「クヌート1世 (イングランド王)」の版間の差分

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'''クヌート1世'''([[英語]]:Canute / Cnut / Knut I、[[デンマーク語]]:Knud 2、[[995年]] - [[1035年]][[11月12日]])は、[[ノルマン人|ノルマン]]系[[デーン人]]で、[[イングランド王]]・[[デンマーク王]]・[[ノルウェー王]]を兼ねた王(イングランド王在位:[[1016年]] - 1035年、デンマーク王在位:[[1018年]] - 1035年、ノルウェー王在位:[[1028年]]〈[[1030年]]説あり〉 - 1035年)。デンマーク王としては'''クヌーズ2世'''。'''カヌート'''、'''クヌット'''などとも。'''大王'''(英語:the Great、デンマーク語:den Store)と称される。
'''クヌート1世'''([[古英語]]:Cnut cyning、[[古ノルド語]]:Knútr inn ríki、[[英語]]:Canute / Cnut<ref group="注">[[デンマーク語]]:Knud den Store / Knud II、[[ノルウェー語]]:Knut den mektige、[[スウェーデン語]]:Knut den Store</ref>、[[990年]]頃{{sfn|Somerville|McDonald|2014|p=435}} - [[1035年]][[11月12日]])は、[[ノルマン人|ノルマン]]系[[デーン人]]で、[[イングランド王]]・[[デンマーク王]]・[[ノルウェー王]]を兼ねた王(イングランド王在位:[[1016年]] - 1035年、デンマーク王在位:[[1018年]] - 1035年、ノルウェー王在位:[[1028年]]〈[[1030年]]説あり〉 - 1035年)。デンマーク王としては'''クヌーズ2世'''。'''カヌート'''、'''クヌット'''などとも。'''大王'''(英語:the Great、デンマーク語:den Store)と称される。

クヌートのイングランド統治は、[[グレートブリテン島]]と[[アイルランド島]]の間の海域への重要な結び付きを[[デーン人]]に与えた。彼は父親の[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]と同様にその地域へ強い関心を持ち、{{仮リンク|ノース系ゲール人|en|Norse–Gaels}}に大きな影響力を及ぼした{{sfn|Forte|Oram|Pedersen|2005|p=196}}。[[1026年]]にノルウェーとスウェーデンを打ち破った後、{{仮リンク|神聖ローマ皇帝の戴冠式|en|Coronation of the Holy Roman Emperor}}に出席して[[ローマ]]から帰る途上にて援助のために臣下へ書かれた書簡の中で、クヌートは自身を「全イングランドとデンマーク、ノルウェー人、そしてスウェーデン人の一部の王」 だと考えていた{{sfn|Lawson|2004|p=97}}。アングロ・サクソンの王らは 「イングランド人の王(king of the English)」 という称号を用いたが、クヌートはealles Engla landes cynning——「全イングランドの王(king of all England)」 であった。[[中世]]を専門とする[[歴史家]]{{仮リンク|ノーマン・カンター|en|Norman Cantor}}は彼を 「アングロ・サクソン史において最も印象的な王」 と見なした<ref>{{cite book|last=Cantor|first=Norman|title= The Civilisation of the Middle Ages|year=1995|page= 166|ref=harv}}</ref>。


== 人物略歴 ==
== 人物略歴 ==
デンマーク王[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]の子。
デンマーク王[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]の子。
母は[[スラヴ人]]レフ族(ポラニェ族)の族長で[[ポーランド]]統一者である[[ミェシュコ1世]]の娘シフィエントスワヴァ<ref name="Encomiast, pg. 18">Encomiast, ''Encomium Emmae'', ii. 2, pg. 18</ref><ref name="ReferenceA">Thietmar, ''Chronicon'', vii. 39, pgs. 446-447</ref><ref name="Trow, Cnut, p. 40">Trow, ''Cnut'', p. 40.</ref>(嫁ぎ先で王妃グンヒルと呼ばれた)。同じくミェシュコ1世の子であるポーランド国王[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]](勇敢王)は叔父にあたる。ただし、『[[ヘイムスクリングラ]]』<ref>『ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 - (二)』([[スノッリ・ストゥルルソン]]著、[[谷口幸男]]訳、プレスポート・北欧文化通信社)65頁(『[[オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ|オーラヴ・トリュッグヴァソンのサガ]]』第三十四章 ハラルド・ゴルムスソンの死)。</ref>、『{{仮リンク|クニートリンガ・サガ|en|Knýtlinga saga}}』によれば、母は[[ヴェンド人|ヴェンド]]の王[[ブリスラヴ]]の娘のグンヒルド([[:en:Gunhild of Wenden|en]])とされている。
母は[[スラヴ人]]レフ族(ポラニェ族)の族長で[[ポーランド]]統一者である[[ミェシュコ1世]]の娘[[シフィエントスワヴァ・ポルスカ|シフィエントスワヴァ]]<ref name="Encomiast, pg. 18">{{cite book|last=Encomiast|title= Encomium Emmae|volume= ii|number= 2| page= 18|ref=harv}}</ref><ref name="ReferenceA">{{cite book|last=Thietmar|title=Chronicon|volume= vii|number= 39|pages=446-447|ref=harv}}</ref><!-- ref name="Trow, Cnut, p. 40" -->{{sfn|Trow|loc=''Cnut ''|page= 40}}(嫁ぎ先で王妃グンヒルと呼ばれた)。同じくミェシュコ1世の子であるポーランド国王[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]](勇敢王)は叔父にあたる。ただし、『[[ヘイムスクリングラ]]』{{sfn|ストゥルルソン|2009|page=65}}、『{{仮リンク|クニートリンガ・サガ|en|Knýtlinga saga}}』によれば、母は[[ヴェンド人|ヴェンド]]の王[[ブリスラヴ]]の娘のグンヒルとされている<ref group="注">クヌートの母親については歴史学の議論対象となっている。彼女をGunnhildaとする史料がある一方、その存在が疑わしい、あるいは彼女に名前を付けるための充分な証拠がないとする史料もある。</ref>


父スヴェンおよび叔父[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]配下の[[ポーランド]]諸侯と共に[[イングランド王国|イングランド]]に侵攻して活躍した。[[1014年]]、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、[[アングロ・サクソン]]封建家臣団の会議でイングランド王に推挙され、即位することとなった。1018年には兄[[ハーラル2世 (デンマーク王)|ハーラル2世]]の死によりデンマーク王位を継承した。その後は[[ノルウェー]]や[[スウェーデン]]に遠征して勢力を拡大した。1028年にはノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。ここに、広大な[[北海帝国]]を築き上げたのである。
父スヴェンおよび叔父ボレスワフ1世配下の[[ポーランド]]諸侯と共に[[イングランド王国|イングランド]]に侵攻して活躍した。[[1014年]]、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、[[アングロ・サクソン]]封建家臣団の会議でイングランド王に推挙され、即位することとなった。1018年には兄[[ハーラル2世 (デンマーク王)|ハーラル2世]]の死によりデンマーク王位を継承した。彼は富と慣習の文化的結束の下でデーン人とイングランド人をまとめることにより、また残虐行為によりこの権力基盤を維持しようと努めた。その後は[[ノルウェー]]や[[スウェーデン]]に遠征して勢力を拡大した。[[スカンディナヴィア]]における敵対勢力との10年にわたる対立の末、彼1028年の[[トロンハイム]]にてノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。ここに、広大な[[北海帝国]]を築き上げたのである。


[[スウェーデン]]の都市[[シグトゥーナ]]はクヌートによって支配された<ref group="注">クヌートはそこで彼を王と呼ぶ[[硬貨]]を鋳造させたが、彼の侵略についての物語の記録はない。</ref><ref>{{cite journal|last=Graslund|first=B.|title=Knut den store och sveariket: Slaget vid Helgea i ny belysning|journal=Scandia|volume= 52 |year=1986|pages=211-38|ref=harv}}</ref>。[[1031年]]には[[スコットランド王国]]の[[マルカム2世 (スコットランド王)|マルカム2世]]も彼に服従したが、その地に対する北海帝国の影響力は弱く、結局クヌートの死亡時までは支配が続かなかった<!-- ref name="Trow, p. 197-98" -->{{sfn|Trow| loc= ''Cnut'' |pages=197-198}}<ref name="ASC, 1031">ASC, Ms. D, s.a. 1031.</ref>。1035年に40歳で死去すると後継者争いが起き、北海帝国はクヌートの死後わずか7年で崩壊した。
1035年、40歳で死去した。死後、後継者争いが起こって、北海帝国はクヌートの死後わずか7年で崩壊した。


== 子女 ==
== 生誕と王位 ==
クヌートは[[ハーラル1世 (デンマーク王)|ハーラル1世]]の跡継ぎであるデンマークのスヴェン1世の息子であったため、デンマーク統一の中心となるスカンディナヴィア君主の血統を由来とする{{sfn|Trow|loc= ''Cnut''|pages=30-31}}。彼の生誕地および生年月日については定かではない。
最初に、ノーサンプトン伯アルフヘルムの娘エルギフ(エルギヴァ)と結婚した。
* スヴェン(? - 1036年) - ノルウェー王(父と共治)(1030年 - 1035年)
* [[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド1世]](1015年頃 - 1040年) - イングランド王


