桃源郷

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桃源郷(とうげんきょう)は、俗界を離れた他界仙境[1]ユートピアとは似て非なる、正反対のもの[2]

武陵桃源(ぶりょうとうげん)ともいう。

概要[編集]

陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している)[3]

創作されてから約1600年経った現在でも『桃花源記』が鑑賞されているのは、既に人々の心の内にある存在を、詩的に具象化したものが桃源郷であるためとされる。既に知っているものであるため地上の何処かではなく、の奥底に存在している。桃源郷に漁師が再訪出来ず、劉子驥が訪問出来なかったのは、心の外に求めたからであり、探すとかえって見出せなくなるという[4]

由来[編集]

頤和園の長廊にある蘇式彩画、「桃花源」

桃源郷の初出は六朝時代東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人陶淵明365年 - 427年)が著した桃花源記 ならびに詩』である。(詩集では、『桃花源詩 ならびに序』という名前で採録されることが多い。)現在では『桃花源紀』()よりは、その序文のほうがよく読まれている。

太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡ったとき、どこまで行ったか分からないくらい上流で、突如、の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香ばしさ、美しさ、花びらや花粉の舞い落ちる様に心を魅かれた男は、その源を探ろうとしてさらに桃の花の中を遡り、ついに水源に行き当たった。そこは山になっており、山腹に人が一人通り抜けられるだけの穴があったが、奥から光が見えたので男は穴の中に入っていった。

穴を抜けると、驚いたことに山の反対側は広い平野になっていたのだった。そこは立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しいところだった。行き交う人々は外の世界の人と同じような衣服を着て、みな微笑みを絶やさず働いていた。

男を見た村人たちは驚き話しかけてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみなびっくりして、家に迎え入れてたいそうなご馳走を振舞った。村人たちは男にあれこれと「外の世界」の事を尋ねた。そして村人たちが言うには、彼らはの時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、この山奥の誰も来ない地を探し当て、以来そこを開拓した一方、決して外に出ず、当時の風俗のまま一切の外界との関わりを絶って暮らしていると言う。彼らは「今は誰の時代なのですか」と質問してきた。驚いたことに、ここの人たちは秦が滅んでができたことすら知らなかったのだ。ましてやその後の三国時代の戦乱や晋のことも知らなかった。

数日間にわたって村の家々を回り、ごちそうされながら外の世界のあれこれ知る限りを話し、感嘆された男だったが、いよいよ自分の家に帰ることにして暇を告げた。村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って男を見送った。穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、村人を裏切ってこの話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡らせたが、ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかった。

ユートピアとの相違[編集]

陶淵明研究者の伊藤直哉は以下の通り述べている。トマス・モアの思想書『ユートピア』に由来するユートピア思想の根底にあるのは、理想社会を実現しようとする主体的意志である。この本ではユートピアに滞在した経験がある人物が、モアに現地の様子を紹介する設定になっている。ユートピアは遠く離れた島国とされているが、全く到達不可能な夢幻としてではなく、地理や社会制度の意味において十分到達可能なものとして描かれており、その上でユートピア人の風俗や法律などの成立の根拠の合理性に疑問を投げかけている。モアのユートピアは「夢想郷ではなく、普通の人々が努力して築き上げた社会主義国家」なのである[5]

一方で桃源郷は、「理想社会の実現を諦める」という理念を示している。中国史上稀に見る混乱期の中、人々は苦悩と悲劇に満ちた現実から逃避しようとし、文壇では遊仙詩(神仙郷に遊ぶ詩)が現れた。しかし陶淵明の作品は、題材は遊仙詩と似ているが、思想が本質的に異なるとされる[6]。陶淵明は、神仙郷の実在を決して信じず否定しており、日常生活を尊重していた。同時に、書物を通じて神話世界を自由に飛翔し、神仙の境地に至っていた[7]

