の類型があったことがある<ref name="義江2011">[[#義江 2011|義江 2011]]</ref><ref name="関根2017p19">[[#関根 2017|関根 2017]], p. 19</ref>。これは今日の日本で一般にイメージされる家系図とは異なるものであった。[[義江明子]]によれば、古代日本語の「コ(子・児)」という言葉には「祖の子(おやのこ)」と「生の子(うみのこ)」の区別が存在した<ref name="義江2011pp3_5">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 3-5</ref>{{refnest|group="注釈"|義江は「おやのこ(於夜乃子)」「うみのこ(宇美乃古)」という用語自体は『[[万葉集]]』巻18-4094番と巻20-4465番の[[大伴家持]]の歌から得ている<ref name="義江2011pp3_5"/>。}}。この2つの「コ(子・児)」の概念が古くは明確に区別されていたことは、系譜においてそれぞれが異なる様式で記載されていることから理解できるという。「生の子」は男女の間に生まれた文字通り直接血を引いた「子供」であった。そしてこのような親と子の関係を系譜で表す際には「'''A娶B生子C'''(AがBと娶いて生む子C{{refnest|group="注釈"|「娶」字は通常、「メトリテ」「メトシテ」と訓むが、ここでは義江明子の訓みに従って「ミアイテ」としている。義江によれば「メトル」即ち「女(め)を取る」という読みは漢語の語義に従った訓ではあるが、古代日本における一般的な婚姻形態は妻問婚であり、男が女を取るという意味合いの訓みは当時の実態にそぐわず行われなかったであろうという。その上で[[本居宣長]]が「娶」字に対して「米志弖(メシテ)」、「伊礼弖(イレテ)」、「美阿比坐弖(ミアヒマシテ)」という訓みの候補を挙げていることを参考として、「ミアヒ」という訓みが当時の言葉として適切であるという<ref name="義江2011pp8_9">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 8-9</ref>。これは、[[人類学]]・[[家族史]]研究の潮流を受けて、古代日本社会が[[東南アジア]]・環太平洋地域で広く見られる双系的(子供が父系あるいは母系ではなく、父母双方から社会的地位を受け継ぐ可能性のある)社会であったという理解に基づくものである<ref name="義江2007ツマトヒ">[[#義江 2007|義江 2007]], pp, 63-64, pp, 148-150 pp. 164-165</ref>。家制度が未発達かつ、男女いずれか(多くの場合は男)が相手側の家に通うことで婚姻関係とみなされる社会にあって、「女を取る」ことは原理的に成立し得ないと義江は指摘する。当時の婚姻とは単純な男女関係の事実によって裏打ちされており、奈良時代の法律注釈書『[[令集解]]』の戸令結婚条には「同里」内で、「男女が三か月以上行き来しなかったならば、離婚とみなす」とされている<ref name="義江2007pp63_64">[[#義江 2007|義江 2007]], pp. 63-64</ref>。また義江は傍証として、国生み神話において、([[イザナギ]]と[[イザナミ]]が)'''御合て'''(ミアヒテ)生む子、淡路のホノサワケ島、次ぎに伊予のフタナ島を生む、という表現が用いられていることを挙げる<ref name="義江2011pp9_10">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 9-10</ref>。これらのことから、古代の日本において男女は「メトリテ」子を成すのではなく「ミアヒテ」子を成すのであり、訓もその観念に準じたものと考えられる。}})」という形で同母単位で記載された(義江はこれを「娶生」系譜と呼んでいる)。このような系譜の実例には『古事記』における天皇系譜や『[[天寿国繡帳]]』の[[聖徳太子]]系譜、[[群馬県]][[高崎市]]の[[山ノ上碑]](681年)記載の系譜などがある<ref name="義江2011pp6_8">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 6-8</ref>。そしてもう一つの系譜形式が地位継承次第系譜である。これは「祖の子」を表現する系譜であり「祖の子」とは生物学的な意味での直接の親子関係ではなく一族間でのある公的地位の継承における後継者を指すものであった<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011pp13_14">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 13-14</ref>。地位継承次第系譜の代表的なものが[[海部氏系図]]である。これは[[海部氏]]の系譜をその始祖から「児A-児B-児C..」という形式で一筋に繋いでいく形式を取り「国造奉仕」「祝奉仕」など天皇(大王)に対する職掌奉仕の記載を伴うという特徴を持つ<ref name="義江2011pp13_14"/>。同様の形式の系図には『[[賀茂氏|下鴨系図]]<ref group="注釈">賀茂御祖皇大神神宮禰宜河合神職鴨県主系図</ref>』がある。これらの系図で「子・児」字で繋がれている人物の中には実際の続柄が把握されているものがいるが、父子関係になく兄弟・傍系や続柄に五世代もの隔たりがある場合も含めて「子・児」と表現されている<ref name="義江2011p15">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 15</ref>。即ち、この形式で書かれた系譜では、「A子(児)B」と書かれた人物間の関係が親子とは限らず、本質的には地位の継承を記録したもの(地位継承次第)であることが理解される<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011p15"/>。古代日本においてはある集団(ウヂ、氏)の族長位(氏上)は特定の系統(本宗家)に固定されておらず、必ずしも血縁関係にはない諸氏がよりあつまって巨大な集団を形成し族長位を継承していたと考えられ、この継承関係こそが系譜に「子・児」として一線で結ばれる「祖の子」であった<ref name="義江2011p16">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 16</ref>{{refnest|group="注釈"|ただし、稲荷山鉄剣銘を始めとした古代の地位継承次第系譜については、義江が古代において父系出自集団の存在は想定し難いとするのに対し、[[溝口睦子]]は系譜が地位継承次第であり現実の父子関係を意味するものではないとしても、あくまで「父から息子へ」という父系観念に基づいて作成された系譜であるとする。[[篠川賢]]は溝口の見解を妥当であるとする<ref name="篠川2009p22">[[#篠川 2009|篠川 2009]], p. 22</ref>。また、[[平林章仁]]もまた稲荷山鉄剣銘について「『其児』で結ばれていることは職位あるいは首長位継承の系譜ではなく、血縁系譜を意図していたことを物語る」とする<ref name="平林2016p10">[[#平林 2016|平林 2016]], p. 10</ref>。}}。


現在知られる限り、日本で発見されている最古の系譜が[[稲荷山古墳出土鉄剣]]銘である。[[稲荷山古墳出土鉄剣]]は、[[1978年]]に[[埼玉県]][[行田市]]の[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]で出土した銘入りの鉄剣であり、銘文には、「ワカタケル大王(一般に[[雄略天皇]]とみなされる)」に杖刀人の首として奉事したという乎獲居(ヲワケ)臣という人物の系譜が記されており、作成時期の「辛亥年(471年)」も記録されていた<ref name="直木1990p226"/>。この系譜は「上祖、名は意富比垝(オホヒコ)、其の児、名は...」という形式で8代にわたって遡っている。一見して全員を父子関係として記録しているように理解されたことと、上祖とされる意富比垝が[[孝元天皇]]の第一皇子[[大彦命]]に相当すると考えられたことから、欠史八代の実在を巡る議論でも大いに注目された。直木孝次郎は鉄剣の銘文にある「辛亥年」の471年時の[[雄略天皇|雄略朝]]に記紀的な系譜ができていたら、「意富比垝」で止めるはずがなく、「孝元天皇から始まる系譜を書くにちがいない」として、「その時にはまだ『記紀』に採用された『帝紀』と『旧辞』は成立していなかったという証拠になると思う」と述べている<ref name="直木1990p226">[[#直木 1990|直木 1990]], p. 226</ref>。近年では、「児」字を用いて人物を一線に繋ぎ「杖刀人の首」という地位への言及を示すこの系譜は実際の父子関係ではなく「祖の子」を表す地位継承次第の原初的な形であると理解される<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011pp26_31">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 26-31</ref>。
『日本書紀』における初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代[[崇神天皇]]の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことから、本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる<ref>{{Harv|直木|1990}}P20</ref>。また、神武の称号の「[[天下]]」という抽象的な語は、崇神の称号の「国」という具体的な語と違って形而上的な概念であり、やはり後代に創作された疑いにつながる。


こうした古代の系譜の在り方が欠史八代を含む『記紀』の天皇系譜の形態にも影響を及ぼしていると考えられる。古い日本の氏族において「本宗家」が確立していなかったのは天皇家も同様であったと考えられ、一つの血統による世襲王権の成立は概ね[[継体天皇]]から[[欽明天皇]]の時代(6世紀)以降であることは学界における共通認識となっている<ref name="義江2011p131">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 131</ref><ref name="関根2017p21">[[#関根 2017|関根 2017]], p. 21</ref>。それに平行して父系原理が定着するにつれ「娶生」系譜は作られなくなり、父系の出自を連ねた父系出自系譜が基本となって行った<ref name="義江2011p21">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 21</ref>。『日本書紀』の天皇系譜は古い「娶生」系譜の形式をそのまま残す『古事記』と異なり「娶」字を用いないが、皇子女を同母単位で列挙するという「娶生」系譜の様式を部分的に残している<ref name="義江2011p20">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 20</ref>。ここから、元来「娶生」系譜形式であった系譜伝承を父系的な形式に変換したことが窺われ、『[[続日本紀]]』の時代には天皇系譜は完全に父系形式で記載されるようになる<ref name="義江2011p20"/>。義江明子は一系的な父系系譜を要求する情勢の中で、「娶生」系譜的な情報が父系系譜へと組み替えられ、また「コ(子・児)」を連続させていく地位継承次第の父子直系として読み替えられるなどの編集を経て日本の王統譜が確立していったとする<ref name="義江2011p171">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 171</ref>。
1978年、埼玉県[[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]出土の[[稲荷山古墳出土鉄剣|金錯銘鉄剣]]の銘文に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した[[四道将軍]]の一人・[[大彦命]]と考えられる。日本書紀によれば、大彦命は8代[[孝元天皇]]の第一皇子である。[[直木孝次郎]]は、鉄剣の銘文にある「辛亥年」の471年時の[[雄略天皇|雄略朝]]に記紀的な系譜ができていたら、「意富比垝」で止めるはずがなく、「孝元天皇から始まる系譜を書くにちがいない」として、「その時にはまだ『記・紀』に採用された帝紀・旧辞は成立していなかったという証拠になると思う」と述べている<ref>{{Harv|直木|1990}}P226</ref>。