[[File:Canute and Ælfgifu cropped (Canute).jpg |thumb|1031年の''[[:en:New Minster Liber Vitae|Liber Vitae]]''に描かれたクヌートの肖像画]]
二度目に、ノルマンディー公[[リシャール1世 (ノルマンディー公)|リシャール1世]]の娘で、イングランド王[[エゼルレッド2世 (イングランド王)|エゼルレッド2世]]の未亡人[[エマ・オブ・ノーマンディー|エンマ]]と結婚した。
{{仮リンク|メールゼブルクのティートマール|en|Thietmar of Merseburg}}による年代記と『{{仮リンク|王妃エマ讃|en|Encomium Emmae Reginae}}』は、クヌートの母親がポーランドのミェシュコ1世の娘であったと伝えている。最も有名な[[中世盛期]]のノース人史料である[[スノッリ・ストゥルルソン]]の『ヘイムスリングラ』も、クヌートの母を「ヴィンラン(Vindland)の王女グンヒル」と呼ばれた[[ヴェンド人]]の王[[ブリスラヴ]]の娘(スラヴ人の王女)と記している<ref>{{cite book|last=Snorri|title=Heimskringla'|trans-title= The History of Olav Trygvason| chapter=34| page=141|ref=harv}}</ref>。ノース人の[[サガ]]におけるヴェンド人の王は常に「ブリスラヴ」という名であるため、これは彼女の父がミェシュコ1世(彼の息子の[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]ではない)であったという仮定と矛盾しない。『{{仮リンク|ハンブルク教会司行録|en|Gesta Hammaburgensis ecclesiae pontificum}}』における[[ブレーメンのアダム]]はクヌートの母親を、スウェーデンの前王妃で[[エリク6世 (スウェーデン王)|エリク6世]]の妻、そしてこの結婚により生まれた[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ]]の母親と同一人物とする点で他と異なる{{Refnest| Adam of Bremen <ref>{{cite book|last=Adam of Bremen|title=History of the Archbishops of Hamburg-Bremen|volume= Book II|chapter= 37|ref=harv}}</ref>; Book IIも{{sfn| Adam of Bremen |loc=ch. 33, Scholion 25}}.}}。この問題を複雑にしているのは、『ヘイムスリングラ』や他のサガなどもスヴェン1世がエリク6世の未亡人と結婚したとしているが、これらの史料における彼女は{{仮リンク|シグリーズ・ストアローダ|label=シグリーズ|en|Sigrid the Haughty}}という明らかな別人という点であり、スヴェンはクヌートを産んだスラヴ人の王女グンヒルの死後に彼女と結婚している<ref>{{cite book|last=Snorri|title=Heimskringla|trans-title=The History of Olav Trygvason| chapter=91| page=184|ref=harv}}</ref>。スヴェン1世の妃が何人いたかやその出自については、様々な説が提示されている。ただし、ブレーメンのアダムのみがスウェーデン王オーロフとクヌートの母を同一人物としているため、大抵はアダムの記述を間違いと見なし、スヴェン1世には2人の妃がおり、1人目はクヌートの母、2人目はスウェーデン王妃であった人物と考えられることが多い。また『王妃エマ讃』では、クヌートの兄弟[[ハーラル2世 (デンマーク王)|ハーラル2世]]をクヌートの弟としている。
* [[ハーデクヌーズ]](1018/9年 - 1042年) - デンマーク王、イングランド王
* グンヒルダ(1020年頃 - 1038年) - 1036年に後の神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]と結婚


クヌートの少年時代の手掛かりは[[13世紀]]の史料『[[フラート島本]]』に見られ、彼の兵法については[[シグヴァルディ]]の兄弟かつ伝説上の[[ヨムスボルグ]][[伯爵]]であった[[のっぽのトルケル]]{{sfn|Trow|loc=''Cnut''|page= 44}}および[[ヨムスヴァイキング]]によって、[[ポメラニア]]沖の[[ヴォリン島]]にある彼らの本拠地にて教えを受けたとされる。
== 系譜 ==
{{familytree/start|style=font-size:80%;}}
{{familytree | |A | |B | |C | A=男性 | B=女性 | C=王
|boxstyle_B =background-color: #faa;
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{{familytree/end}}


13世紀の『クニートリンガ・サガ』には、次のようなクヌートの描写が見受けられる。
{{quote|クヌートは例外的に高身長で強く、薄く高めに位置しておりやや鉤鼻であったことを除けば、美しい顔立ちであった。色白の顔でもなお、頭髪は美しく濃かった。彼の目つきは、端正な者や鋭い者など他の者らよりも気丈であった。|''『クニートリンガ・サガ』''より{{sfn|Trow|loc=''Cnut''|page= 92}}<ref>{{cite book|last=John|first= H.|title= The Penguin Historical Atlas of the Vikings|publisher=[[ペンギンブックス| Penguin]]|year=1995| page= 122|ref=harv}}</ref>}}


1013年の夏に彼の父スヴェン王によるイングランド侵攻の際、隷下のスカンディナヴィアの部隊に加わった時点まではクヌートの生涯についてほとんど知られていなかった。それは何十年にもわたって繰り広げられ続いた[[ヴァイキング]]の襲撃が最高潮を迎えた時期でもあった。[[ハンバー川]]に上陸後<ref name="Ellis, ''Celt & Saxon'', p. 182">{{cite book|last=
{{familytree/start|style=font-size:80%;}}
Ellis|title= Celt & Saxon| page= 182|ref=harv}}</ref>、イングランド王国は急速にヴァイキングの手に落ちていき、その年末ごろに[[エゼルレッド2世 (イングランド王)|エゼルレッド2世]]はイングランドを占拠したスヴェンを残し[[ノルマンディー]]へ逃れた。その冬のスヴェンは自らの王権を強化する過程にあり、クヌートは[[艦隊]]と{{仮リンク|ゲインズバラ (リンカンシャー)|en|Gainsborough, Lincolnshire|label=ゲインズバラ}}の軍事拠点の管理を任された。
{{familytree | | | | | | |C |y|A |~|B | C=グンヒルド | A=[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]<br/>双叉髭王 | B=シグリーズ

|boxstyle_A =background-color: #ff9;
数ヵ月後の[[聖燭祭]]の日([[1014年]][[2月3日]]日曜日)にスヴェンが死去すると<ref>{{cite book|last=William of Malms|title=Gesta Regnum Anglorum|pages=308-310|ref=harv}}</ref>、クヌートの兄[[ハーラル2世 (デンマーク王)|ハーラル2世]]がデンマーク王としてスヴェンの後を継いだ一方、ヴァイキングや[[デーンロウ]]の民衆らも間もなくクヌートをイングランド王として選出した<ref name="Sawyer, p. 171">{{cite book|last=Sawyer|title=History of the Vikings| page= 171|ref=harv}}</ref>。しかし、イングランド[[貴族]]の考えはそれらとは異なっており、[[賢人会議]]はエゼルレッドをノルマンディーから呼び戻した。復位した王は直ちに軍を率いてクヌートに対抗した。クヌートは自軍とともにデンマークへ逃れる道中、人質の手足を切断して[[サンドウィッチ (イングランド)|サンドウィッチ]]の浜辺に置き去りにした{{sfn|Lawson|2004|p=27}}。クヌートはハーラルのもとへ向かい、彼らが共同の王位を有する可能性があるとおそらく提案したようだが、これが兄の好意的な姿勢を得ることはなかった<ref name="Sawyer, p. 171"/>。ハーラルはイングランド再侵攻の指揮権をクヌートに与えたと考えられているが、その条件として彼がその主張を強要し続けないこととした<ref name="Sawyer, p. 171"/>。いずれにせよ、クヌートは大規模な艦隊を招集して新たな侵略の開始に成功した{{sfn|Lawson|2004|p=27}}。
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|boxstyle_C =background-color: #faa}}
== イングランド征服 ==
{{familytree | | | | | | | | | |!| |!|}}
[[File:U 194, Väsby.JPG|thumb|upright|Alliというヴァイキングを記念した[[ルーン石碑]]「U 194」には、彼が「イングランドでKnútr (クヌート) の報酬を獲得した」とある。]]
{{familytree | |,|-|-|-|-|-|-|-|(| |`|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.}}
デンマークの同盟国の中には、ポーランド公(後に王位についた)でありデンマーク王家の親戚ボレスワフ1世がいた。彼はポーランド軍の一部を貸与したが{{sfn|Lawson|2004|p=49}}、これはその冬にクヌートとハーラルが母親のグンヒルをデンマークの宮廷に連れ帰るため「ヴェンド人と一緒に行った」時にかわした約束であったと考えられる。995年のエリク6世の死およびスウェーデン王太后シグリーズとスヴェンの結婚後、グンヒルはスヴェンにより追い出されていた。この結婚は、スウェーデンの王位継承者であるオーロフと、彼の姻戚であるデンマーク君主らとの間に強力な同盟関係を形成した{{sfn|Lawson|2004|p=49}}。スウェーデン人は確かにイングランド征服の協力者であった。デンマーク王家のもう1人の姻戚[[エイリーク・ハーコナルソン]]は[[ラーデのヤール]]であり、弟の{{仮リンク|スヴェイン・ハーコンソン|en|Sweyn Haakonsson}}とともにノルウェーの共同統治者であった。ノルウェーは[[999年]]の[[スヴォルドの海戦]]以来、デンマークの主権下にあった。エイリークがこの征服戦争に参加したことで、彼の息子ハーコンがスヴェインとともにノルウェー統治を任された。
{{familytree |A | |G |y|B |y|H | |C |y|D | |E |y|F | A=[[ハーラル2世 (デンマーク王)|ハーラル2世]]<br/>デンマーク王 | B='''クヌート1世''' | C=ギューザ | D=[[エイリーク・ハーコナルソン|エイリーク・<br/>ハーコナルソン]] | E=エストリズ | F=デーンの伯<br/>ウルフ | G=エルギフ | H=[[エマ・オブ・ノーマンディー|エンマ]]

