岩鬼正美

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岩鬼 正美
東京スーパースターズ #5
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県
生年月日 (1977-04-01) 1977年4月1日(40歳)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1994年 ドラフト1位
初出場 1995年4月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

岩鬼 正美(いわき まさみ)は、漫画ドカベン』に登場する架空の人物。アニメ版の声優玄田哲章。実写版の俳優高品正弘

経歴[編集]

誕生日は4月1日(『プロ野球篇』以降の設定では1977年生まれ)。

小学校については、初期にサチ子が入学した青田小学校で4年から6年まで番長だったと語っている。しかし、兄たちが通う秀西小学校ではなく明星小学校に入った描写や、その秀西小のユニフォームを着て野球をしているシーンもある。途中で転校した可能性もあるが、実際の経歴は不明。

中学時代[編集]

鷹丘中ではいわゆる番長であったが、転校初日の山田太郎より自分の弁当が小さかったことにより、逆恨みに近い形でライバル意識を持つ。自分が山田を倒すまで他の奴に山田を倒させたくない、という理由で山田を追っかけて柔道部に入った。柔道部では山田、木下次郎らとともに鷹丘中の中心的選手として活躍。地区大会準優勝の原動力となった。

その後野球部に転部(野球部転部は山田より先)。野球部では主将・4番・エースにこだわる。ピッチャーとしてはノーコン。県大会では東郷学園中等部と対戦(エースは小林真司。この時点では明かされていないが、控え投手として後にチームメートになる里中智がいた)、独善的な岩鬼を山田が巧みにリードし、岩鬼もまた額に死球を直撃するアクシデントに見舞われながら出場し続け善戦したものの、敗退。

高校に行けるような成績ではなかったらしいが、やくざに因縁をつけられ追われていた徳川監督を助けたことから明訓高校に進学。

高校時代[編集]

明訓高校入学後、野球部に入部。初期はまったく打てず、徳川監督におべんちゃらを使うだけで、メンバー決めの「ごぼう抜きノック」では振るわなかった。岩鬼が悪球打ちであることに山田が気づき、それを徳川が見ていたためメンバーに加えられた。さらに山田の機転によって1年夏の県大会1回戦・白新高校戦で途中出場し、不知火守から打ったためその後はレギュラーとなる。この試合では左翼手を守り、ウイニングボールは岩鬼が捕ったが、そのときに野手全員が岩鬼の周囲に集まるほど守備は不安視されていた。その後、県大会では準決勝まで投手として出場。

県大会決勝の東海高校戦で1番・三塁手として出場、1回裏にスコアボードの時計を破壊する豪快な先頭打者初球本塁打を放った。以後、「1番・サード」が岩鬼の定位置となる(ただし、二塁手一塁手右翼手捕手の経験もある。また、4番での出場も2試合ある)。

1年夏の甲子園大会では、第1試合の始球式の際にボールを打ってホームランにしたが、試合では16打席連続三振という大不振。しかし、決勝のいわき東高校戦での初安打がまたもバックスクリーンへのプレイボールホームランだったが、三塁を踏み忘れてしまい、取り消されている(記録上は二塁打となるため、初安打に変わりはない)。この試合で逆転の決勝2ランを放ち、明訓高校初出場初優勝に貢献した。なお、準決勝の土佐丸高校戦では里中をリリーフして登板、岩鬼が勝利投手となっている。

1年の夏の甲子園出場の後、教師と乱闘事件を起こし、謹慎処分を受けた事がある。乱闘の理由は、岩鬼が勝手に放送室を占拠し、甲子園大会を振り返る(岩鬼の主観的な)放送を行ったことを教師が咎め、口論になったためである。不祥事は外部に漏れなかったものの、騒動を受け多くの部員が野球部を去ってしまい(実際にはこのときに野球部を離れようとした部員を徳川監督が除名処分にしていた)、一時、メンバーを9人揃えなくなってしまった事がある。高校時代に岩鬼が殴った相手は、他に山田と土門の計3人。なお、この放送は最初こそ批判もあったが、2年の春の大会以降は明訓高校の風物詩となり、校長が「これがないと甲子園大会が終わった気がしない」と言わしめる程になっている。