=== 欠史八代の后妃 ===
4代・6 - 9代の天皇の名は明らかに[[和風諡号]]と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り和風諡号の制度は6世紀半ば頃に始まったものである。また、神武・綏靖のように伝えられる名が実名とするとそれに「神」がつくのも考え難く、さらに「ヤマトネコ」(日本根子・倭根子。「ネコ」とは一定の地域を支配する首長・王といった意味<ref>{{Harv|遠山|2001}}P56</ref>。)などという美称は記紀が編纂された7・8世紀の天皇の諡号に多く見られるもので後世的であり、やはりこれらの天皇が後世になって皇統に列せられたものと考える見方が妥当である<ref>{{Harv|井上|1973}}P269-270</ref>。
==== 后妃の出自 ====
『記紀』は欠史八代の后妃の出自についても記録を残している。この后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、[[磯城]](師木)県主、[[春日]]県主、十市県主といった[[大和]]地方を本拠地とする[[県主]](あがたぬし)家から出ている者が多いことである{{refnest|group="注釈"|具体的には『古事記』において綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃の氏姓は師木(シキ)県主であり、孝霊天皇の后妃は十市県主である。『日本書紀』本文では綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃は[[事代主神]]、[[息石耳命]]から出ているが、引用されている「一書」の異伝においては[[磯城]]県主、[[春日]]県主などから出ている。また『日本書紀』の本文および異伝では他にも、孝昭、孝安、孝霊天皇の后妃も磯城、十市、春日県主から出ていることが伝えられている<ref name="直木1964p219">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 219</ref>。}}。


これらの県主家系はいずれも天皇家と比肩するような有力な氏族家系ではなく、大和地方という限られた一地方の小規模氏族から后妃が選ばれていることは、欠史八代の実在を論じる場合の有力な論拠とされた<ref name="直木2005p5"/>。代表的な『日本書紀』の研究者である[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]は、欠史八代系譜が後代の創作であるならば有力な大豪族と皇室が結びつけられたはずであり、歴代の后妃が大和地方の小規模な豪族から出ていることは当時の天皇(大王)家がまだ一地方政権であったことを反映したものと考えられるとし、欠史八代系譜は信頼できると論じた<ref name="直木2005p5"/>。また、欠史八代の具体的な事績が伝わらないことについても、これを理由に系譜情報まで疑問視するのは飛躍していると主張し「八代の系譜をも古伝として尊重すべきだと考える」とも述べている<ref name="坂本1970pp92_93">[[#坂本 1970|坂本 1970]], pp. 92-93</ref>。坂本に師事した[[井上光貞]]もまた、坂本の見解は十分に支持可能なものとしていた。坂本は『記紀』研究における第一人者であり、井上はその後継者とも位置づけられる人物であったため、彼らの見解の影響は大きかったものと見られる<ref name="直木2005p5"/>{{refnest|group="注釈"|ただし、井上は後に自説を撤回している<ref name="直木2005p5"/>}}。
系譜などの『帝紀』的記述のみで事跡などの『旧辞』的記述がなく、あっても2代[[綏靖天皇]]が[[タギシミミの反逆|手研耳命(たぎしみみのみこと)]]を討ち取ったという綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。これらは伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合に多く見られる例である<ref>{{Harv|直木|1990}}P20</ref>。


一方で、ここで見られる、磯城、十市、春日県主は、天武朝において[[連]](ムラジ)姓を与えられた磯城県主を始めとして、7世紀後半から8世紀にかけて朝廷と緊密な関係を築いたことが確認される氏族である<ref name="直木1964p221">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 221</ref>。また、県主家系とは別に欠史八代の后妃を出したことが伝えられている[[尾張連]]、および[[事代主神]]は[[壬申の乱]](672年)において大海人皇子(天武天皇)側に立って功績があったことが伝えられている<ref name="直木1964p219"/>。7世紀における大和地方の県と皇室との密接な関係を窺わせるもう一つの事実は、天武朝前後期における皇族子女の名前である。古代の皇子・皇女の名前はしばしば養育を担当した[[乳母]]などの下級氏族の女性に由来していた。そして7世紀の皇族には大和地方の県の名を持つ人物がしばしば見られる{{refnest|group="注釈"|例えば、天智天皇の息子[[施基皇子]](志貴県)、娘[[山辺皇女]](山辺県)、天武天皇の息子[[高市皇子]](高市県)、娘[[十市皇女]](十市県)、息子[[磯城皇子]](志貴県)など<ref name="直木2005p7">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 7</ref>}}。直木孝次郎はこれらの事実から、欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられることを論じた<ref name="直木2005p7"/><ref name="直木1964pp216_238">[[#直木 1964|直木 1964]], pp. 216-238</ref>。
すべて父子相続となっており兄弟相続は否定されている。父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、これでは歴史的に逆行することになる<ref>{{Harv|井上|1973}}P270-272</ref>。このことは上述の天皇の異常な長寿と考え合わせて、皇統の歴史を古く見せかけようとしたために兄弟相続など同世代間での相続を否定したと考えることができる<ref>{{Harv|遠山|2001}}P62</ref>。


==== 母系系譜の問題 ====
[[陵墓]]に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な[[古墳]]がある。だが第9代[[開化天皇]]以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、当時(古墳時代前 - 中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない<ref>{{Harv|直木|1990}}P32</ref>。
欠史八代の婚姻の形態にも後世の状況の反映とみられる特徴がある。『記紀』に見られる古代の皇族は頻繁に[[近親婚]]を行っているが、[[天智天皇|天智朝]]以前の時代では父系で共通の祖先を持つとしても母系を共にすることは、[[允恭天皇]]の息子である[[木梨軽皇子]]が同母妹の[[軽大娘皇女]]と関係を持った例を除いてなかった<ref name="笠井1957p38">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 38</ref>。木梨軽皇子はこれが原因で失脚していることから、当時は同母系の婚姻が社会習俗的に受け入れられなかったことが理解される<ref name="笠井1957p38"/>。しかし、[[天武天皇|天武朝]]期前後に入ると、大海人皇子(天武天皇)自身が同母兄弟である天智天皇の娘(即ち母系でも同一の祖先、祖母にたどり着く)を娶っていたのを始め、天武天皇の息子[[草壁皇子]]が天智天皇の娘である阿部皇女([[元明天皇]])を娶り、同じく[[大津皇子]]も天智天皇の娘[[山辺皇女]]を娶っている。これは天智朝から天武朝期にかけての皇族の婚姻形態の大きな変化を示すが、このような同母系の婚姻は時代を隔てて、第10代[[崇神天皇]]以前の時代にも見られる<ref name="笠井1957p42">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 42</ref>。実際に崇神朝以前の時代の婚姻の記録で母系が明らかであるのは4例のみであるが、その全てが天武朝を中心とした時代と同一の系譜的関係が見られることから、崇神天皇以前の時代の系譜は天武朝期(7世紀後半)の歴史的状況が反映されたものであることが示されている<ref name="笠井1957p42"/>{{refnest|group="注釈"|笠井の見解に対し、[[笹川尚紀]]は6世紀の[[用明天皇]]の息子、[[当麻皇子]]とその妻[[舎人皇女]]が母系で同一の祖先、[[堅塩媛]]に行きつく(彼女は当麻皇子の祖母かつ、舎人皇女の母にあたる)ことから、笠井倭人が指摘する同母系親族婚は天武朝期に始められたものではなく、少なくとも推古朝(6世紀半ば)には行われていたとする。このことから、欠史八代の同母系親族婚系譜が創り出されたのは天武朝期とは断言できず、その造作が行われたのは6世紀頃まで遡り得るとする見解を出している<ref name="笹川2016pp45_53">[[#笹川 2016|笹川 2016]], pp. 45-53</ref>。本文では[[木下礼仁]]のまとめ<ref name="木下1993p263"/>を参考に、天武朝期の成立とする笠井倭人の見解を基本とした。}}。


以下に示すのは笠井倭人がまとめた天皇(大王)の系譜まとめからの抜粋である。大化の改新頃より後の天武天皇の系譜と欠史八代の系譜が同じ特徴(母系で同一の祖先を持つ)を持つことがわかる。欽明天皇の系譜の例に見られるように、その中間の時代の天皇(大王)が配偶者と母系の祖先を共にしていることは原則としてない<ref name="笠井1957">[[#笠井 1957|笠井 1957]]</ref>。
== 実在説 ==
欠史八代の天皇を実在と考える代表的な根拠は以下の通り。


