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'''ウィリアム・ジェファーソン・ビル・クリントン'''('''William Jefferson "Bill" Clinton'''、[[1946年]][[8月19日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]。第42代大統領(1993年-2001年)。愛称は'''ババ'''(Bubba、南部英語で「兄弟」)。身長185cm。[[左利き]]


==略歴==
==略歴==

2013年6月5日 (水) 15:32時点における版

ビル・クリントン
Bill Clinton


任期 1993年1月20日2001年1月20日
あり アル・ゴア

アーカンソー州
第40・42代 州知事
任期 1979年1月9日1981年1月19日
任期 1983年1月11日1992年12月12日

アーカンソー州
第50代 司法長官
任期 1977年1月3日 – 1979年1月9日

出生 (1946-08-19) 1946年8月19日(77歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
アーカンソー州ホープ
政党 民主党
配偶者 ヒラリー・ローダム・クリントン
署名

ウィリアム・ジェファーソン・“ビル”・クリントンWilliam Jefferson "Bill" Clinton1946年8月19日 - )は、アメリカ合衆国政治家。第42代大統領(1993年-2001年)。愛称はババ(Bubba、南部英語で「兄弟」)。身長185cm。左利き

略歴

生い立ちから弁護士時代

ファイル:William Jefferson Blythe 1950.jpg
幼少時代のビル・クリントン(1950年)

1946年8月19日アーカンソー州ホープ市生まれ。ビルが生まれる約3ヵ月前に自動車事故で死去した父ウィリアム・ジェファソン・ブライス・ジュニアにちなんでウィリアム・ジェファソン・ブライス三世と名づけられた。ビルが生まれた後、母のヴァージニア・キャシディ・ブライスは、看護師の勉強のためニューオーリンズへと移り、ビルは4歳になるまでホープにある母方の祖父母のもとで育つ。1950年ニューオーリンズから戻った母が、自動車販売店を営む ロジャー・クリントンと再婚し、義父、母と3人で暮らし始めた。1953年一家は同州ホットスプリングスへ移り住む。義父は強度のアルコール中毒であり、自宅内で頻繁に暴力を振るった。ビルが小学生の頃、酒に酔った義父が発砲した弾丸がビルの耳元をかすめる事件がおきるなど不遇の少年時代であった。1956年には異父弟のロジャー・キャシディ・クリントンが誕生。その後ビルは自ら姓をクリントンへ正式に改めている。

高校在学中の1963年の夏、ボーイズ・ステイトで選出されたアーカンソー州上院議員としてボーイズ・ネイションに参加、ホワイトハウスに招かれてケネディ大統領と握手する機会を得た。1964年ジョージタウン大学外交学部に入学、在学中フルブライト上院議員のもと外交委員会で働いた。大学4年生の時義父が死去している。1968年同大学を卒業、22歳の時にホワイトハウス実習生になる。フルブライト議員の選挙運動に参加した後、ローズ奨学生としてオックスフォード大学へ2年間留学。英国ではしばしばベトナム反戦運動に参加していた。帰国後イェール・ロー・スクールに入学。在学中にヒラリー・ローダムと出会う。1972年の大統領選ではジョージ・マクガバン民主党候補の選挙運動に参加。1973年法務博士号(ジュリス・ドクター、J.D.)を取得し卒業。その後、アーカンソー大学フェイエットビル校ロースクールで教鞭を取った。

政治家・大統領職

第2期の大統領就任式に出席するため、妻のヒラリー、娘のチェルシーらと共に行進するクリントン(1997年1月20日)

1974年の中間選挙でアーカンソー州選出の下院議員に出馬するが落選。1975年ヒラリー・ローダムと結婚。1977年のアーカンソー州司法長官に選出された。また同年の大統領選では民主党候補のジミー・カーターの選挙運動に参加した。

1978年に32歳でアーカンソー州知事に初当選、同州の教育水準の向上や道路の整備などに取り組んだ。1980年娘のチェルシーが生まれる。同年の春、カーター大統領が他州に収容されていたキューバ人難民をアーカンソー州に移すのをクリントン知事が容認したため、一部から批判された。道路整備の財源確保のための自動車登録料の値上げやキューバ人難民の問題などが原因で、再選をかけた同年の知事選に敗れた(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)。次の1982年の知事選では当選してカムバックを果たした。以後1984年86年90年と連続当選を果たした。アーカンソー州知事時代には南部成長政策理事会理事長、全米知事協会副会長、全米知事協会会長、全州教育委員会委員長を歴任。

