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「貴族院 (イギリス)」の版間の差分

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{{議会
{{Infobox Legislature
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|議院名 = 貴族院<br/>House of Lords
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}}
{{イギリスの政治}}
{{イギリスの政治}}
'''貴族院'''(きぞくいん、{{Lang-en|House of Lords}})は、[[イギリスの議会]]を構成する[[議院]]で、[[上院]]に相当する。
'''貴族院'''(きぞくいん、{{Lang-en|'''House of Lords'''}})は、[[イギリスの議会]]を構成する[[議院]]で、[[上院]]に相当する。


[[中世]]にイングランド議会から[[庶民院]]が分離したことで成立。[[貴族]]によって構成される本院は、公選制の庶民院と異なり、非公選制である。[[議会法]]制定以降は立法機関としての権能は庶民院に劣後する。[[1999年]]以降は{{仮リンク|世襲貴族 (イギリス)|label=世襲貴族|en|Hereditary peer}}の議席が制限されており、[[一代貴族]]が議員の大半を占めている。かつては[[最高裁判所]]としての権能も有していたが、[[2009年]]に[[連合王国最高裁判所]]が新設されたことでその権能は喪失した。
== 構成 ==
[[庶民院]](House of Commons) と共に[[イギリス議会]]を構成している([[両院制]])。


== 貴族院の歴史 ==
[[議会制民主主義]]の発展とともに公選制の[[庶民院]]に政治の実権が移り「貴族院」は名目的存在となった。[[1911年]]には[[議会法]]で[[下院]](庶民院)の優越が定められ、法案の最終的な決議権などは完全に下院に移った。しかし現在もその審議水準の高さで尊敬を集め、下院に再考を促す議院としての存在価値は高いと言われている。
=== 貴族院の成立 ===
イングランドのパーラメント([[:en:Parliament of England|Parliament of England]])は、元来[[イングランド王]]の[[封建主義|封建]]的家臣である直属受封者(貴族)によって構成される諮問会議でしかなかった<ref name="中村(1959)20">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.20</ref>。


しかし[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけて[[陪審員]]制度の確立([[代議制]]への萌芽)、地方自治体の発展に伴う封建勢力の後退、[[ナイト|騎士]]や市民などの[[中流階級]]の勃興、国王と貴族の対立などが起こり<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.21-29</ref>、そのような背景から13世紀にイングランド王はパーラメントに州や都市の代表を加えるようになった。これによってパーラメントは代議制議会の性格を有するようになった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.31-35</ref>。
貴族院の役割として、庶民院が通過させた法案を、専門知識を持つ貴族院議員が精査し、修正することが重視されている。また、下院の優越規定により法案を完全に阻止することはできないが、予算案などをのぞく法案の成立を1年間延期できるので、政府や庶民院、一般市民に再考を促すことができる。貴族院議員は選挙で選ばれないため、国民の支持は多いが憲法上や人権上の問題がある議題について反対しやすい。諸外国では最高裁判所が行う「憲法の番人」の役割を、イギリスでは貴族院が担ってきたともいえる。


パーラメント(以降議会)が[[庶民院]]と貴族院に分離したのは、[[14世紀]]前期から中期頃と見られている。州代表の騎士と都市代表の市民が議会から分離して庶民院の実質を形成し、また下級聖職者が議会を去ったことで、議会残存部分(高位聖職者{{#tag:ref|下級聖職者は俗事目的の議会を嫌って去ったが、高位聖職者は男爵領所有者(直属受封者)でもあったため、そちらの立場を優先して議会に残り、異階級の男爵と融合していったのである<ref name="近藤(1970)上113">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.113</ref>。|group=注釈}}、伯爵、男爵{{#tag:ref|当初、貴族身分はごく少数の伯爵(Earl)と大多数の男爵(Baron)だけだった。Baronはもともと称号ではなく直属受封者を意味していた。一方Earlは特定の州に特権的支配権を持つ者の称号であった。しかし大陸から輸入された三爵位が加わり、新貴族創設が国王の{{仮リンク|勅許状 (イギリス)|label=勅許状|en|Letters patent}}のみによるようになってから、男爵も称号化し、公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級の貴族称号の階級が確立された<ref>[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.161/163-164</ref>。|group=注釈}})が貴族院の実質を持つようになったのである<ref>[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.100-103/113</ref><ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.43-50</ref>。
イギリスの貴族院は今日でも全議員が何らかの形で爵位を持つ貴族 (lords) で構成されており、無爵でも多額納税者や勅撰議員が少なからず名を連ねていた日本のかつての[[貴族院 (日本)|貴族院]]とは様相が異なる。


中世には貴族院の方が圧倒的に強く、庶民院はその副次的存在として「請願」する存在に過ぎなかった<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.223-224</ref>。
議会制の長い歴史をもつ英国では、古く[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]の時代から、国王の諮問機関として、大貴族によって構成される大会議([[キュリア・レジス]])が存在していた。そして次第に小貴族、市民代表が参加するようになり、後に世襲制の貴族階級によって構成される貴族院と、市民代表からなる[[庶民院]]の二院制が成立した。


議会の中心母体の一つに高級裁判所パーラメントがあったので、議会は当初より司法機能を有したが、その機能も庶民院より貴族院の方が強かった。特に14世紀末に庶民院が弾劾権(国王の大臣を貴族院に告発する権利)を確立するに及んで、司法権は貴族院にあり、庶民院にないことが明確化した。以降貴族院は、庶民院に弾劾された貴族・庶民を裁判する権利、重罪で告発された貴族を裁判する権利、そして[[下級裁判所]]の判決を覆すことができる[[最高裁判所]]としての権能を有するようになった<ref>[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.118-121</ref>。
[[イギリス|英国]]の貴族院議員は[[歳費]]を受領しない。貴族であることを前提として、その特権の一部として議会に招集されていることが、歳費が支給されない理由とされる。ただし下記法服貴族を除く。


初期のイングランド議会における貴族とは、直属受封者のうち、国王から直接に議会招集令状を出され、それによって貴族領と認定された所領を所有する者のことであった。しかし14世紀末頃から国王が{{仮リンク|勅許状 (イギリス)|label=勅許状|en|Letters patent}}で貴族称号を与えて新貴族創家を行うようになり、それ以降は貴族領の有無に関わりなく、貴族称号を持って議会に議席を有する者が貴族と看做されるようになった<ref name="中村(1959)51">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.51</ref><ref name="近藤(1970)上164">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.164</ref>。
英国の貴族院は、貴族全員を招集するため定数は存在しなかった。[[薔薇戦争]]で多くの貴族が絶えた時にはわずか2桁の議員数となったこともある。しかし後世、授爵が繰り返され、また、[[20世紀]]前半には、時の首相が自党の議員数をふやす目的で推薦を繰り返したことにより、一時は議席数1200名を数えるまでになった。しかし、[[1958年]]には一代貴族法により識見秀でた者を一代限りの貴族にすることで、議員数の増大を抑制する方針が採られた。


[[テューダー朝]]期の[[16世紀]]初頭までには議会が両院制であることは明確に意識されるようになっており、[[1502年]]の公式文書から、貴族院を構成する高位聖職者と爵位保有者を指して「{{仮リンク|聖職貴族|en|Lords Spiritual}}及び{{仮リンク|世俗貴族|en|Lords Temporal}}(Lords Spiritual and Temporal)」と呼ぶようになった。また貴族院(House of Lords)という呼び方もこの頃から使用されるようになり、[[1510年]]から『貴族院日誌(House of Lords journals)』の印刷が開始されている<ref name="近藤(1970)上114">[[#近藤(1970)上|近藤(1970)上巻]] p.114</ref><ref name="中村(1959)70">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.70</ref>。
しかし、[[トニー・ブレア|ブレア]]政権による貴族院改革は、92名を除いて残りの世襲貴族から議席を奪い去るに至り、現在の議席は700名ほどである。もっとも、千を超える議員がいた当時も、出席していたのは<!--延べ人数で-->せいぜい300人程度だったと言う。そのためか貴族院の定足数は議長を含めて、わずか3名とされている(議決時には40名)。
[[File:Queen Anne in the House of Lords.jpg|left|180px|thumb|[[18世紀]]初頭の貴族院を描いた絵画({{仮リンク|ピーター・ティレマンス|en|Peter Tillemans}}画、[[ロイヤル・コレクション]])]]
=== 庶民院に対する劣後 ===
[[15世紀]]の[[薔薇戦争]]で封建貴族は大打撃を受け、[[テューダー朝]]期には貴族は「王室の藩屏」と化し、その独立性を失っていった。また聖職貴族も[[宗教改革]]で発言力を低下させていった。そのため貴族院の力は低下し、代わって庶民院の力が増していった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.70-71</ref><ref name="田中(2009)224">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.224</ref>。