1年秋の県大会では故障した里中に代わってエースナンバー1を背負うが、長いイニングを投げたことはない。県大会決勝より再び三塁手に戻っている。関東大会や2年春の選抜大会では目立った活躍は少なかったが、決勝の土佐丸高校戦では起死回生の同点二塁打を放った(無理に三塁を狙いアウトになり、次打者の殿馬一人に「ドジ!1ついいと2つも3つもだめづら」と呆れられている)。

2年夏の県大会は東海高校戦で追撃の大ホームラン、吉良高校戦でプレイボールホームラン、決勝の横浜学院高校戦では甲子園を決めるサヨナラホームランを放つなど活躍。甲子園大会では打撃面では目立った活躍はなかったが、2回戦の弁慶高校戦では1回の武蔵坊数馬の強烈なライナーを横っ飛びでキャッチするファインプレーを見せた。しかし弁慶高校戦にサヨナラ負けし、いわゆる明訓四天王世代で唯一の敗戦を喫した。

2年の秋、新しく就任した太平洋監督から主将に指名され、野球部を引っ張る。一時は失恋のため無気力状態になったが夏川夏子の「サヨウナラ」の指文字を「アイシテル」と勘違いしたことで闘志が復活、不知火から逆転満塁本塁打を放った。関東大会でも本塁打を放つなど活躍、明訓高校の4季連続甲子園出場に貢献した。春の選抜大会では3度目の全国制覇を達成。

3年夏は準決勝の横浜学院戦でサヨナラホームランを放つなど、明訓高校の5季連続甲子園出場に貢献。上記のとおり、甲子園本大会での3年春までの本塁打数は、1年夏の決勝戦で放った逆転2ランの1本だけだったが(取り消された幻の本塁打を除く)、3年夏の本大会ではそれまでの鬱憤を晴らすかのように6本塁打を量産した。これは同じ大会で山田太郎が記録した7本塁打に次ぐ記録である。準決勝の青田戦再試合では先発投手として登板した。青田戦ではMAX158キロを記録しており、本人は「フォーム次第で170キロも軽い」と豪語している。

プロ時代[編集]

ダイエー時代[編集]

プロ野球ドラフト会議読売ジャイアンツ長嶋茂雄福岡ダイエーホークス王貞治ON両監督から1位指名を受け、抽選の結果ダイエーに入団。

1995年
ルーキーイヤー。開幕戦(対西武ライオンズ西武ドーム)から1番・三塁でスタメン起用される。プロ初打席では、渡辺久信から、初球の威嚇球を打ち、バックスクリーンへ本塁打。
1996年
シーズン最終戦、渡辺久信から初の本塁打王を手中に収める一発を放つ。
1997年
春季キャンプの紅白戦において、井口忠仁の入団により、王監督の方針で4番に据えられる。しかし「一番じゃないとやる気が出ない」という無気力感から、極度の不振に陥る。岩鬼ファンのウグイス嬢の考えによってわざと「1番岩鬼」とコールした途端本塁打を打ち、王監督は岩鬼を1番に据えることを決意する。
西武との開幕戦で、イチローの真似をして左打席に立ち、ど真ん中の球を先頭打者本塁打したことがある。これを見て山田は「もしかして岩鬼は本当は左利きなんじゃないのか」と言っている[1]
オールスターで、仰木彬・全パ監督による守備位置交代で三塁手から捕手に代わり、里中智とバッテリーを組んだ。山田のミットとマスクを借り、プロテクターは着けない急造捕手であるにもかかわらず、里中のオールスターでの連続三振の記録更新(16)をアシストした。全セ・古田敦也も驚く巧みなリードだったが、実はこれは山田がリードしていた。
1998年
オープン戦(対阪神タイガース戦)ではソロ、2ラン、3ラン、満塁本塁打を同一試合で放つ「サイクル本塁打」を達成。打った球はすべて悪球であった。このシーズンは山田と並ぶ40本塁打を放ち、本塁打王を獲得。
1999年
前半戦は極度の打撃不振に陥るも、オールスター前の試合で本塁打を放ってから復調。この年のリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズMVPの時、山田の祖父に車をプレゼントしている。
2000年
この年だけは本塁打狙いを減らし、バント・バスター・プッシュバントを組み合わせた打法で6割打者を目指し打率5割以上をキープしていた。しかし、シーズン中にあまりに味方打線が中西球道を打てず、岩鬼が出塁しても得点にならないためもとに戻した。この年も開幕戦の対千葉ロッテマリーンズ戦で里中からサヨナラ満塁本塁打(後述の偽装スクイズ)を打っている。
2001年
開幕戦で1試合18塁打(4本塁打、1二塁打)を記録し、プロ野球タイ記録に並んだ[2]。シーズン通じての本塁打数でまたも山田と並び、山田の「単独三冠王」を阻止した。
2002年
本塁打王を獲得(5度目)。
2003年
シーズン終了後、フリーエージェント宣言し、高校時代の先輩である土井垣将率いる新球団・東京スーパースターズに移籍。