{| style="border-collapse: collapse; overflow: auto; font-size: smaller;"
=== 記紀歴史書説 ===
! style="padding-left: 20px; text-align: left; border-right:1px dotted;" | '''天武朝前後に見られる同母系親族婚(7世紀)'''<ref name="笠井1957p41">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 41</ref>
記紀を歴史書と想定し、皇極天皇4年(645年)の[[乙巳の変]]とともに記紀以前の国記などの代表的な歴史書が火事で無くなったために記録が曖昧になってしまったと考える説。系図だけは[[稗田阿礼]]が記憶していたが、その他の業績の部分に関しては火事で焼失した歴史書と共に消え失せたと考える。
! style="padding-left: 20px; text-align: left; border-right:1px dotted;" | '''6世紀以前に典型的な異母系親族婚'''<ref name="笠井1957p40">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 40</ref>
! style="padding-left: 20px; text-align: left;" | '''欠史八代の同母系親族婚'''<ref name="笠井1957p41ps">[[#笠井 1957|笠井 1957]], p. 41. 笹川尚紀「『帝紀』・『旧辞』成立論序説」『史林』(史学研究会、2000年5月)に従い一部改めた.</ref>
|-
| style="padding-left: 20px; padding-right: 20px; vertical-align: top; border-right:1px dotted;" |
{{familytree/start}}
{{familytree|border=0| }}
{{familytree|border=2px outset black;| | | 000 |y| 001 | | | 000 =宝皇女<br>(斉明天皇)|boxstyle_ 000 =color: red; border-radius: 30px;| 001 =舒明天皇}}
{{familytree|border=2px outset black;| |,|-|-|-|^|-|.| | | }}
{{familytree|border=2px outset black;| |!| | | | | 002 | | | 002 =天智天皇}}
{{familytree|border=2px outset black;| |!| | | |,|-|^|-|.| }}
{{familytree|border=2px outset black;| 003 |~| 004 | | 005 | 003 =天武天皇| 004 =鸕野皇女<br>(持統天皇)|boxstyle_ 004 =color: red; border-radius: 30px;| 005 =大田皇女|boxstyle_ 005 =color: red; border-radius: 30px;}}
{{familytree|border=2px outset black;| |L|~|~|~|~|~|~|~|J| }}
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{{familytree/end}}
| style="padding-left: 20px; padding-right: 20px; vertical-align: top; border-right:1px dotted;" |
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{{familytree|border=2px outset black;| 000 |y| 001 |y| 002 | 000 =堅塩媛|boxstyle_ 000 =color: red; border-radius: 30px;| 001 =欽明天皇| 002 =石姫|boxstyle_ 002 =color: red; border-radius: 30px;}}
{{familytree|border=2px outset black;| | | |!| | | |!| | | }}
{{familytree|border=2px outset black;| | | 003 | | 004 | | | 003 =用明天皇| 004 =敏達天皇}}
{{familytree|border=2px outset black;| | | |!| | | |!| | | }}
{{familytree|border=2px outset black;| | | 005 |~| 006 | | | 005 =厩戸皇子| 006 =菟道貝鮹|boxstyle_ 006 =color: red; border-radius: 30px;}}
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| style="padding-left: 20px; padding-right: 20px; vertical-align: top;" |
{{familytree/start}}
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{{familytree|border=2px outset black;| 000 |y| 001 | 000 =渟名底仲媛|boxstyle_ 000 =color: red; border-radius: 30px;| 001 =安寧天皇}}
{{familytree|border=2px outset black;| |,|-|^|-|.| }}
{{familytree|border=2px outset black;| |!| | | 002 | 002 =息石耳命}}
{{familytree|border=2px outset black;| |!| | | |!| }}
{{familytree|border=2px outset black;| 003 |~| 004 | 003 =懿徳天皇| 004 =天豊津媛命|boxstyle_ 004 =color: red; border-radius: 30px;}}
{{familytree|border=0| }}
{{familytree/end}}
|}


=== 前王朝説 ===
==== 后妃の世代 ====
欠史八代の系譜が全て父子間の直系継承であることは[[#系譜|この系譜の作為性を示す]]ものとされているが、このことは史書の編者が存在しない天皇の伝承を自在に付け加えることが可能であったことを意味するものではなく、より古い時代には天皇(大王)の名前のみが伝承され、各天皇間の続柄が伝わらなかった時代があったことを示すと見られる痕跡が存在する<ref name="若井2010pp62_66">[[#若井 2010|若井 2010]], pp. 62-66</ref>。その端的な例は、欠史八代の各天皇が娶っている后妃の世代である。
ヤマト王権が自らの支配を正当化するために、それ以前に存在した王朝の王達を家祖に取り込んだと考える説もある。


以下に示すのは[[若井敏明]]がまとめた欠史八代の県主家出身の后妃の世代を表す系譜を写したものである<ref name="若井2010p65">[[#若井 2010|若井 2010]], p. 65</ref>。『記紀』の系譜では各天皇は全員が父子であるが、一見して明らかなように数代にわたって同世代の后妃と婚姻を結んでいる。
[[鳥越憲三郎]]は、神武天皇から欠史八代までの宮や陵の多くが[[葛城山|葛城山麓]]の近辺に集中していることから、[[葛城]]地方([[奈良盆地]]南西部一帯)を拠点とする「葛城王朝」とも呼ぶべき王朝が存在したとし、[[弥生時代]]後期から[[古墳時代]]前期にかけてのこの王朝は[[西日本]]の多くを支配したものの、[[三輪山|三輪山麓]]を拠点に新たに起こった崇神天皇を始祖とするヤマト王権に併合されたと論じる<ref>{{Harv|鳥越|1987}}P36-37、P271-272</ref>。


<div style="overflow: auto; font-size: smaller;">
=== プレ大和王権説 ===
'''県主家出身后妃の世代'''<ref name="若井2010p65">[[#若井 2010|若井 2010]], p. 65</ref>
古くは[[賀茂真淵]]の説にまで遡り、崇神天皇が[[四道将軍]]の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の[[磯城県主]]と婚姻を結んでおり、后妃の数も[[孝安天皇]]以前は異伝があるにせよ基本的に一名であることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は[[吉備津彦命]]が[[孝霊天皇]]の後裔、[[大彦命]]と[[建沼河別命]]が孝元天皇の後裔、[[彦坐王]]が[[開化天皇]]の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。
{{familytree/start}}
{{familytree|border=0| }}
{{familytree|border=2px outset black;| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | 000 | 000 =春日県主<br>大日諸}}
{{familytree|border=2px outset black;| | | | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|.| | | | | | | |!| }}
{{familytree|border=2px outset black;| 016 | | | | | | 013 | | 011 | | | | | | | | | | | | | | 006 | | 004 |~| 002 |~| 001 | 001 =糸織媛|boxstyle_ 001 =color: red; border-radius: 30px;| 002 ='''綏靖天皇'''| 004 =川派媛|boxstyle_ 004 =color: red; border-radius: 30px;| 006 =磯城県主<br>葉江| 011 =十市県主<br>五十坂彦| 013 =猪手| 016 =太真稚彦}}
{{familytree|border=2px outset black;| |!| | | | | | | |!| | | |!| | | | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | | | | | }}
{{familytree|border=2px outset black;| 017 |~| 015 |~| 014 | | 012 |~| 010 |~| 009 | | 008 |~| 007 | | 005 |~| 003 | | | | | 003 ='''安寧天皇'''| 005 =川津媛|boxstyle_ 005 =color: red; border-radius: 30px;| 007 =渟名城津媛|boxstyle_ 007 =color: red; border-radius: 30px;| 008 ='''孝昭天皇'''| 009 =長媛|boxstyle_ 009 =color: red; border-radius: 30px;| 010 ='''孝安天皇'''| 012 =五十坂媛|boxstyle_ 012 =color: red; border-radius: 30px;| 014 =泉媛|boxstyle_ 014 =color: red; border-radius: 30px;| 015 ='''懿徳天皇'''| 017 =飯日媛|boxstyle_ 017 =color: red; border-radius: 30px;}}
{{familytree|border=0| }}
{{familytree/end}}
</div>


『日本書紀』によれば、第3代安寧天皇の后妃川津媛と、第6代孝昭天皇の后妃渟名城津媛、第7代孝安天皇の后妃長媛は、いずれも磯城県主葉江の娘とされている。これは父子継承している3-4世代離れた天皇がほぼ同じ世代の女性を后妃としたことを意味するが、このような婚姻は現実的なものとは考えられない<ref name="若井2010pp62_66"/>。即ちこれは安寧、孝昭、孝安天皇の世代も実際にはそれほど隔たってはいなかったであろうことを意味する。つまり、初期の天皇についてはまず天皇名や后妃の出自のみが伝わった時期が存在し、後にこれを一系で繋ぎ合わせたことで、現在見られるような『記紀』の系譜情報が形成されたと見られる<ref name="遠藤2018p118"/><ref name="若井2010pp62_66"/>{{refnest|group="注釈"|古代日本の系譜が直系継承、あるいはそのような形に見えるようになっていることについて、しばしば参考にされるのが[[川田順造]]による[[西アフリカ]]の[[モシ族]]を中心としたフィールドワーク調査報告である。川田によれば西アフリカの無文字社会の口承伝承に語られる首長の系譜は、比較的新しい時代については傍系継承が多いのに対し、「より古い時代の、名と継承順位だけが知られているにすぎないような首長は、ひとまとめに、直系継承とされている例が多いのである。」という<ref name="川田1976p83">[[#川田 1976|川田 1976]], p, 83</ref>。川田はさらにこうした続柄が不明な首長について「父から子への継承とした方が、王朝の歴史が長く、したがって王朝の起源も古くなるという点も、みすごされてはならないだろう。」と述べる<ref name="川田1976p83"/>。遠藤慶太は若井敏明による欠史八代の系譜情報の形成過程の推定と、川田による西アフリカの調査を引き、天皇(大王)自体の伝承とその系譜の伝承の形成過程に時間差が存在することを指摘する<ref name="遠藤2018p118"/>。}}。
[[九州王朝説]]の[[古田武彦]]も神武天皇から武烈天皇まで歴代天皇については大和に存在した九州王朝の分王朝である近畿大王家の大王であって、継体天皇の時代まで断絶はなかったとしており、プレ大和王権説に近い立場であるといえる。


=== 古代天の異常な寿命について ===
=== 皇別氏族と欠史八代 ===
古代日本の[[氏]](ウヂ)は共通の始祖を持つ政治的集団であり、その出自によって大きく神別、皇別、諸蕃に分類される<ref name="大津2017p120">[[#大津 2017|大津 2017]], 120</ref>。史料によって異動があるものの、皇族から出た皇別氏族、とりわけ5-6世紀に既に存在していたことが知られ、後に[[臣]](オミ)姓を持つことになる氏族はそのほとんどが欠史八代の天皇の子孫を始祖としており、欠史八代はこれら臣姓氏族と天皇系譜の結節点の中心となっている<ref name="大津2017p120"/><ref name="直木2015p17">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 17</ref><ref name="義江2011p170">[[#義江 2011|義江 2011]], p. 170</ref>。前述の孝元天皇の皇子大彦命は[[阿倍氏]]、[[膳氏]]など7つの氏の始祖と『日本書紀』に伝えられる(『古事記』では2氏)<ref name="直木2015p20">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 20</ref>。皇別氏族の始祖として最も代表的な人物は孝元天皇の孫(または曾孫)である[[武内宿禰]](建内宿禰)で、『古事記』では武内宿禰の7人の子を通じて[[蘇我氏]]、[[巨勢氏]]、[[平群氏]]など27氏の祖とされる<ref name="大津2017p120"/>。
2 - 9代に限らず古代天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは実在が有力視される21代[[雄略天皇]]にも見られる。また、朝鮮三国や古代[[中国]]の王や皇帝も異常に長い寿命を持ち、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に則って歴史を遡らせたいならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やすこともできる。にもかかわらず、敢えてそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであったと考えられるという<ref>{{Harv|平泉|1979}}P36</ref><ref>{{Harv|西尾|1999}}P164</ref>。また古代天皇の不自然な寿命の長さが、かえって系譜自体には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる<ref>{{Harv|鳥越|1987}}P253</ref>。他国の例として、[[朝鮮半島]]の[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]を扱った[[三国史記]]では、[[新羅]]と[[百済]]が共に[[高句麗]]よりも建国時期が古くなっている。