大統領選挙戦では、前大統領のネガティブ・キャンペーンに敗れたマイケル・デュカキスの選挙スタッフを重用し、守りを固めた。1992年の大統領選挙で当選し、翌1993年アメリカ合衆国大統領に就任。第二次世界大戦後のベビーブーム世代初の大統領。1996年アメリカ合衆国大統領選挙で再選を果たし、大統領の職を2期8年間にわたり務めた。永年の平和活動への貢献に対しガンディー平和賞が与えられているが、この賞の創設者が逮捕・起訴されたため後に返上している。日本では1992年の大統領選挙の際、CMでジョン・F・ケネディ元大統領と握手をするシーンがたびたび放送された。

政策

内政

一般教書演説、1997年、上段左はアル・ゴア上院議長(副大統領)、右はニュート・ギングリッチ下院議長

大統領選挙では中道や保守派からその左派的色彩を批判され、徐々に中道よりへの修正を図った。1994年の中間選挙以後は政策の一貫性のなさがしばしば批判の対象にされる。中道で時によってはリベラルなスタンスを打ち出すポピュリストとも呼ばれる。急進リベラルからは歴代の民主党政権の中では最も保守的とされたが、一方で保守派からは「社会主義者」と呼ばれる。

ジョージ・H・W・ブッシュ大統領を、大統領選挙で「It's the economy, stupid! (経済こそが問題なのだ、愚か者!)」と揶揄したように経済最優先を掲げたクリントン政権はその当初から経済政策に力を入れる。アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、第二次世界大戦後としては2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成した。また1994年のギングリッチ率いる共和党が上下院を奪還すると、共和党のお株を奪うべく、財政赤字削減に動き出す。アラン・グリーンスパンFRB議長の助言の下に、均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。これらの経済政策は、ロナルド・レーガン政権で行われたレーガノミックスに対し、クリントノミックスと呼ばれる。

教育を重視し、学校へのPC導入など、IT教育を推進した。その他、就学前児童の早期教育プログラムの拡大、移民の英語教育の充実を図った。後期には「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。また、アル・ゴアの提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成と、IT化による生産性向上(ニューエコノミー)を押し進めた。

税制では、レーガノミックスで引き下げられた高額所得者の所得税率を引き上げた。また、『忘れ去られた中間層』というキャッチフレーズの下、中間層の減税を実施し貧困層をターゲットにした民主党の方針を大幅に転換した。妻のヒラリーが提案した医療保険制度改革を試みたが、民間保険会社や企業などからの法案反対活動でこの国民皆保険制度は成立させることは出来なかった[1]

外交

1998年11月19日東京都での晩餐会にて内閣総理大臣小渕恵三(右)と
パレスチナ自治協定、1993年
1998年11月18日ロシア連邦大統領ボリス・エリツィン
1999年6月17日フランス共和国大統領ジャック・シラク
ヨハネ・パウロ2世と、1993年

ブッシュ政権が国内問題・経済問題を軽視していると批判し、ホワイトハウスに上り詰めたクリントンだったが、その公約の通り外交は不得意分野だった。彼の政治キャリアはアーカンソーの地方政治に限定されており、また彼が頼りにすべき民主党も外交に関する人材は不足していた。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされている。政権の後期には外交に力を入れ、中東和平や朝鮮半島問題などに尽力したが、さしたる成果のないまま時間切れに終った。

南北アメリカ

北米地域では、アメリカ合衆国、メキシコカナダが自由貿易圏をつくり、関税障壁をなくすというNAFTA(北米自由貿易協定)に調印した(1994年1月1日発効)。

アジア太平洋

経済関係においては、歴代政権と違い親中国の傾向が強く、今後の主要な貿易相手国としての重要性を認める一方、日本などの同盟国には貿易問題などで厳しい態度を取った。1998年の中国訪問時には、江沢民総書記(当時)との会談で「台湾の独立不支持、二つの中国及び一中一台の不支持、台湾の国連等国際機関への加盟不支持」を表明した。この訪中の際には日本に立ち寄ることなく帰国したことで、日本からは「ジャパン・パッシング」(日本無視政策)と非難され、日本の政財界に、民主党政権に対する不信感を植え付けることになった。