前述のように、プロ入り以降は1番という拘りには並々ならぬものを持っている。ただし、高校時代には4番を「当然」と言っていた事もある。しかし2009年に4番で起用された時は精神的な成長からか特に文句は言わなかった。また、1998年のオールスターでも岩鬼を4番にした東尾修・全パ監督に抗議に行こうとしたが、逆に説得され気分を良くしていた。

東京時代[編集]

2005年
札幌華生堂メッツとの日本シリーズでは、第一戦で岩田鉄五郎からサヨナラ本塁打を放つなど、7戦で7本塁打を放ってMVPを獲得。
2006年
シーズン終了時の12年間で通算397本塁打。同年オフ、新潟で暮らしていた夏子母娘を自分のマンションの隣室に呼び寄せる。
2007年
中日ドラゴンズとの日本シリーズ7戦目、故障の里中の代わりに土井垣監督が思いついた「1イニング1投手」案により、5回を任される。中西球道の持つ日本シリーズ最速記録である157km/hを越える158km/hの剛速球を投げるが、平田良介に逆転2ランを浴びた。
2008年
開幕戦終了後に夏子にプロポーズし、結婚。保土ヶ谷球場近くの一軒家に転居した。

スーパースターズに入団してから、4年連続で開幕第1打席は本塁打を記録した(更に、05年以外の3本はど真ん中である)。

人物[編集]

学生帽と葉っぱがトレードマーク。学生帽は入浴の時もはずさず、ダイエー入団時のキャンプ地でダイエーの先輩であった石毛宏典に指摘された時「これは頭の一部ですから」と言い、帽子の上からシャンプーをしていた。本来打席に入るときはヘルメットの着用が義務付けられているが、岩鬼の打席のみ黙認されている。なお、里中が家庭の貧困のため退学(実際には休学扱いで、夏に復学した)を決意した時のみ、餞別として学生帽を放り投げている(このときの岩鬼の顔は描写されていない)。葉っぱは、赤ん坊の頃からおしゃぶりを嫌がり、葉っぱを咥えてていたため、そのまま口から離さなくなった。くわえている葉っぱは岩鬼の気分によって花が咲いたり枯れたりする。葉っぱを口にくわえるというキャラ設定は、作者の水島新司が岩鬼のキャラ作りをしているときにたまたまテレビで放映されていた『木枯し紋次郎』の爪楊枝がヒントとなっている[3]

身長は設定上、連載初期の中学2年生の時点で190cm超の大男となっているが、山田や他の人物と比べるとどう見ても2メートル以上の高さのある異常なほどの大男に描かれている。

神奈川出身にもかかわらず関西弁を話す。これは、幼少時に世話をしてもらった乳母「おつる」が関西出身で、その言葉遣いが移ったためである。なお、初期はどもる喋りが特徴だったが、後に直ったようである。

好物はサンマの丸焼き。自分では「まずい」と言いながら骨ごと平らげてしまう。好きになったきっかけは、サチ子から差し入れられた弁当に入っていたサンマによるものと推測される。