直木孝次郎は皇別氏族の姓(カバネ)のうち臣(オミ)、君(キミ)、国造(クニノミヤツコ)の3つについて、それぞれの『古事記』系譜上の特徴を次のように分析している。まず臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ<ref name="直木2015p21">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 21</ref>。臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める<ref name="直木2015pp22_24">[[#直木 2005|直木 2005]], pp. 22-24</ref>。そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に[[天照大御神]]などに由来を持つ神別氏族であるものが多い<ref name="直木2015pp24_25">[[#直木 2005|直木 2005]], pp. 24-25</ref>。
中国の史書からも紀元前の建国が確実な高句麗に対して、実質的な建国が[[4世紀]]と見られる両国が対抗上から行ったと考える説もある。いずれにしても、王の在位年数を2倍または4倍にすることで建国を400年程度遡らせている。また、『古事記』と『日本書紀』の年代のずれが未解決であるため、史書編纂時に意図的な年代操作はないとして原伝承や原資料の段階で既に古代天皇達は長命とされていた可能性を指摘する説もある。さらに、先代天皇との親子合算による年数計算を考慮すべきとの説もある。


皇別氏族が姓ごとにこのような特徴を持つことは、それぞれの氏族が天皇家との関係を構築した歴史的背景の違いから来ていると考えられる。元来、各地の自律的な支配者であった君姓氏族の多くは独立を失って[[ヤマト王権]]に臣属していく過程で地位を安定させるために天皇(大王)との擬制的な親族関係を構築したと見られる<ref name="直木2015p26">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 26</ref>。君姓氏族の過半数は[[崇神天皇|崇神]]、[[垂仁天皇|垂仁]]、[[景行天皇|景行]]、[[応神天皇|応神]]の4代いずれかに出自を持っており、欠史八代由来のものが少ない。このことは欠史八代の伝承はこれら地方首長がヤマト王権に服属していった時代にはまだ成立しておらず、一方で崇神天皇ら四代の伝承の成立が比較的早かったことを予想させる<ref name="直木2015p26"/>。国造姓氏族が神武天皇(の皇子[[神八井耳命]])及び神々を祖としているのは国造クラスの下級氏族では系譜を天皇系譜そのものに接続することが難しかったためであると考えられる<ref name="直木2015p27">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 27</ref>{{refnest|group="注釈"|直木孝次郎は国造姓氏族のうち神武裔とされる氏族の大半が神八井耳命を祖とすることについて、「神八井耳命裔の氏族には国造姓五氏のほかに、火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣と地方豪族がはなはだ多いことと併せて考える必要がある。」としている<ref name="直木2015p27"/>。}}。これらに対して、臣姓氏族であった[[葛城氏]]や[[蘇我氏]]などは古くから天皇(大王)と通婚関係を持っており遠い祖先を持ち出さなくとも単純な事実として天皇(大王)の「同族」であった。また[[大臣]]などの地位を得られるような氏族は天皇との通婚関係こそ持っていなくてもその実力によって元来「皇別」を主張する必要性が存在しなかった。しかし、王位継承における血統原理が次第に確立し、特に天皇家の地位が急速に高まって「皇族」が明確化していった[[大化の改新]]以降(7世紀後半)、独自の権威を有していたこれらの臣姓氏族もまた天皇家との系譜の接続が必要となっていったものと見られる<ref name="直木2015p27"/>。このため、7世紀後半には臣姓氏族の系譜もまた明確に皇別氏族として確立していったが、この際にそれぞれの氏族の祖と結びつけられたのが欠史八代の天皇であり、神武天皇と崇神天皇の間の系譜を繋ぐ作業もまた、この頃に行われたと考えられる<ref name="直木2015p28">[[#直木 2005|直木 2005]], p. 28</ref>{{refnest|group="注釈"|『日本書紀』の持統5年(681年)条には18氏が墓記を進上したことが記載されているが、直木孝次郎によればこのうち11氏が臣姓氏族である。そしてこの11氏の系譜全てが『古事記』に記載があり、9氏が欠史八代の天皇の後裔である<ref name="直木2015p28"/>。}}。
; 半年暦、4倍年暦説
: 日本の伝統行事や民間祭事には([[大祓]]や霊迎えなど)一年に二回ずつ行われるものが多いが、古代の日本では半年を一年と数えて一年を二回カウントしていたと考える『半年暦{{efn2|一年二歳暦、春秋暦、2倍年暦とも。}}説』がある。また一つの季節を一年と数え、一年を四回カウントする『4倍年暦説』もある。


=== 神武天皇と崇神天皇 ===
古代においては兄弟相続、傍系相続が普通であり、また平均寿命が40 - 50年であったことを考慮すると、実際は在位年数に4倍年暦、即位前の年齢に半年暦を採用していた可能性が高い。それら考慮した場合、その世代数は1.神武、2.綏靖・安寧、3.懿徳・孝安(別族)、4.孝昭、5.孝霊・孝元、6.開化・崇神となる<ref>[[宝賀寿男]]『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。</ref>。
『日本書紀』における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代[[崇神天皇]]の別名である「御肇國天皇<ref group="注釈">『古事記』では所知初國御眞木天皇(ハツクニシラスミマキノスメラミコト)、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)。</ref>」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことは崇神天皇を初代天皇とする伝承がかつて存在したことを予想させる<ref name="直木1990p20">[[#直木 1990|直木 1990]], p. 20</ref><ref name="直木1964p217">[[#直木 1964|直木 1964]], p. 217</ref><ref name="河内2018p187">[[#河内 2018|河内 2018]], p. 187</ref>。


== 『記紀』の歴史意識と「欠史」 ==
一方、半年暦、4倍年暦を採用した例は日本、中国、朝鮮など東アジア諸国を除いてほとんど存在せず、また魏志倭人伝の記述においても「倭人は正しい暦を知らず、ただ農耕のリズムをもって1年としている」と解釈するのが妥当であり、半年暦、4倍年は推測の域を出ていないとする意見もある。創世記の超長命との比較においても、千歳という荒唐無稽な長寿は神のものであり、人間天皇のものとすることは憚られたとも考える説もある。
欠史八代が「欠史」として括られるのは既に述べた通り、『記紀』が記録している情報が『帝紀』的な系譜および陵墓情報のみで『旧辞』的な物語、歴史的事件の叙述を欠いていることによる。具体的に『記紀』が欠史八代について伝える内容は「天皇名・出自系譜・先帝の埋葬と陵・即位年月日・宮都・立后と后妃皇子女・所生子の後裔氏族・立太子・崩年<ref name="矢嶋2008p93">[[#矢嶋 2008|矢嶋 2008]], p. 93</ref>」等に限られ、個々の天皇が治世中に何をしたのか、ということについての情報は無い<ref name="矢嶋2008p93"/>。しかし近年では、これを「欠史」と見る視点は物語的要素を「[[歴史]]」として捉えてきた近現代の歴史学のものであるという指摘がある<ref name="矢嶋2008pp92_94">[[#矢嶋 2008|矢嶋 2008]], pp. 92-94</ref>。『記紀』は史書として編纂されているにも関わらず史を欠いているとすればそれは何を記録しているのか、ということが問題となる。事実として『古事記』の場合、記載対象とする神武天皇から[[推古天皇]]までの33代の天皇のうち、物語的要素を欠き系譜情報のみしか記されていない天皇は中巻・下巻合わせて20名にも上り、欠史八代に限らず過半数の天皇は『旧辞』的な記録が存在しない<ref name="矢嶋2008pp92_94"/>。このことから、物語要素が無いことをもって「欠史」としてしまうならば、『古事記』は事実上、史書の体をなしていないことになる<ref name="矢嶋2008pp92_94"/>。同様の指摘は『日本書紀』の欠史八代の記録についても存在する<ref name="遠藤2012pp28_30">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]], pp. 28-30</ref>。このことは逆に、『記紀』の編纂者たちの意識においては天皇の系譜に関する情報を完備していれば物語要素が無くともそれは「歴史」であったことを意味する<ref name="矢嶋2008pp92_94"/><ref name="遠藤2012pp28_30"/>。