[[ステュアート朝]]期の[[17世紀]]前期には国王と庶民院の対立が深刻化し、17世紀半ばに[[ピューリタン革命]]が発生し、王政は廃されて[[イングランド共和国|共和政]]が樹立された。この際に「王室の藩屏」たる貴族院も廃止され、[[一院制]]になった<ref name="中村(1959)96">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.96</ref>{{#tag:ref|ただし[[1656年]]には護国卿[[トマス・クロムウェル]]によって護国卿が任命した者から構成される「第二院」が創設されており、共和政期ずっと一院制だったわけではない<ref name="中村(1959)101">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.101</ref>。|group=注釈}}。しかしこれは短期間のことであり、[[1660年]]には[[王政復古]]があり、貴族院も復古している<ref name="中村(1959)102">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.102</ref>。
[[2007年]][[3月7日]]、貴族院に選挙制導入を求める決議案が[[庶民院]]で可決され、数年のうちに全議員もしくは大半の議員が、選挙で選ばれた者によって構成される見通しが出てきた。可決された決議案は
*改革後の貴族院は全員が選挙によるものであるべきという意見
*改革後の貴族院は、80%が選挙で、20%が任命で構成されるべきという意見
の2つの選択肢とするものだった<ref>このほかにも全員任命・20%選挙・40%選挙・50%選挙・60%選挙の各決議案があったがすべて否決された。</ref>。
また同時に、世襲貴族議員の廃止を求める決議案も可決されており、この決議案に基づき政府が貴族院改革法案を提出して成立すれば、貴族のみで構成されていた貴族院は700年の歴史に幕を閉じる可能性がある。ただし、[[トニー・ブレア]]首相(当時)、[[デービッド・キャメロン]]保守党党首(当時)は可決された決議案には共に反対しており、また貴族院では全員任命案以外は否決されたため、改革の行方がどうなるかはまだ不透明である。


17世紀後半の[[名誉革命]]後には庶民院における信任を背景に政府が成立するという[[議院内閣制]](政党内閣制)が確立された<ref name="中村(1959)121">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.121</ref>。そのため政治の実権は庶民院が掌握するところとなり、貴族院の影は薄くなっていった。庶民院から支持を得ているが、貴族院で多数を得ていないという政府は、しばしば{{仮リンク|国王大権 (イギリス)<!-- [[:en:Royal prerogative in the United Kingdom]] とリンク -->|label=国王大権|en|Royal prerogative|FIXME=1}}の貴族創家で貴族院を抑え込むようになった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.169-170</ref>{{#tag:ref|たとえば、[[1712年]]の[[ユトレヒト条約]]の[[批准]]をめぐって当時の[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]政権は、[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が多数を占める貴族院で否決される事を憂慮して、[[アン (イギリス女王)|アン女王]]の大権で12家の貴族創家を行い、トーリー党の貴族院多数状態を強引に作り出した<ref name="中村(1959)169">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.169</ref>。|group=注釈}}。
==貴族院議員==
貴族院議員には以下の別がある:
*[[世襲貴族]]
*[[一代貴族]]
*[[法服貴族]]
*[[聖職貴族]]


[[1707年]]にイングランドとスコットランドが合同して[[グレートブリテン王国]]が成立すると、[[スコットランド貴族]]のうち互選された16人が[[貴族代表議員]]としてイギリス貴族院に議席を置くことになった。また[[1801年]]にアイルランドと合同した際にも[[アイルランド貴族]]のうち28人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を有することになった<ref>[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.168-169</ref>。
世襲貴族議員92名には、[[ノーフォーク公]]が世襲する[[紋章院|紋章院総裁]]とチャムリー侯爵{{enlink|Marquess of Cholmondeley|a=on}}が世襲する[[式部長官]]が含まれる。[[イギリスの首相|首相]]経験者が辞任し議会に残るとき、慣習的にLife peer{{enlink|Life peer|a=on}}と呼ばれる[[一代貴族]]の爵位(貴族地位)が与えられ貴族院に残ることがある。
[[File:Passing of the Parliament Bill, 1911 - Project Gutenberg eText 19609.jpg|250px|thumb|[[1911年]]、[[議会法|議会法案]]の貴族院通過を描いた絵画]]
法服貴族の定員は12人だったが、イギリス最高裁判所の成立で、その12人は2009年8月31日をもって、法服貴族の地位を失った。
[[18世紀]]末頃から大量の叙爵が行われるようになり、貴族院議員数が急増した。その結果、貴族院はこれまでの「比較的少数の国王の世襲的助言者」という立場から「特権階級の既得権擁護機関」と化し始めた。19世紀から[[20世紀]]初頭にかけての貴族院は、[[保守党 (イギリス)|保守党]]が政権にある時は協調し、[[自由党 (イギリス)|自由党]]が政権に就くとその改革の妨害にあたることが多かった。その結果、自由党支持層に貴族院改革の機運が高まり、自由党政権期の[[1911年]]に[[議会法]]が制定された。これにより貴族院は財政法案に関する否決・修正権限を失い、またそれ以外の法案についても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となった(庶民院の優越)<ref name="中村(1959)171">[[#中村(1959)|中村(1959)]] p.171</ref>。ただしこの段階では貴族院は庶民院で通過された法案を2年も引き延ばすことが可能だった<ref name="バー(2004)116">[[#バー(2004)|バーレント(2004)]] p.116</ref>。


なお20世紀以降は貴族院議員が首相になることは憲法慣習として避けられるようになった。最後の貴族院議員の首相は[[1902年]]7月まで首相を務めた第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]である<ref name="田中(2009)232">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.232</ref><ref name="神戸(2005)180">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.180</ref>。ただしこの憲法慣習は組閣の大命を下す国王・女王を拘束するものではなく、1963年10月には第14代{{仮リンク|ヒューム伯爵|en|Earl of Home}}[[アレック・ダグラス=ヒューム|アレグザンダー・ダグラス=ヒューム]]が大命を受けている。ただしヒュームは憲法慣習を守るためにただちに爵位を返上して[[補欠選挙]]に出馬し、[[庶民院]]議員へ鞍替えしている<ref name="神戸(2005)180">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.180</ref>{{#tag:ref|20世紀以降は首相以外の主要閣僚についても貴族院議員の就任を避ける傾向があるが、[[外務・英連邦大臣|外務大臣]]は他の主要閣僚と比べると貴族院議員が就任する例がやや多めである(初代{{仮リンク|ハリファックス伯爵|en|Earl of Halifax}}[[エドワード・ウッド (初代ハリファックス伯爵)|エドワード・ウッド]]、第14代{{仮リンク|ヒューム伯爵|en|Earl of Home}}[[アレック・ダグラス=ヒューム|アレグザンダー・ダグラス=ヒューム]]、第6代{{仮リンク|キャリントン男爵|en|Baron Carrington}}{{仮リンク|ピーター・キャリントン|en|Peter Carington, 6th Baron Carrington}})。貴族院議員が外務大臣を務めている時は庶民院における外交問題の対応は首相が行う<ref name="神戸(2005)175">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.175</ref>。|group=注釈}}。
== 議論 ==
英国の貴族院を「'''世界で最高の演説が聞ける場所'''」と評する論者がいる。政府推薦による[[一代貴族]]は、単なる党活動家ではなく識見に優れた人士を選ぶため、庶民院よりも専門的で公平な議論がなされることが理由とされる。そのため、過去の貴族院改革によって既に庶民院・内閣の連合に従わない決定的権利を失ってしまっている以上、貴族院からこれ以上何を取り上げる必要があるのかという改革反対論は根強かった。


=== 現代の貴族院改革 ===
貴族院の議長は '''Lord Speaker''' と呼ばれる。貴族院議長は議事の立会人としての性格が強く、貴族院議長には庶民院議長と異なり議事規律権はなく、議事の整理は同輩議員同士が行う伝統がある。
[[1945年]]に成立した[[労働党 (イギリス)|労働党]]政権は、保守党が多数を占める貴族院が議会法に基づく停止的拒否権を行使することを懸念した。これに対して{{仮リンク|保守党貴族院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Lords 1834–present}}クランボーン子爵(後の第5代ソールズベリー侯爵)[[ロバート・ガスコイン=セシル (第5代ソールズベリー侯爵)|ロバート・ガスコイン=セシル]]は、「庶民院総選挙で明確に公約として掲げられ、有権者の信任を得た法案について、貴族院は否決したり大幅修正してはならない」とする[[ソールズベリー・ドクトリン]]を表明した<ref name="田中(2009)233">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.233</ref>。