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[[1015年]]の夏、クヌート艦隊は推定1万人のデンマーク軍と共に200隻の艦船でイングランドに向け出航した。彼はスカンディナヴィア中のヴァイキング軍団の指揮官であった。侵攻軍はその後14ヵ月間、イングランド軍としばし凄惨な接戦を繰り広げた。実質的にすべての戦闘は、エゼルレッドの長男[[エドマンド2世 (イングランド王)|エドマンド2世]]とのものであった。
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===ウェセックス上陸===
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『[[アングロサクソン年代記]]』の主要な証拠でもある{{仮リンク|ピーターバラ年代記|en|Peterborough Chronicle}}の写本によれば、1015年9月初旬に「クヌートはサンドウィッチに入り、直ぐに[[ケント (イングランド) |ケント]]を回って[[ウェセックス王国]]に出帆し、ついに{{仮リンク|フロム川|en|River Frome, Dorset}}の河口まで来て[[ドーセット]]、[[ウィルトシャー]]、[[サマセット]]に侵入した」とあり<ref>Garmonsway, G.N. (ed. & trans.), ''The Anglo-Saxon Chronicle'', Dent Dutton, 1972 & 1975, Peterborough (E) text, s.a. 1015, p. 146.</ref>、[[アルフレッド大王]]の時代以来見られなかった激烈な戦役が始まった{{sfn|Lawson|2004|p=27}}。『王妃エマ讃』の一節には、クヌート艦隊の描写について次のようにある。
|boxstyle_G =background-color: #faa;
{{quote|text=多様な種類の盾があったため、あらゆる国の軍隊が集まっていると思われるほどであった。... 船首には金が、様々な形の船には銀も輝いていた。金の輝きで恐ろしい敵のライオンを見て、金の顔で威嚇する金属の男達を見て、...船上で死を迫る角が金に輝く雄牛を見て、そのような力の王に対し何の恐れも感じない者がいるだろうか?さらに、この大遠征には、奴隷も、奴隷から解放された者も、生まれの貧しい者も、年老いて弱った者もいなかった。全ての者が高貴で、成熟した年齢で力強く、あらゆる種類の戦に十分に対応でき、騎兵の速度を嘲笑うほどの優れた機動性を持っていた。|sign=''『王妃エマ讃』''<ref>Campbell, A. (ed. & trans.), ''Encomium Emmae Reginae'', Camden 3rd Series vol. LXXII, 1949, pp. 19–21.</ref>}}
|boxstyle_H =background-color: #faa}}

{{familytree | | | | | | | |!| | | |!| | | | | | | | | | | | | | | |!}}
アルフレッドとエゼルレッドの王朝に長く支配されていたウェセックスは1015年末、その2年前にスヴェンに屈服したように、クヌートに服従した{{sfn|Lawson|2004|p=27}}。
{{familytree | | | |,|-|-|-|(| | | |)|-|-|-|.| | | | | | | | | | | |!}}

{{familytree | | |A | |B | |C | |D |y|E | | | | | |G | A=スヴェン<br/>ノルウェー王 | B=[[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド1世]]<br/>イングランド王 | C=[[ハーデクヌーズ]]<br/>デンマーク王 | D=グンヒルダ | E=[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]<br/>神聖ローマ皇帝 | G=デンマーク王国<br/>[[エストリズセン朝]]
この際、{{仮リンク|マーシア伯爵|en|Earl of Mercia}}であった{{仮リンク|エアドリック・ストレオナ|en|Eadric Streona}}が40隻の船とその乗員らと共にエゼルレッド軍を脱し、クヌート陣営に加勢した<ref name="G. Jones, Vikings, p. 370">G. Jones, ''Vikings'', p. 370</ref>。もう一人の亡命者は、スヴェンによるヴァイキング侵略に抗戦したヨムスヴァイキング首領であったトルケルで、1012年にイングランドに忠誠を誓った{{sfn|Lawson|2004|p=27}}── 『{{仮リンク|ヨムスヴァイキングのサガ|en|Jómsvíkinga saga}}』の一節には、ヨムスボルグの傭兵がイングランド滞在中に2度の攻撃を受け、トルケルの兄弟であるHenningeという人物が犠牲になったという記述があり、このような忠誠心の変化の説明が見受けられる<ref name="Trow, Cnut, p. 57">Trow, ''Cnut'', p. 57.</ref>。
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仮に『フラート島本』が正しく、トルケルがクヌートの少年時代の庇護者であったとすれば、彼がトルケルの忠誠、究極にはヨムスボルグのヨムスヴァイキングを受け入れたことにも説明がつく。エアドリックと来た40隻の船は、デーンロウの船と考えられることもあるが<ref name="Trow, Cnut, p. 57"/>、おそらくはトルケルの船とされる{{sfn|Lawson|2004|p=161}}。
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===北進===
|boxstyle_E =background-color: #ff9}}
1016年初頭、ヴァイキングは[[テムズ川]]を渡河して[[ウォリックシャー]]に襲撃したが、エドマンドの反撃の企図は失敗に終わったようである──年代記の著者は、イングランド軍が解散したのは、エドマンド王と[[ロンドン]]市民が不在だったためだとしている{{sfn|Lawson|2004|p=27}}。クヌートによる真冬の襲撃は、マーシア東部を北上しながら壊滅的な打撃を与えていった。また、軍の召集によりイングランド人が集められ、今度は王が彼らを出迎えたが、「それまでに何度もあったように無駄に終わった」ため、エゼルレッドは謀反の不安を抱えながらロンドンに戻った{{sfn|Lawson|2004|p=27}}。その後、エドマンドは北上してノーサンブリア伯の{{仮リンク|ウートレッド|en|Uhtred the Bold}}と合流し、マーシア西部の[[スタッフォードシャー]]、[[シュロップシャー]]、[[チェシャー]]に侵略した{{sfn|Lawson|2004|p=28}}。おそらくエアドリックの領地を狙ったとされる。クヌートのノーサンブリア占領はウートレッドが帰国しクヌートに服従したことを意味したが<ref>''Anglo-Saxon Chronicles'', pp. 146–49.</ref>、クヌートはウートレッドとその従者を虐殺させるため、ノーサンブリアの敵対者である{{仮リンク|サーブランド|en|Thurbrand the Hold}}を派遣したと見られている。エイリーク・ハーコナルソンは、おそらくスカンディナヴィア人のもう一つの部隊と共に、この時点でクヌートを支援するようになり<ref>Trow, ''Cnut'', p. 59.</ref>、熟達したノルウェーの[[ヤール]]がノーサンブリアの統治を担った。
{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |!}}

{{familytree | | | | | | | | | | | | | | | | | |A | A=[[ザーリアー朝]]}}
エドマンド王子は、[[ロンドン・ウォール]]に囲まれたその都市に留まり、1016年4月23日のエゼルレッドの死後、王に選出された。
{{familytree/end}}

===ロンドン包囲===
[[File:EdmundIronside Canutethe Dane1.jpg|upright=1.2|thumb|エドマンド2世(左)とクヌート1世(右)が描かれた中世の彩飾。{{仮リンク|マシュー・パリス|en|Matthew Paris}}の『{{仮リンク|大年代記|en|Chronica Majora}}(Chronica Majora)』より]]
クヌートは南下し、デーン軍はどうやら複数に分かれた。一部は、クヌートによるロンドン包囲完了前にロンドンを脱してイングランド王政の伝統的中心地であるウェセックスに軍を集めに行ったエドマンドに対処し、また一部は、ロンドンを包囲して北側と南側に堤防を築き、川上の連絡を断つためにテムズ川の土手に[[ロングシップ]]のための水路を市の南側に掘った。

サマセットの{{仮リンク|ペンセルウッド|en|Penselwood}}で行われた戦いは、{{仮リンク|セルウッドの森|en|Selwood Forest}}にある丘がその場所とされており{{sfn|Lawson|2004|p=28}}、その後にウィルトシャーの{{仮リンク|シェーストン|en|Sherston, Wiltshire}}で行われた戦いは二日間に及んだが、エドマンド軍はどちらにも勝利することはできなかったとされている<ref>''Anglo-Saxon Chronicles'', pp. 148–50</ref>。

エドマンドはロンドンを一時的に救い、敵を追い払って[[ブレントフォード]]でテムズ川を渡った後に彼等を撃破した{{sfn|Lawson|2004|p=28}}。大きな損失を被った彼は、新たな兵力を集めるためにウェセックスに退却し、デーン人は再びロンドンを包囲したがまたもや攻撃に失敗し、イングランド人の攻撃を受けてケントに後退し、{{仮リンク|オットフォード|en|Otford}}で戦った。この時点でエアドリックはエドマンドのもとに渡り<ref>''Anglo-Saxon Chronicles'', pp. 150–51</ref>、クヌートはテムズ川河口を北上してエセックスに出帆し、上陸地から{{仮リンク|オーウェル川|en|River Orwell}}を遡ってマーシアを荒らし回った{{sfn|Lawson|2004|p=28}}。

===条約によるロンドン獲得===
1016年10月18日、デーン人が船に向かい退却する際にエドマンド軍と交戦し、エセックス南東の{{仮リンク|アシンドン|en|Ashingdon}}、または同北西の{{仮リンク|アシュドン|en|Ashdon}}にて展開された{{仮リンク|アッサンダンの戦い|en|Battle of Assandun}}という結果につながった。続くその戦闘にて、イングランド側に戻っていたエアドリックは、おそらくその策略から軍を撤退させ、イングランドに決定的敗北をもたらした<ref>''Anglo-Saxon Chronicles'', pp. 151–53</ref>。エドマンドは西に逃れ、クヌートは[[グロスタシャー]]まで追走したが、エドマンドは[[ウェールズ人]]の一部と同盟を結んでいたため、{{仮リンク|ディーンの森|en|Forest of Dean}}付近で別の戦闘があったとされる{{sfn|Lawson|2004|p=28}}。