またロイド・ベンツェン財務長官の主導により円高政策を強力に推し進め、日本の輸出産業に円高不況と呼ばれる程の深刻な打撃を与えることになった。日本政府に対しては減税や銀行への公的資金の投入、スーパー301条に基づいた市場開放を高圧的に内政干渉にも近い形で要求した。アメリカ政府による日本政府への「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」、所謂年次改革要望書もクリントン政権からである。

しかし政権の後半にかけては対日関係の修復に動き、とりわけ日米の安全保障問題に関して、概ね伝統的な日米関係を基軸としながら、その深化を図った。1995年に策定された、ジョセフ・ナイ国防次官補らによるいわゆる「ナイ・イニシアティヴ」に基づき冷戦後におけるアジア太平洋への関与を再定義、日米同盟をその機軸と位置づけた。1996年には日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)を策定、冷戦後における日米同盟の新たな定義付けを行い、今日に至る日米協力の基礎を敷いた。

また、北朝鮮との間で核兵器の開発放棄と引き換えにKEDOを発足させたが、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。政権末期には駆け込み的に国交正常化を急ぎ、国務長官の訪朝にまで至ったが、目的は果たせないまま共和党政権にバトンタッチし、北朝鮮政策は転換された。なお、1994年には、1975年4月のベトナム戦争終結後より19年間におよんだ、ベトナムに対する貿易禁止の撤廃を発表した。

中東

中東地域では、湾岸戦争後に中東和平に尽力したブッシュ前大統領の貢献もあり和平の機運が高まる中、ノルウェーの仲介により、いわゆるオスロ合意が締結され、クリントンはその立会人となった。また1994年のイスラエル・ヨルダン平和条約を後押しした。

しかしパレスチナ暫定自治政府が成立すると、イスラエル・パレスチナ双方で強硬派がオスロ合意に反対し、ラビン首相が暗殺されると、和平継続反対派のベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出され和平は頓挫した。1999年エフッド・バラクがイスラエルの首相になると、和平交渉は再開された。しかし2000年3月イスラエルとシリアの和平交渉を仲介するも失敗に終わる。そして7月、キャンプデービットにバラク首相とアラファト議長を招いて中東和平交渉を仲介するも、聖地・エルサレムの帰属権などをめぐり両者が対立。クリントンとしては、残り半年の任期中に交渉を結実させようと15日間に及び徹夜で両者を説得したが、バラク、アラファト双方の溝は最後まで埋まらず、中東和平交渉は決裂した。その後、9月にパレスチナ自治区にて第2次インティファーダ(民衆蜂起)が起こり情勢が悪化する。2001年2月に、対パレスチナ強硬派のアリエル・シャロンが首相になり、パレスチナ暫定自治政府にたいして武力攻撃を行い、再びオスロ合意は頓挫した。

またクリントンはブッシュ親子同様にサダム・フセインを敵視しており、国連安保理の承認を得ないまま、1998年には米英軍により、イラクの首都バグダットなどの軍事施設に対する巡航ミサイル「トマホーク」などを使った大規模な空爆を開始し、砂漠の狐作戦を行った。

ヨーロッパ

英国首相トニー・ブレア

ヨーロッパ地域では、ロシアとの融和や西欧諸国の協調などをベースに行動し、旧ユーゴスラヴィアで発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の和平調停に乗り出して、和平協定締結に成功した。だが、コソボ紛争に対するNATO軍単独での武力介入(1999年)は、ロシアや中華人民共和国との協調関係に亀裂を生じさせた。また、このユーゴ空爆は、「人道のためには国連決議無しで武力行使しても良い」とする「前例」を産み出した。ただし、介入それ自体は未だに賛否両論である。

アフリカ

アフリカ地域では、1993年に、国連の多国籍軍の一員としてソマリア内戦に介入した。これは、人道目的による武力行使(「人道的介入」)の最初の例である。これにより、一時的に援助物資の輸送路が確保され、1日平均の餓死者を1/3以下に激減させる効果を上げた。だが、モガディシュの戦闘では多数の死傷者を出したため、世論の反発から、アメリカ軍ソマリアから撤退することとなった。そして結局、アメリカ軍主導であった国連ソマリア活動そのものも失敗に終わった。この事件は、アメリカが国連平和維持活動に消極的となった一因とされる。その結果、ルワンダ虐殺などの非人道的行為に関してクリントン政権は傍観したと批判されるようになった。