座右の銘は「花は桜木、男は岩鬼」。

作者の水島新司がドカベンの初回原稿の際に編集者に難色を示されたため、山田太郎とコンビを組む岩鬼正美を登場させた。岩鬼を見た編集者はすぐにGOサインを出したという[4]。そのため初期は、山田より目立っている場面が多い。「ブラック・ジャック」の「人間鳥」、「ルパン三世 DEAD OR ALIVE」でゲスト出演している。「超こち亀」では、水島新司の描きおろしで両津勘吉と共演。

岩鬼の熱心な追っかけとして、日本テレビアナウンサー関谷亜矢子がいた。かなり熱を上げており、度々岩鬼にラブレターを書いたりしている。しかし、岩鬼の側が性格的に合わないといって取り合わず、また出会った当初はまだ夏子の結婚を知らなかったこともあって、相思の関係には発展しなかった。なお、実在の人物がモデルであるが、実際の関谷は熱狂的な巨人ファンとして知られている。悪球打ちのため、女性に対する美的感覚も一般と異なる岩鬼は、全国ネットで、有名な関谷のことを「どブス」と言ってしまい、チームメイトから失笑を買う。一方の関谷も、岩鬼を応援するにもかかわらずダイエー・西武戦でサチ子と共に西武側の応援席に入り、岩鬼に声援を送って周囲の顰蹙を買ったりした。

野球選手として[編集]

グワァラゴワガキーン!」という独特な打球音をしており、打球の威力や飛距離によって「ゴワ」の数や「ガキーン」の伸び具合が変わる。どういうわけか、普通の打者にとって打ちごろのストライクのボールを打った時の打球音は、なぜか「カキーン」などの普通の打球音になる。

豪快な打撃が目立つが、殿馬に引けをとらぬ守備の名手でもある。守備範囲は非常に広く、ファインプレーを連発し幾度となく投手を救う。しかし、普通のサードゴロ・フライのエラーや悪送球をすることも多い。2000年にはゴールデングラブ賞を獲得している。また、飛びぬけて俊足と言うわけではないが、積極果敢な走塁・盗塁を仕掛ける。さらに三塁コーチが止めても暴走して本塁に突入し、捕手に体当たりすることが多いため、ランニングホームランが非常に多い。反面、本塁でタッチアウトになることも多い。

遠投150mの超強肩であり、星野仙一から「王監督はどうして岩鬼を投手にしないんだ」と言われたことがある。岩鬼は実際に投手として登板しセーブを挙げたこともある。長嶋茂雄によると、岩鬼の肩は「サードの肩」であり、美技から生まれる強肩と語っている。原作漫画では、鷹丘中学野球部3年時代の岩鬼が、現役時代の王と長嶋の目の前で剛速球を投げ、的当ての的を破っている。中学・高校時代に投手として登板したときはノーコンで、山田が苦心してリードしていた。

1998年のオールスターゲームのホームラン競争では、千葉マリンスタジアムの風で打球が押し戻され、ホームランを一本も打てなかった。そのことに対し岩鬼は「この球場こそファンの夢を奪うクソ球場や」と言っている。しかし、本番の試合では向かい風を突き破るようなホームランをバックスクリーンに叩き込んでいる。

明訓高校時代は先輩も呼び捨て若しくはあだ名で呼んでいた。例えば土井垣将=どえがき、山岡鉄司=パンダなど。しかし、悪気が無い事は理解されている。ただしプロに入ってからはダイエー時代にチームメイトだった犬飼小次郎に対しては「小次郎はん」と呼び目上の者として接している。犬飼は、2年目のシーズンの対西武最終戦、岩鬼のホームラン王を決定するために山田を討ち取ったことから、岩鬼が陶酔する人間の1人になった。実際はその前、腹部に負傷をしながらも山田に対する闘争心から力投を見せたときから小次郎に対する尊意は持っていたようである。実際、このときに小次郎が限界を迎えた際には彼の体を支え、感涙を流しながらその力投を賞賛した。

