デヴィッド・クロスビー

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デヴィッド・クロスビー
David Crosby
CSNY 8-1974 (2).jpg
1974年8月
基本情報
出生名 David Van Cortlandt Crosby
生誕 1941年8月14日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
死没 (2023-01-18) 2023年1月18日(81歳没)
ジャンル フォークロック
ロック
ジャズロック
AOR
職業 シンガーソングライター
担当楽器 ヴォーカル
ギター
活動期間 1963年 - 2023年
レーベル アトランティック・レコード
A&Mレコード
Blue Castle Records
GroundUP Music
BMG
共同作業者 ザ・バーズ
クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング
CPR
公式サイト davidcrosby.com

デヴィッド・クロスビーDavid Crosby、本名:David Van Cortland Crosby1941年8月14日 - 2023年1月18日)は、アメリカ合衆国出身のミュージシャンシンガーソングライター

バーズクロスビー・スティルス・ナッシュ & ヤング(通称:CSN&Y)といった1960年代から1970年代を代表するロックバンドに在籍した。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第99位[1]

経歴[編集]

カリフォルニア州ロサンゼルス出身。父は『真昼の決闘』などハリウッドで多くの作品の撮影監督として活躍し、1930年にはアカデミー撮影賞も受賞したフロイド・クロスビーである。クロスビーはカーピンテリアのケイト・スクールを卒業後、サンタバーバラシティカレッジに入学。

1960年代[編集]

ザ・バーズ時代 - 右クロスビー,中ジーン・クラーク、左プロデューサーのテリー・メルチャー (1965年)

1960年代初頭にシカゴのコーヒークラブでフォークシンガーとして出演するようになったクロスビーは、後にテリー・キャリアーと親しくなる。フォークブームが訪れると2人でニューヨークのグリニッジ・ビレッジに移ってデュオとしてデビューやレコーディングの機会を探したが、かなわなかったという。そのままニューヨークに残ったクロスビーは日本でも再評価されているレス・バクスターのグループなどに一時在籍後したほか(兄弟のイーサン・クロスビーが当時メンバーであった)、ソロ・シングルをいくつかリリースしたものの、大きな成果は得られなかった。シカゴに戻ったクロスビーはキャリアーの仲介でロジャー・マッギンに出会う。後にジーン・クラークらとともに「バーズ」を結成。

彼らは、「ミスター・タンブリン・マン」等のヒットにより、一躍1960年代のアメリカ音楽シーンを代表するグループとなった。クロスビーの甘いテナーボイスによる高音パートのハーモニーは、バーズの3部コーラスを特徴づけるもので、リズム・ギタリストとしても独特のカッティングでサウンドに変化をもたらした。また、自作曲では先進的なサウンドや実験的な形式を志向し、シタールの導入、アカペラ、変則チューニング、モード的コード進行など、バーズサウンドの一面を担った。この時期のクロスビーの作品として代表的なものに、「Everybody Has Been Burned」、「Draft Morning」、「Lady Friend」 、「Eight Miles High」(共作)、などがある。

1967年10月にバーズを脱退。アルバム『名うてのバード兄弟』にて、クロスビーの曲「Triad」のアルバム収録をメンバーから反対されたことや(※近年のリマスターによる再発でバーズバージョンも陽の目をみるに至っている)、外部ライターの曲「ゴーイン・バック」(ジェリー・ゴフィンキャロル・キング作)を採用したことなどが脱退の原因といわれている。

1968年バッファロー・スプリングフィールドや俳優のピーター・フォンダ等、バーズ在籍時からバンド外での交友が広かったクロスビーは、ジョニ・ミッチェルのファーストアルバムのプロデュース等を経て、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、元ホリーズグラハム・ナッシュと「クロスビー・スティルス&ナッシュ」(通称:CS&N)を結成。

1969年5月、クロスビー・スティルス&ナッシュのファースト・アルバム「クロスビー・スティルス&ナッシュ」を発売、マイルス・デイヴィスにカバーされた「グウィニヴィア」(Guinnevere)、スティルスとポール・カントナージェファーソン・エアプレインのメンバー)との共作で「木の舟」(Wooden Ships)などが収録された。なお、「木の舟」(Wooden Ships)はジェファーソン・エアプレインのアルバム「Volunteers」(1969)にも収録されている。

1970年代[編集]

クロスビー&ナッシュ時代 (1976年)

