尾崎放哉
尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。『層雲』の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。鳥取県鳥取市出身。大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。
種田山頭火と並ぶ自由律俳句の雄。活動の場を荻原井泉水の主宰する「層雲」に求め、僧形に身をやつして、貧窮のうちに病没した点でも共通している。
一高俳句会に属し、東大では「日本俳句」や「国民新聞」に投句していたが、いずれも定型律で、自由律への移行は後年。エリートコースから脱落し、敗残の身を小豆島に落ち着かせた以後の作品には、一層の深みと象徴性が加わっている。
概略[編集]
東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に就職し、大阪支店次長を務めるなど出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然それまでの生活を捨て、無所有を信条とする一燈園に住まい、俳句三昧の生活に入る。その後、寺男で糊口(ここう)をしのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧のなか、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら俳句を作る人生を送った。癖のある性格から周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称された。その自由で力強い句は高い評価を得ており、代表的な句に「咳をしても一人」などがある[1][2]。
終焉の地・小豆島に尾崎放哉記念館があり、隣接する西光寺奥の院に放哉の墓がある。
年譜[編集]
- 1885年 - 1月20日、鳥取県邑美郡吉方町(現・鳥取市吉方町)に、鳥取県の士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男として生まれる[3]。翌年、一家は法美郡立川町(現・鳥取市立川町)へ転居。
- 1897年 - 鳥取尋常中学校入学[3]。
- 1899年 - この頃より俳句を作り始める。
- 1900年 - 鳥取県第一中学校の校友会雑誌『鳥城』に俳句・随想・短歌を発表[3]。
- 1901年 - 友人らと『白薔薇』を発行[3]。
- 1902年 - 3月、鳥取県立第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。9月、第一高等学校(一高)法科に入学[3]。一高俳句会に参加。夏目漱石に英語を習い、漱石に傾倒する。
- 1903年 - 一高俳句会に参加し荻原井泉水を知る[3]。
- 1905年 - 7月、第一高等学校を卒業。9月、東京帝国大学法学部に入学。いとこの澤芳衞に求婚、親類の反対のため断念[3]。ホトトギスに投句、入選。
- 1907年 - 根津権現で開かれた一高俳句会に出席。「放哉」の号を使う[3]。
- 1909年 - 東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[3]。通信社に入社。
- 1910年 - 東洋生命保険に就職[3]。契約課に所属。
- 1911年 - 坂根馨と結婚[3]。
- 1913年 - 契約係長となる。
- 1914年 - 東洋生命保険大阪支店次長として赴任[3]。
- 1915年 - 東京本社に帰任する。『層雲』12月号に初めて句が掲載される[3]。このころから新傾向俳句機関誌『層雲』に寄稿し、自由律俳句に転向する。
- 1916年 - 東洋生命を退社[3]。
- 1922年 - 新創設の朝鮮火災海上保険株式会社の支配人として京城に赴任[3]。
- 1923年 - 5月または6月ごろ、免職される[3]。7月末、満州に赴き再起を期すも、8月末より肋膜炎のため満鉄病院に約2か月入院[3]。10月、大連より帰国。11月、馨と別れて京都鹿ヶ谷の一燈園に入る[3]。
- 1924年 - 3月、知恩院(京都市東山区)塔頭常称院の寺男となる。1か月ほどで同寺を追われ、6月、須磨寺(神戸市須磨区)大師堂の堂守となる[3]。この頃から自由律俳句に磨きがかかる。
- 1925年 - 3月、須磨寺を去る。5月、常高寺(福井県小浜市)の寺男となる。7月、常高寺を去り京都の荻原井泉水の仮寓に身を寄せる。8月、荻原井泉水の紹介で、小豆島霊場第五十八番札所、西光寺(香川県小豆郡)奥の院の南郷庵に入庵[3]。
- 1926年 - 『層雲』1月号より『入庵雑記』連載開始。4月7日、南郷庵に死す(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)。享年41。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル。戒名は大空放哉居士[3]。
人物・エピソード[編集]
季語を含まず、五・七・五の定型に縛られない自由律俳句の代表的俳人として、種田山頭火と並び称される。旅を続けて句を詠んだ動の山頭火に対し、放哉の作風は静の中に無常観と諧謔性、そして洒脱味に裏打ちされた俳句を作った。性格は偏向的であり、自身が東京帝国大学法学部を出ていながら、他の法学部卒業生を嫌うという矛盾した性格を持つ。また酒を飲むとよく暴れ、周囲を困らせたという。唯一の句集として、死後、荻原井泉水編『大空〔たいくう〕』(春秋社、1926年6月)が刊行された。
放哉の伝記的小説を書いた吉村昭によると[4]、性格に甘えたところがあり、酒がやめられず、勤務態度も気ままなため、会社を退職に追い込まれたという[4]。妻に「一緒に死んでくれ」と頼んだこともあり、呆れた妻は放哉のもとを去り、保険会社の寮母として生涯を送った[4]。放哉は寺男などを転々とし、小さな庵と海のある場所に住みたいという理由から、晩年の八か月を小豆島の西光寺奥の院で寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かった[4]。吉村が1976年に取材のため島を訪ねたとき、地元の人たちから「なぜあんな人間を小説にするのか」と言われたほどで、「金の無心はする、酒癖は悪い、東大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今彼が生きていたら、自分なら絶対に付き合わない」と、吉村自身が語っている[4]。それでも、島の素封家で俳人の井上一二(いのうえいちじ)と寺の住職らが支援し、近所の主婦が下の世話までして臨終まで看取った[4]。吉村の小説『海も暮れきる』は、海が好きだった放哉にちなんで、放哉の句「障子開けておく、海も暮れきる」から取ったもの[4]。
代表句[編集]
有名な句を以下に挙げる。
- 咳をしても一人
- 墓のうらに廻る
- 足のうら洗えば白くなる
- 肉がやせてくる太い骨である
- いれものがない両手でうける
- 考えごとをしている田螺が歩いている
- こんなよい月を一人で見て寝る
- 一人の道が暮れて来た
- すばらしい乳房だ蚊が居る[5]
- 月夜の葦が折れとる
- 海風に筒抜けられて居るいつも一人
- 春の山のうしろから烟が出だした(辞世)
尾崎放哉を描いた作品[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
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