原初的な歴史は[[系図]]によってまとめられるとも言われ<ref name="遠藤2018p118">[[#遠藤 2018|遠藤 2018]], p. 118</ref>{{refnest|group="注釈"|関根淳は「日本書紀『欠史八代』に示されるように、系譜は〈歴史〉であり、史書の原型は系譜である。」と指摘する<ref name="関根2017p18">[[#関根 2017|関根 2017]], p. 18</ref>。}}、古代日本にあっては天皇(大王)の代替わりが人々にとって過去の出来事が「いつ」起こったことであるのか、を考える時間軸であった{{refnest|group="注釈"|関根淳は「天皇とは人々に時間、すなわち『歴史』を与える存在」であったと描写する<ref name="関根2020p12">[[#関根 2020|関根 2020]], p. 12</ref>。}}。このことを示すのが『[[風土記]]』における天皇への言及である。「志木島宮御宇天皇([[欽明天皇]])の御代」といった表現に見られるように、どの天皇の代の出来事であるかが、その出来事がいつの出来事であるか、という時間の認識と結びついていた<ref name="関根2020p12"/>。このように天皇に基づいて時間の認識が行われていた時代、出来事や具体的な日時の指定とは別に、系譜はそれ自体が歴史であったと考えられる<ref name="関根2020p12"/>。この意味において、『記紀』に見られる「欠史八代」の記録は基本的に皇統譜を完備しており、実際の編纂者の認識として史を欠いてなどはおらず、「欠史」という表現はあくまで近現代の「歴史」意識を強く反映したものと言える<ref name="矢嶋2008">[[#矢嶋 2008|矢嶋 2008]]</ref><ref name="遠藤2012">[[#遠藤 2012|遠藤 2012]]</ref><ref name="関根2020">[[#関根 2020|関根 2020]]</ref>。
皇室の存在を神秘的に見せるために長命な天皇を創作するのであれば[[旧約聖書]]の[[創世記]]に出てくる[[アダム]]のような飛び抜けた長命(930歳まで生きたとされる)にしてもよいのに、二分の一{{efn2|ただし半年暦の場合、孝安天皇の即位年数と在位年数を合わせた場合、異常な長寿となってしまう。}}、四分の一に割って不自然な寿命になる天皇は一人も存在せず、このことも半年暦や四倍年暦が使用されていたことを窺わせる。また、17代[[履中天皇]]以降から不自然な寿命が少なくなり、『古事記』と『日本書紀』の享年のずれがおおよそ二倍という天皇もおり(実在が有力な21代雄略天皇の享年は『古事記』では124歳、『日本書紀』では62歳と、ちょうど二倍。26代[[継体天皇]]も『古事記』43歳と『日本書紀』82歳で、ほぼ二倍)、この時期あたりが半年暦から標準的な暦へ移行する過渡期だったと推測することもできる<ref>{{Harv|安本|2005}}P159-163</ref>。また、日本書紀の暦は20代[[安康天皇]]3年(456年)以降は[[元嘉暦]]が使用されているがそれ以前は書記編纂時に使われていた[[儀鳳暦]]で記述されており、このことから安康以降は元嘉暦による記録が存在したもののそれ以前は[[暦法]]といえるような暦が残っていなかったために便宜的に書記編纂時の儀鳳暦を当てはめたと考えられ、この時期に暦にまつわる大きな変革があったとも推測できる<ref>{{Harv|安本|2005}}P126</ref><ref>{{Harv|牧村|2016}}P59-61</ref>。


『記紀』の欠史八代をどのように理解するかは古代日本の王権、氏族、家族といった社会関係をどのように理解するかということと密接にかかわっている。現代において欠史八代、あるいはその系譜が後世に造作されたものであることは一般的な見解となっているが<ref name="吉村2020p85"/>、それが今日見られる形になった理由を単に皇室の直系継承を示し、その歴史を古く見せるためと理解するのでは不十分である<ref name="義江2011p170"/>。欠史八代を始めとした古代日本の王統譜は元来確固として固定されておらず、天皇家と各氏族の間に擬制的な親族関係を構築する中で、現実の政治的状況・同盟・敵対の関係を反映しつつ翻案と接合を繰り返してきたものと考えられる<ref name="義江2011p170"/>。これが如何に構築されてきたかということについては、ヤマト王権がまず王統譜を構築し、これと同祖構造を持つ系譜を氏族に下賜する制度を持ったことで構築されていったとする考え方や、各氏族ごとに構築された擬制的親族関係がまずあり、その多元的な権力関係を超越した権力構造が構築されるに伴って、それぞれの内部における「語り」を統合する過程で数次にわたる組み換え、加上がなされてきたとする考え方がある<ref name="関根2017p19"/><ref name="義江2011p171"/>。いずれにせよ、こうした日本の王統譜、氏族系譜の形成と統合は幾度にもわたる接合、改変を経て7世紀後半から8世紀にかけての『日本書紀』や『古事記』の編纂とともに確定し、これが受け入れられていく中で共有される過去として「史実」となって行った<ref name="直木2005p25_29">[[#直木 2005|直木 2005]], pp. 25-29</ref><ref name="木下1993p263"/><ref name="義江2011pp183_229">[[#義江 2011|義江 2011]], pp. 183-229</ref>。
=== その他の実在説 ===
* 辛酉革命に合わせて神武即位紀元を定めたとする説には疑問がある。日本書紀においてこの年に「大革命」という表現に相応しい出来事は窺えず、逆算の起点となるような特別な取り扱いはなされていない<ref>{{Harv|安本|2005}}P130</ref>。
* 『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、10代崇神天皇の称号『御肇國天皇』を「ハツクニシラススメラミコト」と読む訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性がある。どちらも同じ意味であるならば、わざわざ漢字の綴りを変える理由が解らない。「[[高天原]]」などの用語と照応するならば、神武の称号の「天下」は後代で使われる形而上的な概念とは意味が違い、「天界の下の[[葦原中国|地上世界]]」といったニュアンスであろう。すなわち神武の『始馭天下之天皇』は「ハジメテアマノシタシラススメラミコト」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことをと称讃したものと解釈すれば上手く説明がつく<ref>{{Harv|安本|2005}}P258-259</ref>。
* 上述のように、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在したと考える説。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。
* 帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは2 - 9代の天皇だけではない。 帝紀はもともと系譜的記事だけのものである。旧辞的記事のないことのみで帝紀を疑う理由にはならない。2 - 9代に相当する旧辞の巻が失われた可能性もある<ref>{{Harv|安本|1988}}P140</ref>。
* 2代、3代、5代の天皇の名は和風諡号に使われる称号の部分がないため、実名として生前に使われた可能性が高い。7 - 9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号の部分を除けば7代は「ヒコフトニ」(彦太瓊・日子賦斗邇)8代は「ヒコクニクル」(彦国牽・日子国玖琉)9代は「ヒコオオビビ」(彦大日日・日子大毘毘)と実名らしくなり、実名を元に諡号が作られた可能性もある。また、記紀編纂時の天皇の諡号に多く見られる「ヤマトネコ」の美称はより後代の[[桓武天皇|桓武]]や[[平城天皇|平城]]にも見られるものであり、その時代特有のものとは一概にいえない<ref>{{Harv|佐藤|2006}}P190</ref>。また、『魏志倭人伝』などの国外の古代史料に見られる倭人の名(あるいは官名)と照応する部分も多く、やはり後世の造作とは言い切れない<ref>{{Harv|安本|1988}}P5-9</ref>。
* すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。むしろ後世に伝わった情報が少なかったために、実際は兄弟相続やその他の相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。また、[[太田亮]]<ref>{{Harv|太田|1929}}</ref>や[[白鳥清]]<ref group="注">井上光貞『井上光貞著作集』第一巻、岩波書店、1985年内に引用されている</ref>によると、神武天皇から[[応神天皇]]までの継承は父子継承だが[[長子相続]]でなく[[末子相続]]であり、末子相続は兄弟相続よりも古い習俗であるからむしろ実在の根拠になりうる。
* 既述の通り欠史八代の多くは畿内の近隣豪族と婚姻を結んでいるが、もしもその存在が後世の創作であるとすれば後代の天皇達のように「皇族出身の女性を娶った」と記す方が自然である。また、『日本書紀』は欠史八代の皇后の名前について異伝として伝わる別の名前も載せているが、これらの皇后の存在が創作であるのならこのようなことをする理由がない<ref>{{Harv|佐藤|2006}}P162</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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<references group="注" />
=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=太田亮|authorlink=太田亮|date=1929|title=日本上代に於ける社会組織研究||publisher=磯部甲陽堂|ref={{Harvid|太田|1929}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[井上光貞]] |title=日本国家起源 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]]| date=1960-4|isbn=978-4-00-413090-1 |ref=井上 1960}}
* {{Cite book|和書|author=井上光貞|authorlink=井上光貞|date=1973-10|title=日本の歴史1 神話から歴史へ|series=中公文庫||publisher=中央公論社|isbn=4-12-200041-6|ref={{Harvid|井上|1973}}}}
* {{Cite book |和書 |author=[[井上光貞]] |title=日本の歴史1 神話から歴史へ|series=[[中公文庫]] |date=1973-10 |publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4-12-200041-4|ref=井上 1973}}
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* {{Cite book |和書 |author=[[吉村武彦]] |title=新版 古代史の基礎知識 |seires=角川選書 |date=2020-11 |publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4-04-703672-7|ref=吉村 2020}}


== 関連項目 ==
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* [[天皇の一覧]]
* [[天皇の一覧]]
* [[欠史十代]]
* [[外戚]]
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* [[成務天皇]]、[[仲哀天皇]]:欠史八代の天皇同様、実在に疑いが持たれている。
* [[成務天皇]]、[[仲哀天皇]]:欠史八代の天皇同様、実在に疑いが持たれている。
* [[九州王朝説]]


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2021年10月30日 (土) 15:09時点における版

天皇系図 初代 - 10代

欠史八代(けっしはちだい、闕史八代缺史八代)とは、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指す、歴史学の用語。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期の天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる[1]

概要

古代の天皇の系譜は『古事記』、『日本書紀』(『記紀』)によって伝えられているが、初期の天皇の系譜の中には、後世に創作されたと見られるものが多数存在する[2]。その中でも第一に挙げられるのが欠史八代と呼ばれる、以下に赤色で示す8名の天皇である[2]

欠史八代と前後の天皇
漢風諡号 和風諡号[注釈 1] 没年齢 后妃の氏姓(古事記[注釈 2] 后妃の氏姓(日本書紀本文) 后妃の氏姓(日本書紀一書)
1 神武 カミヤマトイハレヒコホホデミ 記:127歳、紀:137歳
2 綏靖 カミヌナカハミミ 記:45歳、紀:84歳 師木県主 (事代主神) 磯城県主、春日県主
3 安寧 シキツヒコタマテミ 記:49歳、紀:57歳 師木県主 (事代主神) 磯城県主、大間宿祢
4 懿徳 オホヤマトヒコスキトモ 記:45歳、紀:77歳 師木県主 (息石耳命) 磯城県主、磯城県主
5 孝昭 ミマツヒコカエシネ 記:93歳、紀:114歳 尾張連 尾張連 磯城県主、(倭国豊秋狭太雄)
6 孝安 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト 記:123歳、紀:137歳 (姪) (姪) 磯城県主、十市県主
7 孝霊 オホヤマトネコヒコフトニ 記:106歳、紀:128歳 十市県主、春日、(意富夜麻登)、(意富夜麻登[注釈 3] 磯城県主 春日、十市県主
8 孝元 オホヤマトネコヒコクニクル 記:57歳、紀:116歳 穂積臣、穂積臣、(河内) 穂積臣 -
9 開化 ワカヤマトネコヒコオホヒヒ 記:63歳、紀:115歳 旦波之大県主、穂積臣、丸邇臣、葛城 物部 -
10 崇神 ミマキイリヒコイニエ 記:168歳、紀:120歳