1970年、クロスビー・スティルス&ナッシュにニール・ヤングが参加し、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(通称:CSN&Y)となる。

1970年3月、『デジャ・ヴ』を発表、全米第1位を記録。クロスビーは、アルバムのタイトルナンバーとなったジャジーでプログレッシブな「デジャ・ヴ」、現在ではロック・クラシックとなっている「カット・マイ・ヘア」などの個性的な楽曲を提供し、グループの成功に大きく貢献した。

1971年2月、ジェファーソン・エアプレイングレイトフル・デッド等が参加した、初のソロアルバム『イフ・アイ・クッド・オンリー・リメンバー・マイ・ネーム』をリリース、全米第12位を記録。スキャットを駆使したジャジーな楽曲や、「嘲笑」などの印象的なナンバーを残した。このアルバムのセッションは、Planet Earth Rock & Roll Orchestra セッションと呼ばれ、後のジェファーソン・エアプレイングレイトフル・デッドのアルバムにおさめられることになる曲のいくつかの原型が作られた。このアルバムは売上に比して発売当時は批評家からの評判は芳しくなかったが、その後再評価され、現在では当時の雰囲気を称えながらも時代を超えた音楽性と独自の美学で貫かれた精神性が高く評価されている。また、現在フリーク・フォークと称されるジャンルの初期の例としても再評価を受けている。

メンバー間の軋轢からクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングは活動停止。その後、盟友ナッシュと「クロスビー&ナッシュ」(1972年 - )として、バーズの再結成(1973年)を挟みつつ活動を行った。クロスビー&ナッシュでは、お互いの曲調を尊重しながらサポートしあうスタイルで、アルバムのうち2作を全米10位以内に送り込んだ。

1977年、CSN(クロスビー・スティルス&ナッシュ)を再結成し、アルバム『CSN』リリース。全米第2位を記録。

1980年代[編集]

CSN ドイツ・エッセン公演 (1983年6月)

しかし、長年の薬物中毒により創作活動に支障をきたすようになる。当初スティルス&ナッシュ名義で出される予定であった1982年のCSNの再結成アルバムは、大半の曲でクロスビーのコーラスパートをイーグルスティモシー・シュミットや、サイモン&ガーファンクルアート・ガーファンクルのハーモニーで補ったものであった。 アルバム『Daylight Again』は全米8位のヒットとなり、ツアーも行われたが、クロスビーはライブ演奏中も時折薬物によって酩酊しているような有様であった[2]

1985年、銃器法違反で実刑判決を受け、刑務所生活の後、薬物中毒の治療を果たし社会復帰。

1988年、クロスビーの社会復帰を祝福するかのように18年ぶりにCSN&Yを再結成し、『アメリカン・ドリーム』発表。全米16位を記録。

1990年代[編集]

1991年、クロスビー、スティルス&ナッシュとして初来日。

ドラッグの後遺症により、1995年肝移植手術。手術をきっかけに、ジェイムス・レイモンドという若い男と会う。彼は、なんとクロスビーと1960年代に関係を持った女性が養子に出した実の息子であった。レイモンドは以前、実の母親と面会した際、実の父親がクロスビーであることを知らされており、手術のニュースをきっかけに会うことを決心したという。

ジェイムス・レイモンドはクロスビーから受け継いだ遺伝子ゆえなのか、幼少の頃から音楽の才能を開花させ、LAシーンでJAZZ/R&B系アーティストのセッション/ツアー・キーボーディストとして、またTVや映画の音楽作家として活躍し始めていたところであった。 実の親子は再開をきっかけに次第に交流を深め、その後、ジェイムス・レイモンド(キーボード)、ジェフ・ピーヴァー(ギター)とのユニット「CPR」を結成。モントレー・ジャズ・フェスティバルへの出演等も含め精力的にツアーをこなした。CPRは活動中に2枚のオリジナル・アルバムと2枚のライブ盤をリリースし、スティーリー・ダンに近いジャジーなサウンドは高い評価を得たが、インディーズからのリリースでヒットにはつながらず、2004年に解散した。

2000年代[編集]

2004年、断続的に行われていたCPRの3枚目のアルバム・セッションは、クロスビー&ナッシュのアルバム・セッションとして再開され、約30年ぶりとなるアルバムを2枚組で「Crosby*Nash」としてリリース。全米142位を記録。 2000年代は主にCSN及びCSN&Yでのライブ活動がメインであった。