クヌートとエドマンドは{{仮リンク|ディアハースト|en|Deerhurst}}近くの島で和平交渉のための会合を開いた。テムズ川より北側のイングランドはデンマーク王子の領地とし、南側はロンドンとともにイングランド王の領地とすることで合意された。全領域の統治権は、エドマンドの死後、クヌートに引き継がれることになっていた。エドマンドはこの合意から数週間以内の11月30日に死亡した。エドマンドは殺害されたと主張する史料もあるが、その死亡時の状況は不明である<ref>''Anglo-Saxon Chronicles, pp. 152–53''; Williams, A., ''Æthelred the Unready the Ill-Counselled King'', Hambledon & London, 2003, pp. 146–47.</ref>。西サクソン人はクヌートを全イングランドの王として受け入れ{{sfn|Stenton|1971|p=393}}、彼は1017年のロンドンにて、[[カンタベリー大主教]]の{{仮リンク|リーフィング|en|Lyfing (Archbishop of Canterbury)}}によって[[戴冠]]された{{sfn|Lawson|2004|pp=82, 121, 138}}。

== ノルウェーおよびスウェーデン王 ==
1027年のクヌートの書簡にて、彼は「ノルウェー人、そして一部のスウェーデン人」の王として自らについて言及している。クヌートはスカンディナヴィア諸王国の平和を保障すべくデンマークへ向かう意図について述べており、これは1027年のクヌートが一部のノルウェー人が不満を持っていると聞き、彼の王位の主張への支持を得るため彼らに金銀を送ったという{{仮リンク|ウスターのジョン|en|John of Worcester}}の記述と一致する{{sfn|Lawson|2004|p=97}}。

1028年、彼がデンマーク経由でローマから帰国すると、イングランドからノルウェーのトロンハイムに向け、50隻の艦隊を率いて発った{{sfn|Lawson|2004|p=97}}{{sfn|Trow|loc=''Cnut''|page=197}}。ノルウェーの貴族らはクヌートから賄賂を受けていたことと、(ブレーメンのアダムによると)ノルウェー王[[オーラヴ2世 (ノルウェー王)|オーラヴ2世]]が魔術のために貴族らの妻を捕らえることがあったため貴族は王に味方せず、オーラヴ2世はいかなる抵抗もできずに身を退いた<ref>{{cite book|last=Adam of Bremen|title=Gesta Daenorum|volume= ii. 61| page= 120.|ref=harv}}</ref>。こうしてクヌートは現在のデンマーク、イングランド、ノルウェー、そしてスウェーデンの一部の王となった{{sfn|Lawson|2004|p=49}}。クヌートは[[ラーデのヤール|ラーデ伯領]]を、かつて[[ラーデのヤール]]であった[[エイリーク・ハーコナルソン]]の息子{{仮リンク|ハーコン・エイリークソン|en|Haakon Ericsson}}に与えた。ハーコンは恐らくエイリークの後を継いでノーサンブリア伯でもあった<ref>Trow, ''Cnut'', p. 197.</ref>。

独立したノルウェーの王たちを敵視してきた長い伝統を持つ一族の一員であり、クヌートの親戚でもあるハーコン・エイリークソンは、1016年から1017年にかけてすでに島々やウスター伯領の領主となっていたとされる。[[アイリッシュ海]]、および[[オークニー諸島]]やノルウェーへつながる[[ヘブリディーズ諸島]]の[[シーレーン]]は、[[スカンディナヴィア半島]]と[[ブリテン諸島]]の支配を得るというクヌートの野心の中枢であった。ハーコンはこの戦略的な鎖におけるクヌートの副官となり、1028年のオーラヴ追放後の最後の構成要素は、ノルウェーにて彼が国王代理として任命されたことであった。しかし不運なことに、1029年末あるいは1030年初頭、彼は[[ペントランド海峡]]にて船が沈没したことで溺死した{{sfn|Forte|Oram|Pedersen|2005|pp=196-197}}。

ハーコン・エイリークソンの死後、オーラヴ2世はスウェーデン人を従えた軍勢とともにノルウェーへ戻ったが、{{仮リンク|スティクレスタドの戦い|en|Battle of Stiklestad}}にてクヌートと手を結んだノルウェー豪族に敗れ戦死した{{sfn|熊野|1998|p=48}}。王妃エルギフとその長男スヴェンを通じた、[[ラーデのヤール]]の支援を欠いた状態でのクヌートによるノルウェー支配の次なる目論見は失敗した。ノルウェーにおいてその時期は、重税と反乱、そして前王オーラヴ2世の非嫡出子であった[[マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世]]の王朝([[ホールファグレ朝]])の復活という「エルギフの時代(Aelfgifu's Time)」として知られている。

== クヌートの死と後継 ==
クヌートは1035年[[11月12日]]に死去した。デンマークではハーデクヌーズが後を継いでクヌート3世として支配したが、スカンディナヴィアにてノルウェーのマグヌス1世と交戦中でありながら、ハーデクヌーズは「デンマークに長く滞在しすぎたためイングランド人に見捨てられた」<ref name="asc">The ''Anglo-Saxon Chronicle''</ref>。その後[[ウェセックス家]]が再び君臨するようになったのは、[[エドワード懺悔王]]がノルマンディーに亡命していたところを連れ出され、彼の異母兄弟であるハーデクヌーズと条約を結んだためである{{sfn|Reed|2015|p=31}}。

クヌートの息子たちが彼の死から10年以内に死亡していなければ、また、彼の死の8ヵ月後にコンラート2世の息子ハインリヒ3世と結婚した唯一の娘グンヒルが、神聖ローマ帝国の皇后になる前にイタリアで死亡していなければ{{sfn|Lawson|2004|pp=98, 104–105}}、クヌートの治世はイングランド・スカンディナヴィア間の完全な政治連合、そして神聖ローマ帝国と血縁関係のある北海帝国の基礎となっていたかもしれない{{sfn|Lawson|2004|p=195}}。

=== ウィンチェスターの遺骨 ===
クヌートは現在の[[ドーセット州]]{{仮リンク|シャフツベリー|en|Shaftesbury}}にて死亡し、{{仮リンク|オールド・ミンスター|en|Old Minster, Winchester}}に埋葬された。[[1066年]]の[[ノルマン・コンクエスト]]を契機に、[[ノルマン朝|ノルマンディーの新政権]]は[[中世盛期]]の壮大な[[大聖堂]]や[[城]]の野心的な計画を立て、その到来を知らせようとしていた。[[ウィンチェスター大聖堂]]はアングロ・サクソンの跡地に建設され、クヌートの遺品を含む以前の埋葬品はそこの安置箱に納められた。[[17世紀]]の[[イングランド内戦]]時には、[[円頂党]]の略奪兵らがクヌートの骨を床に撒き散らしたため、[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]の箱をはじめとする他の様々な箱のなかに散逸してしまった。[[イングランド王政復古]]の後、他の骨と多少混ざってしまったものの骨は集められて箱の中に戻された<ref>{{cite web|url=http://www.astoft.co.uk/Dscn0764-405.jpg |title=Photo of a sign posted in Winchester Cathedral marking Cnut's mortuary chest, posted at the astoft.co.uk web site, retrieved 2009-07-25 | accessdate=2020-12-03}}</ref>。

== クヌートと波の説話 ==
'''クヌートと波の説話'''(英語:King Canute and the tide)とは、[[12世紀]]の[[歴史家]]である[[ヘンリー・オブ・ハンティングドン]]によって記された、クヌートの信心または謙遜に関する創作された[[逸話]]である。

彼は世辞を述べる臣下らに対して自然の力(迫り来る[[潮汐]])をコントロールできないことを明示し、世俗的な力は[[神]]の[[全能]]の力の前では無力だと説明している。この逸話は、避けられない出来事の「潮流を止めようとすること」の無益さを指摘する文脈にて頻繁に暗示されているが、大抵の場合はクヌートが超自然的な力を持つと自ら信じていると偽って伝えられており、ハンティングドンの話と実際には逆のことを物語っている。

===逸話===
[[File:Canute_rebukes_his_courtiers.png|180px|thumb|[[アルフォンス・ド・ヌヴィル]]による絵画''Canute Rebukes His Courtiers''。]]
ハンティングドンは、クヌートの「優美で高尚な」行動の3つの例のうちの1つとしてこの物語を語っており(戦場での勇敢な行動は除く)<ref group="注">''Enimvero extra numerum bellorum, quibus maxime splenduit, tria gessit eleganter & magnifice''</ref> 、他の2つは後の神聖ローマ皇帝と娘との結婚を手配したこと、そして1027年の皇帝戴冠式に際したローマへのガリア横断道路([[アルル王国]])の通行料引き下げ交渉である。

ハンティングドンの記述では、クヌートは[[海岸]]に玉座を置き、潮に対して彼の足と衣を濡らさないよう命じたという。しかし、「常のごとく上昇し続ける潮は、王であるその方に敬意を払わず御御足に塩水を浴びせた。そして王は後ろに跳び退きこう仰った。『すべての者に王の力がいかに無力で無価値であるかを知らしめよ。天と地と海が不変の法則に従う神をおいて、その名に相応しい者は誰もいないからだ』」。彼は[[十字架像]]に自らの金の[[王冠]]を掛け、「全能の王たる神の敬意に対して」二度とそれを被ることはなかった<ref name="Henry of Hntdn., ''The Chronicle'', p. 199">{{cite book|author=Henry of Huntingdon|title= The Chronicle|page= 199}}</ref>。

後世の歴史家らはこの説話を繰り返し伝え、彼らの多くはクヌートに潮汐が従わないことをより明確に認識させるよう脚色し、彼の臣下らの世辞を訓戒するためにその場面を演出した。潮に命じた者ら、すなわち{{仮リンク|グラモーガン|en|Glamorgan}}の{{仮リンク|聖イルトゥード|en|Illtud}}、{{仮リンク|グゥイネッズ王国|en|Kingdom of Gwynedd}}の王{{仮リンク|マエルグン・グゥイネッズ|en|Maelgwn Gwynedd|label=マエルグン}}、[[ブルターニュ]]のトゥイルベ(Tuirbe)などの[[ケルト人]]の説話においても草創期の類似点がみられる<ref>{{cite journal|first=FitzRoy, 4th Baron Raglan |last=Somerset|url=https://www.jstor.org/stable/2797899|jstor=2797899|title=Cnut and the Waves|journal=Man|volume= 60|date= January 1960|pages= 7-8|ref=harv}}</ref>。