『記紀』の原史料として重要なものとして『帝紀』や『旧辞』がある。これらの内容は古くに佚失し伝存していないが、前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所[3]、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている[4][注釈 4]。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないことによる[6]。このため、この八代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった[6]

欠史八代の議論が本格化するのは第二次世界大戦終結後である。戦前、『記紀』の研究には皇統国体といった概念への一定の配慮が必要であり、特に1930年代以降にその傾向は強まった[6][7]。初期の天皇の名前が美称尊称が重ねられていて実名とは考えられないことを論じた歴史学者津田左右吉は、『記紀』の研究を巡って原理日本社から攻撃を受け出版法違反容疑によって逮捕された(津田事件)[7]。こうした世相のため『記紀』の史実性に疑義を挟むような研究成果を文章として公表することには研究者側に自主規制が働いた[6][8]。日本古代史の研究者直木孝次郎は伝聞情報として「京都大学在学中(一九四一 - 一九四三年)に、かつて喜田貞吉教授が授業の際、欠史八代の信じ難いことを口にされたと、先輩から聞いたことが思い出される」と振り返っているが、公刊されたものは少なかったであろうとしている[6][注釈 5]日本の敗戦によって、天皇の歴史に関わる研究へのタブーや政治的制限が緩やかなものとなり[8]、欠史八代についての議論も本格化した。これが後世に創作された架空の天皇であるという見解は20世紀末頃までに概ね定説となっており、その系譜が形成された年代は、複数の論点に基づいて概ね天武朝、即ち7世紀末頃のことと考えられている[2][9]。さらに欠史八代の系譜に見られる様々な特徴が、現在にいたるまで議論の対象となっている。

名前

欠史八代の各天皇の和風諡号は特徴的なものである。第3代から第5代の安寧懿徳孝昭の和風諡号の構成要素である「ヒコ」は、「カミヤマトイワレヒコ(神武天皇)」と共通するものであるとともに、応神天皇以前の皇子で、様々な氏族の始祖とされる人物に良く見られるものであるが、この名を持つ人物で実在が確実なものは非常に少なく、一方で『延喜式』の神名帳に載せられている神社の祭神には、「ヒコ」を名前語尾に持つものが複数見られる[9][10]。また、第7代から第9代の孝霊、孝元、開化天皇3名の和風諡号の構成要素である「ヤマトネコ」が第10代崇神天皇以降の天皇には見られず、7世紀末から8世紀初頭の天皇である持統(オホヤマトネコアメノヒロノヒメ)、文武(ヤマトネコトヨオホチ)、元明(ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ)、元正(ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ)と共通している[6]。さらに、第6代孝安天皇の諡号に含まれる「タラシ」は、欠史八代と同じく実在が疑問視される景行(オホタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)と共通する[11]。これらのことから、欠史八代の和風諡号は、遥か後代の史書の編纂時に与えられたものである可能性が高いと見られている[2][12]

系譜

欠史八代を含む初代神武から第14代成務までの天皇は、全員が父親から息子への直系継承の形をとっている。しかし、後代の天皇の系譜では兄弟間や甥などへの継承が頻繁に見られ、このように整然とした直系継承は現実的なものとは言い難い[13][14][15]。欠史八代についてはさらに『帝紀』的な系譜情報以外の記録がほとんどないことから、後世に創作されたことが疑われた[10]。しかし、欠史八代の系譜が史実をそのまま記録したものではあり得ないとしても、どのようにしてその系譜が作られ、またなぜ今日見られる形に出来上がったのかということは古代日本史の理解に関わるものとして現在も研究されている。

古代日本の系譜と天皇系譜

古代の天皇系譜について論じる際に考慮しなければならないこととして、古代日本における系譜には複数の類型があったことがある[16][17]。これは今日の日本で一般にイメージされる家系図とは異なるものであった。義江明子によれば、古代日本語の「コ(子・児)」という言葉には「祖の子(おやのこ)」と「生の子(うみのこ)」の区別が存在した[18][注釈 6]。この2つの「コ(子・児)」の概念が古くは明確に区別されていたことは、系譜においてそれぞれが異なる様式で記載されていることから理解できるという。「生の子」は男女の間に生まれた文字通り直接血を引いた「子供」であった。そしてこのような親と子の関係を系譜で表す際には「A娶B生子C(AがBと娶いて生む子C[注釈 7])」という形で同母単位で記載された(義江はこれを「娶生」系譜と呼んでいる)。このような系譜の実例には『古事記』における天皇系譜や『天寿国繡帳』の聖徳太子系譜、群馬県高崎市山ノ上碑(681年)記載の系譜などがある[23]。そしてもう一つの系譜形式が地位継承次第系譜である。これは「祖の子」を表現する系譜であり「祖の子」とは生物学的な意味での直接の親子関係ではなく一族間でのある公的地位の継承における後継者を指すものであった[17][24]。地位継承次第系譜の代表的なものが海部氏系図である。これは海部氏の系譜をその始祖から「児A-児B-児C..」という形式で一筋に繋いでいく形式を取り「国造奉仕」「祝奉仕」など天皇(大王)に対する職掌奉仕の記載を伴うという特徴を持つ[24]。同様の形式の系図には『下鴨系図[注釈 8]』がある。これらの系図で「子・児」字で繋がれている人物の中には実際の続柄が把握されているものがいるが、父子関係になく兄弟・傍系や続柄に五世代もの隔たりがある場合も含めて「子・児」と表現されている[25]。即ち、この形式で書かれた系譜では、「A子(児)B」と書かれた人物間の関係が親子とは限らず、本質的には地位の継承を記録したもの(地位継承次第)であることが理解される[17][25]。古代日本においてはある集団(ウヂ、氏)の族長位(氏上)は特定の系統(本宗家)に固定されておらず、必ずしも血縁関係にはない諸氏がよりあつまって巨大な集団を形成し族長位を継承していたと考えられ、この継承関係こそが系譜に「子・児」として一線で結ばれる「祖の子」であった[26][注釈 9]

現在知られる限り、日本で発見されている最古の系譜が稲荷山古墳出土鉄剣銘である。稲荷山古墳出土鉄剣は、1978年埼玉県行田市稲荷山古墳で出土した銘入りの鉄剣であり、銘文には、「ワカタケル大王(一般に雄略天皇とみなされる)」に杖刀人の首として奉事したという乎獲居(ヲワケ)臣という人物の系譜が記されており、作成時期の「辛亥年(471年)」も記録されていた[29]。この系譜は「上祖、名は意富比垝(オホヒコ)、其の児、名は...」という形式で8代にわたって遡っている。一見して全員を父子関係として記録しているように理解されたことと、上祖とされる意富比垝が孝元天皇の第一皇子大彦命に相当すると考えられたことから、欠史八代の実在を巡る議論でも大いに注目された。直木孝次郎は鉄剣の銘文にある「辛亥年」の471年時の雄略朝に記紀的な系譜ができていたら、「意富比垝」で止めるはずがなく、「孝元天皇から始まる系譜を書くにちがいない」として、「その時にはまだ『記紀』に採用された『帝紀』と『旧辞』は成立していなかったという証拠になると思う」と述べている[29]。近年では、「児」字を用いて人物を一線に繋ぎ「杖刀人の首」という地位への言及を示すこの系譜は実際の父子関係ではなく「祖の子」を表す地位継承次第の原初的な形であると理解される[17][30]

こうした古代の系譜の在り方が欠史八代を含む『記紀』の天皇系譜の形態にも影響を及ぼしていると考えられる。古い日本の氏族において「本宗家」が確立していなかったのは天皇家も同様であったと考えられ、一つの血統による世襲王権の成立は概ね継体天皇から欽明天皇の時代(6世紀)以降であることは学界における共通認識となっている[31][32]。それに平行して父系原理が定着するにつれ「娶生」系譜は作られなくなり、父系の出自を連ねた父系出自系譜が基本となって行った[33]。『日本書紀』の天皇系譜は古い「娶生」系譜の形式をそのまま残す『古事記』と異なり「娶」字を用いないが、皇子女を同母単位で列挙するという「娶生」系譜の様式を部分的に残している[34]。ここから、元来「娶生」系譜形式であった系譜伝承を父系的な形式に変換したことが窺われ、『続日本紀』の時代には天皇系譜は完全に父系形式で記載されるようになる[34]。義江明子は一系的な父系系譜を要求する情勢の中で、「娶生」系譜的な情報が父系系譜へと組み替えられ、また「コ(子・児)」を連続させていく地位継承次第の父子直系として読み替えられるなどの編集を経て日本の王統譜が確立していったとする[35]

欠史八代の后妃

后妃の出自

『記紀』は欠史八代の后妃の出自についても記録を残している。この后妃たちの出自の大きな特徴の一つが、磯城(師木)県主、春日県主、十市県主といった大和地方を本拠地とする県主(あがたぬし)家から出ている者が多いことである[注釈 10]

これらの県主家系はいずれも天皇家と比肩するような有力な氏族家系ではなく、大和地方という限られた一地方の小規模氏族から后妃が選ばれていることは、欠史八代の実在を論じる場合の有力な論拠とされた[10]。代表的な『日本書紀』の研究者である坂本太郎は、欠史八代系譜が後代の創作であるならば有力な大豪族と皇室が結びつけられたはずであり、歴代の后妃が大和地方の小規模な豪族から出ていることは当時の天皇(大王)家がまだ一地方政権であったことを反映したものと考えられるとし、欠史八代系譜は信頼できると論じた[10]。また、欠史八代の具体的な事績が伝わらないことについても、これを理由に系譜情報まで疑問視するのは飛躍していると主張し「八代の系譜をも古伝として尊重すべきだと考える」とも述べている[37]。坂本に師事した井上光貞もまた、坂本の見解は十分に支持可能なものとしていた。坂本は『記紀』研究における第一人者であり、井上はその後継者とも位置づけられる人物であったため、彼らの見解の影響は大きかったものと見られる[10][注釈 11]