[[1949年]]には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された<ref name="バー(2004)116"/>。
== 大法官 ==
かつては、[[大法官]] (Lord Chancellor) が貴族院議長の任にあたった。[[首相]]が出現してくるまでは、大法官は政府の最高の官職であり、現在でも形式的な序列では聖職者である[[カンタベリー大主教]](第1位)に次ぐ第2位とされ、首相よりも上位の席次にある。また、内閣の一隅を占める。また、19世紀まで大法官管轄の特別裁判所が多数機能していた。現在でも貴族院議場において開催される[[王立委員会]]の首座をつとめている。


[[1958年]]には保守党首相[[ハロルド・マクミラン]]により{{仮リンク|一代貴族法|en|Life Peerages Act 1958}}が制定され、男女問わず一代に限り貴族院議員に登用できるようになった。これにより貴族院の党派議席配分の変更や幅広い人材登用がやりやすくなった<ref name="田中(2009)235">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.235</ref>。この後、労働党は世襲貴族の新設を行わない旨を宣言し、保守党もそれに倣うと見られていたが、[[1983年]]には保守党首相[[マーガレット・サッチャー]]が、その慣例を破って{{仮リンク|ウィリアム・ホワイトロー (初代ホワイトロー子爵)|label=ウィリアム・ホワイトロー|en|William Whitelaw, 1st Viscount Whitelaw}}を世襲貴族ホワイトロー子爵に推薦して話題となった<ref name="海保(1999)11">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.11</ref>。
大法官管轄の特別裁判所らの裁判所が整理された後も、大法官には貴族院が行う最高裁判所としての審理に加わる権利があった。よって後発の[[三権分立]]がはっきり認識される国々からは「'''権力分立の歩く矛盾'''」と呼ばれていた。2009年10月からは、貴族院の終審裁判所機能は[[イギリス最高裁判所]]に移管された。


貴族院の[[一代貴族]]の占める割合は増加の一途をたどり、貴族院改革前夜の[[1998年]]2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)にまで減少していた(対する一代貴族は484名)<ref name="田中(2009)279">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.279</ref>。
英国の貴族院は、その中の12名の「常任上訴貴族」='''[[法服貴族]](非世襲・勅任)が、司法権の頂点に立つ[[最高裁判所]]をなしている'''という点に歴史的特徴があった。しかし、2009年10月に[[イギリス最高裁判所]]が設置されたためこの機能はなくなった。法服貴族のほか、大法官も審理に加わる資格があるが、現在の大法官は首相の下に立つ閣僚であり、間違いなく党派的選任であるため、通常審理参加を放棄する旨を表明する。


[[1963年]]の{{仮リンク|1963年貴族法|label=貴族法|en|Peerage Act 1963}}で世襲貴族は世襲事由が生じた時から一年以内であれば自分一代についてのみ爵位を放棄し、平民になるという選択(=貴族院議員にならない)ができるようになった。またそれまで貴族院議員になれなかった女性世襲貴族とスコットランド貴族も貴族院議員に列することになった<ref name="田中(2009)235">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.235</ref>。
また、「[[聖職貴族]]」と呼ばれる議員が存在している。[[カンタベリー]]・[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]の大主教および23名の上級主教、あわせて25人が貴族院議員として議席を有している。


[[1999年]]には[[トニー・ブレア|ブレア]]政権によって{{仮リンク|1999年貴族院法|label=貴族院法|en|House of Lords Act 1999}}が制定され、世襲貴族の議席は92議席を残して削除された。以降の貴族院は一代貴族が中心となっている<ref name="田中(2009)229">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.229</ref>。
== 脚註 ==

{{Reflist}}
ブレア政権が[[2005年]]に制定した{{仮リンク|2005年憲法改革法|label=憲法改革法|en|Constitutional Reform Act 2005}}により[[2009年]]から[[連合王国最高裁判所]](Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院は中世以来保持してきた最高裁判所としての権能を失った<ref>[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.83-84/89</ref>。

[[2007年]][[3月7日]]に議会で貴族院の構成に関する自由投票が行われ、庶民院では全員選挙制、および80%選挙・20%任命制の意見が可決されている(貴族院では全員任命制が可決される)<ref name="田中(2009)253">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.253</ref>。現在のところ、まだ公選制導入の改革は実施されていない。
{{-}}

== 貴族院の構成 ==
=== 世襲貴族 ===
[[File:18th Duke of Norfolk 1 Allan Warren.JPG|180px|thumb|現在の{{仮リンク|紋章院総裁|en|Earl Marshal}}の第18代[[ノーフォーク公爵]][[エドワード・フィッツアラン=ハワード (第18代ノーフォーク公)|エドワード・フィッツアラン=ハワード]]]]
[[1999年]]の貴族院改革以前には{{仮リンク|世襲貴族 (イギリス)|label=世襲貴族|en|Hereditary peer}}全員が貴族院に議席を有していた{{#tag:ref|ただし[[アイルランド貴族]]と[[スコットランド貴族]]は[[貴族代表議員]]のみだった。スコットランド貴族は[[1963年]]の{{仮リンク|1963年貴族法|label=貴族法|en|Peerage Act 1963}}で全員貴族院議員に列している<ref name="田中(2009)235"/>。|group=注釈}}。そのため20世紀に爵位が乱発された際には議員数が1000人を超えたこともあった<ref name="海保(1999)10">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.10</ref>。貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心にして構成されてきた(ただし欠席者が多かった<ref name="神戸(2005)100">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.100</ref>)。1958年の一代貴族法制定後も1999年まで世襲貴族が多数を占めていた<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.236/279</ref>。

しかし1999年の[[トニー・ブレア]]政権の貴族院改革によって世襲貴族の議席は世襲貴族議員の互選で選ばれた90名(当時の貴族院の党派に応じて案分された75名と院内役職にあった15名)に[[ノーフォーク公|ノーフォーク公爵家]]が世襲する{{仮リンク|紋章院総裁|en|Earl Marshal}}と{{仮リンク|チャムリー侯爵|label=チャムリー侯爵家|en|Marquess of Cholmondeley}}が世襲する{{仮リンク|大侍従卿|en|Lord Great Chamberlain}}を加えた92議席に限定され、大多数の世襲貴族が議席を失った<ref name="田中(2009)241">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.241</ref><ref name="神戸(2005)101">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.101</ref>。以降、貴族院に議席を持つ世襲貴族は「例外貴族(excepted peers)」と呼ばれている<ref name="神戸(2005)101">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.101</ref>。

世襲貴族議員の任期は終身である<ref name="神戸(2005)101"/>。世襲貴族議員が死去すると、世襲貴族議員の互選で世襲貴族の中から新しい世襲貴族議員が選出される<ref name="神戸(2005)101"/>。かつては女性世襲貴族{{#tag:ref|世襲貴族の爵位の継承方法はその爵位の{{仮リンク|勅許状 (イギリス)|label=勅許状|en|Letters patent}}で決められており、特例で女系継承が認められている場合もある<ref name="神戸(2005)100">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.100</ref>。|group=注釈}}は貴族院議員になれなかったが、[[1963年]]の{{仮リンク|1963年貴族法|label=貴族法|en|Peerage Act 1963}}で女性世襲貴族にも貴族院議員となる道が開かれた。また同法により世襲貴族は、爵位継承から一年以内であれば自分一代について爵位を放棄し、平民になる(庶民院議員になれる)ことも可能となった。これは庶民院議員として政界の中枢で活躍してきたのに爵位継承で突然貴族院に移され、政界の中枢から外されるという理不尽を防ぐための処置であった<ref name="田中(2009)235">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.235</ref>。もっとも貴族院議員ではない貴族は、そもそも爵位を放棄しなくても庶民院議員になることが可能であり、1999年の貴族院改革後は大半の世襲貴族がこれに該当している(これ以前は「貴族院議員ではない貴族」に該当するのは[[アイルランド貴族]]だけだった)<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.88-89</ref>。