===諺に用いられる言及===
現代の[[ジャーナリズム]]または[[政治学]]におけるこの伝説へのよく知られた言及は大抵、「潮を止めようとすること」の「クヌートの傲慢さ」という観点から説話を引用する。しかし用法については、[[エコノミスト|エコノミスト誌]]のスタイルガイドに次のようにある。
{{Quote|text=海辺でのクヌートの実演は、彼は真実であると知っていたが臣下が疑っていたこと、すなわち彼が全能ではないことを彼らに納得させるために計画された。彼が足を濡らし驚いたと仄かしてはならない|author=|title=|source= <ref name="economist">{{cite book |title=Style Guide |publisher=[[エコノミスト|The Economist ]]|isbn=978-1-86197-916-2 |pages=22 |edition=9th|ref=harv}}</ref>。}}

この説話は例えば、[[2005年]]の[[ハリケーン・カトリーナ]]への[[ニューオーリンズ]]市議会の対応を象徴するものとして{{仮リンク|スタシー・ヘッド|en|Stacy Head}}によって、また、[[2011年]]の{{仮リンク|英国のプライバシー差し止め論争|en|2011 British privacy injunctions controversy}}において、インターネット上の「止むことのない情報の流れ」を止めようとした[[ライアン・ギグス]]の試みについて「[[フットボール]]界のクヌート王」として彼に言及した{{仮リンク|マーク・ステファンズ|en|Mark Stephens (solicitor)}}などによって引用された。これらやその他多くの通俗的説明は、クヌートがまさにそうした自然の力を操れないことと、神のより大きな権威への敬意を示すために潮汐を利用したというハンティングドンの記述を誤って伝えたものである<ref name="BBC">{{cite news|url= https://www.bbc.co.uk/news/magazine-13524677 |title= Is King Canute misunderstood? |newspaper=BBC News |date= 2011-05-26 |accessdate=2021-01-07}}</ref>。

第15代[[アメリカ合衆国最高裁判所長官]]の{{仮リンク|ウォーレン・バーガー|en|Warren E. Burger}}は、[[1980年]]の{{仮リンク|チャクラバティ判決|en|Diamond v. Chakrabarty}}(447 U.S. 303)においてクヌートに言及し、[[微生物]]は「遺伝子研究に終止符を打つことはできないだろう」と特許の否認を述べた<ref>{{cite web|url=https://caselaw.findlaw.com/us-supreme-court/447/303.html |title=Diamond V. Chakrabarty &#124; Findlaw |website=Caselaw.findlaw.com |date= |accessdate=2016-11-25}}</ref>。バーガーはこれを、潮汐に命じるクヌートになぞらえている。

===史実性と想定される場所===
[[File:Pictures of English History Plate X - Canute and His Courtiers.jpg|thumb|left|200px|{{仮リンク|ジョセフ・クロンヘイム|en|Joseph Martin Kronheim}}による19世紀の絵画。]]
当時の『王妃エマ讃』には波の説話への言及がなく、この史料が「ローマに向かう途上にて、[[サントメール (パ=ド=カレー県)|サントメール]]の僧院と貧者へのクヌートの惜しみない贈り物と、それに伴う涙と大袈裟な目撃談」を伝えているため、それは非常に敬虔な献身を記録したのであって、史実ではないことを示唆するとされる{{sfn|Lawson|2004| page= 125}}。

11世紀の聖人伝作家{{仮リンク|ゴスリン|en|Goscelin}}は後にそれどころか、クヌートはウィンチェスターのある[[復活祭]]にて十字架の上に王冠を掛けたものの、海辺での実演や「イエスは彼よりもそれに相応しいと説明して」といった言及はなかったとしている。しかしこの話の裏には、「計画された敬虔な行為における事実の元」がある可能性を含む<!-- ref name="Lawson125"/-->{{sfn|Lawson|2004| page= 125}}。

一方、[[オックスフォード大学]]の{{仮リンク|マルコルム・ガッデン|en|Malcolm Godden}}教授は説話を単に「それは12世紀の伝説であり、(中略)そして当時の歴史家らは、アングロ・サクソン時代の王に関する話を常にでっち上げていた。」としている<ref name="BBC"/>。

説話の場所については、ロンドンの統治期にクヌートが王宮を建て、現在は[[ウェストミンスター]]として知られる{{仮リンク|ソルニー島|en|Thorney Island (Westminster)}}と同一視されることもある<ref>The Palace of Westminster Factsheet G11, General Series, Revised March 2008</ref><ref>[http://www.parliament.uk/about/living-heritage/building/palace/estatehistory/the-middle-ages/anglosaxon-royal-palace/ Parliament of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland.] Living Heritage. History of the Parliamentary Estate: Anglo-Saxon origins.</ref> 。それと矛盾して、[[サウサンプトン]]中心部のクヌート街(Canute Road)の[[標識]]には「西暦1028年のこの付近にて、クヌートは彼の臣下を窘めた」とある<ref name=Archaeology>{{cite web|title=Canute Castle Hotel |url=http://www.southampton.gov.uk/s-leisure/artsheritage/history/archaeology/archaeology-unit/sitesbyarea/bargate-ward/canute-castle.aspx |work=Archaeological Sites |publisher=Southampton City Council |accessdate=21 March 2012 |date=January 2001 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120428024210/http://www.southampton.gov.uk/s-leisure/artsheritage/history/archaeology/archaeology-unit/sitesbyarea/bargate-ward/canute-castle.aspx |archivedate=28 April 2012 }}</ref><ref>{{cite web|title=Google Maps, Canute Road Southampton|url=http://g.co/maps/q97zq|accessdate=11 March 2012}}</ref>。[[ウェスト・サセックス]]の{{仮リンク|ボシャム|en|Bosham}}や[[リンカンシャー]]のゲインズバラなどもその可能性として挙げられている。ゲインズバラは内陸部にあるため、説話が事実であればクヌートは{{仮リンク|トレントの海嘯|en|Trent Aegir}}として知られる[[海嘯]]を押し戻そうとしたことになる。もうひとつの言い伝えによれば、当時[[マーシア王国]]の一部であった{{仮リンク|ウィラル半島|en|Wirral Peninsula}}の北岸だとしている<ref>{{cite book|last=Harding|first=Stephen|title=Ingimund's Saga: Viking Wirral|publisher=University of Chester|edition=3rd|year=2016|page=178|isbn=978-1-908258-30-4|url=https://books.google.com/books?id=csSxDgAAQBAJ&pg=PA178}}</ref>。

== 結婚と子女 ==
最初の妃{{仮リンク|エルギフ・オブ・ノーサンプトン|en|Ælfgifu of Northampton}}との間に2子をもうけた。
* {{仮リンク|スヴェン・クヌッソン|label=スヴェン|en|Svein Knutsson}}(1016年頃 - 1035年) - ノルウェー王(父と共治、1030年 - 1035年)
* [[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド1世]](1040年没) - イングランド王(1035/7年 - 1040年)

2番目の妃[[エマ・オブ・ノーマンディー]]との間に2子をもうけた。
* [[ハーデクヌーズ]](1018/9年 - 1042年) - デンマーク王(1035年 - 1042年)、イングランド王(1040年 - 1042年)
* {{仮リンク|label=グンヒル|グンヒルト・フォン・デーネマルク|en|Gunhilda of Denmark}}(1020年頃 - 1038年) - ドイツ王[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]と結婚。夫が神聖ローマ皇帝となる前に死去。

== 関連項目 ==
* [[クヌート|クヌート (曖昧さ回避)]]
* [[称号に大が付く人物の一覧]]
* カラスの軍旗([[:en:Raven banner|Raven banner]])
* {{仮リンク|ヴァイキングの硬貨|en|Viking coinage}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
{{reflist}}
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[熊野聰]]「内乱と王権の成長」[[百瀬宏]]・熊野聰・村井誠人『北欧史』[[山川出版社]]〈新版世界各国史21〉、[[1998年]]、ISBN 978-4-634-41510-2。
* Campbell, Alistair (ed.) (1949) ''Encomium Emmae Reginae''. (Camden third series; no. 72.) London: Royal Historical Society (Reissued by Cambridge University Press with a supplementary introduction by Simon Keynes, 1988.)
* {{cite book|和書|title=ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 - (二)|author=[[スノッリ・ストゥルルソン]]|others=[[谷口幸男]](訳)|publisher+プレスポート・北欧文化通信社|ref={{sfnref|ストゥルルソン|2009}}|page=65|chapter=『[[オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ|オーラヴ・トリュッグヴァソンのサガ]]』第三十四章 ハラルド・ゴルムスソンの死|year=2009}}{{ISBN2|9784905392040}}。
* Thietmar (1962) ''Chronik: Chronicon''; Neu übertragen und erläutert von Werner Trillmich. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft
* {{cite book|last1=Forte|first1=Angelo |last2=Oram|first2=Richard D. |last3=Pedersen|first3=Frederik |title=Viking Empires|url=https://books.google.com/books?id=_vEd859jvk0C|year=2005|publisher=University Press|location=Cambridge |isbn=978-0-521-82992-2|ref=harv}}
* {{citation |last=Trow |first=M. J. |title=Cnut: Emperor of the North |location=Stroud |publisher=Sutton |year=2005 |isbn=0-7509-3387-9 }}
* {{citation |last=Lawson |first=M. K. |title=Cnut: England's Viking King |location=Stroud |publisher=Tempus |year=2004 |edition=2nd |isbn=0-7524-2964-7 |url=https://books.google.com/books?id=plmfAAAAMAAJ}}