一方で、ここで見られる、磯城、十市、春日県主は、天武朝において(ムラジ)姓を与えられた磯城県主を始めとして、7世紀後半から8世紀にかけて朝廷と緊密な関係を築いたことが確認される氏族である[38]。また、県主家系とは別に欠史八代の后妃を出したことが伝えられている尾張連、および事代主神壬申の乱(672年)において大海人皇子(天武天皇)側に立って功績があったことが伝えられている[36]。7世紀における大和地方の県と皇室との密接な関係を窺わせるもう一つの事実は、天武朝前後期における皇族子女の名前である。古代の皇子・皇女の名前はしばしば養育を担当した乳母などの下級氏族の女性に由来していた。そして7世紀の皇族には大和地方の県の名を持つ人物がしばしば見られる[注釈 12]。直木孝次郎はこれらの事実から、欠史八代の后妃の出身氏族家系には天武朝前後の時期における政治情勢が反映され、功績のあった一族や神が系譜に組み入れられたと考えられることを論じた[39][40]

母系系譜の問題

欠史八代の婚姻の形態にも後世の状況の反映とみられる特徴がある。『記紀』に見られる古代の皇族は頻繁に近親婚を行っているが、天智朝以前の時代では父系で共通の祖先を持つとしても母系を共にすることは、允恭天皇の息子である木梨軽皇子が同母妹の軽大娘皇女と関係を持った例を除いてなかった[41]。木梨軽皇子はこれが原因で失脚していることから、当時は同母系の婚姻が社会習俗的に受け入れられなかったことが理解される[41]。しかし、天武朝期前後に入ると、大海人皇子(天武天皇)自身が同母兄弟である天智天皇の娘(即ち母系でも同一の祖先、祖母にたどり着く)を娶っていたのを始め、天武天皇の息子草壁皇子が天智天皇の娘である阿部皇女(元明天皇)を娶り、同じく大津皇子も天智天皇の娘山辺皇女を娶っている。これは天智朝から天武朝期にかけての皇族の婚姻形態の大きな変化を示すが、このような同母系の婚姻は時代を隔てて、第10代崇神天皇以前の時代にも見られる[42]。実際に崇神朝以前の時代の婚姻の記録で母系が明らかであるのは4例のみであるが、その全てが天武朝を中心とした時代と同一の系譜的関係が見られることから、崇神天皇以前の時代の系譜は天武朝期(7世紀後半)の歴史的状況が反映されたものであることが示されている[42][注釈 13]

以下に示すのは笠井倭人がまとめた天皇(大王)の系譜まとめからの抜粋である。大化の改新頃より後の天武天皇の系譜と欠史八代の系譜が同じ特徴(母系で同一の祖先を持つ)を持つことがわかる。欽明天皇の系譜の例に見られるように、その中間の時代の天皇(大王)が配偶者と母系の祖先を共にしていることは原則としてない[44]

天武朝前後に見られる同母系親族婚(7世紀)[45] 6世紀以前に典型的な異母系親族婚[46] 欠史八代の同母系親族婚[47]
 
 
 
宝皇女
(斉明天皇)
 
舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天智天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天武天皇
 
鸕野皇女
(持統天皇)
 
大田皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
堅塩媛
 
欽明天皇
 
石姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
用明天皇
 
敏達天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
厩戸皇子
 
菟道貝鮹
 
 
 
 
 
渟名底仲媛
 
安寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
息石耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
懿徳天皇
 
天豊津媛命
 
 

后妃の世代

欠史八代の系譜が全て父子間の直系継承であることはこの系譜の作為性を示すものとされているが、このことは史書の編者が存在しない天皇の伝承を自在に付け加えることが可能であったことを意味するものではなく、より古い時代には天皇(大王)の名前のみが伝承され、各天皇間の続柄が伝わらなかった時代があったことを示すと見られる痕跡が存在する[48]。その端的な例は、欠史八代の各天皇が娶っている后妃の世代である。

以下に示すのは若井敏明がまとめた欠史八代の県主家出身の后妃の世代を表す系譜を写したものである[49]。『記紀』の系譜では各天皇は全員が父子であるが、一見して明らかなように数代にわたって同世代の后妃と婚姻を結んでいる。

県主家出身后妃の世代[49]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日県主
大日諸
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太真稚彦
 
 
 
 
 
猪手
 
十市県主
五十坂彦
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
磯城県主
葉江
 
川派媛
 
綏靖天皇
 
糸織媛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯日媛
 
懿徳天皇
 
泉媛
 
五十坂媛
 
孝安天皇
 
長媛
 
孝昭天皇
 
渟名城津媛
 
川津媛
 
安寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

『日本書紀』によれば、第3代安寧天皇の后妃川津媛と、第6代孝昭天皇の后妃渟名城津媛、第7代孝安天皇の后妃長媛は、いずれも磯城県主葉江の娘とされている。これは父子継承している3-4世代離れた天皇がほぼ同じ世代の女性を后妃としたことを意味するが、このような婚姻は現実的なものとは考えられない[48]。即ちこれは安寧、孝昭、孝安天皇の世代も実際にはそれほど隔たってはいなかったであろうことを意味する。つまり、初期の天皇についてはまず天皇名や后妃の出自のみが伝わった時期が存在し、後にこれを一系で繋ぎ合わせたことで、現在見られるような『記紀』の系譜情報が形成されたと見られる[13][48][注釈 14]

皇別氏族と欠史八代

古代日本の(ウヂ)は共通の始祖を持つ政治的集団であり、その出自によって大きく神別、皇別、諸蕃に分類される[51]。史料によって異動があるものの、皇族から出た皇別氏族、とりわけ5-6世紀に既に存在していたことが知られ、後に(オミ)姓を持つことになる氏族はそのほとんどが欠史八代の天皇の子孫を始祖としており、欠史八代はこれら臣姓氏族と天皇系譜の結節点の中心となっている[51][52][53]。前述の孝元天皇の皇子大彦命は阿倍氏膳氏など7つの氏の始祖と『日本書紀』に伝えられる(『古事記』では2氏)[54]。皇別氏族の始祖として最も代表的な人物は孝元天皇の孫(または曾孫)である武内宿禰(建内宿禰)で、『古事記』では武内宿禰の7人の子を通じて蘇我氏巨勢氏平群氏など27氏の祖とされる[51]

直木孝次郎は皇別氏族の姓(カバネ)のうち臣(オミ)、君(キミ)、国造(クニノミヤツコ)の3つについて、それぞれの『古事記』系譜上の特徴を次のように分析している。まず臣姓氏族はその大半が欠史八代を出自としており、特に蘇我氏を始め代表的な有力氏族がそれに該当する。それ以外の天皇に出自を持つ臣姓氏族には地方氏族など中堅以下の氏族が目立つ[55]。臣姓に次いで有力な氏族が多く、元は地方の首長に由来するものが多かったであろう君姓氏族は、臣姓氏族とは逆に欠史八代以外の天皇に祖を持つものが全体の7割以上を占める[56]。そしてこれらよりも下級の氏族であった国造姓氏族は皇別のものは神武天皇に出自を持つものが多く、それ以上に天照大御神などに由来を持つ神別氏族であるものが多い[57]

皇別氏族が姓ごとにこのような特徴を持つことは、それぞれの氏族が天皇家との関係を構築した歴史的背景の違いから来ていると考えられる。元来、各地の自律的な支配者であった君姓氏族の多くは独立を失ってヤマト王権に臣属していく過程で地位を安定させるために天皇(大王)との擬制的な親族関係を構築したと見られる[58]。君姓氏族の過半数は崇神垂仁景行応神の4代いずれかに出自を持っており、欠史八代由来のものが少ない。このことは欠史八代の伝承はこれら地方首長がヤマト王権に服属していった時代にはまだ成立しておらず、一方で崇神天皇ら四代の伝承の成立が比較的早かったことを予想させる[58]。国造姓氏族が神武天皇(の皇子神八井耳命)及び神々を祖としているのは国造クラスの下級氏族では系譜を天皇系譜そのものに接続することが難しかったためであると考えられる[59][注釈 15]。これらに対して、臣姓氏族であった葛城氏蘇我氏などは古くから天皇(大王)と通婚関係を持っており遠い祖先を持ち出さなくとも単純な事実として天皇(大王)の「同族」であった。また大臣などの地位を得られるような氏族は天皇との通婚関係こそ持っていなくてもその実力によって元来「皇別」を主張する必要性が存在しなかった。しかし、王位継承における血統原理が次第に確立し、特に天皇家の地位が急速に高まって「皇族」が明確化していった大化の改新以降(7世紀後半)、独自の権威を有していたこれらの臣姓氏族もまた天皇家との系譜の接続が必要となっていったものと見られる[59]。このため、7世紀後半には臣姓氏族の系譜もまた明確に皇別氏族として確立していったが、この際にそれぞれの氏族の祖と結びつけられたのが欠史八代の天皇であり、神武天皇と崇神天皇の間の系譜を繋ぐ作業もまた、この頃に行われたと考えられる[60][注釈 16]

神武天皇と崇神天皇

『日本書紀』における初代神武天皇の称号「始馭天下之天皇」と、10代崇神天皇の別名である「御肇國天皇[注釈 17]」はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。このことは崇神天皇を初代天皇とする伝承がかつて存在したことを予想させる[61][62][63]

『記紀』の歴史意識と「欠史」

欠史八代が「欠史」として括られるのは既に述べた通り、『記紀』が記録している情報が『帝紀』的な系譜および陵墓情報のみで『旧辞』的な物語、歴史的事件の叙述を欠いていることによる。具体的に『記紀』が欠史八代について伝える内容は「天皇名・出自系譜・先帝の埋葬と陵・即位年月日・宮都・立后と后妃皇子女・所生子の後裔氏族・立太子・崩年[64]」等に限られ、個々の天皇が治世中に何をしたのか、ということについての情報は無い[64]。しかし近年では、これを「欠史」と見る視点は物語的要素を「歴史」として捉えてきた近現代の歴史学のものであるという指摘がある[65]。『記紀』は史書として編纂されているにも関わらず史を欠いているとすればそれは何を記録しているのか、ということが問題となる。事実として『古事記』の場合、記載対象とする神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち、物語的要素を欠き系譜情報のみしか記されていない天皇は中巻・下巻合わせて20名にも上り、欠史八代に限らず過半数の天皇は『旧辞』的な記録が存在しない[65]。このことから、物語要素が無いことをもって「欠史」としてしまうならば、『古事記』は事実上、史書の体をなしていないことになる[65]。同様の指摘は『日本書紀』の欠史八代の記録についても存在する[66]。このことは逆に、『記紀』の編纂者たちの意識においては天皇の系譜に関する情報を完備していれば物語要素が無くともそれは「歴史」であったことを意味する[65][66]