世襲貴族は創設時に応じて[[イングランド貴族]]、[[スコットランド貴族]]、[[グレートブリテン貴族]]、[[連合王国貴族]]に分かれており<ref name="神戸(2005)100">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.100</ref>、また公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成るが、貴族院での活動においてこれらの区別に重要性はない<ref name="田中(2009)279">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.279</ref>。

世襲貴族創家の権限は現在でも[[国王大権 (イギリス)|女王大権]]に属するものの、立憲主義の慣例に基づいて、首相の助言によるべきと考えられている<ref name="神戸(2005)100"/>。もっとも新世襲貴族創家は、[[1984年]]に[[ハロルド・マクミラン]]が{{仮リンク|ストックトン伯爵|en|Earl of Stockton}}に叙されたのを最後に途絶えており、現在では新規の世襲貴族創設が行われるとは考えにくい<ref name="海保(1999)11">[[#海保(1999)|海保(1999)]] p.11</ref>。

=== 一代貴族 ===
{{main|一代貴族}}
[[一代貴族]](Life Peer)の先例は古くは[[14世紀]]から見られるが<ref name="前田(1976)5">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.5</ref>、現在のイギリスの一代貴族制度は[[1958年]]の{{仮リンク|一代貴族法|en|Life Peerages Act 1958}}に基づくものである。一代貴族は爵位を世襲できないが、終身で貴族院議員となる<ref name="前田(1976)3">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.3</ref>。

1999年の貴族院改革で世襲貴族の議席が大幅に減ったので、現在の貴族院は一代貴族が大多数を占めている<ref name="田中(2009)229">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.229</ref>。

一代貴族は、政府から独立した{{仮リンク|貴族院任命委員会|en|House of Lords Appointments Commission}}の推薦に基づいて首相が女王に助言を行い、女王の勅許状によって叙爵される<ref name="神戸(2005)101">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.101</ref>。政界・官界・軍・司法界などで活躍した者が対象であり、男女問わない<ref name="神戸(2005)101">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.101</ref>。

なお一代貴族には爵位の等級はなく、全員が男爵である<ref name="神戸(2005)101"/>。

=== 法服貴族 ===
イギリスでは中世から2009年まで貴族院が最高裁判所機能を有した。近代になると法曹の貴族院議員が必要との認識が高まり、[[1876年]]に{{仮リンク|1876年上訴管轄権法|label=上訴管轄権法|en|Appellate Jurisdiction Act 1876}}が制定され、[[常任上訴貴族<!-- ループリンク -->|常任上訴法服貴族]](Lords of Appeal in Ordinary)という一代貴族が置かれるようになった<ref name="前田(1976)6-7">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.6-7</ref>。

この貴族は12名まで置くことができる<ref name="田中(2009)279">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.279</ref>。男女不問であり、12人のうち2人はスコットランド高等法院出身者にするのが慣例だった<ref name="神戸(2005)101"/>。爵位は全員男爵である<ref name="神戸(2005)101"/>。

かつて裁判官は終身だったが、後に定年制が設けられた。しかし裁判官としての定年を迎えても貴族院議員としては終身である(任期付きの貴族という概念は[[コモン・ロー]]上ありえない)<ref name="神戸(2005)101"/>。

2009年に[[連合王国最高裁判所]](Supreme Court of the United Kingdom)が新設されたことで、彼らは最高裁判所裁判官に転じて貴族院議員の地位を喪失した<ref name="高野(2010)84/89">[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.84/89</ref>。ただし常任上訴法服貴族が終身の一代貴族であることは変わらないので最高裁判所裁判官を辞職すると貴族院議員の地位が復活する<ref name="古賀(2010)14">[[#古賀(2010)|古賀・奥村・那須(2010)]] p.14</ref>。

=== 聖職貴族 ===
[[File:Justin Welby at Seoul Cathedral.jpg|180px|thumb|現在の[[カンタベリー大主教]][[ジャスティン・ウェルビー]]]]
[[イングランド国教会|国教会]]の高位聖職者である[[カンタベリー大主教]]、{{仮リンク|ヨーク大主教|en|Archbishop of York}}、{{仮リンク|ダラム主教|en|Bishop of Durham}}、{{仮リンク|ロンドン主教|en|Bishop of London}}、{{仮リンク|ウィンチェスター主教|en|Bishop of Winchester}}など26名の上級主教は{{仮リンク|聖職貴族|en|Lords Spiritual}}として貴族院に議席を保有する<ref name="田中(2009)279"/>。

彼らは主教に留まっている間のみ貴族院議員であり、主教を辞すと貴族院議員たる地位も失う。なお主教には70歳の定年が設けられている。その意味では聖職貴族は法的には貴族ではないといえる<ref name="神戸(2005)100">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.100</ref>。

カンタベリー大主教とヨーク大主教は大主教を退いた後に一代貴族に列する例がある<ref name="田中(2009)279"/>。

なお貴族院議員たる国教会聖職者は、庶民院議員資格を持たないが、貴族院議員ではない国教会聖職者は庶民院議員たる資格を有する<ref name="神戸(2005)89">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.89</ref>。
{{-}}

== 貴族院及び貴族院議員の特権・待遇・条件など ==
[[File:House of Lords w Leon.jpg|250px|thumb|貴族院議場にある女王の玉座。<br/><small>[[2013年]][[1月18日]]、訪英中の[[アメリカ合衆国国防長官]][[レオン・パネッタ]]の貴族院見学を案内する{{仮リンク|軍事担当大臣 (イギリス)|label=イギリス軍事担当閣外大臣|en|Minister of State for the Armed Forces}}{{仮リンク|アンドリュー・ロバサン|en|Andrew Robathan}}。</small>]]
歴史的に貴族院は王権と対立することが少なかったので、貴族院議員には議員特権意識は薄いが、院の自律権と貴族固有の権利として以下のような特権を保持している<ref name="神戸(2005)130">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.130</ref>。

*貴族とその従者は不可侵権(不逮捕特権)が認められている。[[1700年]]と[[1703年]]の慣習及び制定法を根拠とする。ただし裁判所の発給した逮捕令状に基づく刑事逮捕に対しては、不可侵権で対抗することはできず、会期中であっても逮捕される(庶民院議員も同様)<ref name="神戸(2005)131">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.131</ref>。
*かつては慣習上の貴族の特権として、一般刑事犯罪のうち、国事犯罪、重罪、不法投獄罪に問われている場合は、裁判所ではなく貴族院で裁かれた。しかし1948年の刑法で貴族も一般裁判所で裁かれることになった<ref name="神戸(2005)131">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.131</ref>。
*貴族院も庶民院も院内における言論の自由を有する。これは[[14世紀]]末以来の慣例であり、[[1689年]]の[[権利の章典|権利章典]]9項において明文化されたことで確固たる物となった<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.124/131</ref>。
*貴族院および貴族全員が、王への拝謁権を有する。庶民院も院全体としては王への拝謁権を有するが(庶民院議長が行使できる)、個々の庶民院議員には拝謁権は認められていない。対して貴族は個々が王への拝謁権が認められている。ただ現代では女王の政治的権力が制限されているため、拝謁権も形骸化している<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.125/131</ref>。
*庶民院と同様に議院として院内の議事を定める権利を有する<ref name="神戸(2005)131"/>。

貴族院議員は現在に至るまで無報酬である。対して庶民院議員は[[1911年]]以降報酬が出されている。貴族院議員や1911年以前の庶民院議員が無報酬であるのは彼らのほとんどが大地主あるいは企業経営者の一族であって、巨額の資産をもっているからである。20世紀以降台頭した[[労働党 (イギリス)|労働党]]の議員はそうではない者が多く、労働組合からの政治献金で生計を立てていたが、労働組合の資金を政治献金に使うことを禁じる貴族院判決が出たことでそれが成り立たなくなり、代わりの救済措置として1911年に庶民院議員のみ報酬が出されるようになった。一方、貴族院議員は一代貴族であってもそれ以前の職業生活の中での蓄えと一般よりはるかに高い年金があるために無報酬でもやっていかれるため、現在でも無報酬となっている<ref>[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.127-128</ref>。