2010年代[編集]

ウォール街を占拠せよ」に参加するクロスビー (2011年)

2014年、実に約20年ぶりとなるソロ・アルバム『Croz』をリリース。実の息子、ジェイムス・レイモンドとの共作が多く収められており、レイモンドはプロデュースも担当した。全米36位を記録。

2015年、クロスビー、スティルス&ナッシュとして三度目の来日。

2016年、クロスビー・スティルス&ナッシュ、クロスビー&ナッシュ等と平行して、精力的に音楽活動を続けてきたが、クロスビーとニール・ヤング、クロスビーとグラハム・ナッシュとの不仲から、クロスビー・スティルス&ナッシュ(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)の活動停止がグラハム・ナッシュからアナウンスされた[3]

同年10月、ジャズ・フュージョングループのスナーキー・パピーとの交流を経て、リーダーのマイケル・リーグとのコラボレーションに発展し、ソロ・アルバム『Lighthouse』をリリース。全米117位を記録。また、英MOJO誌の2016年の年間ベスト・アルバム TOP50にランクインされた。

USAインディアナポリス公演 (2017年11月)

2017年9月にニューアルバム『Sky Trails』(ジェイムス・レイモンドのプロデュース)をリリース。Billboard 200ではチャートインしなかったものの、Independent Albumsチャートでは10位、Americana/Folk Albumsチャートでは11位、Top Album Salesでは57位を記録した。

2018年10月、『Lighthouse』でのマイケル・リーグとのコラボレーションを発展させ、同アルバムに参加していた、ベッカ・スティーヴンスミシェル・ウィリスとの共同制作によるニューアルバム『Here If You Listen』をリリース。BillboardチャートのIndependent Albumsチャートでは12位、Top Album Salesでは87位、UKチャートで88位を記録した。

2019年1月26日、サンダンス映画祭でドキュメンタリー映画『デヴィッド・クロスビー:リメンバーマイネーム』が公開された[4]

2020年代[編集]

2021年3月、コロナウィルス影響下に於いて、アイコニック・アーティスツ・グループに、全バック・カタログの出版権と録音された音楽の権利を売却。「目下のところ、ライヴ活動が出来ないことを考えると、この契約は私と家族にとって有り難いものであり、アイコニック・アーティスツ・グループが契約相手として最良であると信じています」と発言。

2021年7月、ニューアルバム『For Free』をリリース。この間ジェイムス・レイモンドとの制作を進めていたもので、プロデューサーを務めたレイモンドとの共作のほか、マイケル・マクドナルドやドナルド・フェイゲンとの共作曲、サラ・ジャローズとのデュエットなど大物や若手ミュージシャンとの共演が話題をさらった。BillboardチャートのAmericana/Folk Albumsチャートでは10位、Album Salesでは16位、UKチャートで57位を記録した。また、英MOJO誌の「2021年の年間ベスト・アルバム TOP75」にランクインされた。

クロスビーは2023年1月18日に81歳で死去した[5]。家族からの声明では、「長い闘病生活の末に」死去したと述べている。しかし、友人や同僚は彼の死を「突然」と表現し、クロスビーが死の当日まで活動を続け、ツアーや新しいアルバムの計画に取り組んでいたと述べた[6]

逸話[編集]

家族[編集]

クロスビーは1962年にセリア・クロフォード・ファーガソンとの間に息子ジェームス・レイモンドをもうけ、養子に出されたが、後に成人してクロスビーと再会した。1997年以降、レイモンドはCPRのメンバーとして、また、クロスビー&ナッシュ、クロスビー、スティルス&ナッシュのツアーバンドの一員として、ステージやスタジオでクロスビーと共演するようになった。クロスビーには他に3人の子供がいた:ジャッキー・ガスリーとの娘エリカ、元恋人のデビー・ドノヴァンとの娘ドノヴァン・クロスビー、そして、クロスビーの妻のジャンとの息子、ジャンゴ・クロスビーである。

クロスビー(当時45歳)は1987年5月、ロサンゼルスのハリウッド宗教科学教会英語: Religious Scienceでジャン・ダンス(当時35歳)と結婚した。バンドメイトのスティーヴン・スティルスが花嫁を見送った。