* {{cite book|last=Reed|first=Alan |title=King Edgar: A Life of Regret|url=https://books.google.com/books?id=aj4qCwAAQBAJ&pg=PT31|year=2015|publisher=WestBow Press|isbn=978-1-5127-1898-0|ref=harv}}
== 関連項目 ==
*{{cite book|last=Stenton|first=Frank |author-link=Frank Stenton|title=Anglo-Saxon England|url=https://books.google.com/books?id=0Y65NxJaMtcC&pg=PA393|year=1971|publisher=Clarendon Press|location=Oxford|isbn=978-0-19-821716-9}}
{{Commons|Category:Canute the Great}}
* {{citation |last=Trow |first=M. J. |title=Cnut&nbsp;– Emperor of the North |location=Stroud |publisher=Sutton |year=2005 |isbn=0-7509-3387-9 }}
*[[北海帝国]]
* {{citation |last=William of Malmesbury |title=Gesta Regnum Anglorum. ''English translation by R.A.B. Mynors'' |location=Oxford |publisher=Clarendon Press |year=1998 }}
*[[ルンド]]
*[[ヴィンランド・サガ]] - ヴァイキングをテーマとした漫画で、クヌーズ2世もクヌートの名前で登場している。


{{先代次代|[[イングランド君主一覧|イングランド王]]|1016年 – 1035年|[[エドマンド2世 (イングランド王)|エドマンド2世]]|[[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド1世]]}}
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2021年7月31日 (土) 10:07時点における版

クヌート1世 / クヌーズ2世
Canute / Cnut / Knut I
Knud 2.
イングランド王
デンマーク王
ノルウェー王
在位 イングランド王:1016年 - 1035年
デンマーク王:1018年 - 1035年
ノルウェー王:1028/30年 - 1035年

出生 990年[1]
死去 1035年11月12日
イングランド王国の旗 イングランド王国ドーセット、シャフツベリー
埋葬 イングランド王国の旗 イングランド王国ウィンチェスター、オールド・ミンスター
配偶者 エルギフ・オブ・ノーサンプトン
  エマ・オブ・ノーマンディー
子女 スヴェン
ハロルド1世
ハーデクヌーズ
グンヒル
家名 ゴーム家
王朝 イェリング朝
父親 スヴェン1世
母親 グンヒル
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クヌート1世古英語:Cnut cyning、古ノルド語:Knútr inn ríki、英語:Canute / Cnut[注 1]990年[1] - 1035年11月12日)は、ノルマンデーン人で、イングランド王デンマーク王ノルウェー王を兼ねた王(イングランド王在位:1016年 - 1035年、デンマーク王在位:1018年 - 1035年、ノルウェー王在位:1028年1030年説あり〉 - 1035年)。デンマーク王としてはクヌーズ2世カヌートクヌットなどとも。大王(英語:the Great、デンマーク語:den Store)と称される。

クヌートのイングランド統治は、グレートブリテン島アイルランド島の間の海域への重要な結び付きをデーン人に与えた。彼は父親のスヴェン1世と同様にその地域へ強い関心を持ち、ノース系ゲール人英語版に大きな影響力を及ぼした[2]1026年にノルウェーとスウェーデンを打ち破った後、神聖ローマ皇帝の戴冠式英語版に出席してローマから帰る途上にて援助のために臣下へ書かれた書簡の中で、クヌートは自身を「全イングランドとデンマーク、ノルウェー人、そしてスウェーデン人の一部の王」 だと考えていた[3]。アングロ・サクソンの王らは 「イングランド人の王(king of the English)」 という称号を用いたが、クヌートはealles Engla landes cynning——「全イングランドの王(king of all England)」 であった。中世を専門とする歴史家ノーマン・カンター英語版は彼を 「アングロ・サクソン史において最も印象的な王」 と見なした[4]

人物略歴

デンマーク王スヴェン1世の子。 母はスラヴ人レフ族(ポラニェ族)の族長でポーランド統一者であるミェシュコ1世の娘シフィエントスワヴァ[5][6][7](嫁ぎ先で王妃グンヒルと呼ばれた)。同じくミェシュコ1世の子であるポーランド国王ボレスワフ1世(勇敢王)は叔父にあたる。ただし、『ヘイムスクリングラ[8]、『クニートリンガ・サガ英語版』によれば、母はヴェンドの王ブリスラヴの娘のグンヒルとされている[注 2]

父スヴェンおよび叔父ボレスワフ1世配下のポーランド諸侯と共にイングランドに侵攻して活躍した。1014年、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、アングロ・サクソン封建家臣団の会議でイングランド王に推挙され、即位することとなった。1018年には兄ハーラル2世の死によりデンマーク王位を継承した。彼は富と慣習の文化的結束の下でデーン人とイングランド人をまとめることにより、また残虐行為によりこの権力基盤を維持しようと努めた。その後はノルウェースウェーデンに遠征して勢力を拡大した。スカンディナヴィアにおける敵対勢力との10年にわたる対立の末、彼は1028年のトロンハイムにてノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。ここに、広大な北海帝国を築き上げたのである。

スウェーデンの都市シグトゥーナはクヌートによって支配された[注 3][9]1031年にはスコットランド王国マルカム2世も彼に服従したが、その地に対する北海帝国の影響力は弱く、結局クヌートの死亡時までは支配が続かなかった[10][11]。1035年に40歳で死去すると後継者争いが起き、北海帝国はクヌートの死後わずか7年で崩壊した。

生誕と王位

クヌートはハーラル1世の跡継ぎであるデンマークのスヴェン1世の息子であったため、デンマーク統一の中心となるスカンディナヴィア君主の血統を由来とする[12]。彼の生誕地および生年月日については定かではない。

1031年のLiber Vitaeに描かれたクヌートの肖像画

メールゼブルクのティートマール英語版による年代記と『王妃エマ讃英語版』は、クヌートの母親がポーランドのミェシュコ1世の娘であったと伝えている。最も有名な中世盛期のノース人史料であるスノッリ・ストゥルルソンの『ヘイムスリングラ』も、クヌートの母を「ヴィンラン(Vindland)の王女グンヒル」と呼ばれたヴェンド人の王ブリスラヴの娘(スラヴ人の王女)と記している[13]。ノース人のサガにおけるヴェンド人の王は常に「ブリスラヴ」という名であるため、これは彼女の父がミェシュコ1世(彼の息子のボレスワフ1世ではない)であったという仮定と矛盾しない。『ハンブルク教会司行録英語版』におけるブレーメンのアダムはクヌートの母親を、スウェーデンの前王妃でエリク6世の妻、そしてこの結婚により生まれたオーロフの母親と同一人物とする点で他と異なる[16]。この問題を複雑にしているのは、『ヘイムスリングラ』や他のサガなどもスヴェン1世がエリク6世の未亡人と結婚したとしているが、これらの史料における彼女はシグリーズ英語版という明らかな別人という点であり、スヴェンはクヌートを産んだスラヴ人の王女グンヒルの死後に彼女と結婚している[17]。スヴェン1世の妃が何人いたかやその出自については、様々な説が提示されている。ただし、ブレーメンのアダムのみがスウェーデン王オーロフとクヌートの母を同一人物としているため、大抵はアダムの記述を間違いと見なし、スヴェン1世には2人の妃がおり、1人目はクヌートの母、2人目はスウェーデン王妃であった人物と考えられることが多い。また『王妃エマ讃』では、クヌートの兄弟ハーラル2世をクヌートの弟としている。

クヌートの少年時代の手掛かりは13世紀の史料『フラート島本』に見られ、彼の兵法についてはシグヴァルディの兄弟かつ伝説上のヨムスボルグ伯爵であったのっぽのトルケル[18]およびヨムスヴァイキングによって、ポメラニア沖のヴォリン島にある彼らの本拠地にて教えを受けたとされる。

13世紀の『クニートリンガ・サガ』には、次のようなクヌートの描写が見受けられる。

クヌートは例外的に高身長で強く、薄く高めに位置しておりやや鉤鼻であったことを除けば、美しい顔立ちであった。色白の顔でもなお、頭髪は美しく濃かった。彼の目つきは、端正な者や鋭い者など他の者らよりも気丈であった。
『クニートリンガ・サガ』より[19][20]

1013年の夏に彼の父スヴェン王によるイングランド侵攻の際、隷下のスカンディナヴィアの部隊に加わった時点まではクヌートの生涯についてほとんど知られていなかった。それは何十年にもわたって繰り広げられ続いたヴァイキングの襲撃が最高潮を迎えた時期でもあった。ハンバー川に上陸後[21]、イングランド王国は急速にヴァイキングの手に落ちていき、その年末ごろにエゼルレッド2世はイングランドを占拠したスヴェンを残しノルマンディーへ逃れた。その冬のスヴェンは自らの王権を強化する過程にあり、クヌートは艦隊ゲインズバラ英語版の軍事拠点の管理を任された。

数ヵ月後の聖燭祭の日(1014年2月3日日曜日)にスヴェンが死去すると[22]、クヌートの兄ハーラル2世がデンマーク王としてスヴェンの後を継いだ一方、ヴァイキングやデーンロウの民衆らも間もなくクヌートをイングランド王として選出した[23]。しかし、イングランド貴族の考えはそれらとは異なっており、賢人会議はエゼルレッドをノルマンディーから呼び戻した。復位した王は直ちに軍を率いてクヌートに対抗した。クヌートは自軍とともにデンマークへ逃れる道中、人質の手足を切断してサンドウィッチの浜辺に置き去りにした[24]。クヌートはハーラルのもとへ向かい、彼らが共同の王位を有する可能性があるとおそらく提案したようだが、これが兄の好意的な姿勢を得ることはなかった[23]。ハーラルはイングランド再侵攻の指揮権をクヌートに与えたと考えられているが、その条件として彼がその主張を強要し続けないこととした[23]。いずれにせよ、クヌートは大規模な艦隊を招集して新たな侵略の開始に成功した[24]