議員となった者(貴族院・庶民院問わず)は最初の議会出席の際に以下の{{仮リンク|忠誠宣誓 (イギリス)|label=忠誠宣誓|en|Oath of Allegiance (United Kingdom)}}を行わなければ、議院に出席し表決に参加することはできない。宣誓は以下のとおりである<ref name="前田(1976)191">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.191</ref>。
{{Quotation|私(氏名)は、[[エリザベス2世|エリザベス女王陛下]]、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを全能の神にかけて誓います。されば神よ、授けたまえ{{#tag:ref|この宣誓は聖書([[キリスト教|キリスト教徒]]は[[新約聖書]]、[[ユダヤ教|ユダヤ教徒]]は[[旧約聖書]])を右手に掲げて持ちながら行う<ref name="前田(1976)192">[[#前田(1976)|前田(1976)]] p.192</ref>。1978年宣誓法により現在では、神に宣誓したくない[[無神論者|無神論者]]などのために「私(氏名)は、[[エリザベス2世|エリザベス女王陛下]]、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを、厳粛に心から真実に宣言し、断言いたします(''I... do solemnly, sincerely and truly declare and affirm that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law.'')。」とする宣誓も認められている。|group=注釈}}。<br/>''I... swear by Almighty God that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law. So help me God.''|{{仮リンク|忠誠宣誓 (イギリス)|label=忠誠宣誓|en|Oath of Allegiance (United Kingdom)}}(1868年宣誓法による)}}

また貴族院議員たる地位を認められない事由として「1. 外国人、2. 二十一歳以下、3. [[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]に問われた者のうち刑の執行か恩赦を受けていない者、4. 不行跡で破産した者(不運で破産した者は問題にされない)、5. 貴族院の決定で追放された者」が定められている<ref name="神戸(2005)102">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.102</ref>。
{{-}}

== 貴族院の意義 ==
[[File:Leon Panetta given tour of the House of Lords (2).jpg|250px|thumb|貴族院議場。<br/><small>2013年1月18日、議長席を指差すアメリカ国防長官レオン・パネッタと案内役のイギリス軍事担当閣外大臣アンドリュー・ロバサン。</small>]]
[[庶民院]](House of Commons) と共に[[イギリス議会]]を構成している([[両院制]])。しかし[[議会制民主主義]]の発展とともに公選制の[[庶民院]]に政治の実権が移り、貴族院はその陰に隠れる存在と化した。とりわけ[[1911年]]と[[1949年]]の[[議会法]]により貴族院は明文で庶民院に劣後するようになった<ref>[[#バー(2004)|バーレント(2004)]] p.116-117</ref>。[[1958年]]には[[一代貴族]]制度が導入され、さらに[[1999年]]には世襲貴族の議席が制限され、一代貴族が大多数となったため、現在では身分制議会というより任命制議会に近くなっている<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.229/298</ref>。

一代貴族制導入後の貴族院は、各分野に高度な専門知識を有する議員を擁している(各分野で活躍した者が一代貴族に任命されるので)<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.234/281-284/302</ref>。また{{仮リンク|クロスベンチャー|label=中立派(クロスベンチャー)|en|Crossbenchers}}と呼ばれる議員たちが相当数いることにより、庶民院よりも政党政治に中立的である<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.239/293</ref>。この「専門性」と「中立性」により、現在でも庶民院の補完者としての貴族院の存在価値は高いと言われている<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.302</ref>。

貴族院の役割として、庶民院が通過させた法案を、専門知識を持つ貴族院議員が精査し、修正することが重視されている。また、下院の優越規定により法案を完全に阻止することはできないが、予算案などをのぞく法案の成立を1年間延期できるので、政府や庶民院、一般市民に再考を促すことができる。貴族院議員は選挙で選ばれないため、国民の支持は多いが憲法上や人権上の問題がある議題について反対しやすい。諸外国では最高裁判所が行う「憲法の番人」の役割を、イギリスでは貴族院が担ってきたともいえる。修正の院としての貴族院の役割は社会に広く認知されており、[[一院制]]移行論は主流をなしていない<ref>[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.229/299</ref>。

「民主的正当性」を重視して第二院も公選制へ移行すべきとする議論はあるが、「専門性」「中立性」を公選制のもとでも保てるのかが問題となる。どのぐらいの割合を公選制とするのか、どのような選挙制度にするのか、庶民院との差別化をどのように行うか、どのように政党化を抑止するのかなどに論点がある<ref name="田中(2009)299">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.299</ref>。
{{-}}
== 貴族院議長 ==
[[File:Northbrook Granville Selbourne Salisbury Vanity Fair 5 July 1882.jpg|Right|thumb|250px|貴族院で演説する保守党貴族院院内総務[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]と自由党席からそれを聞く海軍大臣[[トーマス・ベアリング (初代ノースブルック伯爵)|ノースブルック伯爵]]と外務大臣[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|グランヴィル伯爵]]。議長席に座っているのが[[大法官]](貴族院議長)[[ラウンデル・パーマー (初代セルボーン伯爵)|セルボーン伯爵]]([[1882年]][[7月5日]]の『[[バニティ・フェア (イギリスの雑誌)|バニティ・フェア]]』誌の挿絵)。]]
中世から2009年まで貴族院議長は[[大法官]] (Lord Chancellor) が務めた。大法官は[[605年]]まで遡る事ができると言われる最も歴史ある官職であるため、現在でも臣下の宮中序列では[[カンタベリー大主教]]に次ぐ第2位とされており、首相よりも上位者である<ref name="高野(2010)85">[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.85</ref><ref name="神戸(2005)102-103">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.102-103</ref>。大法官は貴族院において議長と裁判長(貴族院は2009年まで最高裁判所であった)を務めつつ、内閣においては法務大臣的閣僚職を務める。つまり立法権と司法権の頂点に立ち、行政でも要職にあり、また裁判官の任免権も持っていたので[[司法行政]]権能もあった。そのため[[三権分立]]論者からは最大の批判の対象となってきた<ref name="神戸(2005)102-103">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.102-103</ref>。

2005年の{{仮リンク|2005年憲法改革法|label=憲法改革法|en|Constitutional Reform Act 2005}}により大法官は、2009年の連合王国最高裁判所の新設に伴って司法機能を喪失し、また貴族院議長たる地位も失った。この後、{{仮リンク|貴族院議長 (イギリス)|label=貴族院議長|en|Lord Speaker}}(Lord Speaker)は貴族院議員からの互選で選出されることになった<ref name="高野(2010)84">[[#高野(2010)|高野(2010)]] p.84</ref><ref name="神戸(2005)380">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.380</ref>。

貴族院議長は庶民院議長と異なり、院の秩序を保つ権利を有さない(その権利は院全体が有する)<ref name="神戸(2005)103">[[#神戸(2005)|神戸(2005)]] p.103</ref>。
{{-}}
== 貴族院の現況 ==
=== 現在の役職 ===
[[File:Baroness D’Souza of Wychwood (cropped).jpg|180px|thumb|現在の貴族院議長デ・スーザ女男爵{{仮リンク|フランセス・デ・スーザ (デ・スーザ女男爵)|label=フランセス・デ・スーザ|en|Frances D'Souza, Baroness D'Souza}}]]
*{{仮リンク|貴族院議長 (イギリス)|label=貴族院議長|en|Lord Speaker}}:デ・スーザ女男爵{{仮リンク|フランセス・デ・スーザ (デ・スーザ女男爵)|label=フランセス・デ・スーザ|en|Frances D'Souza, Baroness D'Souza}}([[2011年]] - )({{仮リンク|無所属貴族院議員|label=無所属|en|Non-affiliated members of the House of Lords}})<ref name="Baroness D'Souza">{{cite web |url=http://www.parliament.uk/biographies/lords/baroness-d'souza/3709 |title=Baroness D'Souza Biography and Factfile |accessdate=2014年8月25日}}</ref>
*{{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}:ビーストンのストーウェル女男爵{{仮リンク|ティナ・ストーウェル (ビーストンのストーウェル女男爵)|label=ティナ・ストーウェル|en|Tina Stowell, Baroness Stowell of Beeston}}([[2014年]] - )([[保守党 (イギリス)|保守党]])<ref>{{cite web |url=http://www.parliament.uk/biographies/lords/baroness-stowell-of-beeston/4205 |title=Baroness Stowell of Beeston |accessdate=2014年8月25日}}</ref>
*影の内閣貴族院院内総務:ブレスドンのロイオール女男爵{{仮リンク|ジャネット・ロイオール (ロイオール・オブ・ブレスドン女男爵)|label=ジャネット・ロイオール|en|Janet Royall, Baroness Royall of Blaisdon}}([[2010年]] - )([[労働党 (イギリス)|労働党]])<ref>{{cite web |url=http://www.parliament.uk/biographies/lords/baroness-royall-of-blaisdon/3703 |title=Baroness Royall of Blaisdon|accessdate=2014年8月25日}}</ref>
*{{仮リンク|保守党貴族院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Lords 1834–present}}:ビーストンのストーウェル女男爵ティナ・ストーウェル(2014年 -)
*労働党貴族院院内総務:ブレスドンのロイオール女男爵ジャネット・ロイオール(2010年 -)
*{{仮リンク|自由民主党貴族院院内総務|en|Leader of the Liberal Democrats#Liberal Democrat Leaders in the House of Lords}}:タンカーネスのウォレス男爵{{仮リンク|ジム・ウォレス (ウォレス・オブ・タンカーネス男爵)|label=ジム・ウォレス|en|Jim Wallace, Baron Wallace of Tankerness}}(2013年 -)