プロでも他の選手に対しても遠慮のない呼び方をしていたが長嶋茂雄イチローにだけはそのような言動は取らなかった。

山田を「や~まだ」、殿馬を「とんま」、不知火を「フチカ」、土井垣を「どえがき」など、他人を自分で決め付けた名前で呼ぶことが多い。ただし、そのうち一部は本当に間違えて言っているらしい。

自画自賛、吠える自信家などと呼ばれ自分への賛美を送る、ある意味ナルシストである。3年夏の甲子園大会1回戦で犬飼知三郎から長打を打った際にもコンタクトレンズをはめていたことを自ら明かしてしまい、里中に「まったく黙ってりゃ犬飼にも気づかれずに次も使えるのに」と呆れられ、「人がほめてしまう前に自分ですべてほめてしまうお人だからなぁ」と微笑三太郎に苦笑されたこともある。明訓時代もランニング時の掛け声に『明訓歩調』などと称し号令にしていた。「二枚目岩鬼1、2、3、スーパースターだ2、2、3」「1、2、3、4、豪打の岩鬼、キャプテン岩鬼」の様な感じであるが、チームメイトも呆れながらも付き合っている。

だが仲間を思う気持ちは人一倍強く、相手チームの危険行為に対しては逆上し、真っ先に飛び出していく。一方で他者を冷静に見つめる目もあり、普段温厚と知られているもののその実激情しやすい里中をからかい混じりにいさめる場面も少なくない。1999年の日本シリーズ第5戦では4戦ノーヒットだった相手チームの関川浩一の不振の原因を見抜き、三塁ベース上から関川にアドバイスを送り、見事その打席で関川は先頭打者ホームランを打ったことがある。また、面倒見が良く、後輩から慕われることも多い。中でも高代はその素直な性格や守備位置が近いこともあってか可愛がっていたようであり、絡みが多い。3年春の土佐丸高校戦では犬飼武蔵のゲッツー崩しスライディングを受けた高代を慰めていた。また、始めは自信過剰で自己中心的な言動が目立つ渚を嫌っているようなそぶりを見せたが、2年夏の東海高校戦で渚がチームの勝利のために敢えて死球を受けた際には彼に応えようと奮起した。

基本的に他人を褒めることはほとんどないが、武蔵坊数馬と中西球道に対してはある種の尊敬の念を抱いている。山田に対しても「ワイと山田のバットで勝ってきた明訓」と胸中を見せる場面があり、ある程度認めている。里中と微笑がプロから3位ながら指名されたとき、岩鬼は「プロは甘い」と言い、殿馬について「高校止まり」と言いながら、山田については「弱小球団が似合うとる」と言って、少なくともプロの素質までは認めている。1998年の日本シリーズでは土門を「まぁまぁ一流」と評しており、彼の事もそれなりに認めていることが伺える。そんな中、イチローには1999年のオールスターで「天才」と評価している。

何事も一番が良いという性格故に打順も一番にこだわる。ただし、中学時代は4番ピッチャーにこだわっており、高校時代も4番にまわされたとき「本来の位置に来た」といっていたこともある。しかし、プロ入り後はこだわりがいっそう強くなったのか、他の打順になると成績が振るわなくなってしまうようになった。

高校時代は土井垣将のサインを無視して暴走したり、プロ野球編ではコーチのストップを無視しホームに突入したり4番で起用されたことから無気力になったり、サイクルホームラン達成のために王貞治監督に送りバントのサインを変えてもらうように無理を言ったりしていた。また、前期のプロ野球編ではチームプレーをせずに個人プレーをすることもあったため、チームメイトの反感を買うことも少なくなかった。しかし、スーパースターズ編においては土井垣のサインは全て守っており、山田が1番を打った時や山田の代わりに「4番・捕手」で先発することになった時も文句一つ言わなかった。

プロ野球編で捕手を守り不知火守をリードした時は滅茶苦茶なリードをしていたが、スーパースターズ編では最終的に中村剛也に打たれたものの8回まで無失点に抑えるリードをし、最後に打たれた球もインコースで併殺に仕留めようと考えていた球の失投であり、それなりに理論的なリードをしていた。

