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上田栄治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上田 栄治
名前
カタカナ ウエダ エイジ
ラテン文字 UEDA Eiji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1953-12-22) 1953年12月22日(70歳)
出身地 千葉県館山市
身長 176cm
体重 68kg
選手情報
ポジション FW
ユース
1969-1971 日本の旗 薬園台高校
1972-1975 日本の旗 青山学院大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1976-1982 日本の旗 フジタ工業 88 (20)
通算 88 (20)
監督歴
1983-1992 日本の旗 フジタ(Asistant)
1999 日本の旗 ベルマーレ平塚
2000-2002 マカオの旗 マカオ
2003-2004  日本女子
2004-2006 日本の旗 湘南ベルマーレ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
上田栄治(右)。大仁邦彌

上田 栄治(うえだ えいじ、1953年12月22日 - )は、千葉県館山市出身の元サッカー選手(FW)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現在は日本サッカー協会特任理事、女子委員長を務めている。

略歴

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薬園台高校から1972年青山学院大学へ進学し、4年次の1975年には日本学生選抜に選出されて、ソウルで行われた日韓定期戦に出場[1]。卒業後の1976年フジタ工業へ入部するが、卒業前にも日本学生選抜メンバーとして世界大学サッカー大会(ウルグアイ)に出場[1]。入部後はFWとしてプレーし、JSL通算88試合20得点を記録するなど、3度のJSL1部優勝(1977年, 1979年, 1981年)と2度の天皇杯制覇(1977年, 1979年)[1]に貢献。日本代表に選出されたことは無かったが、1979年に日本選抜Bでキリンカップ、日本選抜で北京招待国際サッカー大会へ出場[1]1982年にはJSL選抜として大宇ニューヨーク・コスモスとの親善試合にも出場[1]。同年引退。

引退後はフジタ→フジタSCで9年間コーチ(1983年 - 1991年[1]を担当[2]古前田充コーチと共に2度の天皇杯準優勝(1985年, 1987年)、古前田が監督となってからは、ニカノール・デ・カルバーリョヘッドコーチと共に1991年のJSL2部優勝[1]に貢献。その後はフロントに回ってマネジメント業務[2]やスカウトを担当し、中田英寿を獲得。中田のユベントス留学にも同行し、チームから数多くの選手を日本代表に送った。1996年にはベルマーレの統括部長代理に就任し、中田の海外移籍の窓口にもなった[2]。並行して日本サッカー協会のナショナルトレセンコーチ北海道担当(1993年 - 1996年)[1]、強化委員兼ナショナルトレセンチーフコーチ(1996年 - 1998年[3][1]も務めた。

1999年3月からはベルマーレ平塚監督に就任し、監督就任のタイミングにあわせてフジタを退社。プロコーチとして契約を交わした[2]が、前年までの中心であった中田の抜けたチームは開幕から最下位を独走し、シーズン途中の7月で不振の責任を取り辞任。その後の平塚は古前田が代行で指揮したが、最下位でJ2に降格している。同年12月からはアジアサッカー連盟の発展途上25ヶ国の一つであるマカオサッカー協会から、コーチの派遣要請を受け入れてA代表兼ユース代表で監督に就任。日本人初の海外A代表監督として[4]2000年AFCアジアカップ2000 (予選)で日本代表と対戦したほか、ユース育成プログラムの策定並びに実践を行った[1]2002年5月退任。

同年8月から女子の指導歴を持たない初の日本女子代表監督に就任し、同年の釜山アジア大会で銅メダルを獲得[4]2003 FIFA女子ワールドカップで4大会連続W杯出場[4]アテネ五輪出場にも導いた。

2004年9月には低迷の続いていた湘南ベルマーレ監督に復帰し、2005年の前半は昇格争いにも絡んだが徐々に失速して結局7位に終わる。2006年は第15節までの14試合で6勝4敗4分とまずまずの成績を残していたがそこから5連敗を喫し、6月8日に成績不振の責任を取り辞任した。同年9月に日本サッカー協会女子委員長[5]2013年7月にJヴィレッジを運営する株式会社日本フットボールヴィレッジの代表取締役副社長に就任した[6]

所属クラブ

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選手歴

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  • 1969年 - 1971年 : 千葉県立薬園台高等学校
  • 1972年 - 1975年 : 青山学院大学
  • 1976年 - 1982年 : 日本の旗 フジタ工業

指導歴

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  • 1983年 - 1992年 : 日本の旗 フジタ工業 / フジタSC コーチ
  • 1993年 - 1996年 : 日本の旗 日本サッカー協会ナショナルトレセンコーチ北海道担当
  • 1996年 - 1998年 : 日本の旗 日本サッカー協会強化委員(1998年から技術委員)兼ナショナルトレセンコーチ
  • 1999年3月 - 1999年7月:日本の旗 ベルマーレ平塚 監督
  • 1999年12月 - 2002年5月 : マカオの旗 マカオ代表 監督
  • 2002年8月 - 2004年9月 : 日本女子代表 監督
  • 2004年9月 - 2006年6月 :日本の旗 湘南ベルマーレ 監督

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1976 フジタ 13 JSL1部 5 0
1977 4 0
1978 15 4
1979 18 6 4 1
1980 16 5 1 0 2 0 19 5
1981 16 5 3 0 1 0 20 5
1982 14 0 0 0 1 0 15 0
通算 日本 JSL1部 88 20
総通算 88 20
  • JSL選抜チーム(1979年)3試合0得点

監督成績

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年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1999 J1 平塚 16位 15 3 0 12 1回戦敗退 -
2004 J2 湘南 10位 11 8 1 5 5 - 5回戦敗退
2005 7位 44 54 13 15 16 - 3回戦敗退
2006 - 19 22 6 4 9 - -
J1通算 - 15 - 3 0 12
J2通算 - 74 - 20 24 30
  • 1999年はファーストステージのみ(順位はステージ順位)。
  • 2004年は9月より(順位は最終順位)。
  • 2006年は途中解任。

関連項目

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参考文献

[編集]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 上田栄治プロフィール
  2. ^ a b c d 川端 2004 81-85頁。
  3. ^ 同年から技術委員となった。
  4. ^ a b c 上田栄治 アテネ五輪サッカー日本女子代表監督 | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
  5. ^ 上田栄治技術委員会副委員長/女子委員長 インタビュー”. 東アジアサッカー連盟 (2017年1月). 2008年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月30日閲覧。
  6. ^ 2013年8月 就任のご挨拶(副社長 上田栄治)”. ナショナルトレーニングセンター Jヴィレッジ (2013年8月). 2013年11月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月30日閲覧。

外部リンク

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