イングランド征服

Alliというヴァイキングを記念したルーン石碑「U 194」には、彼が「イングランドでKnútr (クヌート) の報酬を獲得した」とある。

デンマークの同盟国の中には、ポーランド公(後に王位についた)でありデンマーク王家の親戚ボレスワフ1世がいた。彼はポーランド軍の一部を貸与したが[25]、これはその冬にクヌートとハーラルが母親のグンヒルをデンマークの宮廷に連れ帰るため「ヴェンド人と一緒に行った」時にかわした約束であったと考えられる。995年のエリク6世の死およびスウェーデン王太后シグリーズとスヴェンの結婚後、グンヒルはスヴェンにより追い出されていた。この結婚は、スウェーデンの王位継承者であるオーロフと、彼の姻戚であるデンマーク君主らとの間に強力な同盟関係を形成した[25]。スウェーデン人は確かにイングランド征服の協力者であった。デンマーク王家のもう1人の姻戚エイリーク・ハーコナルソンラーデのヤールであり、弟のスヴェイン・ハーコンソン英語版とともにノルウェーの共同統治者であった。ノルウェーは999年スヴォルドの海戦以来、デンマークの主権下にあった。エイリークがこの征服戦争に参加したことで、彼の息子ハーコンがスヴェインとともにノルウェー統治を任された。

1015年の夏、クヌート艦隊は推定1万人のデンマーク軍と共に200隻の艦船でイングランドに向け出航した。彼はスカンディナヴィア中のヴァイキング軍団の指揮官であった。侵攻軍はその後14ヵ月間、イングランド軍としばし凄惨な接戦を繰り広げた。実質的にすべての戦闘は、エゼルレッドの長男エドマンド2世とのものであった。

ウェセックス上陸

アングロサクソン年代記』の主要な証拠でもあるピーターバラ年代記英語版の写本によれば、1015年9月初旬に「クヌートはサンドウィッチに入り、直ぐにケントを回ってウェセックス王国に出帆し、ついにフロム川英語版の河口まで来てドーセットウィルトシャーサマセットに侵入した」とあり[26]アルフレッド大王の時代以来見られなかった激烈な戦役が始まった[24]。『王妃エマ讃』の一節には、クヌート艦隊の描写について次のようにある。

多様な種類の盾があったため、あらゆる国の軍隊が集まっていると思われるほどであった。... 船首には金が、様々な形の船には銀も輝いていた。金の輝きで恐ろしい敵のライオンを見て、金の顔で威嚇する金属の男達を見て、...船上で死を迫る角が金に輝く雄牛を見て、そのような力の王に対し何の恐れも感じない者がいるだろうか?さらに、この大遠征には、奴隷も、奴隷から解放された者も、生まれの貧しい者も、年老いて弱った者もいなかった。全ての者が高貴で、成熟した年齢で力強く、あらゆる種類の戦に十分に対応でき、騎兵の速度を嘲笑うほどの優れた機動性を持っていた。
『王妃エマ讃』[27]

アルフレッドとエゼルレッドの王朝に長く支配されていたウェセックスは1015年末、その2年前にスヴェンに屈服したように、クヌートに服従した[24]

この際、マーシア伯爵であったエアドリック・ストレオナ英語版が40隻の船とその乗員らと共にエゼルレッド軍を脱し、クヌート陣営に加勢した[28]。もう一人の亡命者は、スヴェンによるヴァイキング侵略に抗戦したヨムスヴァイキング首領であったトルケルで、1012年にイングランドに忠誠を誓った[24]── 『ヨムスヴァイキングのサガ英語版』の一節には、ヨムスボルグの傭兵がイングランド滞在中に2度の攻撃を受け、トルケルの兄弟であるHenningeという人物が犠牲になったという記述があり、このような忠誠心の変化の説明が見受けられる[29]

仮に『フラート島本』が正しく、トルケルがクヌートの少年時代の庇護者であったとすれば、彼がトルケルの忠誠、究極にはヨムスボルグのヨムスヴァイキングを受け入れたことにも説明がつく。エアドリックと来た40隻の船は、デーンロウの船と考えられることもあるが[29]、おそらくはトルケルの船とされる[30]

北進

1016年初頭、ヴァイキングはテムズ川を渡河してウォリックシャーに襲撃したが、エドマンドの反撃の企図は失敗に終わったようである──年代記の著者は、イングランド軍が解散したのは、エドマンド王とロンドン市民が不在だったためだとしている[24]。クヌートによる真冬の襲撃は、マーシア東部を北上しながら壊滅的な打撃を与えていった。また、軍の召集によりイングランド人が集められ、今度は王が彼らを出迎えたが、「それまでに何度もあったように無駄に終わった」ため、エゼルレッドは謀反の不安を抱えながらロンドンに戻った[24]。その後、エドマンドは北上してノーサンブリア伯のウートレッド英語版と合流し、マーシア西部のスタッフォードシャーシュロップシャーチェシャーに侵略した[31]。おそらくエアドリックの領地を狙ったとされる。クヌートのノーサンブリア占領はウートレッドが帰国しクヌートに服従したことを意味したが[32]、クヌートはウートレッドとその従者を虐殺させるため、ノーサンブリアの敵対者であるサーブランド英語版を派遣したと見られている。エイリーク・ハーコナルソンは、おそらくスカンディナヴィア人のもう一つの部隊と共に、この時点でクヌートを支援するようになり[33]、熟達したノルウェーのヤールがノーサンブリアの統治を担った。

エドマンド王子は、ロンドン・ウォールに囲まれたその都市に留まり、1016年4月23日のエゼルレッドの死後、王に選出された。

ロンドン包囲

エドマンド2世(左)とクヌート1世(右)が描かれた中世の彩飾。マシュー・パリス英語版の『大年代記英語版(Chronica Majora)』より

クヌートは南下し、デーン軍はどうやら複数に分かれた。一部は、クヌートによるロンドン包囲完了前にロンドンを脱してイングランド王政の伝統的中心地であるウェセックスに軍を集めに行ったエドマンドに対処し、また一部は、ロンドンを包囲して北側と南側に堤防を築き、川上の連絡を断つためにテムズ川の土手にロングシップのための水路を市の南側に掘った。

サマセットのペンセルウッド英語版で行われた戦いは、セルウッドの森英語版にある丘がその場所とされており[31]、その後にウィルトシャーのシェーストン英語版で行われた戦いは二日間に及んだが、エドマンド軍はどちらにも勝利することはできなかったとされている[34]

エドマンドはロンドンを一時的に救い、敵を追い払ってブレントフォードでテムズ川を渡った後に彼等を撃破した[31]。大きな損失を被った彼は、新たな兵力を集めるためにウェセックスに退却し、デーン人は再びロンドンを包囲したがまたもや攻撃に失敗し、イングランド人の攻撃を受けてケントに後退し、オットフォード英語版で戦った。この時点でエアドリックはエドマンドのもとに渡り[35]、クヌートはテムズ川河口を北上してエセックスに出帆し、上陸地からオーウェル川英語版を遡ってマーシアを荒らし回った[31]

条約によるロンドン獲得

1016年10月18日、デーン人が船に向かい退却する際にエドマンド軍と交戦し、エセックス南東のアシンドン英語版、または同北西のアシュドン英語版にて展開されたアッサンダンの戦い英語版という結果につながった。続くその戦闘にて、イングランド側に戻っていたエアドリックは、おそらくその策略から軍を撤退させ、イングランドに決定的敗北をもたらした[36]。エドマンドは西に逃れ、クヌートはグロスタシャーまで追走したが、エドマンドはウェールズ人の一部と同盟を結んでいたため、ディーンの森英語版付近で別の戦闘があったとされる[31]

クヌートとエドマンドはディアハースト英語版近くの島で和平交渉のための会合を開いた。テムズ川より北側のイングランドはデンマーク王子の領地とし、南側はロンドンとともにイングランド王の領地とすることで合意された。全領域の統治権は、エドマンドの死後、クヌートに引き継がれることになっていた。エドマンドはこの合意から数週間以内の11月30日に死亡した。エドマンドは殺害されたと主張する史料もあるが、その死亡時の状況は不明である[37]。西サクソン人はクヌートを全イングランドの王として受け入れ[38]、彼は1017年のロンドンにて、カンタベリー大主教リーフィング英語版によって戴冠された[39]

ノルウェーおよびスウェーデン王

1027年のクヌートの書簡にて、彼は「ノルウェー人、そして一部のスウェーデン人」の王として自らについて言及している。クヌートはスカンディナヴィア諸王国の平和を保障すべくデンマークへ向かう意図について述べており、これは1027年のクヌートが一部のノルウェー人が不満を持っていると聞き、彼の王位の主張への支持を得るため彼らに金銀を送ったというウスターのジョン英語版の記述と一致する[3]

1028年、彼がデンマーク経由でローマから帰国すると、イングランドからノルウェーのトロンハイムに向け、50隻の艦隊を率いて発った[3][40]。ノルウェーの貴族らはクヌートから賄賂を受けていたことと、(ブレーメンのアダムによると)ノルウェー王オーラヴ2世が魔術のために貴族らの妻を捕らえることがあったため貴族は王に味方せず、オーラヴ2世はいかなる抵抗もできずに身を退いた[41]。こうしてクヌートは現在のデンマーク、イングランド、ノルウェー、そしてスウェーデンの一部の王となった[25]。クヌートはラーデ伯領を、かつてラーデのヤールであったエイリーク・ハーコナルソンの息子ハーコン・エイリークソンに与えた。ハーコンは恐らくエイリークの後を継いでノーサンブリア伯でもあった[42]

独立したノルウェーの王たちを敵視してきた長い伝統を持つ一族の一員であり、クヌートの親戚でもあるハーコン・エイリークソンは、1016年から1017年にかけてすでに島々やウスター伯領の領主となっていたとされる。アイリッシュ海、およびオークニー諸島やノルウェーへつながるヘブリディーズ諸島シーレーンは、スカンディナヴィア半島ブリテン諸島の支配を得るというクヌートの野心の中枢であった。ハーコンはこの戦略的な鎖におけるクヌートの副官となり、1028年のオーラヴ追放後の最後の構成要素は、ノルウェーにて彼が国王代理として任命されたことであった。しかし不運なことに、1029年末あるいは1030年初頭、彼はペントランド海峡にて船が沈没したことで溺死した[43]