1997年、ドラフトで希望するダイエーではなく西武に指名された犬飼知三郎が「浪人する」と言った時(知三郎は岩鬼を心底尊敬しており、兄がいることもあってダイエーの志が強かった)、岩鬼は「やーまだはへタクソやがそれなりに努力はする男」と言い、西武入団を後押ししている。

2007年の古巣・福岡ソフトバンクホークスとの開幕戦では、福岡ドームの控え室に胃がんのため長期休養していた王貞治監督の復帰祝いにと大量の花束を送り、「これで王監督に遠慮する事無く打てる」と豪語している。

ピッチャーゴロなどでは全力を出さないという持論を持っていたが、2007年終盤の公式戦ではキャッチャーゴロを打った後、「それでも走るさかい野球少年の鑑なんや」といいながら全力疾走し、捕手の悪送球をさそった。

悪球打ち[編集]

悪球打ちが岩鬼の代名詞である。これはリトルリーグで4番を打っていた際、相手チームから敬遠されたことがきっかけで始めた。場面にかかわらず全打席敬遠された為、岩鬼はボール球(悪球)を打てるようになろうと特訓、見事にそれを習得し、その代わり、ど真ん中は打てなくなった。

その打撃時のボール角度とスイングの軌道から、ホームランであっても山なりの「アーチ」ではなく、スコアボードめがけて突き刺さるライナーであることが多い。

相手ピッチャーがストライクを投げる場合も、「度の強い眼鏡をかけてわざと見えにくくする」「逆立ちをして頭をクラクラさせてボールが分裂したように見えるようにする」「軽くて長いノック用バットを使う」「を飲んで酔っ払い、悪球に見えるようにする」など、様々な工夫でど真ん中を打つことが出来る。ただし、悪球に見える手法を用いた打席では、逆に悪球が打てなくなるという欠点がある。その為同じ手は二度続けて使えないケースが多い(もしくは「男の意地」で使わない)。しかしプロ3年目の西武戦で使った「使い捨てコンタクトレンズを使う」という作戦は絶大な効果を発揮したためか、その後も何度か使われた。また、「咥えている葉っぱで視界が遮られた」「ど真ん中の球を相手への情から(岩鬼の脳内ではど真ん中はボールであるため)わざと三振するためデタラメなスイングをした」、「実際は低めの球だが高めだと思いこんで振った」という偶然の理由でホームランを打ったことがある。

別々の試合で2度以上使われた悪球打ち戦術もあるが、そのうちの偽装スクイズでウエストボールを投げさせる戦術で犬飼知三郎から2ランを放っている。このことが、知三郎が岩鬼を尊敬するようになったきっかけである。この戦術は岩鬼が高1の神奈川県秋季大会決勝時に山田が当時の明訓監督だった徳川に提案して、対土門用に実行したものだが、この時室戸を率いていた当の徳川はすっかりそのことを失念していた。その上、性質上投手としてはモーションに入るまではそのスクイズが偽装であるかどうかはわからず、知っていても失点覚悟でない限り破りようがない。また、里中もそのことを失念して、2000年の開幕戦、9回無死満塁の場面でスクイズしてきた岩鬼に対してウエストしてサヨナラ満塁ホームランを打たれている(この時は里中が右投手であるので、三塁ランナーがスタートを切ったのを見て、モーションの途中でウエストに切り替えている。また、この年の岩鬼はバント戦法をしていたため、スクイズをしてくるかもという素地があった)。

四球で出塁したのは中学時代の東郷学園との試合と、高校3年のときの光高校との試合だけである。とはいえボール球は全て打つわけではなく、プロに入ってからも松坂大輔のきわどいボール球を見逃したこともある。一方で死球はやたら多く、高校時代は不知火や等といった速球投手からも度々当てられていた。度の強いメガネで視界不良だった2年春センバツ決勝の対犬飼武蔵や、失恋のショックで無気力になっていた2年秋神奈川予選の対不知火など、打撃や回避が困難な状況における死球もあるが、普通に受ける死球も多かったことから、当時は身体付近に来る悪球は多少苦手だったようである。プロ入り後は死球コースの球は全て打ち返しているため死球は殆ど無くなったが、3年目のオールスターでは膝付近に来る球は苦手であると影丸が語っている。なお、岩鬼は避けられそうな死球コースの球でも決して避けることはなく、打ちに行って半ばスイングした状態で当たることもあるが、岩鬼の場合はなぜか必ず死球を認められる(本来、審判が避けられると判断した死球コースの球に対して全く回避行動をとらなければ身体に当たっても死球は認められず、スイングを認められれば当然ストライク判定となる)。

