根津権現

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根津権現(ねづごんげん)は、江戸根津(現在の東京都文京区根津)にて神仏習合の様式で祀られたスサノオであり、十一面観音菩薩本地仏とする。相殿に祀られた山王権現八幡神と合わせて、根津三所権現とも呼ばれた。神仏分離廃仏毀釈が行われる以前は、根津権現社(現在の根津神社)で祀られた。

概要[編集]

「根津志」によれば、「抑根津大権現往古勧請の年歴を知らず。駒込惣鎮守ニて千駄木村に鎮座し給ふ。神躰は素盞烏尊本地十一面観世音菩薩、 相殿二社山王大権現本地薬師如来、八幡宮本地阿弥陀如来、是を根津三所大権現と申奉る。中頃太田道灌入道持資の再興ともいふ。」と記されている。本殿のスサノオ(素盞烏尊)とともに、山王権現(山王大権現)と八幡神(八幡大菩薩)を相殿に祀った。

江戸時代になると、天台宗の医王山正運寺昌泉院が神宮寺(別当)を務め[1]、根津大権現の社は山王神道の権現社となった。

甲府徳川家徳川綱重(甲府宰相)の江戸根津屋敷で生まれた六代将軍徳川家宣にとって、根津権現は産土神となった。そのため、家宣が将軍世嗣に定まると、宝永3年(1706年)五代将軍徳川綱吉は、根津権現社を千駄木村から、徳川綱重の江戸根津屋敷跡に遷座し、現在は根津神社となっている権現造の社殿を奉建した[2]。諸大名を動員した建設工事だったので、社殿造営は天下普請と言われた。

徳川家宣とその実子の家継が各々六代・七代将軍として在職した時代には、徳川将軍家の崇敬を集めた。特に、正徳4年(1714年9月21日に実施された例祭では、江戸城内に神輿が入ることを許されたため、天下祭の一つに挙げられた[2]。やがて、紀州徳川家出身の八代将軍徳川吉宗の代になると、享保の改革とともに、例祭は公営から民営に切り換えられため、地味なものになった。

垂迹神(旧称) 本地
根津三所権現 素盞烏尊 十一面観音菩薩
山王大権現 薬師如来
八幡大菩薩 阿弥陀如来

神仏分離[編集]

明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、山王神道に基づく根津大権現は廃された。当時の国家神道に基づいて、本殿にはスサノオ、大山咋神八幡神を、相殿にオオナムチ菅原道真を祀る根津神社に強制的に改組された。

その他[編集]

江戸名所記寛文2年/1662年刊)には、根津権現は不寝(ねず)権現であり、諸神の寝ずの番衆であろうと記された。

脚注[編集]

  1. ^ 文京区神社誌
  2. ^ a b 根津神社|ご由緒