ハーコン・エイリークソンの死後、オーラヴ2世はスウェーデン人を従えた軍勢とともにノルウェーへ戻ったが、スティクレスタドの戦い英語版にてクヌートと手を結んだノルウェー豪族に敗れ戦死した[44]。王妃エルギフとその長男スヴェンを通じた、ラーデのヤールの支援を欠いた状態でのクヌートによるノルウェー支配の次なる目論見は失敗した。ノルウェーにおいてその時期は、重税と反乱、そして前王オーラヴ2世の非嫡出子であったマグヌス1世の王朝(ホールファグレ朝)の復活という「エルギフの時代(Aelfgifu's Time)」として知られている。

クヌートの死と後継

クヌートは1035年11月12日に死去した。デンマークではハーデクヌーズが後を継いでクヌート3世として支配したが、スカンディナヴィアにてノルウェーのマグヌス1世と交戦中でありながら、ハーデクヌーズは「デンマークに長く滞在しすぎたためイングランド人に見捨てられた」[45]。その後ウェセックス家が再び君臨するようになったのは、エドワード懺悔王がノルマンディーに亡命していたところを連れ出され、彼の異母兄弟であるハーデクヌーズと条約を結んだためである[46]

クヌートの息子たちが彼の死から10年以内に死亡していなければ、また、彼の死の8ヵ月後にコンラート2世の息子ハインリヒ3世と結婚した唯一の娘グンヒルが、神聖ローマ帝国の皇后になる前にイタリアで死亡していなければ[47]、クヌートの治世はイングランド・スカンディナヴィア間の完全な政治連合、そして神聖ローマ帝国と血縁関係のある北海帝国の基礎となっていたかもしれない[48]

ウィンチェスターの遺骨

クヌートは現在のドーセット州シャフツベリー英語版にて死亡し、オールド・ミンスター英語版に埋葬された。1066年ノルマン・コンクエストを契機に、ノルマンディーの新政権中世盛期の壮大な大聖堂の野心的な計画を立て、その到来を知らせようとしていた。ウィンチェスター大聖堂はアングロ・サクソンの跡地に建設され、クヌートの遺品を含む以前の埋葬品はそこの安置箱に納められた。17世紀イングランド内戦時には、円頂党の略奪兵らがクヌートの骨を床に撒き散らしたため、ウィリアム2世の箱をはじめとする他の様々な箱のなかに散逸してしまった。イングランド王政復古の後、他の骨と多少混ざってしまったものの骨は集められて箱の中に戻された[49]

クヌートと波の説話

クヌートと波の説話(英語:King Canute and the tide)とは、12世紀歴史家であるヘンリー・オブ・ハンティングドンによって記された、クヌートの信心または謙遜に関する創作された逸話である。

彼は世辞を述べる臣下らに対して自然の力(迫り来る潮汐)をコントロールできないことを明示し、世俗的な力は全能の力の前では無力だと説明している。この逸話は、避けられない出来事の「潮流を止めようとすること」の無益さを指摘する文脈にて頻繁に暗示されているが、大抵の場合はクヌートが超自然的な力を持つと自ら信じていると偽って伝えられており、ハンティングドンの話と実際には逆のことを物語っている。

逸話

アルフォンス・ド・ヌヴィルによる絵画Canute Rebukes His Courtiers

ハンティングドンは、クヌートの「優美で高尚な」行動の3つの例のうちの1つとしてこの物語を語っており(戦場での勇敢な行動は除く)[注 4] 、他の2つは後の神聖ローマ皇帝と娘との結婚を手配したこと、そして1027年の皇帝戴冠式に際したローマへのガリア横断道路(アルル王国)の通行料引き下げ交渉である。

ハンティングドンの記述では、クヌートは海岸に玉座を置き、潮に対して彼の足と衣を濡らさないよう命じたという。しかし、「常のごとく上昇し続ける潮は、王であるその方に敬意を払わず御御足に塩水を浴びせた。そして王は後ろに跳び退きこう仰った。『すべての者に王の力がいかに無力で無価値であるかを知らしめよ。天と地と海が不変の法則に従う神をおいて、その名に相応しい者は誰もいないからだ』」。彼は十字架像に自らの金の王冠を掛け、「全能の王たる神の敬意に対して」二度とそれを被ることはなかった[50]

後世の歴史家らはこの説話を繰り返し伝え、彼らの多くはクヌートに潮汐が従わないことをより明確に認識させるよう脚色し、彼の臣下らの世辞を訓戒するためにその場面を演出した。潮に命じた者ら、すなわちグラモーガン英語版聖イルトゥード英語版グゥイネッズ王国英語版の王マエルグン英語版ブルターニュのトゥイルベ(Tuirbe)などのケルト人の説話においても草創期の類似点がみられる[51]

諺に用いられる言及

現代のジャーナリズムまたは政治学におけるこの伝説へのよく知られた言及は大抵、「潮を止めようとすること」の「クヌートの傲慢さ」という観点から説話を引用する。しかし用法については、エコノミスト誌のスタイルガイドに次のようにある。

海辺でのクヌートの実演は、彼は真実であると知っていたが臣下が疑っていたこと、すなわち彼が全能ではないことを彼らに納得させるために計画された。彼が足を濡らし驚いたと仄かしてはならない
[52]

この説話は例えば、2005年ハリケーン・カトリーナへのニューオーリンズ市議会の対応を象徴するものとしてスタシー・ヘッド英語版によって、また、2011年英国のプライバシー差し止め論争英語版において、インターネット上の「止むことのない情報の流れ」を止めようとしたライアン・ギグスの試みについて「フットボール界のクヌート王」として彼に言及したマーク・ステファンズ英語版などによって引用された。これらやその他多くの通俗的説明は、クヌートがまさにそうした自然の力を操れないことと、神のより大きな権威への敬意を示すために潮汐を利用したというハンティングドンの記述を誤って伝えたものである[53]

第15代アメリカ合衆国最高裁判所長官ウォーレン・バーガー英語版は、1980年チャクラバティ判決英語版(447 U.S. 303)においてクヌートに言及し、微生物は「遺伝子研究に終止符を打つことはできないだろう」と特許の否認を述べた[54]。バーガーはこれを、潮汐に命じるクヌートになぞらえている。

史実性と想定される場所

ジョセフ・クロンヘイム英語版による19世紀の絵画。

当時の『王妃エマ讃』には波の説話への言及がなく、この史料が「ローマに向かう途上にて、サントメールの僧院と貧者へのクヌートの惜しみない贈り物と、それに伴う涙と大袈裟な目撃談」を伝えているため、それは非常に敬虔な献身を記録したのであって、史実ではないことを示唆するとされる[55]

11世紀の聖人伝作家ゴスリン英語版は後にそれどころか、クヌートはウィンチェスターのある復活祭にて十字架の上に王冠を掛けたものの、海辺での実演や「イエスは彼よりもそれに相応しいと説明して」といった言及はなかったとしている。しかしこの話の裏には、「計画された敬虔な行為における事実の元」がある可能性を含む[55]

一方、オックスフォード大学マルコルム・ガッデン英語版教授は説話を単に「それは12世紀の伝説であり、(中略)そして当時の歴史家らは、アングロ・サクソン時代の王に関する話を常にでっち上げていた。」としている[53]

説話の場所については、ロンドンの統治期にクヌートが王宮を建て、現在はウェストミンスターとして知られるソルニー島英語版と同一視されることもある[56][57] 。それと矛盾して、サウサンプトン中心部のクヌート街(Canute Road)の標識には「西暦1028年のこの付近にて、クヌートは彼の臣下を窘めた」とある[58][59]ウェスト・サセックスボシャム英語版リンカンシャーのゲインズバラなどもその可能性として挙げられている。ゲインズバラは内陸部にあるため、説話が事実であればクヌートはトレントの海嘯英語版として知られる海嘯を押し戻そうとしたことになる。もうひとつの言い伝えによれば、当時マーシア王国の一部であったウィラル半島英語版の北岸だとしている[60]

結婚と子女

最初の妃エルギフ・オブ・ノーサンプトンとの間に2子をもうけた。

  • スヴェン英語版(1016年頃 - 1035年) - ノルウェー王(父と共治、1030年 - 1035年)
  • ハロルド1世(1040年没) - イングランド王(1035/7年 - 1040年)

2番目の妃エマ・オブ・ノーマンディーとの間に2子をもうけた。

  • ハーデクヌーズ(1018/9年 - 1042年) - デンマーク王(1035年 - 1042年)、イングランド王(1040年 - 1042年)
  • グンヒル(1020年頃 - 1038年) - ドイツ王ハインリヒ3世と結婚。夫が神聖ローマ皇帝となる前に死去。

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ デンマーク語:Knud den Store / Knud II、ノルウェー語:Knut den mektige、スウェーデン語:Knut den Store
  2. ^ クヌートの母親については歴史学の議論対象となっている。彼女をGunnhildaとする史料がある一方、その存在が疑わしい、あるいは彼女に名前を付けるための充分な証拠がないとする史料もある。
  3. ^ クヌートはそこで彼を王と呼ぶ硬貨を鋳造させたが、彼の侵略についての物語の記録はない。
  4. ^ Enimvero extra numerum bellorum, quibus maxime splenduit, tria gessit eleganter & magnifice

出典

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参考文献

先代
エドマンド2世
イングランド王
1016年 – 1035年
次代
ハロルド1世
先代
ハーラル2世
デンマーク王
1018年 - 1035年
次代
ハーデクヌーズ
先代
オーラヴ2世
ノルウェー王
9代
1028年 - 1035年
次代
マグヌス1世