中学・高校編と大甲子園においては、「岩鬼にとってストレートのど真ん中は悪球と同じ」という設定があったが、プロ野球編以降はその設定は出ていない。2005年のシーズン開幕前に悪球打ち克服の特訓をするが、結果的には実らなかった。しかし、オープン戦の対阪神戦では先発・藤川球児の初球ど真ん中ストレートと思われる球をホームランにしている。更に同年のプレーオフ第2ステージの対四国戦2試合目では3打席連続で先発土門からホームランを放っているが、そのうちの2本がど真ん中である。しかし同年シーズン、ど真ん中打率は.062である。

王監督は悪球打ちには限界があると感じており、1999年の対中日との日本シリーズにおいて、打てるようになるまでど真ん中の球を凝視するように指令される。結果影丸隼人からど真ん中を打つことに成功。勝ち越しのランニングホームランとなった。

また、仰木彬が悪球打ちを理解していた数少ない1人だったという。そのエピソードに関してスーパースターズ編では岩鬼が「わいの悪球打ちを理解してくれた……その仰木はんが死んでしもうた…淋しい……」と涙ぐむ場面があった。

悪球打ちのため、ほかの人とストライクゾーンの意識が違うという設定がある。そのため、プロ入り当初はど真ん中のストレートをストライクとコールする審判に文句をつけていた。プロ入り後に投手として登板することになった時は、ストライクゾーンの違いにより四球を連発すると古賀英彦コーチに心配された。この時はキャッチャーの城島健司が「構えた所に投げるのがプロだ」と岩鬼を説き伏せ、ストライクを投げさせた。

家族[編集]

男ばかり4人兄弟の末っ子。父親は岩鬼建設(株)の社長で、いわゆる金持ちの御曹司だった。3人の兄達は『清彦』『晴彦』『秀彦』と名前に『彦』が付けられており、本来なら『岩鬼正彦』と名付けられるはずだったが、産まれた時に女の子のように可愛らしい顔だった為、『正美』と命名される。いわゆる「みそっかす」であり、家の中では優秀な兄達と比較されて肩身の狭い窮屈な思いをしており、その鬱憤を喧嘩やスポーツなどで晴らしていた。

両親や兄と対面するときには関西弁を使わず常に敬語で「お父さま」「お母さま」「お兄さま」と呼び、卑屈に接する。自身の衣服の乱れなども自らてきぱきと直す。

兄達も四兄弟の中で勉強でも野球でもあまり成績のよくない岩鬼のことを蔑ろにしている面があったが、結局兄弟の中で一番の高給取りで出世しているのは正美である。兄たちはサラリーマンで、三人とも優秀ではあるものの典型的な「マニュアル人間」であり、「会社の野球部に正美を入れさせる」と本人に相談なく勝手に言ったりしており、正美を出世のためのネタとして使うようなせこい性格である。現在も兄弟仲は良くないようである。兄達はインテリではあるが、やはり正美の血縁か長身でがっしりした体つきをしていて、顔もどちらかというと強面である。しかし身長190cmを超す正美にとっては「ひょろい」らしい。

高校2年時の春の甲子園の決勝戦の日に会社が倒産した為、一気に貧乏生活に陥ってしまう。この際、岩鬼に大阪ガメッツへの入団を確約させるのと引き替えに援助の話が持ち込まれるが、息子の志望球団が東京メッツであることを案じた父親が断っている。当時、父親は「あいつら3人は一緒でなければ何もできない。しかし正美は1人で十分やっていける」と、一族の中で唯一正美に期待を寄せていた。