=== 現在の党派別議席配分 ===
[[2014年]][[8月25日]]現在のイギリス貴族院の党派別議席配分状況は以下の通り<ref name="lords_composition"/>
{|class="wikitable"
|-
!党派名!![[一代貴族]]!!{{仮リンク|世襲貴族 (イギリス)|label=世襲貴族|en|Hereditary peer}}!!{{仮リンク|聖職貴族|en|Lords Spiritual}}!!合計
|-
|style="text-align:center;"|[[保守党 (イギリス)|保守党]] ||style="text-align:center;"| 170 ||style="text-align:center;"| 49 ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| '''219'''
|-
|style="text-align:center;"|[[労働党 (イギリス)|労働党]] ||style="text-align:center;"| 212 ||style="text-align:center;"| 4 ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| '''216'''
|-
|style="text-align:center;"|{{仮リンク|クロスベンチャー|label=中立派|en|Crossbenchers}} ||style="text-align:center;"| 150 ||style="text-align:center;"| 30 ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| '''180'''
|-
|style="text-align:center;"|[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]] ||style="text-align:center;"| 96 ||style="text-align:center;"| 3 ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| '''99'''
|-
|style="text-align:center;"|{{仮リンク|聖職貴族|en|Lords Spiritual}} ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| 26 ||style="text-align:center;"| '''26'''
|-
|style="text-align:center;"| {{仮リンク|無所属貴族院議員|label=無所属|en|Non-affiliated members of the House of Lords}} ||style="text-align:center;"| 20 ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| – ||style="text-align:center;"| '''20'''
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2014年8月31日 (日) 10:12時点における版

イギリスの旗 イギリスの議会
貴族院
House of Lords



貴族院のロゴ(上)
ウェストミンスター宮殿(下)
議会の種類 上院
議長 デ・スーザ女男爵フランセス・デ・スーザ英語版
成立年月日 14世紀前半
任期 終身
定数 無し(2014年8月25日現在、774議席[1]
選挙制度 非公選
議会運営 読会制
公式サイト UK Parliament - House of Lords
テンプレートを表示

貴族院(きぞくいん、英語: House of Lords)は、イギリスの議会を構成する議院で、上院に相当する。

中世にイングランド議会から庶民院が分離したことで成立。貴族によって構成される本院は、公選制の庶民院と異なり、非公選制である。議会法制定以降は立法機関としての権能は庶民院に劣後する。1999年以降は世襲貴族の議席が制限されており、一代貴族が議員の大半を占めている。かつては最高裁判所としての権能も有していたが、2009年連合王国最高裁判所が新設されたことでその権能は喪失した。

貴族院の歴史

貴族院の成立

イングランドのパーラメント(Parliament of England)は、元来イングランド王封建的家臣である直属受封者(貴族)によって構成される諮問会議でしかなかった[3]

しかし12世紀から13世紀にかけて陪審員制度の確立(代議制への萌芽)、地方自治体の発展に伴う封建勢力の後退、騎士や市民などの中流階級の勃興、国王と貴族の対立などが起こり[4]、そのような背景から13世紀にイングランド王はパーラメントに州や都市の代表を加えるようになった。これによってパーラメントは代議制議会の性格を有するようになった[5]

パーラメント(以降議会)が庶民院と貴族院に分離したのは、14世紀前期から中期頃と見られている。州代表の騎士と都市代表の市民が議会から分離して庶民院の実質を形成し、また下級聖職者が議会を去ったことで、議会残存部分(高位聖職者[注釈 1]、伯爵、男爵[注釈 2])が貴族院の実質を持つようになったのである[8][9]

中世には貴族院の方が圧倒的に強く、庶民院はその副次的存在として「請願」する存在に過ぎなかった[10]

議会の中心母体の一つに高級裁判所パーラメントがあったので、議会は当初より司法機能を有したが、その機能も庶民院より貴族院の方が強かった。特に14世紀末に庶民院が弾劾権(国王の大臣を貴族院に告発する権利)を確立するに及んで、司法権は貴族院にあり、庶民院にないことが明確化した。以降貴族院は、庶民院に弾劾された貴族・庶民を裁判する権利、重罪で告発された貴族を裁判する権利、そして下級裁判所の判決を覆すことができる最高裁判所としての権能を有するようになった[11]

初期のイングランド議会における貴族とは、直属受封者のうち、国王から直接に議会招集令状を出され、それによって貴族領と認定された所領を所有する者のことであった。しかし14世紀末頃から国王が勅許状で貴族称号を与えて新貴族創家を行うようになり、それ以降は貴族領の有無に関わりなく、貴族称号を持って議会に議席を有する者が貴族と看做されるようになった[12][13]

テューダー朝期の16世紀初頭までには議会が両院制であることは明確に意識されるようになっており、1502年の公式文書から、貴族院を構成する高位聖職者と爵位保有者を指して「聖職貴族及び世俗貴族(Lords Spiritual and Temporal)」と呼ぶようになった。また貴族院(House of Lords)という呼び方もこの頃から使用されるようになり、1510年から『貴族院日誌(House of Lords journals)』の印刷が開始されている[14][15]

18世紀初頭の貴族院を描いた絵画(ピーター・ティレマンス英語版画、ロイヤル・コレクション

庶民院に対する劣後

15世紀薔薇戦争で封建貴族は大打撃を受け、テューダー朝期には貴族は「王室の藩屏」と化し、その独立性を失っていった。また聖職貴族も宗教改革で発言力を低下させていった。そのため貴族院の力は低下し、代わって庶民院の力が増していった[16][17]

ステュアート朝期の17世紀前期には国王と庶民院の対立が深刻化し、17世紀半ばにピューリタン革命が発生し、王政は廃されて共和政が樹立された。この際に「王室の藩屏」たる貴族院も廃止され、一院制になった[18][注釈 3]。しかしこれは短期間のことであり、1660年には王政復古があり、貴族院も復古している[20]

17世紀後半の名誉革命後には庶民院における信任を背景に政府が成立するという議院内閣制(政党内閣制)が確立された[21]。そのため政治の実権は庶民院が掌握するところとなり、貴族院の影は薄くなっていった。庶民院から支持を得ているが、貴族院で多数を得ていないという政府は、しばしば国王大権[要リンク修正]の貴族創家で貴族院を抑え込むようになった[22][注釈 4]

1707年にイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立すると、スコットランド貴族のうち互選された16人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を置くことになった。また1801年にアイルランドと合同した際にもアイルランド貴族のうち28人が貴族代表議員としてイギリス貴族院に議席を有することになった[24]

1911年議会法案の貴族院通過を描いた絵画

18世紀末頃から大量の叙爵が行われるようになり、貴族院議員数が急増した。その結果、貴族院はこれまでの「比較的少数の国王の世襲的助言者」という立場から「特権階級の既得権擁護機関」と化し始めた。19世紀から20世紀初頭にかけての貴族院は、保守党が政権にある時は協調し、自由党が政権に就くとその改革の妨害にあたることが多かった。その結果、自由党支持層に貴族院改革の機運が高まり、自由党政権期の1911年議会法が制定された。これにより貴族院は財政法案に関する否決・修正権限を失い、またそれ以外の法案についても庶民院において3回可決された場合は否決しても無意味となった(庶民院の優越)[25]。ただしこの段階では貴族院は庶民院で通過された法案を2年も引き延ばすことが可能だった[26]

なお20世紀以降は貴族院議員が首相になることは憲法慣習として避けられるようになった。最後の貴族院議員の首相は1902年7月まで首相を務めた第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルである[27][28]。ただしこの憲法慣習は組閣の大命を下す国王・女王を拘束するものではなく、1963年10月には第14代ヒューム伯爵アレグザンダー・ダグラス=ヒュームが大命を受けている。ただしヒュームは憲法慣習を守るためにただちに爵位を返上して補欠選挙に出馬し、庶民院議員へ鞍替えしている[28][注釈 5]