孟夏 草木長じ 屋を遶りて樹扶疏たり 衆鳥は託する有るを欣び 吾も亦吾が廬を愛す

既に耕しては亦た已に種ゑ 時に還りて我が書を讀む 窮巷は深轍を隔て 頗る故人の車を迴らす

歡言しては春酒を酌み 我が園中の蔬を摘む 微雨東より來り

汎覽す周王の傳 流觀す山海の圖 俯仰して宇宙を終せば 樂しからずして復た何如

(初夏になって草木が伸び 我が家の周りには樹木が生茂る 鳥たちは巣作りに喜び励み 私も自分の家が気に入っている

野良仕事に精を出し 家に帰ると読書を楽しむ 狭い道には車も入って来れぬから 煩わしい付き合いをしなくて済む

近隣の人たちと歓談しては酒を酌み交わし 肴に庭の野草を食う 小雨が東の方から降ってくると それに伴って気持ちのよい風も吹く

周王の傳を精読し それに添えられた絵に目をやる 寝ながらにして宇宙のことが分かるのだから こんなに楽しいことはない)

陶淵明, 讀山海經其一

西洋のユートピア思想は悲惨な管理社会を生み出し潰え去った。また東洋も二千年以上前に、韓非子の思想に支えられて現れた帝国の専制支配とその崩壊によって、同様の道を辿った。反面、『桃花源記』の描写は「老子」を踏まえつつも、ユートピアの末路を象徴している。つまり、地上にユートピアを作ろうとする熱意が生む惨劇を表現している。だが、災厄から逃れた先祖は、彷徨の果てに辿り着いた地があった。つまり、ユートピアの崩壊後に姿を現すものが桃源郷である[8]。対照的な両者はもたらす結果も逆になっている。すなわち、主体的・積極的なユートピア思想は、その目標とは全く裏腹の大きな災禍を生じる。消極的な桃源郷は、現実には何の力も持ち得ないが、人間の精神に大きな慰めを与え得る[9]。伊藤直哉は、映画『千と千尋の神隠し』主題歌の歌詞「海の彼方には もう探さない 輝くものは いつもここに わたしのなかに みつけられたから」を、『桃花源記』の良い注釈として引用している[10]

思想[編集]

この話は後に道教の思想や伝承と結びつき、とりわけ仙人思想と結びついた。山で迷って仙人に逢うという類の伝説や、仙人になるために食べる霊力のあるの実や、西王母伝説の不老不死の仙桃などとの関連から、桃の林の奥にある桃源郷は仙人の住まう地とも看做されるようになった。

しかし、北宋蘇軾は、「もし仙郷であるならば、どうして鶏をつぶして、漁師をもてなしたりするものか?」と言っている。代の李白などは、桃源郷=仙郷とかんがえていたようだが、の蘇軾、王安石は、あくまでも搾取や戦乱のない人間の世界だとかんがえていたようだ。

関連地域[編集]

『桃花源記』は創作であるが、現在の湖南省常徳市の数十キロ郊外に位置する桃源県に「桃花源」という農村があり、桃源郷のモデルとして観光地になっている。

1994年雲南省広南県の洞窟にある峰岩洞村という村が、偶然訪れたテレビ取材班に由って発見される。それまで広南県政府はこの村の存在に気付いていなかった。住民は全て漢族で、最も早く住み着いた家族の祖先は300年前に江西省から移住したという。

桃源郷の名を採ったもの[編集]

出典[編集]

  1. ^ 「百科事典マイペディア」日立システムアンドサービス、2008年。
  2. ^ 伊藤直哉 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』 春風社、2010年、153-154頁。ISBN 9784861102189
  3. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』169頁。
  4. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』177-178頁。
  5. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』155-156頁。
  6. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』81頁。
  7. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』84-91頁。
  8. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』173-174頁。
  9. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』153頁。
  10. ^ 『桃源郷とユートピア-陶淵明の文学』179頁。

関連項目[編集]