また、1998年には、アルカーイダの関与したアメリカ大使館爆破事件への報復を名目として、アフガニスタンとともにスーダンミサイル攻撃した。この際、スーダンの医薬品の5割以上を供給していた工場が、「化学兵器工場」であるとして破壊された。

その他

他には、政権末期において、レームダックから来る政治的空白から、世界貿易機関(WTO)シアトル会議を決裂させたなどの点が一部で指摘されている。

また、退任直前に176人の服役囚に対し恩赦を実施(特赦140人、減刑36人)したが、この中に脱税などの容疑がかけられ逮捕直前に国外逃亡していた実業家マーク・リッチなどが含まれていたため批判の対象になっている[2]

閣僚

職名 氏名 任期
大統領 ビル・クリントン 1993 - 2001
副大統領 アル・ゴア 1993 - 2001
国務長官 ウォーレン・クリストファー 1993 - 1997
マデレーン・オルブライト 1997 - 2001
財務長官 ロイド・ベンツェン 1993 - 1994
ロバート・ルービン 1995 - 1999
ローレンス・サマーズ 1999 - 2001
国防長官 レス・アスピン 1993 - 1994
ウィリアム・J・ペリー 1994 - 1997
ウィリアム・コーエン 1997 - 2001
司法長官 ジャネット・レノ 1993 - 2001
内務長官 ブルース・バビット 1993 - 2001
農務長官 マイク・エスピー 1993 - 1994
ダニエル・R・グリックマン 1994 - 2001
商務長官 ロナルド・H・ブラウン 1993 - 1996[3]
ミッキー・カンター 1996 - 1997
ウィリアム・M・ダレー 1997 - 2000
ノーマン・ミネタ 2000 - 2001
労働長官 ロバート・B・ライシュ 1993 - 1997
アレクシス・M・ハーマン 1997 - 2001
保健福祉長官 ドナ・E・シャララ 1993 - 2001
教育長官 リチャード・ウィルソン・ライリー 1993 - 2001
住宅都市開発長官 ヘンリー・G・シスネロス 1993 - 1997
アンドリュー・クオモ 1997 - 2001
運輸長官 フェデリコ・F・ペーニャ 1993 - 1997
ロドニー・E・スレーター 1997 - 2001
エネルギー長官 ヘイゼル・オレリー 1993 - 1997
フェデリコ・F・ペーニャ 1997 - 1998
ビル・リチャードソン 1998 - 2001
退役軍人長官 ジェッセ・ブラウン 1993 - 1997
トーゴー・D・ウェスト・ジュニア 1998 - 2000
ハーシェル・W・ゴッバー (act.) 2000 - 2001


スキャンダル

クリントンには1992年の大統領選挙から多くの疑惑やスキャンダルが存在していた。

  • ホワイト・ウォーター疑惑 - アーカンソー州知事時代、知人と不動産開発会社「ホワイトウォーター」を共同経営、不正土地取引や不正融資を行った疑惑。「ウォーターゲート事件以来の大統領不正疑惑」と騒がれたが、結局確かな証拠は見つからなかった。ちなみに後述のモニカ事件で有名になったケネス・スター独立検察官は、このホワイトウォーター疑惑の追及の中心人物である。
  • トラベルゲート - 知人の旅行業者をホワイトハウスの旅行事務所の責任者にするため、ヒラリーが「不正な経理が行われている」という理由でホワイトハウス旅行事務所の全員を解雇した。このため、解雇した元事務員らから告訴されている。
  • ファイルゲート - FBIが持つ共和党の要人の個人情報を不正に入手し、政治的攻撃に利用していた疑い。これもヒラリーが中心人物と見なされている。
  • 大統領次席法律顧問の自殺 - 次席法律顧問のヴィンセント・フォスターが、公園で口にくわえたピストルを発射させて自殺した。フォスターはホワイトウォーター疑惑やトラベルゲートについて、最も真相に近い人間とされていた。ちなみにフォスターはかつてヒラリーと同じ法律事務所にいて、彼女の愛人とも言われていた。
  • ベトナム徴兵忌避疑惑 - ベトナム戦争時、英オックスフォード大学に留学しており、召集令状をかけられたのにも関わらず徴兵忌避した疑惑。その後、1973年に徴兵制が廃止された後に軍役が「抽選制」になり、クリントンがこの抽選に応募したところ、順位が非常に低く徴兵されなかった。