現代の貴族院改革

1945年に成立した労働党政権は、保守党が多数を占める貴族院が議会法に基づく停止的拒否権を行使することを懸念した。これに対して保守党貴族院院内総務英語版クランボーン子爵(後の第5代ソールズベリー侯爵)ロバート・ガスコイン=セシルは、「庶民院総選挙で明確に公約として掲げられ、有権者の信任を得た法案について、貴族院は否決したり大幅修正してはならない」とするソールズベリー・ドクトリンを表明した[30]

1949年には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された[26]

1958年には保守党首相ハロルド・マクミランにより一代貴族法が制定され、男女問わず一代に限り貴族院議員に登用できるようになった。これにより貴族院の党派議席配分の変更や幅広い人材登用がやりやすくなった[31]。この後、労働党は世襲貴族の新設を行わない旨を宣言し、保守党もそれに倣うと見られていたが、1983年には保守党首相マーガレット・サッチャーが、その慣例を破ってウィリアム・ホワイトローを世襲貴族ホワイトロー子爵に推薦して話題となった[32]

貴族院の一代貴族の占める割合は増加の一途をたどり、貴族院改革前夜の1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)にまで減少していた(対する一代貴族は484名)[33]

1963年貴族法で世襲貴族は世襲事由が生じた時から一年以内であれば自分一代についてのみ爵位を放棄し、平民になるという選択(=貴族院議員にならない)ができるようになった。またそれまで貴族院議員になれなかった女性世襲貴族とスコットランド貴族も貴族院議員に列することになった[31]

1999年にはブレア政権によって貴族院法が制定され、世襲貴族の議席は92議席を残して削除された。以降の貴族院は一代貴族が中心となっている[34]

ブレア政権が2005年に制定した憲法改革法により2009年から連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院は中世以来保持してきた最高裁判所としての権能を失った[35]

2007年3月7日に議会で貴族院の構成に関する自由投票が行われ、庶民院では全員選挙制、および80%選挙・20%任命制の意見が可決されている(貴族院では全員任命制が可決される)[36]。現在のところ、まだ公選制導入の改革は実施されていない。

貴族院の構成

世襲貴族

現在の紋章院総裁の第18代ノーフォーク公爵エドワード・フィッツアラン=ハワード

1999年の貴族院改革以前には世襲貴族全員が貴族院に議席を有していた[注釈 6]。そのため20世紀に爵位が乱発された際には議員数が1000人を超えたこともあった[37]。貴族院は長年にわたって世襲貴族を中心にして構成されてきた(ただし欠席者が多かった[38])。1958年の一代貴族法制定後も1999年まで世襲貴族が多数を占めていた[39]

しかし1999年のトニー・ブレア政権の貴族院改革によって世襲貴族の議席は世襲貴族議員の互選で選ばれた90名(当時の貴族院の党派に応じて案分された75名と院内役職にあった15名)にノーフォーク公爵家が世襲する紋章院総裁チャムリー侯爵家が世襲する大侍従卿を加えた92議席に限定され、大多数の世襲貴族が議席を失った[40][41]。以降、貴族院に議席を持つ世襲貴族は「例外貴族(excepted peers)」と呼ばれている[41]

世襲貴族議員の任期は終身である[41]。世襲貴族議員が死去すると、世襲貴族議員の互選で世襲貴族の中から新しい世襲貴族議員が選出される[41]。かつては女性世襲貴族[注釈 7]は貴族院議員になれなかったが、1963年貴族法で女性世襲貴族にも貴族院議員となる道が開かれた。また同法により世襲貴族は、爵位継承から一年以内であれば自分一代について爵位を放棄し、平民になる(庶民院議員になれる)ことも可能となった。これは庶民院議員として政界の中枢で活躍してきたのに爵位継承で突然貴族院に移され、政界の中枢から外されるという理不尽を防ぐための処置であった[31]。もっとも貴族院議員ではない貴族は、そもそも爵位を放棄しなくても庶民院議員になることが可能であり、1999年の貴族院改革後は大半の世襲貴族がこれに該当している(これ以前は「貴族院議員ではない貴族」に該当するのはアイルランド貴族だけだった)[42]

世襲貴族は創設時に応じてイングランド貴族スコットランド貴族グレートブリテン貴族連合王国貴族に分かれており[38]、また公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級から成るが、貴族院での活動においてこれらの区別に重要性はない[33]

世襲貴族創家の権限は現在でも女王大権に属するものの、立憲主義の慣例に基づいて、首相の助言によるべきと考えられている[38]。もっとも新世襲貴族創家は、1984年ハロルド・マクミランストックトン伯爵に叙されたのを最後に途絶えており、現在では新規の世襲貴族創設が行われるとは考えにくい[32]

一代貴族

一代貴族(Life Peer)の先例は古くは14世紀から見られるが[43]、現在のイギリスの一代貴族制度は1958年一代貴族法に基づくものである。一代貴族は爵位を世襲できないが、終身で貴族院議員となる[44]

1999年の貴族院改革で世襲貴族の議席が大幅に減ったので、現在の貴族院は一代貴族が大多数を占めている[34]

一代貴族は、政府から独立した貴族院任命委員会英語版の推薦に基づいて首相が女王に助言を行い、女王の勅許状によって叙爵される[41]。政界・官界・軍・司法界などで活躍した者が対象であり、男女問わない[41]

なお一代貴族には爵位の等級はなく、全員が男爵である[41]

法服貴族

イギリスでは中世から2009年まで貴族院が最高裁判所機能を有した。近代になると法曹の貴族院議員が必要との認識が高まり、1876年上訴管轄権法が制定され、常任上訴法服貴族(Lords of Appeal in Ordinary)という一代貴族が置かれるようになった[45]

この貴族は12名まで置くことができる[33]。男女不問であり、12人のうち2人はスコットランド高等法院出身者にするのが慣例だった[41]。爵位は全員男爵である[41]

かつて裁判官は終身だったが、後に定年制が設けられた。しかし裁判官としての定年を迎えても貴族院議員としては終身である(任期付きの貴族という概念はコモン・ロー上ありえない)[41]

2009年に連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設されたことで、彼らは最高裁判所裁判官に転じて貴族院議員の地位を喪失した[46]。ただし常任上訴法服貴族が終身の一代貴族であることは変わらないので最高裁判所裁判官を辞職すると貴族院議員の地位が復活する[47]

聖職貴族

現在のカンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビー

国教会の高位聖職者であるカンタベリー大主教ヨーク大主教ダラム主教英語版ロンドン主教英語版ウィンチェスター主教英語版など26名の上級主教は聖職貴族として貴族院に議席を保有する[33]

彼らは主教に留まっている間のみ貴族院議員であり、主教を辞すと貴族院議員たる地位も失う。なお主教には70歳の定年が設けられている。その意味では聖職貴族は法的には貴族ではないといえる[38]

カンタベリー大主教とヨーク大主教は大主教を退いた後に一代貴族に列する例がある[33]

なお貴族院議員たる国教会聖職者は、庶民院議員資格を持たないが、貴族院議員ではない国教会聖職者は庶民院議員たる資格を有する[48]

貴族院及び貴族院議員の特権・待遇・条件など

貴族院議場にある女王の玉座。
2013年1月18日、訪英中のアメリカ合衆国国防長官レオン・パネッタの貴族院見学を案内するイギリス軍事担当閣外大臣英語版アンドリュー・ロバサン英語版

歴史的に貴族院は王権と対立することが少なかったので、貴族院議員には議員特権意識は薄いが、院の自律権と貴族固有の権利として以下のような特権を保持している[49]

  • 貴族とその従者は不可侵権(不逮捕特権)が認められている。1700年1703年の慣習及び制定法を根拠とする。ただし裁判所の発給した逮捕令状に基づく刑事逮捕に対しては、不可侵権で対抗することはできず、会期中であっても逮捕される(庶民院議員も同様)[50]
  • かつては慣習上の貴族の特権として、一般刑事犯罪のうち、国事犯罪、重罪、不法投獄罪に問われている場合は、裁判所ではなく貴族院で裁かれた。しかし1948年の刑法で貴族も一般裁判所で裁かれることになった[50]
  • 貴族院も庶民院も院内における言論の自由を有する。これは14世紀末以来の慣例であり、1689年権利章典9項において明文化されたことで確固たる物となった[51]
  • 貴族院および貴族全員が、王への拝謁権を有する。庶民院も院全体としては王への拝謁権を有するが(庶民院議長が行使できる)、個々の庶民院議員には拝謁権は認められていない。対して貴族は個々が王への拝謁権が認められている。ただ現代では女王の政治的権力が制限されているため、拝謁権も形骸化している[52]
  • 庶民院と同様に議院として院内の議事を定める権利を有する[50]