母親にも蔑ろにされており、正美一人だけ直接世話をせず乳母に任せきりだったり、兄達とは別の小学校に入学させたりしていた。しかし、正美自身はその仕打ちを恨むことなどいっぺんもなく、母親に対し幼少から現在まで思慕と尊敬の感情を持っている。2年夏の県大会優勝直後、母親が病で倒れたことを父親から知らされた時、4兄弟の中で最も早く駆けつけたのは病院から最も遠い明訓高校から来た正美だった。このとき、他の兄弟は電話連絡したのみですぐには駆けつけず、正美は「明訓のわいとこより近いくせして…」と憤っている。県大会の優勝旗のみを抱え急ぎ来た正美はその直後に「今はお金ないけど、わいがプロに入ったら二倍にも三倍にもして返します、どうかお母様を助けてください」と医者に懇願している。このときの母親は危険な状態(容態が悪化し続け、医者が父親に「ヤマが少し早まるかも知れません、できれば息子さんたちに…(早く来るように促して下さい)」と告げるほど)だったが、弁慶高校の武蔵坊の不思議な力によって回復した。以後、岩鬼は武蔵坊に頭が上がらない。現在は母親も正美に一番の期待を寄せるようになっており(岩鬼建設倒産時に父親が代わりに見つけてきた仕事の内容や待遇ばかりを気にしていた他の息子達を「情けない」と涙している)、関係は改善されている。

影丸隼人の姉・亜希子と岩鬼の長兄・清彦が夫婦(お見合い結婚)で縁戚関係であり、中学の柔道時代から因縁のあるライバルでもある。

中学高校を通して同級生だった夏川夏子と恋愛関係にあった。夏子の外見はお世辞にも美人とは言えないが、岩鬼には絶世の美人に見えている。また、先述の「おつる」と似ているという事も関係している。一方で気立てのいい“性格美人”ではある。一度は夏子が吉良高校の男子生徒に騙されて浮気したために破局寸前となったこともある。プロ入り後、夏子は倒産の危機にあった父の会社を救うため、政略結婚に応じていた。しかし高校時代の浮気とは異なり、夏子の気持ちは岩鬼にあった。会わない理由を付けたのは、それを知らせて岩鬼を傷つけないための方便だった。夏子はその後一女をもうけるも離婚。2008年に岩鬼のプロポーズに応じ、結婚した。

主な記録[編集]

  • 本塁打王6回(1996~1998年,2001~2003年) - 2005年には本塁打王と打点王のどちらかを獲得している。
  • 日本シリーズMVP2回(1999年,2005年)
  • オールスターMVP(1997年)
  • パ・リーグ特別表彰(1995年)
  • 1試合4本塁打(2001年3月24日) - 4打席連続。
  • 公式戦初打席先頭打者本塁打(1995年4月1日、開幕戦・西武戦) - プレイボールアーチ。

この他、通算三振のプロ野球記録を更新中である。2006年までの12年間では2399個の三振を喫している。

背番号[編集]

銅像[編集]

2002年、新潟商工会議所と同商店街振興組合により、新潟市中央区古町通のアーケード内に水島作品の登場人物計7体の銅像が設置されたが、その中には岩鬼の銅像も含まれている[5]。これらの銅像については2015年に撤去の話が持ち上がったが、撤去の見直しを求める地元商店街などの要望もあり、2016年2月に撤去は見送られることとなった[5]

脚注[編集]

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  1. ^ 2000年にもイチローの真似をして左打席に立ったが、その打席はショートゴロに終わった。
  2. ^ のち、2008年の山田の最終戦の6打席連続本塁打により更新された
  3. ^ 水島新司「創刊40周年特別寄稿 私とチャンピオン」、『週刊少年チャンピオン』第41巻第15号、秋田書店、2009年、 47ページ。
  4. ^ 秋田文庫の『ドカベン』明訓編の最終巻、作者による解説
  5. ^ a b “古町のドカベン像 存続決まる”. 新潟日報. (2016年2月23日). http://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20160223236825.html 2016年2月23日閲覧。