また、クリントンは大統領就任以前から多くの女性と交際があり、これは大統領選挙の最中から政敵の攻撃材料にされていた。

1998年にはモニカ・ルインスキー事件が発覚。当初は肉体関係を否定していたものの、「ルインスキーさんと不適切な関係を持った」(I did have a relationship with Ms. Lewinsky that was not appropriate.) と告白せざるを得ない状況に追い込まれ、「不適切な関係(relationship that was not appropriate.)」は同年の流行語となった。大統領の「品格」を問われる事態に世論から批判が沸き起こり、アメリカ大統領としては第17代のアンドリュー・ジョンソン以来の弾劾裁判にかけられた。下院による訴追後行われた上院での弾劾裁判では、50:50、45:55と有罪評決に必要な2/3には達せず、かろうじて大統領辞任は免れた。

ヒラリーの寛大な援護と民主党の根強い支持によって、これを乗り切ったがクリントン政権は、このルインスキー事件の進展にタイミングを合わせるかのようにアフガニスタンやスーダンへの爆撃を行い「スキャンダルから目をそらさせるための爆撃」だと批判された。しかし9.11テロ後になってこれがアルカイダに対する先制攻撃だったことが明らかになり、今日では再評価がされるようになった。

とはいえ、このスキャンダルが2000年アメリカ合衆国大統領選挙に与えた影響は大きく、自身の政権で副大統領を務めたアル・ゴアが敗北する一因ともなった。

大統領退任後

大統領退任後は退任直前に上院議員となったヒラリーの選挙区であるニューヨーク市のハーレムにオフィスを構え、世界中で講演会活動などを行っている。

なお、クリントン政権のスタッフは、ブッシュ前大統領からホワイトハウスを引き渡された際に、コンピュータハードディスクを全て取り外されるといういやがらせを受けており、その息子であるジョージ・W・ブッシュのスタッフと交代するときに、キーボードから“W”のキーだけを抜き取るという意趣返しをした。

2003年にはケント・ナガノ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団プロコフィエフ「ピーターと狼」のCDでミハイル・ゴルバチョフソ連大統領らとともに朗読を担当し(正確にはカップリングされているフランスの作曲家、ジャン=パスカル・バンテュスの「狼のたどる道」の朗読を担当)、グラミー賞の最優秀児童向け朗読アルバム賞を受賞した。

2004年6月には先述のモニカ・ルインスキーとの不倫事件のことなども綴った回顧録『マイ・ライフ』を出版。発売日には一部の書店に行列が出来るほどの売れ行きを示した。

同年9月に体調不良を訴え、冠状動脈の異常が見つかり、バイパス手術を受けている。

現在では、「平和と好景気の時代の大統領」として記憶されており、その人気は非常に高い。2004年7月にボストン市で行なわれた民主党全国大会の演説で登壇した際には、満場の拍手と喝采で迎えられた。2012年7月にギャラップが行った世論調査では、彼に好感を持っていると答えた人は回答者の66%に上り、共和党の支持者でも50%が好ましいと答えている[4]

ウィリアム・J・クリントン大統領センター

2004年11月18日には、地元アーカンソー州のリトルロックに「ウィリアム・J・クリントン大統領センター(大統領図書館)」がオープン。

2007年1月、妻であるヒラリーが2008年の大統領選挙への出馬を正式に表明した。民主党の候補者指名獲得に向けて、前大統領という抜群の知名度と人気を最大限に利用し、ヒラリーの選挙運動を支援した。時には対立候補のバラク・オバマを非難するコメントを出すこともあったがオバマが民主党の候補者となると徐々に協力する姿勢を明らかにし、オバマがヒラリーを国務長官に指名する際には自らの財団が外国政府から受けた寄付の状況などを公表している。

2009年5月、国連よりハイチ担当特別大使に任命された。ハイチは2008年、ハリケーンで甚大な被害を受けており、西半球の最貧国でもある。

2009年8月、平壌を訪問し北朝鮮当局に拘束されている米女性記者2人の解放に向けて交渉し、合意に達した。米大統領経験者の訪朝は1994年6月に故金日成主席と会談したカーター以来、2人目。