貴族院議員は現在に至るまで無報酬である。対して庶民院議員は1911年以降報酬が出されている。貴族院議員や1911年以前の庶民院議員が無報酬であるのは彼らのほとんどが大地主あるいは企業経営者の一族であって、巨額の資産をもっているからである。20世紀以降台頭した労働党の議員はそうではない者が多く、労働組合からの政治献金で生計を立てていたが、労働組合の資金を政治献金に使うことを禁じる貴族院判決が出たことでそれが成り立たなくなり、代わりの救済措置として1911年に庶民院議員のみ報酬が出されるようになった。一方、貴族院議員は一代貴族であってもそれ以前の職業生活の中での蓄えと一般よりはるかに高い年金があるために無報酬でもやっていかれるため、現在でも無報酬となっている[53]

議員となった者(貴族院・庶民院問わず)は最初の議会出席の際に以下の忠誠宣誓英語版を行わなければ、議院に出席し表決に参加することはできない。宣誓は以下のとおりである[54]

私(氏名)は、エリザベス女王陛下、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを全能の神にかけて誓います。されば神よ、授けたまえ[注釈 8]
I... swear by Almighty God that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law. So help me God. — 忠誠宣誓英語版(1868年宣誓法による)

また貴族院議員たる地位を認められない事由として「1. 外国人、2. 二十一歳以下、3. 大逆罪に問われた者のうち刑の執行か恩赦を受けていない者、4. 不行跡で破産した者(不運で破産した者は問題にされない)、5. 貴族院の決定で追放された者」が定められている[56]

貴族院の意義

貴族院議場。
2013年1月18日、議長席を指差すアメリカ国防長官レオン・パネッタと案内役のイギリス軍事担当閣外大臣アンドリュー・ロバサン。

庶民院(House of Commons) と共にイギリス議会を構成している(両院制)。しかし議会制民主主義の発展とともに公選制の庶民院に政治の実権が移り、貴族院はその陰に隠れる存在と化した。とりわけ1911年1949年議会法により貴族院は明文で庶民院に劣後するようになった[57]1958年には一代貴族制度が導入され、さらに1999年には世襲貴族の議席が制限され、一代貴族が大多数となったため、現在では身分制議会というより任命制議会に近くなっている[58]

一代貴族制導入後の貴族院は、各分野に高度な専門知識を有する議員を擁している(各分野で活躍した者が一代貴族に任命されるので)[59]。また中立派(クロスベンチャー)と呼ばれる議員たちが相当数いることにより、庶民院よりも政党政治に中立的である[60]。この「専門性」と「中立性」により、現在でも庶民院の補完者としての貴族院の存在価値は高いと言われている[61]

貴族院の役割として、庶民院が通過させた法案を、専門知識を持つ貴族院議員が精査し、修正することが重視されている。また、下院の優越規定により法案を完全に阻止することはできないが、予算案などをのぞく法案の成立を1年間延期できるので、政府や庶民院、一般市民に再考を促すことができる。貴族院議員は選挙で選ばれないため、国民の支持は多いが憲法上や人権上の問題がある議題について反対しやすい。諸外国では最高裁判所が行う「憲法の番人」の役割を、イギリスでは貴族院が担ってきたともいえる。修正の院としての貴族院の役割は社会に広く認知されており、一院制移行論は主流をなしていない[62]

「民主的正当性」を重視して第二院も公選制へ移行すべきとする議論はあるが、「専門性」「中立性」を公選制のもとでも保てるのかが問題となる。どのぐらいの割合を公選制とするのか、どのような選挙制度にするのか、庶民院との差別化をどのように行うか、どのように政党化を抑止するのかなどに論点がある[63]

貴族院議長

貴族院で演説する保守党貴族院院内総務ソールズベリー侯爵と自由党席からそれを聞く海軍大臣ノースブルック伯爵と外務大臣グランヴィル伯爵。議長席に座っているのが大法官(貴族院議長)セルボーン伯爵1882年7月5日の『バニティ・フェア』誌の挿絵)。

中世から2009年まで貴族院議長は大法官 (Lord Chancellor) が務めた。大法官は605年まで遡る事ができると言われる最も歴史ある官職であるため、現在でも臣下の宮中序列ではカンタベリー大主教に次ぐ第2位とされており、首相よりも上位者である[64][65]。大法官は貴族院において議長と裁判長(貴族院は2009年まで最高裁判所であった)を務めつつ、内閣においては法務大臣的閣僚職を務める。つまり立法権と司法権の頂点に立ち、行政でも要職にあり、また裁判官の任免権も持っていたので司法行政権能もあった。そのため三権分立論者からは最大の批判の対象となってきた[65]

2005年の憲法改革法により大法官は、2009年の連合王国最高裁判所の新設に伴って司法機能を喪失し、また貴族院議長たる地位も失った。この後、貴族院議長(Lord Speaker)は貴族院議員からの互選で選出されることになった[66][67]

貴族院議長は庶民院議長と異なり、院の秩序を保つ権利を有さない(その権利は院全体が有する)[68]

貴族院の現況

現在の役職

現在の貴族院議長デ・スーザ女男爵フランセス・デ・スーザ英語版

現在の党派別議席配分

2014年8月25日現在のイギリス貴族院の党派別議席配分状況は以下の通り[1]

党派名 一代貴族 世襲貴族 聖職貴族 合計
保守党 170 49 219
労働党 212 4 216
中立派 150 30 180
自由民主党 96 3 99
聖職貴族 26 26
無所属英語版 20 20
諸派 13 1 14
合計 661 87 26 774

脚注

注釈

  1. ^ 下級聖職者は俗事目的の議会を嫌って去ったが、高位聖職者は男爵領所有者(直属受封者)でもあったため、そちらの立場を優先して議会に残り、異階級の男爵と融合していったのである[6]
  2. ^ 当初、貴族身分はごく少数の伯爵(Earl)と大多数の男爵(Baron)だけだった。Baronはもともと称号ではなく直属受封者を意味していた。一方Earlは特定の州に特権的支配権を持つ者の称号であった。しかし大陸から輸入された三爵位が加わり、新貴族創設が国王の勅許状のみによるようになってから、男爵も称号化し、公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、伯爵(Earl)、子爵(Viscount)、男爵(Baron)の5等級の貴族称号の階級が確立された[7]
  3. ^ ただし1656年には護国卿トマス・クロムウェルによって護国卿が任命した者から構成される「第二院」が創設されており、共和政期ずっと一院制だったわけではない[19]
  4. ^ たとえば、1712年ユトレヒト条約批准をめぐって当時のトーリー党政権は、ホイッグ党が多数を占める貴族院で否決される事を憂慮して、アン女王の大権で12家の貴族創家を行い、トーリー党の貴族院多数状態を強引に作り出した[23]
  5. ^ 20世紀以降は首相以外の主要閣僚についても貴族院議員の就任を避ける傾向があるが、外務大臣は他の主要閣僚と比べると貴族院議員が就任する例がやや多めである(初代ハリファックス伯爵エドワード・ウッド、第14代ヒューム伯爵アレグザンダー・ダグラス=ヒューム、第6代キャリントン男爵ピーター・キャリントン)。貴族院議員が外務大臣を務めている時は庶民院における外交問題の対応は首相が行う[29]
  6. ^ ただしアイルランド貴族スコットランド貴族貴族代表議員のみだった。スコットランド貴族は1963年貴族法で全員貴族院議員に列している[31]
  7. ^ 世襲貴族の爵位の継承方法はその爵位の勅許状で決められており、特例で女系継承が認められている場合もある[38]
  8. ^ この宣誓は聖書(キリスト教徒新約聖書ユダヤ教徒旧約聖書)を右手に掲げて持ちながら行う[55]。1978年宣誓法により現在では、神に宣誓したくない無神論者などのために「私(氏名)は、エリザベス女王陛下、法の定めるその相続人及び承継者に対し、誠実であり、かつ真の忠順を保持することを、厳粛に心から真実に宣言し、断言いたします(I... do solemnly, sincerely and truly declare and affirm that I will be faithful and bear true allegiance to Her Majesty Queen Elizabeth, her heirs and successors, according to law.)。」とする宣誓も認められている。

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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