原初的な歴史は系図によってまとめられるとも言われ[13][注釈 18]、古代日本にあっては天皇(大王)の代替わりが人々にとって過去の出来事が「いつ」起こったことであるのか、を考える時間軸であった[注釈 19]。このことを示すのが『風土記』における天皇への言及である。「志木島宮御宇天皇(欽明天皇)の御代」といった表現に見られるように、どの天皇の代の出来事であるかが、その出来事がいつの出来事であるか、という時間の認識と結びついていた[68]。このように天皇に基づいて時間の認識が行われていた時代、出来事や具体的な日時の指定とは別に、系譜はそれ自体が歴史であったと考えられる[68]。この意味において、『記紀』に見られる「欠史八代」の記録は基本的に皇統譜を完備しており、実際の編纂者の認識として史を欠いてなどはおらず、「欠史」という表現はあくまで近現代の「歴史」意識を強く反映したものと言える[69][70][71]

『記紀』の欠史八代をどのように理解するかは古代日本の王権、氏族、家族といった社会関係をどのように理解するかということと密接にかかわっている。現代において欠史八代、あるいはその系譜が後世に造作されたものであることは一般的な見解となっているが[1]、それが今日見られる形になった理由を単に皇室の直系継承を示し、その歴史を古く見せるためと理解するのでは不十分である[53]。欠史八代を始めとした古代日本の王統譜は元来確固として固定されておらず、天皇家と各氏族の間に擬制的な親族関係を構築する中で、現実の政治的状況・同盟・敵対の関係を反映しつつ翻案と接合を繰り返してきたものと考えられる[53]。これが如何に構築されてきたかということについては、ヤマト王権がまず王統譜を構築し、これと同祖構造を持つ系譜を氏族に下賜する制度を持ったことで構築されていったとする考え方や、各氏族ごとに構築された擬制的親族関係がまずあり、その多元的な権力関係を超越した権力構造が構築されるに伴って、それぞれの内部における「語り」を統合する過程で数次にわたる組み換え、加上がなされてきたとする考え方がある[17][35]。いずれにせよ、こうした日本の王統譜、氏族系譜の形成と統合は幾度にもわたる接合、改変を経て7世紀後半から8世紀にかけての『日本書紀』や『古事記』の編纂とともに確定し、これが受け入れられていく中で共有される過去として「史実」となって行った[72][2][73]

脚注

注釈

  1. ^ 複数の異名や訓み方があるが、表記は直木 2005 掲載の表に依った
  2. ^ 后妃のまとめは直木 1964, p. 219掲載の表に依った。括弧書きしてあるものは「氏姓であることの明確でないもの、または神を示す。」
  3. ^ 直木 1964, p. 219 掲載の表に(意富夜麻登)が2列並べられていることからそれに従っている。
  4. ^ ただし、『帝紀』を系譜、『旧辞』を物語とする通説は現在では見直されつつある。遠藤慶太によれば『上宮聖徳法王帝説』など古史料のなかには『帝紀』を引く形で具体的な歴史的事件の記録を伝えているものがあり、『帝紀』の内容が系譜情報のみに留まるものではないことは明らかであるという[5]
  5. ^ 直木孝次郎によれば、公刊された限りでは肥後和男「大和闕史時代の一考察」(1935)が欠史八代の実在の問題について戦前に論じた数少ないものの1つである。ただし、直木孝次郎は欠史八代の研究史について網羅的な調査を行ったわけではないことを断っている[6]
  6. ^ 義江は「おやのこ(於夜乃子)」「うみのこ(宇美乃古)」という用語自体は『万葉集』巻18-4094番と巻20-4465番の大伴家持の歌から得ている[18]
  7. ^ 「娶」字は通常、「メトリテ」「メトシテ」と訓むが、ここでは義江明子の訓みに従って「ミアイテ」としている。義江によれば「メトル」即ち「女(め)を取る」という読みは漢語の語義に従った訓ではあるが、古代日本における一般的な婚姻形態は妻問婚であり、男が女を取るという意味合いの訓みは当時の実態にそぐわず行われなかったであろうという。その上で本居宣長が「娶」字に対して「米志弖(メシテ)」、「伊礼弖(イレテ)」、「美阿比坐弖(ミアヒマシテ)」という訓みの候補を挙げていることを参考として、「ミアヒ」という訓みが当時の言葉として適切であるという[19]。これは、人類学家族史研究の潮流を受けて、古代日本社会が東南アジア・環太平洋地域で広く見られる双系的(子供が父系あるいは母系ではなく、父母双方から社会的地位を受け継ぐ可能性のある)社会であったという理解に基づくものである[20]。家制度が未発達かつ、男女いずれか(多くの場合は男)が相手側の家に通うことで婚姻関係とみなされる社会にあって、「女を取る」ことは原理的に成立し得ないと義江は指摘する。当時の婚姻とは単純な男女関係の事実によって裏打ちされており、奈良時代の法律注釈書『令集解』の戸令結婚条には「同里」内で、「男女が三か月以上行き来しなかったならば、離婚とみなす」とされている[21]。また義江は傍証として、国生み神話において、(イザナギイザナミが)御合て(ミアヒテ)生む子、淡路のホノサワケ島、次ぎに伊予のフタナ島を生む、という表現が用いられていることを挙げる[22]。これらのことから、古代の日本において男女は「メトリテ」子を成すのではなく「ミアヒテ」子を成すのであり、訓もその観念に準じたものと考えられる。
  8. ^ 賀茂御祖皇大神神宮禰宜河合神職鴨県主系図
  9. ^ ただし、稲荷山鉄剣銘を始めとした古代の地位継承次第系譜については、義江が古代において父系出自集団の存在は想定し難いとするのに対し、溝口睦子は系譜が地位継承次第であり現実の父子関係を意味するものではないとしても、あくまで「父から息子へ」という父系観念に基づいて作成された系譜であるとする。篠川賢は溝口の見解を妥当であるとする[27]。また、平林章仁もまた稲荷山鉄剣銘について「『其児』で結ばれていることは職位あるいは首長位継承の系譜ではなく、血縁系譜を意図していたことを物語る」とする[28]
  10. ^ 具体的には『古事記』において綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃の氏姓は師木(シキ)県主であり、孝霊天皇の后妃は十市県主である。『日本書紀』本文では綏靖、安寧、懿徳天皇の后妃は事代主神息石耳命から出ているが、引用されている「一書」の異伝においては磯城県主、春日県主などから出ている。また『日本書紀』の本文および異伝では他にも、孝昭、孝安、孝霊天皇の后妃も磯城、十市、春日県主から出ていることが伝えられている[36]
  11. ^ ただし、井上は後に自説を撤回している[10]
  12. ^ 例えば、天智天皇の息子施基皇子(志貴県)、娘山辺皇女(山辺県)、天武天皇の息子高市皇子(高市県)、娘十市皇女(十市県)、息子磯城皇子(志貴県)など[39]
  13. ^ 笠井の見解に対し、笹川尚紀は6世紀の用明天皇の息子、当麻皇子とその妻舎人皇女が母系で同一の祖先、堅塩媛に行きつく(彼女は当麻皇子の祖母かつ、舎人皇女の母にあたる)ことから、笠井倭人が指摘する同母系親族婚は天武朝期に始められたものではなく、少なくとも推古朝(6世紀半ば)には行われていたとする。このことから、欠史八代の同母系親族婚系譜が創り出されたのは天武朝期とは断言できず、その造作が行われたのは6世紀頃まで遡り得るとする見解を出している[43]。本文では木下礼仁のまとめ[2]を参考に、天武朝期の成立とする笠井倭人の見解を基本とした。
  14. ^ 古代日本の系譜が直系継承、あるいはそのような形に見えるようになっていることについて、しばしば参考にされるのが川田順造による西アフリカモシ族を中心としたフィールドワーク調査報告である。川田によれば西アフリカの無文字社会の口承伝承に語られる首長の系譜は、比較的新しい時代については傍系継承が多いのに対し、「より古い時代の、名と継承順位だけが知られているにすぎないような首長は、ひとまとめに、直系継承とされている例が多いのである。」という[50]。川田はさらにこうした続柄が不明な首長について「父から子への継承とした方が、王朝の歴史が長く、したがって王朝の起源も古くなるという点も、みすごされてはならないだろう。」と述べる[50]。遠藤慶太は若井敏明による欠史八代の系譜情報の形成過程の推定と、川田による西アフリカの調査を引き、天皇(大王)自体の伝承とその系譜の伝承の形成過程に時間差が存在することを指摘する[13]
  15. ^ 直木孝次郎は国造姓氏族のうち神武裔とされる氏族の大半が神八井耳命を祖とすることについて、「神八井耳命裔の氏族には国造姓五氏のほかに、火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣と地方豪族がはなはだ多いことと併せて考える必要がある。」としている[59]
  16. ^ 『日本書紀』の持統5年(681年)条には18氏が墓記を進上したことが記載されているが、直木孝次郎によればこのうち11氏が臣姓氏族である。そしてこの11氏の系譜全てが『古事記』に記載があり、9氏が欠史八代の天皇の後裔である[60]
  17. ^ 『古事記』では所知初國御眞木天皇(ハツクニシラスミマキノスメラミコト)、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)。
  18. ^ 関根淳は「日本書紀『欠史八代』に示されるように、系譜は〈歴史〉であり、史書の原型は系譜である。」と指摘する[67]
  19. ^ 関根淳は「天皇とは人々に時間、すなわち『歴史』を与える存在」であったと描写する[68]

出典

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参考文献

関連項目