2010年2月11日、胸に違和感を訴え、ニューヨーク市内の病院で、冠動脈の狭窄(きょうさく)部を広げる手術を受けた。経過は良好で、2月12日朝に退院した。2月15日からは、ハイチ地震の復興支援活動を続けた。

人物

人物像

クリントンは多くのアレルギーを持った人物であり、大領領就任中はホワイトハウスで猫を飼っていたが、猫アレルギーであった。このほかにも牛乳、チーズ、豚肉、植物等々にアレルギー反応がでてしまったといわれている。特に、植物アレルギーは重度のものでホワイトハウスでは芝の花粉に悩まされており、花粉の飛ぶ季節は居住部の窓は締め切り、刈り取り時には外出する等の対策を講じていた[5]

立場

民主党では相対的にやや右寄りに位置するが、これは党内のスタンスであって、あくまで彼自身は中道左派サミットに参加していることなどから第三の道に共感している中道左派である。

語録

  • "It's the economy, stupid!"「経済こそが問題なのだ、愚か者!」(1992年大統領選挙の際のスローガン)
  • "When I was in England I experimented with marijuana a time or two, and I didn't like it. I didn't inhale."「イギリスにいたとき、マリファナを1回か2回試してみた。でも、好きじゃなかった。吸い込まなかったんだ。」(最初の大統領選で、マリファナ吸引疑惑をかけられた時)
  • "I was opposed to the war but I love my country."「私はベトナム戦争には反対だが、自分の国を愛している。」(ベトナム戦争徴兵忌避疑惑を問われて)
  • "I did have a relationship with Ms Lewinsky that was not appropriate. In fact, it was wrong. It constituted a critical lapse in judgment and a personal failure on my part for which I am solely and completely responsible."「私はルインスキーさんと、適切でない関係を持った。実際、それは間違ったことだった。重大な判断の誤りであり、私一人が完全に責任を負うべき個人的な失敗である。」(1998年8月、モニカとの関係を認める釈明スピーチで)
  • 「この島(沖縄)での我々の足跡を減らしていくためにできるだけのことをしていく。『良き隣人』であるための責任を真剣に受け止めている」(2000年7月21日、サミットに出席するため沖縄に来たとき、平和の礎で演説)
  • 「我々は、紛争よりも協力関係のほうが有効だと証明するために生きている。」(2012年 CGI年次会議の開会式にて)

脚注

  1. ^ オバマの医療改革の行方(富士通総研2009年3月2日)2012年5月31日
  2. ^ クリントンがハーレムにお引越し 恩赦疑惑はどうなった?WORLD NEWS cafe、2001年3月2日
  3. ^ 在職中、1996年4月3日に発生したアメリカ空軍IFO-21便墜落事故で逝去。
  4. ^ クリントン元大統領の人気、就任当初並みの高さに 米(CNN 2012年7月31日
  5. ^ マイケル・ユー「ホワイトハウスの職人たち」新潮社 2006 p.177より出典

関連項目

外部リンク


公職
先代
ジョージ・H・W・ブッシュ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国大統領
第42代:1993 - 2001
次代
ジョージ・W・ブッシュ
先代
フランク・W・ホワイト (en)
アーカンソー州知事
第40代:1983 - 1992
次代
ジム・タッカー (en)
先代
ジョー・パーセル (en)
(代行)
アーカンソー州知事
第42代:1979 - 1981
次代
フランク・W・ホワイト (en)
先代
ジム・タッカー (en)
アーカンソー州司法長官
第50代:1977 - 1979
次代
スティーブ・クラーク
先代
アンドリュー・ラマー・アレクサンダー
テネシー州
全米知事協会会長
1986 - 1987
次代
ジョン・スヌヌ (en)
ニューハンプシャー州
外交職
先代
ジャック・シラク
フランス
先進国首脳会議議長
1997年
次代
トニー・ブレア
イギリス
党職
先代
マイケル・デュカキス
民主党大統領候補者
19921996
次代
アル・ゴア
先代
デービッド・プライアー (en)
民主党アーカンソー州知事候補者
1978、1980、1982、1984、1986、1990
次代
ジム・タッカー (en)
先代
サム・ナン (en)
民主党指導者会議議長
1990 - 1991
次代
ジョン・ブロー (en)

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