クロスビーの弟で、彼にギターを教え、一緒に音楽活動を始めたイーサンは1997年末から1998年初めに自殺した。イーサンが遺体を探さず、地球に帰らせるようにと書き残したため、日付は不明。彼の遺体は数ヵ月後の1998年5月に発見された。

2000年1月、メリッサ・エーサリッジは、パートナーのジュリー・サイファーとの子供の為にクロスビーが精子提供者として人工授精を行ったことを発表した。2020年5月13日、イーサリッジは自身のツイッターアカウントで、彼女とサイファーの息子ベケットがオピオイド中毒に関する原因で21歳の若さで死亡したことを発表した。

映画及びTV出演[編集]

1990年代前半、クロスビーは『ジョン・ラロケット・ショー』のいくつかのエピソードにゲスト出演し、ラロケットのアルコール依存症(AA)の世話役として出演した。また、『ロザンヌ』のエピソードでは、ボニー・ブラムレットが演じるロザンヌの同僚の歌手の夫として出演した。そのエピソードで彼はダニー・シェリダン作曲の「Roll On Down」を歌った。エレンのエピソード「Ellen Unplugged」では、ロックンロール・ファンタジー・キャンプの手伝いをしていた。また、1991年の映画『フック』では海賊役、1991年の映画『バックドラフト』では1970年代のヒッピー役、1992年の映画『サンダーハート』ではバーテンダー役として出演している。また、クロスビーはザ・シンプソンズの2つのエピソード、「Marge in Chains」と「Homer's Barbershop Quartet」で声優を務めている。

犯罪歴[編集]

1985年にいくつかの薬物と武器犯罪で有罪判決を受け、クロスビーはテキサス州の刑務所で9ヶ月を過ごした。薬物容疑はヘロインとコカインの所持に関するものであった。

その後、1985年にクロスビーはカリフォルニア州で飲酒運転、ひき逃げ運転事故、拳銃と麻薬の所持で逮捕された。彼はマリン郡郊外のフェンスに車で突っ込んだ後に逮捕され、警官が彼の車から45口径のピストルとコカインを発見した。

2004年3月7日、クロスビーは第3級武器の犯罪的所持、狩猟用ナイフの不法所持、弾薬の不法所持、約1オンスのマリファナの不法所持で起訴された。彼はニューヨークのホテルの部屋にその品物を置いていった。当局によると、「ホテルの従業員が身分証明のためにスーツケースを調べ、約1オンスのマリファナ、ローリングペーパー、2本のナイフ、45口径のピストルを発見した」という。クロスビー氏はバッグを受け取りにホテルに戻ったところで逮捕された。刑務所で12時間を過ごした後、3500ドルの保釈金で釈放された。クロスビー氏は2004年7月4日、ニューヨーク州最高裁判所において、武器の犯罪的所持未遂の罪を認め、5000ドルの罰金と実刑を受けなかった。検察は、ピストルがカリフォルニア州で登録されており、発見されたとき荷物の中に安全に収納されていたため、武器所持罪についてより厳しい処罰を求めなかった。マリファナの不法所持の罪は却下されました。クロスビーは、罰金を支払い、再び逮捕されないことを条件に、裁判所から釈放された。

その他[編集]

ディスコグラフィ[編集]

ソロ[編集]

The Byrds[編集]

Crosby, Stills & Nash[編集]

Crosby, Stills, Nash & Young[編集]

Crosby & Nash[編集]

  • 「グラハム・ナッシュ/デヴィッド・クロスビー」(1972)
  • 「Wind On The Water」(1975)
  • 「Whistling Down The Wire」(1976)
  • 「Crosby & Nash Live」(1977) (LIVE)
  • 「The Best Of Crosby & Nash」(1978)
  • 「Another Stoney Evening」(1997)
  • 「Crosby * Nash」(2004)

Crosby, Pever & Raymond (CPR)[編集]

  • 「CPR Live At Cuesta College」(1998) (Live)
  • 「CPR」(1998)
  • 「JUST LIKE GRAVITY」(2000)
  • 「CPR Live At Wiltern」(2001) (Live)

脚注[編集]

  • Crosby, David (2005). Long Time Gone: The Autobiography of David Crosby. Da Capo Press. ISBN 0-306-81406-4 

参考文献[編集]

  • ピーター・ドゲット 著、川村まゆみ 訳 『CSNY――クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの真実』DU BOOKS、2020年6月26日。ISBN 9784866471044 

外部リンク[編集]